青空文庫アーカイブ



昔の女
三島霜川

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)埃深《ほこりふかい》い北向の家である。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)親子|四《よ》人

[#]:入力者注
(例)しちりんやらがしだらなく[#「しだらなく」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ウヨ/\してゐた。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 埃深《ほこりふかい》い北向の家である。低い木ッ葉屋根の二軒長屋で、子供の多い老巡査が住み荒して行ッた後《あと》だ。四畳半と三畳と並んで、其に椽が付いて南に向ッてゐる。で日は家中に射込むて都《すべ》て露出《むきだ》し……薄暗い臺所には、皿やら椀やら俎板やらしちりんやらがしだらなく[#「しだらなく」に傍点]取ツちらかツてゐるのも見えれば、屡《よ》く開ツ放してある押入には、蒲團綿やら襤褸屑《ぼろくず》やら何んといふこともなくつくね[#「つくね」に傍点]込むであるのも見える。障子は夏、外《はづ》したまゝで、残らず破れたなり煤けたなりで便所の傍《わき》にたてかけ[#「たてかけ」に傍点]てある。もう朝晩は秋の冷気が身に沁むほどだといふに、勝見一家の倦怠とやりツぱなし[#「やりツぱなし」に傍点]は、老巡査一家の其にも増して、障子を繕ツて入れるだけの面倒も見ない。雨でも降るとスッカリ雨戸を閉切《しめき》ツて親子|四《よ》人|微暗《ほのぐら》い裡《なか》に何がなしモゾクサしていじけ込むてゐる。天気の好い日でも格子戸の方の雨戸だけは閉切《しめき》ツて、臺所口から出入してゐる。幾ら水を換へて置いても、雨上《あめあが》りには屹度、手水鉢《てふづばち》の底に蚯蚓が四五匹づゝウヨ/\してゐた。家が古いから屋根から流れ込むのであらう。主人の由三は、卅を越した年を尚《ま》だ独身で、萬事母親に面倒を掛けてゐた。
 由三は何処に勤めるでもない。何時も何か充《つま》らないやうな、物足りぬ顔で大きな古|机《づくえ》の前に坐り込むでゐるが、飽きるとゴロリ横になツて、貧乏揺をしながら何時とはなく眠ツて了ふ。何うかすると裏の田園に散歩に出掛けることもある。机の上には、いかな日でも原稿用紙と筆とが丁と揃ツてゐないことはないが、それでゐて滅多と原稿の纒ツた例《ためし》がない。頭がだらけ[#「だらけ」に傍点]きツて、正體がないからだ。
 今日も由三は十一時頃に起きて、其から二三時間もマジリ/\してゐて、もう敷島の十二三本も吸ツた。吸殼は火鉢の隅に目立つやうに堆《かさ》になツて、口が苦くなる、頭もソロ/\倦《たる》くなツて來て、輕く振ツて見ると、后頭が鉛でも詰めてあるやうに重い。此うなると墨を磨るのさへ懶《ものう》い、で、妄《むやみ》と生叺《なまあくび》だ。臺所|傍《わき》の二|畳《じよ》でも母親が長い叺をする……眼鏡越しに由三の方を見て、
「隣りのお婆さん、何うなすツたかナ。」と獨言《ひとりごと》のやうにいふ。返事がなかツたので、更に押返して
「亡《な》くなツたかナ。」
 と頼りなげな聲だ。
「何うだツて可いぢやありませんか、他《ひと》のこと。」
 由三はうるさ[#「うるさ」に傍点]ゝうに謂ツて、外《そと》を見る。青《あを》い空、輝く日光《にツくわう》……其の明い、静な日和《ひより》を見ると、由三は何がなし其の身が幽囚でもされてゐるやうな感じがした。
「でも怖《こわ》いからノ。」と母親は重い口で染々《しみじみ》といふ。
「氣を付けてさへゐたら大丈夫です。」
「其は然うだがノ。」と不安らしい。
