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お律と子等と
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)洋一《よういち》

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(例)始終|爛《ただ》れている眼を

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(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]
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        一

 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一《よういち》は、二階の机に背を円《まる》くしながら、北原白秋《きたはらはくしゅう》風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇《そうこう》と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造《けんぞう》は、夏外套《なつがいとう》をひっかけたまま、うす暗い梯子《はしご》の上り口へ胸まで覗《のぞ》かせているだけだった。
「どうもお律《りつ》の容態《ようだい》が思わしくないから、慎太郎《しんたろう》の所へ電報を打ってくれ。」
「そんなに悪いの?」
 洋一は思わず大きな声を出した。
「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」
 洋一は父の言葉を奪った。
「戸沢《とざわ》さんは何だって云うんです?」
「やっぱり十二指腸の潰瘍《かいよう》だそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」
 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。
「しかしあしたは谷村博士《たにむらはかせ》に来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」
「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」
「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川《あさかわ》の叔母《おば》さんが来ているぜ。」
 賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。愚図愚図《ぐずぐず》している場合じゃない――そんな事もはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上ると、真鍮《しんちゅう》の手すりに手を触れながら、どしどし梯子《はしご》を下りて行った。
 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明《あまあか》りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後《うしろ》を向けたまま、もう入口に直した足駄《あしだ》へ、片足下している所だった。
「旦那《だんな》。工場《こうば》から電話です。今日《きょう》あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」
 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」
 電話の切れるのが合図《あいず》だったように、賢造は大きな洋傘《こうもり》を開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥を刷《は》いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。
「神山《かみやま》さんはいないのかい?」
 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良《りょう》さん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know ですな。」
 そう答えた店員は、上り框《がまち》にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥《ふと》った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼は始《はじめ》こう書いたが、すぐにまた紙を裂《さ》いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆《ぜんちょう》のように、頭にこびりついて離れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後《のち》、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後《うしろ》にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間《ま》へ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦《ひごよみ》が懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻《みみか》きを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終|爛《ただ》れている眼を擡《もた》げた。
「今日《こんにち》は。お父さんはもうお出かけかえ?」
「ええ、今し方。――お母さんにも困りましたね。」
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」
 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝《ひざ》を据えた。襖《ふすま》一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立《いらだ》たしいものにさせるのだった。叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、
「お絹《きぬ》ちゃんが今来るとさ。」と云った。
「姉さんはまだ病気じゃないの?」
「もう今日は好いんだとさ。何、またいつもの鼻っ風邪《かぜ》だったんだよ。」
 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑《ぶべつ》を帯びた中に、反《かえ》って親しそうな調子があった。三人きょうだいがある内でも、お律《りつ》の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。それには賢造の先妻が、叔母の身内《みうち》だと云う理由もある。――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間《あいだ》は不承不承《ふしょうぶしょう》に、一昨年《いっさくねん》ある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉の噂《うわさ》をしていた。
「慎《しん》ちゃんの所はどうおしだえ? お父さんは知らせた方が好《い》いとか云ってお出でだったけれど。」
 その噂が一段落着いた時、叔母は耳掻きの手をやめると、思い出したようにこう云った。
「今、電報を打たせました。今日《きょう》中にゃまさか届くでしょう。」
「そうだねえ。何も京大阪と云うんじゃあるまいし、――」
 地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧《あいまい》だった。それが何故《なぜ》か唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。兄は帰って来るだろうか?――そう思うと彼は電報に、もっと大仰《おおぎょう》な文句を書いても、好かったような気がし出した。母は兄に会いたがっている。が、兄は帰って来ない。その内に母は死んでしまう。すると姉や浅川の叔母が、親不孝だと云って兄を責める。――こんな光景も一瞬間、はっきり眼の前に見えるような気がした。
「今日届けば、あしたは帰りますよ。」
 洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを云い聞かせていた。
 そこへちょうど店の神山《かみやま》が、汗ばんだ額《ひたい》を光らせながら、足音を偸《ぬす》むようにはいって来た。なるほどどこかへ行った事は、袖《そで》に雨《あま》じみの残っている縞絽《しまろ》の羽織にも明らかだった。
「行って参りました。どうも案外待たされましてな。」
 神山は浅川の叔母に一礼してから、懐《ふところ》に入れて来た封書を出した。
