青空文庫アーカイブ



石川啄木詩集
石川啄木

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

※[#]:外字の説明
(例)黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡
-------------------------------------------------------

  啄木鳥

いにしへ聖者が雅典の森に撞きし、
光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
鋳にたる巨鐘、無窮のその声をぞ
染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷に喘げる塵の疾風
よせ来て、若やぐ生命の森の精の
聖きを攻むやと、終日、啄木鳥、
巡りて警告夏樹の髄にきざむ。

往きしは三千年、永劫猶すすみて
つきざる『時』の箭、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が
浄きを高きを天路の栄と云ひし
霊をぞ守りて、この森不断の糧、
奇かるつとめを小さき鳥のすなる。


  隠沼

夕影しづかに番の白鷺下り、
槇の葉枯れたる樹下の隠沼にて、
あこがれ歌ふよ。――『その昔、よろこび、そは
朝明、光の揺籃に星と眠り、
悲しみ、汝こそとこしへ此処に朽ちて、
我が喰み啣める泥土と融け沈みぬ。』――
愛の羽寄り添ひ、青瞳うるむ見れば、
築地の草床、涙を我も垂れつ。

仰げば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩なき夢の如く、
ほそ糸ほのかに水底に鎖ひける。
哀歓かたみの輪廻は猶も堪へめ、
泥土に似る身ぞ。ああさは我が隠沼、
かなしみ喰み去る鳥さへえこそ来めや。


  マカロフ提督追悼の詩

(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を迎撃せむとし、倉皇令を下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。)

嵐よ黙せ、暗打つその翼、
夜の叫びも荒磯の黒潮も、
潮にみなぎる鬼哭の啾々も
暫し唸りを鎮めよ。万軍の
敵も味方も汝が矛地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪狂ふ、
弦月遠きかなたの旅順口。

ものみな声を潜めて、極冬の
落日の威に無人の大砂漠
劫風絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、――敗者の怨みか、暗濤の
世をくつがへす憤怒か、ああ、あらず、――
血汐を呑みてむなしく敗艦と
共に没れし旅順の黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡、
彼が最後の瞳にかがやける
偉霊のちから鋭どき生の歌。

ああ偉いなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡天の孤英雄。
君を憶へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵乍らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神も跪づけ、
敵も味方も汝が矛地に伏せて、
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。)
ああ偉いなる敗将、軍神の
選びに入れる露西亜の孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。

東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運命に、
君は起ちにき、み神の名を呼びて――
亡びの暗の叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲路しばしの勇みを負ふ如く。

壮なるかなや、故国の運命を
担うて勇む胡天の君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣頭高く日を射す提督旗。――
その旗、かなし、波間に捲きこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界を撫づるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。

四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方も汝が鋒地に伏せて、
マカロフが名に暫しは跪づけ。)
万雷波に躍りて、大軸を
砕くとひびく刹那に、名にしおふ
黄海の王者、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡、
血汐を浴びて、腕をば拱きて、
無限の憤怒、怒濤のかちどきの
渦巻く海に瞳を凝らしつつ、
大提督は静かに沈みけり。

ああ運命の大海、とこしへの
憤怒の頭擡ぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみ遺せる秘密の黒潮よ、
ああ汝、かくてこの世の九億劫、
生と希望と意力を呑み去りて
幽暗不知の界に閉ぢこめて、
如何に、如何なる証を『永遠の
生の光』に理示すぞや。
汝が迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことに汝が目に
映るが如く値のなきものか。

ああ休んぬかな。歴史の文字は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。――
彼は沈みぬ、無間の海の底。
偉霊のちからこもれる其胸に
永劫たえぬ悲痛の傷うけて、
その重傷に世界を泣かしめて。

我はた惑ふ、地上の永滅は、
力を仰ぐ有情の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流転現ずる尊ときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力に、願くは
君が名、我が詩、不滅の信とも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。

水無月くらき夜半の窓に凭り、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂瀾裡、
したしく君が渦巻く死の波を
制す最後の姿を観るが如、
頭は垂れて、熱涙せきあへず。
君はや逝きぬ。逝きても猶逝かぬ
その偉いなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒磯のくろ潮も、
敵も味方もその額地に伏せて
火焔の声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて千古の浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。


  眠れる都

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匆々筆を染めけるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)

鐘鳴りぬ、
いと荘厳に
夜は重し、市の上。
声は皆眠れる都
瞰下せば、すさまじき
野の獅子の死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪、
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船の、
それの如、燈影洩るる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後の日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地を霧は隔てて、
照りわたる月かげは
天の夢地にそそがず。

声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ声は
昼のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名残の声か。