「大丈夫ですよ。赤痢といふものは、氣を付けてさへゐたら、決して罹りもしなければ、傳染するものではありません。」
「然うかノ。」
 と謂ツて母親は黙ツて了ツた。隣りの婆さんといふのは、赤痢に罹ツたのを一週間も隱匿《かく》してゐて、昨日の午後避病院に擔込《かつぎこ》まれたのであツた。避病院は、つい近所にある。坐ツてゐても消毒室の煙突だけは見える。
「嫌だノ。」と母親はまた心細さうに、「今年は能く人が死なツしやるナ。気候の悪い故でもあるかノ。」
 と謂ツて小聲で念佛を稱へる。
「そりや死にもするけれど、生れた家《とこ》も随分あるさ。」
 と由三はお産のあツた家《うち》を六軒ばかり數へた。そして、「此の長屋中にだツて、春から三人も生れたぢやありませんか。」
 と言《い》足した。近所から傳染病が出た故《せい》でもあることか、其處らに人が住むでゐるとは思はれぬやうに静だ。其の静な中《なか》に、長屋の隅ツこの方から、トントン、カラリ……秋晴の空氣を顫はせて、機《はた》を織る音かさも田舎びて聞えて來る。
 由三[#「由三」は底本では「山三」]は眼を瞑《つぶ》ツて、何んといふ纒《まとまり》のないことを考出した。「此うしてゐて何うなるのだ。」と謂ツたやうな佗しい感じが、輕く胸頭《むなさき》を緊付《しめつ》ける。
 母親は何やらモゾクサしてゐて、「私《わし》もナ、ひよツとすると、此の冬あたりは逝《い》くやも知れンてノ。」と他言《ひとごと》のやうに平気でいふ。
 由三は恟《ぎよ》ツとして眼を啓けた。
「え、何うして?……」と詰《なじ》るやうにいふと、
「理窟はないけれどナ、何んだか其様な氣がしてならんでね。」
「今死んで何うするんです。」
「何うするツて、壽命なら爲方《しかた》がないではないかノ。」
と淋しく笑ふ。成程然ういふ母親は、此の秋口から慢性の腎臓病に罹ツて、がツくり弱込《よわりこ》むで來た。顔にも手足にも、むくみ[#「むくみ」に傍点]が來て、血色も思切ツて悪くなツた。で何事に依らず氣疎《けうと》くなツて、頭髪《かみ》も埃に塗《まみ》れたまゝにそゝけ[#「そゝけ」に傍点]立ツて、一段と瘻《やつれ》が甚《ひど》く見える。そして切《しきり》と故郷を戀しがツてゐる。國には尚だ七十八にもなる生みの母が活きてゐるのでお互に達者でゐる間《うち》に一度顔を合はせて來たいといふのであツた。
 別れてから十四年にもなる。母親には故郷が甚だ遠くなツてゐた。で自分にも告々と老が迫ツて來るのにつれて、故郷の老母を思ふ情が痛切になツて、此の四五年|北《きた》の空《そら》をのみ憧れてゐる。由三は能く其の心を了解してゐた。そしてウンと氣張ツて、歸國させるだけの金を作らうと奮發しても見るのであツたが、何時も何か眼前の事情に計画を崩されて其が成立たずに了ふ。一《ひと》ツは底疲《そこづかれ》のしてゐる由三の根氣の足りぬ故《せい》もあツたらう。近頃では、由三はもう、歸國させるといふことを考へるのも懶《ものう》くなツた。其を考へたり言出されたりすることが嫌《いや》で/\耐らぬ。して何うかすると母親の顔を見るさへ不快でならぬこともあツた。
 話が途断れると、屋根の上をコト/\と鴉の歩き廻る音がする……由三は鉛《なまり》のやうな光彩《ひかり》すらない生涯を思浮べながら、フト横に轉がツた。天床、畳、壁、障子、襖、小さな天地ではあるけれども、都《すべ》て敗頽《はいたい》と衰残《すゐざん》の影が、ハツキリと眼に映る。と氣が激しく燥々《いら/\》して來て凝如《じツ》としてゐては、何か此う敗頽の氣と埃とに體も心も引ツ括めて了ふかと思はれて、耐《たま》らなく家にゐるのが嫌になツて來た。淋しいといふよりは、空乏の感じが針のやうに神經をつゝく。それでも思切ツて家を飛出す踏切もなかツた。
「もう何うすることも出來なくなツて了ツたんぢやないか。」