「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」
 叔母はその封書を開く前に、まず度《ど》の強そうな眼鏡《めがね》をかけた。封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。
「どこ? 神山さん、この太極堂《たいきょくどう》と云うのは。」
 洋一《よういち》はそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。
「二町目の角に洋食屋がありましょう。あの露路《ろじ》をはいった左側です。」
「じゃ君の清元《きよもと》の御師匠さんの近所じゃないか?」
「ええ、まあそんな見当です。」
 神山はにやにや笑いながら、時計の紐《ひも》をぶら下げた瑪瑙《めのう》の印形《いんぎょう》をいじっていた。
「あんな所に占《うらな》い者《しゃ》なんぞがあったかしら。――御病人は南枕《みなみまくら》にせらるべく候か。」
「お母さんはどっち枕だえ?」
 叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。
「東枕《ひがしまくら》でしょう。この方角が南だから。」
 多少心もちの明《あかる》くなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂《たもと》の底にある巻煙草の箱を探っていた。
「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。――神山さん。一本上げようか? 抛《ほう》るよ。失敬。」
「こりゃどうも。E・C・Cですな。じゃ一本頂きます――。もうほかに御用はございませんか? もしまたございましたら、御遠慮なく――」
 神山は金口《きんぐち》を耳に挟《はさ》みながら、急に夏羽織の腰を擡《もた》げて、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》店の方へ退こうとした。その途端に障子が明くと、頸《くび》に湿布《しっぷ》を巻いた姉のお絹《きぬ》が、まだセルのコオトも脱がず、果物《くだもの》の籠を下げてはいって来た。
「おや、お出でなさい。」
「降りますのによくまた、――」
 そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山との口から出た。お絹は二人に会釈《えしゃく》をしながら、手早くコオトを脱ぎ捨てると、がっかりしたように横坐《よこずわ》りになった。その間《あいだ》に神山は、彼女の手から受け取った果物の籠をそこへ残して、気忙《きぜわ》しそうに茶の間を出て行った。果物の籠には青林檎《あおりんご》やバナナが綺麗《きれい》につやつやと並んでいた。
「どう? お母さんは。――御免なさいよ。電車がそりゃこむもんだから。」
 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋《しろたび》を脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。
「やっぱりお肚《なか》が痛むんでねえ。――熱もまだ九度《くど》からあるんだとさ。」
 叔母は易者《えきしゃ》の手紙をひろげたなり、神山と入れ違いに来た女中の美津《みつ》と、茶を入れる仕度に忙《いそが》しかった。
「あら、だって電話じゃ、昨日《きのう》より大変好さそうだったじゃありませんか? もっとも私は出なかったんですけれど、――誰? 今日電話をかけたのは。――洋ちゃん?」
「いいえ、僕じゃない。神山さんじゃないか?」
「さようでございます。」
 これは美津《みつ》が茶を勧《すす》めながら、そっとつけ加えた言葉だった。
「神山さん?」
 お絹ははすは[#「はすは」に傍点]に顔をしかめて、長火鉢の側へすり寄った。
「何だねえ。そんな顔をして。――お前さんの所はみんな御達者かえ?」
「ええ、おかげ様で、――叔母さんの所でも皆さん御丈夫ですか?」
 そんな対話を聞きながら、巻煙草を啣《くわ》えた洋一は、ぼんやり柱暦《はしらごよみ》を眺めていた。中学を卒業して以来、彼には何日《なんにち》と云う記憶はあっても、何曜日かは終始忘れている。――それがふと彼の心に、寂しい気もちを与えたのだった。その上もう一月すると、ほとんど受ける気のしない入学試験がやって来る。入学試験に及第しなかったら、………
「美津がこの頃は、大へん女ぶりを上げたわね。」
 姉の言葉が洋一には、急にはっきり聞えたような気がした。が、彼は何も云わずに、金口《きんぐち》をふかしているばかりだった。もっとも美津はその時にはとうにもう台所へ下《さが》っていた。
「それにあの人は何と云っても、男好きのする顔だから、――」
 叔母はやっと膝の上の手紙や老眼鏡を片づけながら、蔑《さげす》むらしい笑いかたをした。するとお絹も妙な眼をしたが、これはすぐに気を変えて、
「何? 叔母さん、それは。」と云った。
「今神山さんに墨色《すみいろ》を見て来て貰ったんだよ。――洋ちゃん、ちょいとお母さんを見て来ておくれ。さっきよく休んでお出でだったけれど、――」
 ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前から立ち上った。そうして襖《ふすま》一つ向うの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。
 そこは突き当りの硝子障子《ガラスしょうじ》の外《そと》に、狭い中庭を透《す》かせていた。中庭には太い冬青《もち》の樹が一本、手水鉢《ちょうずばち》に臨んでいるだけだった。麻の掻巻《かいまき》をかけたお律《りつ》は氷嚢《ひょうのう》を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。
 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚《こび》のある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想《ぶあいそう》な会釈《えしゃく》を返した。それから蒲団《ふとん》の裾《すそ》をまわって、母の顔がよく見える方へ坐った。
 お律は眼をつぶっていた。生来|薄手《うすで》に出来た顔が一層今日は窶《やつ》れたようだった。が、洋一の差し覗《のぞ》いた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんの通りかすかに頬笑《ほほえ》んで見せた。洋一は何だか叔母や姉と、いつまでも茶の間《ま》に話していた事がすまないような心もちになった。お律はしばらく黙っていてから、
「あのね」とさも大儀《たいぎ》そうに云った。
 洋一はただ頷《うなず》いて見せた。その間も母の熱臭いのがやはり彼には不快だった。しかしお律はそう云ったぎり、何とも後《あと》を続けなかった。洋一はそろそろ不安になった。遺言《ゆいごん》、――と云う考えも頭へ来た。
「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」
 やっと母は口を開いた。
「叔母さんもいるし、――今し方姉さんも来た。」
「叔母さんにね、――」
「叔母さんに用があるの?」
「いいえ、叔母さんに梅川《うめがわ》の鰻《うなぎ》をとって上げるの。」
 今度は洋一が微笑した。
「美津にそう云ってね。好いかい?――それでおしまい。」
 お律はこう云い終ると、頭の位置を変えようとした。その拍子に氷嚢《ひょうのう》が辷り落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜか※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》の裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟《とっさ》にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。
「莫迦《ばか》だね。」
 母はかすかに呟《つぶや》いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。
 顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間《ま》へ帰って来た。帰って来ると浅川の叔母《おば》が、肩越しに彼の顔を見上げて、
「どうだえ? お母さんは。」と声をかけた。
「目がさめています。」
「目はさめているけれどさ。」
 叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。姉は上眼《うわめ》を使いながら、笄《かんざし》で髷《まげ》の根を掻《か》いていたが、やがてその手を火鉢へやると、
「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。
「云わない。姉さんが行って云うと好いや。」
 洋一は襖側《ふすまぎわ》に立ったなり、緩《ゆる》んだ帯をしめ直していた。どんな事があってもお母さんを死なせてはならない。どんな事があっても――そう一心に思いつめながら、…………