我が窓は、
濁れる海を
遶らせる城の如、
遠寄せに怖れまどへる
詩の胸守りつつ、
月光を隈なく入れぬ。


  東京

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒き手に
何をかも攫むとすらむ、ただ直に天をぞ射せる。
百千網巷巷に空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ
寂寞よ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。

千万の甍今日こそ色もなく打鎮りぬ。
紙の片白き千ひらを撒きて行く通魔ありと、
家家の門や又窓、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いと稀に。――かくて、骨泣く寂滅死の都、見よ。

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

何方ゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯、天路に聳る
層楼の屋根にとまれり。唖唖として一声、――これよ
凶鳥の不浄の烏。――骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨恨の毒嘴の鳥。

鳥啼きぬ、二度。――いかに、其声の猶終らぬに、
何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣捧げし童顔の翁あり。ああ、
黒長裳静かに曳くや、寂寞の戸に反響して、
沓の音全都に響き、唯一人大路を練れり。
有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。


  角笛

みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物燻ゆる五月の丘の
柏木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
東白の空のほのめき――
天の扉の真白き礎ゆ湧く水の
いとすがすがし。――
ひたひたと木陰地に寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はも涼し。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心角吹けば、
吹き、また吹けば、
渓川の石津瀬はしる水音も
あはれ、いのちの小鼓の鳴の遠音と
ひびき寄す。
ああ静心なし。
丘のつづきの草の上に
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。――
凹みの埓の中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき来る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、直に走りぬ。
暁の声する方の丘の辺に。――
ああ歓びの朝の舞、
新乳の色の衣して、若き羊は
角ふく人の身を繞り、
すずしき風に啼き交し、また小躍りぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我も亦この世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
行かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。


  年老いし彼は商人

年老いし彼は商人。
靴、鞄、帽子、革帯、
ところせく列べる店に
坐り居て、客のくる毎、
尽日や、はた、電燈の
青く照る夜も更くるまで、
てらてらに禿げし頭を
礼あつく千度下げつつ、
なれたれば、いと滑らかに
数数の世辞をならべぬ。
年老いし彼はあき人。
かちかちと生命を刻む
ボンボンの下の帳場や、
簿記台の上に低れたる
其頭、いと面白し。

その頭低るる度毎、
彼が日は短くなりつ、
年こそは重みゆきけれ。
かくて、見よ、髪の一条
落ちつ、また、二条、三条、
いつとなく抜けたり、遂に
面白し、禿げたる頭。
その頭、禿げゆくままに、
白壁の土蔵の二階、
黄金の宝の山は
(目もはゆし、暗の中にも。)
積まれたり、いと堆かく。

埃及の昔の王は
わが墓の大金字塔を
つくるとて、ニルの砂原、
十万の黒兵者を
二十年も役せしといふ。
年老いしこの商人も
近つ代の栄の王者、
幾人の小僧つかひて、
人の見ぬ土蔵の中に
きづきたり、宝の山を。――
これこそは、げに、目もはゆき
新世の金字塔ならし、
霊魂の墓の標の。


  辻

老いたるも、或は、若きも、
幾十人、男女や、
東より、はたや、西より、
坂の上、坂の下より、
おのがじし、いと急しげに
此処過ぐる。
今わが立つは、
海を見る広き巷の
四の辻。――四の角なる
家は皆いと厳めしし。
銀行と、領事の館、
新聞社、残る一つは、
人の罪嗅ぎて行くなる
黒犬を飼へる警察。

此処過ぐる人は、見よ、皆、
空高き日をも仰がず、
船多き海も眺めず、
ただ、人の作れる路を、
人の住む家を見つつぞ、
人とこそ群れて行くなれ。
白髯の翁も、はたや、
絹傘の若き少女も、
少年も、また、靴鳴らし
煙草吹く海産商も、
丈高き紳士も、孫を
背に負へる痩せし媼も、
酒肥り、いとそりかへる
商人も、物乞ふ児等も、
口笛の若き給仕も、
家持たぬ憂き人人も。

せはしげに過ぐるものかな。
広き辻、人は多けど、
相知れる人や無からむ。
並行けど、はた、相逢へど、
人は皆、そしらぬ身振、
おのがじし、おのが道をぞ
急ぐなれ、おのもおのもに。

心なき林の木木も
相凭りて枝こそ交せ、
年毎に落ちて死ぬなる
木の葉さへ、朝風吹けば、
朝さやぎ、夕風吹けば、
夕語りするなるものを、
人の世は疎らの林、
人の世は人なき砂漠。
ああ、我も、わが行くみちの
今日ひと日、語る伴侶なく、
この辻を、今、かく行くと、
思ひつつ、歩み移せば、
けたたまし戸の音ひびき、
右手なる新聞社より
駆け出でし男幾人、
腰の鈴高く鳴らして
駆け去りぬ、四の角より
四の路おのも、おのもに。
今五月、霽れたるひと日、
日の光曇らず、海に
牙鳴らす浪もなけれど、
急がしき人の国には
何事か起りにけらし。