 圧されてゐるやうな心地だ。ドン底に落ちてゐるといふ悲哀が襲ふ。
濕氣のある庭には、秋の日光が零《こぼ》れて、しツとり[#「しツとり」に傍点]と閃いてゐた。其處には青い草が短く伸びて、肥料も遣らずに放《ほ》ツたらかしてある薔薇と宮城野萩の鉢|植《うえ》とが七八《ななやつ》並んで、薔薇には、小さい花が二三輪淋しく咲いてゐた。隅の方には、葉の細い柿の樹が一本、くの字|形《なり》にひよろりとしてゐる。實《な》らぬ柿の樹だ。其の下に地を掘ツた向ふの家の芥溜が垣根越しに見える。少し離れて臺所も見える。其れも長屋で、褓襁《おしめ》の干してあるのも見えれば、厠も見えて、此方《こツち》では向ふの家の暴露された裏を見せつけられてゐるのであツた。向ふの側にも柿の樹があツて、其には先ツぽの黄色になつた柿が枝もたわゝに實《な》ツてゐた。柿の葉は微《かすか》に戰《そよ》いで、チラ/\と日光《ひかげ》が動く。
 由三は何時かウト/\してゐた。ホガラ/\した秋の暖さが體に通ツて、何んだか生温《なまぬる》い湯にでも入ツてゐるやうな心地《こゝち》……、幻《うつゝ》から幻へと幻がはてしなく續いて、種々《さま/\》な影が眼前を過ぎる、……只《と》見《み》ると、自分は、ニコライ堂のやうな高い/\塔《たふ》の屋根に登ツて躍《をど》ツたり跳たりしてゐる。其の下に幾百千とも知れぬ顔がウヨ/\して其の狂態を見物してゐる。何《いづ》れも冷笑の顔だ。其に激昂して、いよ/\躍り狂ふ……、かと思ふと、足を踏滑らして眞ツ逆さま!……、落ちたかと思ふと落ちもしない。翼が生えたやうに宙にフワ/\して、何か知ら金色《こんじき》の光がキラ/\と眼の先に煌《きらめ》く。と、其が鋭利な刄《は》物になツて眼の中に突ツ込むで來る。其處で幻が覺めかゝツて、強く腕の痺《しびれ》を感じた。腕を枕にしてゐるからだと氣が付いたが、それでゐて寢返りを打つことも爲《し》なかった。痺れるだけ痺れさせて置く氣だ。指先から肘にかけて感覺も何もなくなった頃に、由三は辛而《やツと》眼を啓けた。
 痺れきツた腕を摩りながら、徐《やを》ら起|上《あが》りざま母親はと見れば、二畳に突ツ俯したまゝスウ/\鼾《いびき》を立てゝゐる。神棚、佛壇、時計すらない家は荒涼してゐた。
由三は何がなし小腹が立ツて來て、「阿母さん。」
 と慳貪[#「慳貪」は底本では「慳貧」]に呼掛けた。そしてツト立起りながら、ドシンと畳を踏鳴らした。別に用もなかツたが、たゞ起きてゐて貰ひたかツたのだ。フラ/\と椽に出て見る。明《あかる》い空《そら》、明い空氣、由三は暗い心の底の底まで照らされるやうな感じがした。
「出掛けて見やうかナ。」
と思ツて机《つくゑ》の前へ引返すと、母親は鈍《にぶ》い眼光《まなざし》で眩《まぶ》しさうに此方《こツち》を見ながら、
「何けえ。」とノロ/\いふ。
「何ツて、もう晝寢《ひるね》をする時節でもないでせう。」と皮肉に謂ツて、「私、些《ちよつ》と本郷まで行ツて來ますよ。」
「本郷まで……、何《なに》しにノ。」
「肉でも購ツて來やうと思ツて…。」
「肉をナ。」
「え、少時《しばらく》肉の味を忘れてゐますからね。」
 由三の眼には今肉屋の切臺の上にある鮮紅な肉の色がハッキリと見えて、渇いた食慾は切に其を思ふ。で思切ツて家を出ることにしたが、一《ひと》ツは荒れきツた胸に賑な町の空気でも呼吸させたらばと思ツたからだ。
 少時《しばらく》すると由三は、薄茶のクシャ/\となツた中|折《をり》を被ツて、紺絣《こんがすり》の單衣《ひとへ》の上に、丈《たけ》も裄も引ツつまツた間に合せ物の羽織を着て、庭の方からコソ/\と家を出た。何やら氣が退《ひ》けて、甚く其處らを憚りながら、急足で長屋の通路を通り抜けると……兩側に十軒の長屋が四軒まで空家《あきや》になってゐて、古くなツた貸家札は、風に剥がれて落ちさうになツてゐた。井戸の傍《わき》を通ると、釣瓶も釣瓶|繩《たば》も流しに手繰り上げてあツて、其がガラ/\と干乾《ひから》びて、其處らに石|灰《ばい》が薄汚なくこびり[#「こびり」に傍点]付いてゐた。