        二

 翌日《あくるひ》の朝|洋一《よういち》は父と茶の間《ま》の食卓に向った。食卓の上には、昨夜《ゆうべ》泊った叔母《おば》の茶碗も伏せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間《あいだ》、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。
 親子は箸《はし》を動かしながら、時々短い口を利《き》いた。この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。しかし今日《きょう》はいつもよりは、一層二人とも口が重かった。給仕の美津《みつ》も無言のまま、盆をさし出すばかりだった。
「今日は慎太郎《しんたろう》が帰って来るかな。」
 賢造《けんぞう》は返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺めた。が、洋一は黙っていた。兄が今日帰るか帰らないか、――と云うより一体帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不確かでならないのだった。
「それとも明日《あす》の朝になるか?」
 今度は洋一も父の言葉に、答えない訳には行かなかった。
「しかし今は学校がちょうど、試験じゃないかと思うんですがね。」
「そうか。」
 賢造は何か考えるように、ちょいと言葉を途切《とぎ》らせたが、やがて美津に茶をつがせながら、
「お前も勉強しなくっちゃいけないぜ。慎太郎はもうこの秋は、大学生になるんだから。」と云った。
 洋一は飯を代えながら、何とも返事をしなかった。やりたい文学もやらせずに、勉強ばかり強いるこの頃の父が、急に面憎《つらにく》くなったのだった。その上兄が大学生になると云う事は、弟が勉強すると云う事と、何も関係などはありはしない。――そうまた父の論理の矛盾《むじゅん》を嘲笑《あざわら》う気もちもないではなかった。
「お絹《きぬ》は今日は来ないのかい?」
 賢造はすぐに気を変えて云った。
「来るそうです。が、とにかく戸沢《とざわ》さんが来たら、電話をかけてくれって云っていました。」
「お絹の所でも大変だろう。今度はあすこも買った方だから。」
「やっぱりちっとはすった[#「すった」に傍点]かしら。」
 洋一ももう茶を飲んでいた。この四月以来|市場《しじょう》には、前代未聞《ぜんだいみもん》だと云う恐慌《きょうこう》が来ている。現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代払《だいばら》いの厄に遇った。そのほかまだ何だ彼《か》だといろいろな打撃を通算したら、少くとも三万円内外は損失を蒙《こうむ》っているのに相違ない。――そんな事も洋一は、小耳に挟んでいたのだった。
「ちっとやそっとでいてくれりゃ好《い》いが、――何しろこう云う景気じゃ、いつ何時《なんどき》うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」
 賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。それから隔ての襖《ふすま》を明けると、隣の病室へはいって行った。
「ソップも牛乳もおさまった? そりゃ今日は大出来《おおでき》だね。まあ精々《せいぜい》食べるようにならなくっちゃいけない。」
「これで薬さえ通ると好いんですが、薬はすぐに吐いてしまうんでね。」
 こう云う会話も耳へはいった。今朝は食事前に彼が行って見ると、母は昨日《きのう》一昨日《おととい》よりも、ずっと熱が低くなっていた。口を利《き》くのもはきはきしていれば、寝返りをするのも楽そうだった。「お肚《なか》はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――母自身もそう云っていた。その上あんなに食気《しょっけ》までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外|恢復《かいふく》は容易かも知れない。――洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。が、余り虫の好《い》い希望を抱き過ぎると、反《かえ》ってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみた惧《おそ》れも多少はあった。
「若旦那様《わかだんなさま》、御電話でございます。」
 洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。美津《みつ》は袂《たもと》を啣《くわ》えながら、食卓に布巾《ふきん》をかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、松《まつ》と云う年上の女中だった。松は濡れ手を下げたなり、銅壺《どうこ》の見える台所の口に、襷《たすき》がけの姿を現していた。
「どこだい?」
「どちらでございますか、――」
「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」
 洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間《ま》を出て行った。おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口《あっこう》を聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。
 店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村《たむら》と云う薬屋の息子だった。
「今日ね。一しょに明治座《めいじざ》を覗かないか? 井上だよ。井上なら行くだろう?」
「僕は駄目だよ。お袋が病気なんだから――」
「そうか。そりゃ失敬した。だが残念だね。昨日|堀《ほり》や何かは行って見たんだって。――」
 そんな事を話し合った後《のち》、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯子《はしご》を上《あが》って、例の通り二階の勉強部屋へ行った。が、机に向って見ても、受験の準備は云うまでもなく、小説を読む気さえ起らなかった。机の前には格子窓《こうしまど》がある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋《おもちゃどんや》の前に、半天着《はんてんぎ》の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙《きぜわ》しそうな気がして不快だった。と云ってまた下へ下《お》りて行くのも、やはり気が進まなかった。彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕にしながら、ごろりと畳に寝ころんでしまった。
 すると彼の心には、この春以来顔を見ない、彼には父が違っている、兄の事が浮んで来た。彼には父が違っている、――しかしそのために洋一は、一度でも兄に対する情《じょう》が、世間普通の兄弟に変っていると思った事はなかった。いや、母が兄をつれて再縁したと云う事さえ、彼が知るようになったのは、割合に新しい事だった。ただ父が違っていると云えば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。――
 それはまだ兄や彼が、小学校にいる時分だった。洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。が、時々|蔑《さげす》むようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。洋一はとうとうかっ[#「かっ」に傍点]となって、そこにあったトランプを掴《つか》むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。トランプは兄の横顔に中《あた》って、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬を撲《ぶ》った。