  無題

札幌は一昨日以来
ひき続きいと天気よし。
夜に入りて冷たき風の
そよ吹けば少し曇れど、
秋の昼、日はほかほかと
丈ひくき障子を照し、
寝ころびて物を思へば、
我が頭ボーッとする程
心地よし、流離の人も。

おもしろき君の手紙は
昨日見ぬ。うれしかりしな。
うれしさにほくそ笑みして
読み了へし、我が睫毛には、
何しかも露の宿りき。
生肌の木の香くゆれる
函館よ、いともなつかし。
木をけづる木片大工も
おもしろき恋やするらめ。
新らしく立つ家々に
将来の恋人共が
母ちゃんに甘へてや居む。
はたや又、我がなつかしき
白村に翡翠白鯨
我が事を語りてあらむ。
なつかしき我が武ちゃんよ、――
今様のハイカラの名は
敬慕するかはせみの君、
外国のラリルレ語
酔漢の語でいへば
m...m...my dear brethren!――
君が文読み、くり返し、
我が心青柳町の
裏長屋、十八番地
ムの八にかへりにけりな。

世の中はあるがままにて
怎かなる。心配はなし。
我たとへ、柳に南瓜
なった如、ぶらりぶらりと
貧乏の重い袋を
痩腰に下げて歩けど、
本職の詩人、はた又
兼職の校正係、
どうかなる世の中なれば
必ずや怎かなるべし。
見よや今、「小樽日々」
「タイムス」は南瓜の如き
蔓の手を我にのばしぬ。
来むとする神無月には、
ぶらぶらの南瓜の性の
校正子、記者に経上り
どちらかへころび行くべし。

一昨日はよき日なりけり。
小樽より我が妻せつ子
朝に来て、夕べ帰りぬ。
札幌に貸家なけれど、
親切な宿の主婦さん、
同室の一少年と
猫の糞他室へ移し
この室を我らのために
貸すべしと申出でたり。
それよしと裁可したれば、
明後日妻は京子と
鍋、蒲団、鉄瓶、茶盆、
携へて再び来り、
六畳のこの一室に
新家庭作り上ぐべし。
願くは心休めよ。

その節に、我来し後の
君達の好意、残らず
せつ子より聞き候ひぬ。
焼跡の丸井の坂を
荷車にぶらさがりつつ、
 (ここに又南瓜こそあれ、)
停車場に急ぎゆきけん
君達の姿思ひて
ふき出しぬ。又其心
打忍び、涙流しぬ。

日高なるアイヌの君の
行先ぞ気にこそかかれ。
ひょろひょろの夷希薇の君に
事問へど更にわからず。
四日前に出しやりたる
我が手紙、未だもどらず
返事来ず。今の所は
一向に五里霧中なり。
アノ人の事にしあれば、
瓢然と鳥の如くに
何処へか翔りゆきけめ。
大したる事のなからむ。
とはいへど、どうも何だか
気にかかり、たより待たるる。

北の方旭川なる
丈高き見習士官
遠からず演習のため
札幌に来るといふなる
たより来ぬ。豚鍋つつき
語らむと、これも待たるる。

待たるるはこれのみならず、
願くは兄弟達よ
手紙呉れ。ハガキでもよし。
函館のたよりなき日は
何となく唯我一人
荒れし野に追放されし
思ひして、心クサクサ、
訳もなく我がかたはらの、
猫の糞癪にぞさわれ。

猫の糞可哀相なり、
鼻下の髯、二分程のびて
物いへば、いつも滅茶苦茶、
今も猶無官の大夫、
実際は可哀相だよ。

札幌は静けき都、
秋の日のいと温かに
虻の声おとづれ来なる
南窓、うつらうつらの
我が心、ふと浮気出し、
筆とりて書きたる文は
見よやこの五七の調よ、

其昔、髯のホメロス
イリヤドを書きし如くに
すらすらと書きこそしたれ。
札幌は静けき都、夢に来よかし。

   反歌
白村が第二の愛児笑むらむかはた
泣くらむか聞かまほしくも。
なつかしき我が兄弟よ我がために
文かけ、よしや頭掻かずも。
北の子は独逸語習ふ、いざやいざ
我が正等よ競駒せむ。
うつらうつら時すぎゆきて隣室の
時計二時うつ、いざ出社せむ。
  四十年九月二十三日
      札幌にて啄木拝
並木兄 御侍史


  無題

一年ばかりの間、いや一と月でも
一週間でも、三日でもいい。
神よ、もしあるなら、ああ、神よ、
私の願ひはこれだけだ。どうか、
身体をどこか少しこはしてくれ痛くても
関はない、どうか病気さしてくれ!
ああ! どうか……

真白な、柔らかな、そして
身体がフウワリと何処までも――
安心の谷の底までも沈んでゆく様な布団の上に、いや
養老院の古畳の上でもいい、
何も考へずに(そのまま死んでも
惜しくはない)ゆっくりと寝てみたい!
手足を誰か来て盗んで行っても
知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい!