 避病院の横手を通ツて、少し行くと場末の町となる。其處で病院に擔込む釣臺に出會《でツくわ》した。石灰酸の臭がプンと鼻を衝《つ》く。由三は何んとも謂はれぬ思をしながら、と、振向いて見ると、蔽の下に血の氣を失ツた男の脚が見えた。足の裏は日に照ツて変に白くなツてゐた。少時《しばらく》行くと、路の兩側に墓場がある、××寺第三號墓地と書いた札などが目に付いた。晝でも薄暗い路だ。片側の墓場は大きなペンキ塗の西洋館で切れる。眞言宗中學林の校舎だ。洋服を着た徒弟等が十五六人、運動場に出て盛にテニスをやツ[#「やツ」に傍点]てゐた。
 間もなく路は明くなツて千駄木町[#「千駄木町」は底本では「千黙木町」]になる。其から一家の冬仕度に就いて考へたり、頭の底の動揺や不安に就いて考へたり、書かうと思ふ題材に就いて考へたりして、何時か高等學校の坡《どて》のところまで來た。また墓場と寺がある……、フト、ぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]なる生活状態の危險を思ツて慄然《ぞツ》とした。
 坡《どて》について曲る。少し行くと追分の通《とほり》だ。都會の響がガヤ/″\と耳に響いて、卒倒でもしさうな心持になる……何んだか氣がワク/\して、妄《やたら》と人に突當《つきあた》りさうだ。板橋|通《がよひ》のがたくり[#「がたくり」に傍点]馬車が辻《つじ》を曲りかけてけたゝましく鈴《べる》を鳴らしてゐた。俥、荷車、荷馬車、其が三方から集ツて來て、此處で些《ちよつ》と停滞する。由三は此の關《くわん》門を通り抜けて、森川町から本郷通りへブラリ/″\進む。雑踏《ひとごみ》の中《なか》を些《ちよつ》と古本屋の前に立停ツたり、小間物店や呉服店をチラと覗《のぞ》いて見たりして、毎《いつも》のやうに日影町《ひかげちよう》から春木町に出る。二三軒雑誌を素見《ひや》かして、中央會堂の少し先《さき》から本郷座の方に曲ツた。何んといふことはなかツたがウソ/\と本郷座の廣ツ場に入ツて見た。閉場中だ。がもう三四日で開《あ》くといふことで、立看板も出て居れば、木戸のところに來る××日開場といふビラも出てゐた。茶屋の前にはチラ/\光ツてゐる俥が十二三臺も駢んで何んとなく景氣づいてゐた。由三は何か此う別天地の空氣にでも觸れたやうな感じがして、些《ちよつ》と氣が浮《うは》ついた。またウソ/\と引返して電車|路《みち》に出る。ヤンワリと風が吹出した。埃が輕く立つ。
 何處といふ的《あて》もなく歩いて見る氣で、小さな時計臺の下から大横町《おほよこちよう》に曲ツて、フト思出して、通りから引込むだ肉屋で肉を購ツた。そして其の通を眞ツ直に壱岐殿坂[#「壱岐殿坂」は底本では「壹岐殿坂」]を下ツて砲兵工廠の傍に出た。明い空に渦巻き登る煤煙、スク/\と立つ煙突、トタン屋根の列車式の工場、黒ずむだ赤煉瓦の建物、埃に塗された白堊、破れた硝子窓、そして時々耳をつんざくやうに起る破壊的の大響音……由三は其の音其の物象に、一種謂はれぬ不愉快と威壓を感じながら、崩れかツた長い長い土塀に沿ツて小石川の方に歩いた。眞砂町、田町、川勝前から柳町にかけて、其の通には古道具屋が多い。由三は道具屋さへあると、些と覗いて見たり立停ツて見たりする癖がある。別に購ふ氣もないが、値段《ねだん》づけてもしてあると其も見る。カン/\日の照付るのを嫌ツて、由三は何時か日の昃ツた側を歩いてゐた。