「生意気《なまいき》な事をするな。」
 そう云う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。兄は彼に比べると、遥に体も大きかった。しかし彼は兄よりもがむしゃらな所に強味があった。二人はしばらく獣《けもの》のように、撲《なぐ》ったり撲られたりし合っていた。
 その騒ぎを聞いた母は、慌ててその座敷へはいって来た。
「何をするんです? お前たちは。」
 母の声を聞くか聞かない内に、洋一はもう泣き出していた。が、兄は眼を伏せたまま、むっつり佇《たたず》んでいるだけだった。
「慎太郎。お前は兄さんじゃないか? 弟を相手に喧嘩《けんか》なんぞして、何がお前は面白いんだえ?」
 母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。
「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」
「嘘つき。兄さんがさきに撲《ぶ》ったんだい。」
 洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対した。
「ずる[#「ずる」に傍点]をしたのも兄さんだい。」
「何。」
 兄はまた擬勢《ぎせい》を見せて、一足彼の方へ進もうとした。
「それだから喧嘩になるんじゃないか? 一体お前が年嵩《としかさ》な癖に勘弁《かんべん》してやらないのが悪いんです。」
 母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。すると兄の眼の色が、急に無気味《ぶきみ》なほど険しくなった。
「好いやい。」
 兄はそう云うより早く、気違いのように母を撲《ぶ》とうとした。が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。――
 母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記憶になかった。しかし兄の口惜《くや》しそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。兄はただ母に叱られたのが、癇癪《かんしゃく》に障《さわ》っただけかも知れない。もう一歩|臆測《おくそく》を逞《たくまし》くするのは、善くない事だと云う心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。しかもそう云う気がし出したのには、もう一つ別な記憶もある。――
 三年|前《まえ》の九月、兄が地方の高等学校へ、明日《あす》立とうと云う前日だった。洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座《ぎんざ》まで出かけて行った。
「当分|大時計《おおどけい》とも絶縁だな。」
 兄は尾張町《おわりちょう》の角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。
「だから一高《いちこう》へはいりゃ好いのに。」
「一高へなんぞちっともはいりたくはない。」
「負惜しみばかり云っていらあ。田舎《いなか》へ行けば不便だぜ。アイスクリイムはなし、活動写真はなし、――」
 洋一は顔を汗ばませながら、まだ冗談のような調子で話し続けた。
「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」
「そんな事は当り前だ。」
「じゃお母さんでも死んだら、どうする?」
 歩道の端《はし》を歩いていた兄は、彼の言葉に答える前に、手を伸ばして柳の葉をむしった。
「僕はお母さんが死んでも悲しくない。」
「嘘つき。」
 洋一は少し昂奮《こうふん》して云った。
「悲しくなかったら、どうかしていらあ。」
「嘘じゃない。」
 兄の声には意外なくらい、感情の罩《こも》った調子があった。
「お前はいつでも小説なんぞ読んでいるじゃないか? それなら、僕のような人間のある事も、すぐに理解出来そうなもんだ。――可笑《おか》しな奴だな。」
 洋一は内心ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。と同時にあの眼つきが、――母を撲《ぶ》とうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。が、そっと兄の容子《ようす》を見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。――
 そんな事を考えると、兄がすぐに帰って来るかどうか、いよいよ怪しい心もちがする。殊に試験でも始まっていれば、二日や三日遅れる事は、何とも思っていないかも知れない。遅れてもとにかく帰って来れば好《い》いが、――彼の考がそこまで来た時、誰かの梯子《はしご》を上って来る音が、みしりみしり耳へはいり出した。洋一はすぐに飛び起きた。
 すると梯子の上《あが》り口《ぐち》には、もう眼の悪い浅川の叔母《おば》が、前屈《まえかが》みの上半身を現わしていた。
「おや、昼寝かえ。」
 洋一はそう云う叔母の言葉に、かすかな皮肉を感じながら、自分の座蒲団《ざぶとん》を向うへ直した。が、叔母はそれは敷かずに、机の側へ腰を据えると、さも大事件でも起ったように、小さな声で話し出した。
「私は少しお前に相談があるんだがね。」
 洋一は胸がどきり[#「どきり」に傍点]とした。
「お母さんがどうかしたの?」
「いいえ、お母さんの事じゃないんだよ。実はあの看護婦だがね、ありゃお前、仕方がないよ。――」
 叔母はそれからねちねちと、こんな話をし始めた。――昨日あの看護婦は、戸沢《とざわ》さんが診察に来た時、わざわざ医者を茶の間へ呼んで、「先生、一体この患者《かんじゃ》はいつ頃まで持つ御見込みなんでしょう? もし長く持つようでしたら、私はお暇を頂きたいんですが。」と云った。看護婦は勿論医者のほかには、誰もいないつもりに違いなかった。が、生憎《あいにく》台所にいた松がみんなそれを聞いてしまった。そうしてぷりぷり怒《おこ》りながら、浅川の叔母に話して聞かせた。のみならず叔母が気をつけていると、その後《ご》も看護婦の所置ぶりには、不親切な所がいろいろある。現に今朝《けさ》なぞも病人にはかまわず、一時間もお化粧《けしょう》にかかっていた。………
「いくら商売柄だって、それじゃお前、あんまりじゃないか。だから私の量見《りょうけん》じゃ、取り換えた方が好いだろうと思うのさ。」
「ええ、そりゃその方が好いでしょう。お父さんにそう云って、――」
 洋一はあんな看護婦なぞに、母の死期《しご》を数えられたと思うと、腹が立って来るよりも、反《かえ》って気がふさいでならないのだった。
「それがさ。お父さんは今し方、工場《こうば》の方へ行ってしまったんだよ。私がまたどうしたんだか、話し忘れている内にさ。」
 叔母はややもどかしそうに、爛《ただ》れている眼を大きくした。
「私はどうせ取り換えるんなら、早い方が好いと思うんだがね、――」
「それじゃあ神山さんにそう云って、今すぐに看護婦会へ電話をかけて貰いましょうよ。――お父さんにゃ帰って来てから話しさえすれば好いんだから、――」
「そうだね。じゃそうして貰おうかね。」
 洋一は叔母のさきに立って、勢い好く梯子を走り下りた。
「神山さん。ちょいと看護婦会へ電話をかけてくれ給え。」
 彼の声を聞いた五六人の店員たちは、店先に散らばった商品の中から、驚いたような視線を洋一に集めた。と同時に神山は、派手《はで》なセルの前掛けに毛糸屑《けいとくず》をくっつけたまま、早速帳場机から飛び出して来た。
「看護婦会は何番でしたかな?」
「僕は君が知っていると思った。」
 梯子の下に立った洋一は、神山と一しょに電話帳を見ながら、彼や叔母とは没交渉な、平日と変らない店の空気に、軽い反感のようなものを感じない訳には行かなかった。