どうだらう! その気持は! ああ。
想像するだけでも眠くなるやうだ! 今著てゐる
この著物を――重い、重いこの責任の著物を
脱ぎ棄てて了ったら(ああ、うっとりする!)
私のこの身体が水素のやうに
ふうわりと軽くなって、
高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――「雲雀だ」
下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!
    ―――――――――――――――
死だ! 死だ! 私の願ひはこれ
たった一つだ! ああ!

あ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、
ありがたい神様、あ、ちょっと!

ほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい!
殺すくらゐのお慈悲があるなら!


  新らしき都の基礎

やがて世界の戦は来らん!
不死鳥の如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府が毀たれん!
戦は永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!
然る後、あはれ、然る後、我等の
『新らしき都』はいづこに建つべきか?
滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。
土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ
定まりも区別もなき空気の中に
果て知れぬ蒼き、蒼き空の下に!


  夏の街の恐怖

焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて、
肥った三歳ばかりの男の児が
ちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。

八百屋の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛は垂れて動かず。
閉された幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すベて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子の花が死落ち、
生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、

夏の恐怖に物言はぬ脚気患者の葬りの列。
それを見て辻の巡査は出かかった欠呻噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして、
塵溜の蔭に行く。


  起きるな

西日をうけて熱くなった
埃だらけの窓の硝子よりも
まだ味気ない生命がある。

正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
その上に蚤が這ひあがる。

起きるな、超きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。

何処かで艶いた女の笑ひ声。


  事ありげな春の夕暮

遠い国には戦があり……
海には難破船の上の酒宴……

質屋の店には蒼ざめた女が立ち、
燈火にそむいてはなをかむ。
其処を出て来れば、路次の口に
情夫の背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布を出す。

何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重く淀んだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。
遠い国には沢山の人が死に……
また政庁に推寄せる女壮士のさけび声……
海には信夫翁の疫病……

あ、大工の家では洋燈が落ち、
大工の妻が跳び上る。


  騎馬の巡査

絶間なく動いてゐる須田町の人込の中に、
絶間なく目を配って、立ってゐる騎馬の巡査――
見すぼらしい銅像のやうな――。

白痴の小僧は馬の腹をすばしこく潜りぬけ、
荷を積み重ねた赤い自動車が
その鼻先を行く。

数ある往来の人の中には
子供の手を曳いた巡査の妻もあり
実家へ金借りに行った帰り途、
ふと此の馬上の人を見上げて、
おのが夫の勤労を思ふ。

あ、犬が電車に轢かれた――
ぞろぞろと人が集る。
巡査も馬を進める……


  はてしなき議論の後(一)

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、
かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

我は知る、
その電に照し出さるる
新しき世界の姿を。
其処にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――


  はてしなき議論の後(二)

われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
'V NAROD ! 'と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
'V NAROD !' と叫び出づるものなし。

此処にあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
'V NAROD !'と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
'V NAROD ! 'と叫び出づるものなし。


  ココアのひと匙

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


  書斎の午後

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。


  激論

われはかの夜の激論を忘るること能はず、
新らしき社会に於ける「権力」の処置に就きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間に惹き起されたる激論を、
かの五時間に亙れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆ゆるごとくなりき。
若しその間に卓子のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心を截るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女は初めよりわが味方なりき。


  墓碑銘

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶尊敬す――
かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能はず、
されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

「彼の眼は常に論者の怯懦を叱責す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
然り、われもまた度度しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫話を口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これ、かれのわれに遺したる最後の言葉なり。
この日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
「われは何時にても起つことを得る準備あり。」


  古びたる鞄をあけて

わが友は、古びたる鞄をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
「これなり」とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。


  げに、かの場末の

げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチレン瓦斯の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひょろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひょろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきして、
くどくどと何事を語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは、三年も前の記憶なり。
はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひょろろろと、
また、ひょろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。


  わが友は、今日も

我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論」の
難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片が、ほろほろと、
何故とはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、
身の丈三尺ばかりなる女の、
赤き扇をかざして踊るを、
見世物にて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心なさ。


  家

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ランプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。

さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其処に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも
なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。


  飛行機

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。



底本:「日本文学全集12国木田独歩・石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
親本:初版本
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年11月11日公開
2001年12月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





前のページに戻る 青空文庫アーカイブ