 フト小さな古道具屋の前で立停ツた。是と目に付く程の物もない、がらくた物[#「がらくた物」に傍点]ばかりコテ/\並べ立てた店である。前通には皿や鉢や土瓶やドンブリや、何れも疵《きず》物の瀬戸類が埃に塗れて白くなつてゐた。漆の剥げた椀も見える。其の薄暗《うすぐら》い奥の方に金椽の額《がく》が一枚、鈍[#「鈍」は底本では「鋭」]《にぶ》い光を放《はな》ツてゐた。紫の羽織を着た十五六の娘の肖像畫だ。描寫も色彩も舊式の油繪で、紫の色もボケたやうになつて見えたが、何か熟《じツ》と仰ぎ見てゐるやうな眼だけは活々《いき/\》としてゐた。頬《ほほ》、鼻、口元、腮《あご》、都《すべ》て低く輪廓が整ツて、何處か何んとかいふ有名な藝者に似て豊艶な顔だ。
「あヽ、那女《あれ》だ……」と由三の胸は急にさざめき[#「さざめき」に傍点]立った。
 確に昔の女の顔だ。で由三は些と若い息《いき》でも吹込まれたやうな感じがして、フラ/\と裡《なか》に入《はい》ツた。微《かすか》に手先を顫はしながら、額を取上げて、左見右《とみか》う見してゐて、
「こりや若干錢《いくら》だね。」と訊ねた。聲が調子|外《はづ》れて、腦天《なうてん》からでも出たやうに自分の耳に響いた。
「其ですかえ、そりやね。」と些と言《ことば》を切ツて、「一圓卅錢ばかりにして置きませう。」と賣ツても賣らなくつても可《い》いといふ風で、火鉢の傍を動かずに此方《こつち》を見てゐる。年の頃四十五六、頬の思切つて出張《でば》ツた、眼の飛出した、鼻の先の赭い、顏の大きな老爺《おやぢ》だ。
「フム。」と少時《しばらく》黙ツてゐて、「負からんかね。」
「然うですね、澤山《たんと》のことは可けませんが……」とシブ/\立起《たちあが》ツて店に下りて來た。額を手に取ツた。して額椽の箔が何うの畫の出來が何うのと、クド/\と解らぬ講釋を並べて、「拾錢もお減《ひ》き申して置きませうかね。」と無愛想にいふ。
「拾錢ぢや爲樣がない、八拾錢で可いだらう。」とぐづ[#「ぐづ」に傍点]ついていふ。
「ぢや、もう拾錢購ツて下さい。」
 それで相談が纒《まとま》ツて、由三は殆ど蟆口の底をはたい[#「はたい」に傍点]て昔の女の肖像畫を購取ツた。そして古新聞で畫面を包むで貰ツて、それをブラ下げながらテク/\歩《ある》き出した。氣が妙に浮《うは》ついて來て、フワ/\と宙でも歩いてゐるかの心地《ここち》。で車の響、人の顔、日光に反射する軒燈の硝子の煌《きらめ》き、眼前にチラ/\する物の影物の音が都て自分とは遠く隔《へだ》ツてゐるかと思はれる。彼《あれ》や是と思出が幻のやうに胸に閃く。彼は其を心に捕《つかま》へて置いて、熟《じツ》と見詰めて見るだけのゆとり[#「ゆとり」に傍点]とてもなかツた……、閃めき行くまヽだ。
 女は綾さんと謂ツた。始めて知ツたのは由三が十四五、女が十一二の頃で、其の頃由三は叔父《をぢ》の家に養はれてゐた。叔父は其の時分五六人の小資本家と合同して、小規模の麥酒釀造會社を經營中であツたが、綾さんは屡《よ》く叔父の家に來た。綾さんの父は、川越の藩士で、明治七八年頃からづツと逓信省の腰辨は腰辨でも、其の頃の官吏[#「官吏」は底本では「官史」]だからナカ/\幅も利けば、生活も樂にしてゐたらしい。處がフト事業熱に浮かされて、麥酒釀造の仲間に加はツた。合同資本と謂ツても、其の實《じつ》田舍から出たての叔父と綾さんの父とが幾らか金を持ツてゐたゞけて、後《あと》は他《ひと》の懐中《ふところ》を的《あて》の、ヤマを打當《ぶちあて》やうといふ連中の仕事だ。其の道の技師を一人《ひとり》雇ふでもないヤワな爲方《しかた》で、素人の釀造法は第一回目からして腐ツて了ツた。それで叔父も財産を煙にして了へば、綾さんの父も息《いき》ついて、會社は解散。綾さんの家は西方町の椎の木界隈の汚《きたな》い長屋に引込むで、一二年は恩給で喰ツてゐたが、それでは追付《おつ》かなくなツて、阿母さんの智慧で駄菓子屋を始めた。其でも綾さんは尚だ何時も紫のメレンスの羽織を着て、頭髪《かみ》から帯、都て邸町の娘風《むすめふう》で學校に通ツてゐた。加之《それに》顔立《かほだち》なり姿なり品の好い娘《こ》であツたから、設《よし》や紫の色が洗ひざれてはげちよろけ[#「はげちよろけ」に傍点]て來ても、さして貧乏《びんぼん》くさくならなかつた。