        三

 午《ひる》過ぎになってから、洋一《よういち》が何気《なにげ》なく茶の間《ま》へ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造《けんぞう》が、長火鉢の前に坐っていた。そうしてその前には姉のお絹《きぬ》が、火鉢の縁《ふち》に肘《ひじ》をやりながら、今日は湿布《しっぷ》を巻いていない、綺麗《きれい》な丸髷《まるまげ》の襟足をこちらへまともに露《あらわ》していた。
「そりゃおれだって忘れるもんかな。」
「じゃそうして頂戴よ。」
 お絹は昨日《きのう》よりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶《あいさつ》に答えた。それから多少彼を憚《はばか》るような、薄笑いを含んだ調子で、怯《お》ず怯《お》ず話の後《あと》を続けた。
「その方《ほう》がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」
「よし、よし、万事呑みこんだよ。」
 父は浮かない顔をしながら、その癖|冗談《じょうだん》のようにこんな事を云った。姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、未《いまだ》に一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――そう云う消息《しょうそく》に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙然《もくねん》と新聞をひろげたまま、さっき田村《たむら》に誘われた明治座の広告を眺めていた。
「それだからお父さんは嫌になってしまう。」
「お前よりおれの方が嫌になってしまう。お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴《ぐち》ばかりこぼされるし、――」
 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖《ふすま》一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではお律《りつ》がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸《うな》り声を洩《も》らしているらしかった。
「お母さんも今日は楽じゃないな。」
 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切《とぎ》らせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔を睨《にら》みながら、
「お母さんの病気だってそうじゃないの? いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。
「だからさ、だから今日は谷村博士《たにむらはかせ》に来て貰うと云っているんじゃないか?」
 賢造はとうとう苦《にが》い顔をして、抛《ほう》り出すようにこう云った。洋一も姉の剛情《ごうじょう》なのが、さすがに少し面憎《つらにく》くもなった。
「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」
「三時頃来るって云っていた。さっき工場《こうば》の方からも電話をかけて置いたんだが、――」
「もう三時過ぎ、――四時五分前だがな。」
 洋一は立て膝を抱《だ》きながら、日暦《ひごよみ》の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。
「もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」
「さっきって?」
「戸沢《とざわ》さんが帰るとすぐだとさ。」
 彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の間《ま》へはいって行った。
「やっと姉さんから御暇《おいとま》が出た。」
 賢造は苦笑《くしょう》を洩らしながら、始めて腰の煙草入《たばこい》れを抜いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。
 病室からは相不変《あいかわらず》、お律の唸《うな》り声が聞えて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士はどうしたのだろう? もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者《かんじゃ》ではなし、今頃はまだ便々《べんべん》と、回診《かいしん》か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――
「どうです?」
 洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見ると襖《ふすま》の明いた所に、心配そうな浅川《あさかわ》の叔母《おば》が、いつか顔だけ覗《のぞ》かせていた。
「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」
 賢造は口を開く前に、まずそうに刻《きざ》みの煙を吐いた。
「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「そうですね、一時|凌《しの》ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」
「僕がかけて来ます。」
 洋一はすぐに立ち上った。
「そうか。じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。番号は小石川《こいしかわ》の×××番だから、――」
 賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間《ま》から、台所の板の間《ま》へ飛び出していた。台所には襷《たすき》がけの松が鰹節《かつおぶし》の鉋《かんな》を鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭《がしら》に向うからも、小走りに美津《みつ》が走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱《かわ》した。
「御免下さいまし。」
 結《ゆ》いたての髪を※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にお》わせた美津は、極《きま》り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。
 洋一は妙にてれ[#「てれ」に傍点]ながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山《かみやま》が、後《うしろ》から彼へ声をかけた。
「洋一さん。谷村病院ですか?」
「ああ、谷村病院。」
 彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山は彼の方を見ずに、金格子《かねごうし》で囲《かこ》った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。
「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」
「何てかかって来たの?」
「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、――ただ今だね? 良さん。」
 呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏台の上にのりながら、高い棚《たな》に積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。
「ただ今じゃありませんよ。もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」
「そうか。そんなら美津のやつ、そう云えば好いのに。」
 洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。が、ふと店の時計を見ると、不審《ふしん》そうにそこへ立ち止った。
「おや、この時計は二十分過ぎだ。」
「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう。」
 神山は体を※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ねじ》りながら、帯の金時計を覗いて見た。
「そうです。ちょうど十分過ぎ。」
「じゃやっぱり奥の時計が遅れているんだ。それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」
 洋一はちょいとためらった後《のち》、大股《おおまた》に店さきへ出かけて行くと、もう薄日《うすび》もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。
「来そうもないな。まさか家《うち》がわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」
 彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履《いたぞうり》の上へ飛び下りた。そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。
 大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。そこの角《かど》にある店蔵《みせぐら》が、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋《とうぶつや》になっている。――その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽《むぎわらぼう》や籐《とう》の杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手《はで》な海水着が人間のように突立っていた。
 洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を後《うしろ》に佇《たたず》みながら、大通りを通る人や車に、苛立《いらだ》たしい視線を配《くば》り始めた。が、しばらくそうしていても、この問屋《とんや》ばかり並んだ横町《よこちょう》には、人力車《じんりきしゃ》一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車《あきぐるま》の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。
 その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。そうしてペダルに足をかけたまま、
「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。
「何か用だったかい?」
 洋一はそう云う間でも、絶えず賑《にぎやか》な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。
「用は別にないんだそうで、――」
「お前はそれを云いに来たの?」
「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」
「お父さんが?」
 洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りも疎《まばら》な往来には、ちょうど今一台の人力車《じんりきしゃ》が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒《かじぼう》の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
「兄さん!」
 車夫は体を後《うしろ》に反《そ》らせて、際《きわ》どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎《しんたろう》が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟《はさ》んだトランクを骨太な両手に抑えていた。
「やあ。」
 兄は眉《まゆ》一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。
「お母さんはどうした?」
 洋一は兄を見上ながら、体中《からだじゅう》の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。
「この二三日悪くってね。――十二指腸の潰瘍《かいよう》なんだそうだ。」
「そうか。そりゃ――」
 慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃《ひらめ》いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。
「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」
 車夫は慎太郎の合図《あいず》と一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今朝《けさ》上《のぼ》りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映《うつ》るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目《しにめ》に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い耽《ふけ》っている彼だった。しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……
「兄さん。試験はまだ始らなかった?」
 慎太郎は体を斜《ななめ》にして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
「明日《あす》からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」
 洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟を劬《いたわ》りたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。
「よっぽど待ったかい?」
「十分も待ったかしら?」
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」
 車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒《かじぼう》を店の前へ下《おろ》した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸《ガラスど》の立った店の前へ。

        四

 一時間の後《のち》店の二階には、谷村博士《たにむらはかせ》を中心に、賢造《けんぞう》、慎太郎《しんたろう》、お絹《きぬ》の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はお律《りつ》の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格の逞《たくま》しい谷村博士は、すすめられた茶を啜《すす》った後《のち》、しばらくは胴衣《チョッキ》の金鎖《きんぐさり》を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、
「戸沢《とざわ》さんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。
「ただ今電話をかけさせました。――すぐに上《あが》るとおっしゃったね。」
 賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈《きゅうくつ》そうな膝《ひざ》を重ねていた。
「ええ、すぐに見えるそうです。」
「じゃその方《かた》が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」
 谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。
「当年は梅雨《つゆ》が長いようです。」
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」
 お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋《ごふくや》の主人は、短い口髭《くちひげ》に縁《ふち》無しの眼鏡《めがね》と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒《はがゆ》さを感じながら、剛情に一人黙っていた。
 しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間に交《まじ》ったのは、それから間《ま》もない後《のち》の事だった。黒絽《くろろ》の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃《いんぎん》な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、
「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北|訛《なまり》の声をかけた。
「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」
 谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。
「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」
 戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態《ようだい》を可成《かなり》詳細に説明した。慎太郎には薄い博士の眉《まゆ》が、戸沢の処方《しょほう》を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。
 しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様《おおよう》に、二三度独り頷《うなず》いて見せた。
「いや、よくわかりました。無論十二指腸の潰瘍《かいよう》です。が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。何しろこう下腹《したはら》が押し上げられるように痛いと云うんですから――」
「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」
 戸沢はセルの袴《はかま》の上に威《い》かつい肘《ひじ》を張りながら、ちょいと首を傾けた。
 しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。
「熱なぞはそれでも昨日《きのう》よりは、ずっと低いようですが、――」
 その内にやっと賢造は、覚束ない反問の口を切った。しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作《むぞうさ》にその言葉を遮《さえぎ》った。
「それがいかんですな。熱はずんずん下《さが》りながら、脈搏は反《かえ》ってふえて来る。――と云うのがこの病の癖なんですから。」
「なるほど、そう云うものですかな。こりゃ我々若いものも、伺って置いて好《い》い事ですな。」
 お絹の夫は腕組みをした手に、時々|口髭《くちひげ》をひっぱっていた。慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。
「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候《ちょうこう》も見えないようでしたがな。――」
 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透《す》かさず愛想《あいそ》の好い返事をした。
「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった後《あと》で発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」
「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」
 慎太郎は険《けわ》しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうな※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》の下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
「今はとても動かせないです。まず差当《さしあた》りは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――今夜はまだ中々痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」
 谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣《チョッキ》の時計を出して見ると、
「じゃ私はもう御暇《おいとま》します。」と、すぐに背広の腰を擡《もた》げた。
 慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診《らいしん》の礼を述べた。が、その間《あいだ》も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。
「どうか博士もまた二三日|中《うち》に、もう一度御診察を願いたいもので、――」
 戸沢は挨拶《あいさつ》をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。
「ええ、上《あが》る事はいつでも上りますが、――」
 これが博士の最後の言葉だった。慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子《はしご》を下《お》りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………

        五

 戸沢《とざわ》やお絹《きぬ》の夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎《しんたろう》は、浅川《あさかわ》の叔母《おば》や洋一《よういち》と一しょに、茶の間《ま》の長火鉢を囲んでいた。襖《ふすま》の向うからは不相変《あいかわらず》、お律《りつ》の唸《うな》り声が聞えて来た。彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。
「いけないねえ。ああ始終苦しくっちゃ、――」
 叔母は火箸《ひばし》を握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。
「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」
 洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを啣《くわ》えている兄の方へ言葉をかけた。
「二三日は間違いあるまいって云った。」
「怪しいな。戸沢さんの云う事じゃ――」
 今度は慎太郎が返事せずに、煙草《たばこ》の灰を火鉢へ落していた。
「慎ちゃん。さっきお前が帰って来た時、お母さんは何とか云ったかえ?」
「何とも云いませんでした。」
「でも笑ったね。」
 洋一は横から覗《のぞ》くように、静な兄の顔を眺めた。
「うん、――それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦《ばか》に好い※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《におい》がするじゃありませんか?」
 叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。
「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水《こうすい》を撒《ま》いたんだよ。洋ちゃん。何とか云ったね? あの香水は。」
「何ですか、――多分|床撒《とこま》き香水とか何んとか云うんでしょう。」
 そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。
「お父さんはいなくって?」
「店に御出でだよ。何か用かえ?」
「ええ、お母さんが、ちょいと、――」
 洋一はお絹がそう云うと同時に、早速《さっそく》長火鉢の前から立ち上った。
「僕がそう云って来る。」
 彼が茶の間から出て行くと、米噛《こめか》みに即効紙《そっこうし》を貼ったお絹は、両袖に胸を抱《だ》いたまま、忍び足にこちらへはいって来た。そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。
「どうだえ?」
「やっぱり薬が通らなくってね。――でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈夫ですわ。」
「熱は?」
 慎太郎は口を挟《はさ》みながら、まずそうに煙草の煙を吐いた。
「今|計《はか》ったら七度二分――」
 お絹は襟に顋《あご》を埋《うず》めたなり、考え深そうに慎太郎を見た。
「戸沢さんがいた時より、また一分《いちぶ》下ったんだわね。」
 三人はしばらく黙っていた。するとそのひっそりした中に、板の間《ま》を踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。
「今お前の家《うち》から電話がかかったよ。のちほどどうかお上《かみ》さんに御電話を願いますって。」
 賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはいって行った。
「しょうがないわね。家《うち》じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」
 お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。
「この節の女中はね。――私の所なんぞも女中はいるだけ、反《かえ》って世話が焼けるくらいなんだよ。」
 二人がこんな話をしている間《あいだ》に、慎太郎は金口《きんぐち》を啣《くわ》えながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。
「受験準備はしているかい?」
「している。――だけど今年《ことし》は投げているんだ。」
「また歌ばかり作っているんだろう。」
 洋一はいやな顔をして、自分も巻煙草《まきたばこ》へ火を移した。
「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。数学は大嫌いだし、――」
「嫌いだってやらなけりゃ、――」
 慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際《ふすまぎわ》へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、
「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。
 彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。
「こっちへ御出で。何かお母さんが用があるって云うから。」
 枕もとに独り坐っていた父は顋《あご》で彼に差図《さしず》をした。彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へ坐った。
「何か用?」
 母は括《くく》り枕の上へ、櫛巻《くしま》きの頭を横にしていた。その顔が巾《きれ》をかけた電燈の光に、さっきよりも一層|窶《やつ》れて見えた。
「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――お前からもよくそう云ってね、――お前の云う事は聞く子だから、――」
「ええ、よく云って置きます。実は今もその話をしていたんです。」
 慎太郎はいつもよりも大きい声で返事をした。
「そうかい。じゃ忘れないでね、――私も昨日《きのう》あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」
 母は腹痛をこらえながら、歯齦《はぐき》の見える微笑をした。
「帝釈様《たいしゃくさま》の御符《ごふ》を頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けば癒《なお》りそうだから、――美津《みつ》の叔父《おじ》さんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍《かいよう》だったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」
 慎太郎は今になってさえ、そんな事を頼みにしている母が、浅間《あさま》しい気がしてならなかった。
「癒りますとも。大丈夫癒りますからね、よく薬を飲むんですよ。」
 母はかすかに頷《うなず》いた。
「じゃただ今一つ召し上って御覧なさいまし。」
 枕もとに来ていた看護婦は器用にお律の唇《くちびる》へ水薬《みずぐすり》の硝子管《ガラスくだ》を当てがった。母は眼をつぶったなり、二吸《ふたすい》ほど管《くだ》の薬を飲んだ。それが刹那の間ながら、慎太郎の心を明くした。
「好《い》い塩梅《あんばい》ですね。」
「今度はおさまったようでございます。」
 看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。
「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし、床上《とこあ》げの時分は暑かろうな。こいつは一つ赤飯《せきはん》の代りに、氷あずきでも配《くば》る事にするか。」
 賢造の冗談をきっかけに、慎太郎は膝をついたまま、そっと母の側を引き下《さが》ろうとした。すると母は彼の顔へ、突然不審そうな眼をやりながら、
「演説《えんぜつ》? どこに今夜演説があるの?」と云った。
 彼はさすがにぎょっとして、救いを請うように父の方を見た。
「演説なんぞありゃしないよ。どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方が好いよ。」
 賢造はお律をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。慎太郎は早速膝を擡《もた》げて、明るい電燈に照らされた、隣の茶の間へ帰って来た。
 茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。それが彼の姿を見ると、皆一度に顔を挙げながら、何か病室の消息《しょうそく》を尋ねるような表情をした。が、慎太郎は口を噤《つぐ》んだなり、不相変《あいかわらず》冷やかな眼つきをして、もとの座蒲団《ざぶとん》の上にあぐらをかいた。
「何の用だって?」
 まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟に顋《あご》を埋めた、顔色《かおいろ》の好くないお絹だった。
「何でもなかった。」
「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」
 慎太郎は姉の言葉の中に、意地の悪い調子を感じた。が、ちょいと苦笑したぎり、何ともそれには答えなかった。
「洋ちゃん。お前今夜|夜伽《よとぎ》をおしかえ?」
 しばらく無言が続いた後、浅川の叔母は欠伸《あくび》まじりに、こう洋一へ声をかけた。
「ええ、――姉さんも今夜はするって云うから、――」
「慎ちゃんは?」
 お絹は薄い※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》を挙げて、じろりと慎太郎の顔を眺めた。
「僕はどうでも好い。」
「不相変《あいかわらず》慎ちゃんは煮《に》え切らないのね。高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」
「この人はお前、疲れているじゃないか?」
 叔母ば半ばたしなめるように、癇高《かんだか》いお絹の言葉を制した。
「今夜は一番さきへ寝かした方が好いやね。何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」
「じゃ一番さきに寝るかな。」
 慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂死《すいし》の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、………

        六
 
 それでも店の二階の蒲団《ふとん》に、慎太郎《しんたろう》が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。彼は叔母の言葉通り、実際旅疲れを感じていた。が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反《ねがえ》りを繰り返しても、容易に睡気《ねむけ》を催さなかった。
 彼の隣には父の賢造《けんぞう》が、静かな寝息《ねいき》を洩らしていた。父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。父は鼾《いび》きをかかなかったかしら、――慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透《す》かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。
 しかし彼の※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》の裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。その中には嬉しい記憶もあれば、むしろ忌《いま》わしい記憶もあった。が、どの記憶も今となって見れば、同じように寂しかった。「みんなもう過ぎ去った事だ。善くっても悪くっても仕方がない。」――慎太郎はそう思いながら、糊《のり》の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《におい》のする括《くく》り枕に、ぼんやり五分刈《ごぶがり》の頭を落着けていた。
 ――まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽子《ぼうし》を買って来た事があった。それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、庇《ひさし》の長い大黒帽《だいこくぼう》だった。するとそれを見た姉のお絹《きぬ》が、来月は長唄のお浚《さら》いがあるから、今度は自分にも着物を一つ、拵《こしら》えてくれろと云い出した。父はにやにや笑ったぎり、全然その言葉に取り合わなかった。姉はすぐに怒り出した。そうして父に背を向けたまま、口惜しそうに毒口《どくぐち》を利《き》いた。
「たんと慎ちゃんばかり御可愛《おかわい》がりなさいよ。」
 父は多少持て余しながらも、まだ薄笑いを止《や》めなかった。
「着物と帽子とが一つになるものかな。」
「じゃお母さんはどうしたんです? お母さんだってこの間は、羽織を一つ拵えたじゃありませんか?」
 姉は父の方へ向き直ると、突然険しい目つきを見せた。
「あの時はお前も簪《かんざし》だの櫛《くし》だの買って貰ったじゃないか?」
「ええ、買って貰いました。買って貰っちゃいけないんですか?」
 姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪《はなかんざし》をいきなり畳の上へ抛《ほう》り出した。
「何だ、こんな簪ぐらい。」
 父もさすがに苦い顔をした。
「莫迦《ばか》な事をするな。」
「どうせ私は莫迦ですよ。慎ちゃんのような利口じゃありません。私のお母さんは莫迦だったんですから、――」
 慎太郎は蒼《あお》い顔をしたまま、このいさかいを眺めていた。が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を掴《つか》むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。
「何をするのよ。慎ちゃん。」
 姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。
「こんな簪なんぞ入らないって云ったじゃないか? 入らなけりゃどうしたってかまわないじゃないか? 何だい、女の癖に、――喧嘩ならいつでも向って来い。――」
 いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮《あざやか》に映《うつ》っているような気がしながら。――
 慎太郎はふと耳を澄《すま》せた。誰かが音のしないように、暗い梯子《はしご》を上《あが》って来る。――と思うと美津《みつ》が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。
「旦那様《だんなさま》」
 眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を擡《もた》げた。
「何だい?」
「お上《かみ》さんが何か御用でございます。」
 美津の声は震えていた。
「よし、今行く。」
 父が二階を下りて行った後《のち》、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中《いえじゅう》の物音にでも聞き入るように、じっと体を硬《こわ》ばらせていた。すると何故《なぜ》かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。
 ――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中《やなか》の墓地へ墓参りに行った。墓地の松や生垣《いけがき》の中には、辛夷《こぶし》の花が白らんでいる、天気の好《い》い日曜の午《ひる》過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜《おじぎ》をしただけだった。
「それでもう好いの?」
 母は水を手向《たむ》けながら、彼の方へ微笑を送った。
「うん。」
 彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。が、この憐《あわれ》な石塔には、何の感情も起らないのだった。
 母はそれから墓の前に、しばらく手を合せていた。するとどこかその近所に、空気銃を打ったらしい音が聞えた。慎太郎は母を後に残して、音のした方へ出かけて行った。生垣《いけがき》を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、――そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か木《こ》の芽の煙った梢《こずえ》を残惜《のこりお》しそうに見上げていた。――
 その時また彼の耳には、誰かの梯子《はしご》を上って来る音がみしりみしり聞え出した。急に不安になった彼は半ば床《とこ》から身を起すと、
「誰?」と上り口へ声をかけた。
「起きていたのか?」
 声の持ち主は賢造だった。
「どうかしたんですか?」
「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」
 父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団《ふとん》の上へ横になった。
「用って、悪いんじゃないんですか?」
「何、用って云った所が、ただ明日《あした》工場《こうば》へ行くんなら、箪笥《たんす》の上の抽斗《ひきだし》に単衣物《ひとえもの》があるって云うだけなんだ。」
 慎太郎は母を憐んだ。それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。
「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」
「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」
「注射はそう度々は出来ないんだそうだから、――どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」
 賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。
「お前のお母さんなんぞは後生《ごしょう》も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」
 二人はしばらく黙っていた。
「みんなまだ起きていますか?」
 慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。
「叔母さんは寝ている。が、寝られるかどうだか、――」
 父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡《もた》げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。
「お父さん。お母さんがちょいと、――」
 今度は梯子《はしご》の中段から、お絹《きぬ》が忍びやかに声をかけた。
「今行くよ。」
「僕も起きます。」
 慎太郎は掻巻《かいま》きを刎《は》ねのけた。
「お前は起きなくっても好いよ。何かありゃすぐに呼びに来るから。」
 父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。
 慎太郎は床《とこ》の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。それからまた坐ったまま、電燈の眩《まぶ》しい光の中に、茫然《ぼうぜん》とあたりを眺め廻した。母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に床《とこ》の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。――そんな事もふと思われるのだった。
 すると字を書いた罫紙《けいし》が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気《なにげ》なくそれを取り上げた。
「M子に献ず。……」
 後《あと》は洋一の歌になっていた。
 慎太郎はその罫紙を抛《ほう》り出すと、両手を頭の後《うしろ》に廻しながら、蒲団の上へ仰向《あおむ》けになった。そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。…………

        七

 慎太郎《しんたろう》がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお絹《きぬ》と賢造《けんぞう》とが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。
「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」
 賢造はお絹にこう云ったなり、忙《いそが》しそうに梯子《はしご》を下りて行った。
 窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降《おおぶ》りだな、――慎太郎はそう思いながら、早速《さっそく》寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。
「慎ちゃん。お早う。」
「お早う、お母さんは?」
「昨夜《ゆうべ》はずっと苦しみ通し。――」
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――私《わたし》夜中《よなか》に気味が悪くなってしまった。」
 もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇《たたず》んでいた。そこから見える台所のさきには、美津《みつ》が裾を端折《はしょ》ったまま、雑巾《ぞうきん》か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮《しんちゅう》の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚《はばか》られるような心もちがした。
「妙な事ってどんな事を?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は戸沢《とざわ》さんが来ているわ。」
「早いな。」
 慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
 五分の後《のち》、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は枕もとの看護婦に、後《あと》の手当をして貰いながら、昨夜《ゆうべ》父が云った通り、絶えず白い括《くく》り枕の上に、櫛巻《くしま》きの頭を動かしていた。
「慎太郎が来たよ。」
 戸沢の側に坐っていた父は声高《こわだか》に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。
 彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには洋一《よういち》が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。
「手を握っておやり。」
 慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌《たなごころ》に母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗《あぶらあせ》に、気味悪くじっとり沾《しめ》っていた。
 母は彼の顔を見ると、頷《うなず》くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、
「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。
「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒《しんぼう》です。」
 戸沢は手を洗っていた。
「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」
 母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神《うじがみ》の御札《おふだ》が、柴又《しばまた》の帝釈《たいしゃく》の御影《みえい》なぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。――母は上眼《うわめ》にその盆を見ながら、喘《あえ》ぐように切れ切れな返事をした。
「昨夜《ゆうべ》、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今朝《けさ》は、お肚《なか》の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」
 父は小声に看護婦へ云った。
「少し舌がつれるようですね。」
「口が御|粘《ねば》りになるんでしょう。――これで水をさし上げて下さい。」
 慎太郎は看護婦の手から、水に浸《ひた》した筆を受け取って、二三度母の口をしめした。母は筆に舌を搦《から》んで、乏しい水を吸うようにした。
「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」
 戸沢は鞄《かばん》の始末をすると、母の方へこう大声に云った。それから看護婦を見返りながら、
「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。
 看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。
 慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の間《ま》には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――戸沢はその前を通る時、叮嚀《ていねい》な叔母の挨拶に無造作《むぞうさ》な目礼を返しながら、後《あと》に従った慎太郎へ、
「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
 慎太郎も苦笑した。
「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の忰《せがれ》なんぞが受験準備をしているせいですな。――」
 戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。
 医者が雨の中を帰った後《のち》、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一《よういち》が巻煙草を啣《くわ》えていた。
「眠いだろう?」
 慎太郎はしゃがむように、長火鉢の縁《ふち》へ膝《ひざ》を当てた。
「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」
「うん、――昨夜《ゆうべ》夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」
 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛《ほう》りこんだ。
「でもお母さんが唸《うな》らなくなったから好いや。」
「ちっとは楽になったと見えるねえ。」
 叔母は母の懐炉《かいろ》に入れる懐炉灰を焼きつけていた。
「四時までは苦しかったようですがね。」
 そこへ松が台所から、銀杏返《いちょうがえ》しのほつれた顔を出した。
「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」
「はい、はい、今行きます。」
 叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」
 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸《あくび》を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡《もた》げた。
「僕も一寝入りして来るかな。」
 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。
 すると突然次の間《ま》から、慌《あわただ》しく看護婦が駆けこんで来た。
「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」
 慎太郎は咄嗟《とっさ》に身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。そうして逞《たくま》しい両腕に、しっかりお律《りつ》を抱き上げていた。
「お母さん。お母さん。」
 母は彼に抱かれたまま、二三度体を震《ふる》わせた。それから青黒い液体を吐いた。
「お母さん。」
 誰もまだそこへ来ない何秒かの間《あいだ》、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。
[#地から1字上げ](大正九年十月二十三日)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月9日修正
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