 三年ばかり經《た》ツた。叔父の家では、六丁目の或る寺内の下宿屋をそツくり[#「そツくり」に傍点]其のまヽ讓受けて馴れぬ客商賣を始めることになツた。すると綾さんは風呂敷包にした菓子箱を抱込むで毎日のやうに駄菓子を賣りに來た。頭髪は桃割に結ツて、姿の何處かに瘻《やつ》れた世帯の苦勞の影が見えたが、其でも尚だ邸町の娘の風は脱《ぬ》けなかツた。上品ではあツたが、口の利方《ききかた》は老《ま》せた方で、何んでもツベコベと僥舌《しやべ》ツたけれども、調子の好かツた故《せい》か、他《ひと》に嫌はれるやうなことはなかった。加之《それに》擧止《とりなし》がおツとりしてゐたのと、割合《わりあい》に氣さくであツたのと、顔が綺麗だツたのとで、書生さん等《たち》は來る度に、喰はずとも交々《かはる/\》幾らかづゝ菓子を購ツて遺ツた。無論由三も他の小遣を節約して購ツた。そして綾さんは、時とするとゆツくり構込むで種々《いろいろ/\》なことを話す。例へば近頃|些々《ちょく/\》或る西洋畫家の許へモデルに頼まれて行くことや、或るミッションのマダムに可愛がられて、銀の十字架を貰ツたり造花《つくりばな》や西洋菓子を貰ツたりすることや、一家路頭に迷はせるばかりにした麥酒釀造仲間の山師連の憎くてならぬことや、親切にして呉れる近所の奥さん等の心の悦しいことや、然うかと思ふと阿母さんが父に内密で日濟の金を借りて困ツてゐること、其の父が毎日鶯と目白の世話ばかりして、何もせずにブラ/″\してゐるのに困ることなどを其から其へと話しつづけて、さも分別のあるやうに欝込むでゐることなどもあツた。して其の冬には、父は心臓に故障のある體をお邸の夜番に出たと聞いたが、其から間もなく由三は、故郷に歸らなければならぬ事になツて、三年ばかり綾さんを見る機會がなかツた。
 四年經ツた。由三は父に死なれて、尚だ廿を越したばかりの年を家の柱となツて、一家殘らず東京に出た。東京ではポツ/\白地を着てゐる人を見受ける頃であツた。先づ叔父の家に落着いて、其となく蓮沼=綾さんの家の姓だ=の家の樣子を聞くと、皆達者でゐるが、相變《あいかは》[#「相變」は底本では「相綾」]らず貧乏で、近頃小さな氷屋を始めて、綾さんは鉛筆を製造する工場の女工になツてゐるといふことであツた。由三は何んといふ意味もなく、たゞ靜な邸町に住はうと思ツてゐたので、家を探しがてら綾さんの家の前を通ツた。そしてフラ/\と立寄ツて見る氣になツた。家は以前から見ると、づツと癈頽して、今にも倒れるかと思はれるやうに傾いてゐた。たゞ葡萄棚だけが繁りに繁ツて、小さな薄暗い家を奥深く見せてゐた。葡萄園を葭簀《よしず》で圍《かこ》ツて氷店にして、氷をかく臺もあればサイホンの瓶も三四本見えた。棚には葡萄酒やら苺水やらラムネの瓶やら、空罎にペーパだけ張ツた、罐やらが二三十本も並べてあツて、店頭《みせさき》には古ゲツトを掛けた床几の三ツも出してあツた。綾さんは店頭に盥を持出して、ジヤブ/″\何やら洗濯をしてゐた。見ると様子がスッカリ違ツてゐる。中形の浴衣《ゆかた》を着てゐたが、帯の結び方、頭髪《かみ》、思切ツて世話に碎けてゐた。
 由三の姿を見ると、呆氣《あつけ》に取られた體で、「まあ、由さん、何うなすツたの。」
と謂ツたが、音《おん》の出方《でかた》まで下司な下町式になツて、以前凛とした點《とこ》のあツた顔にも氣品がなくなり、何處か仇ツぽい愛嬌が出來てゐた。たゞパッチリして眼だけは、處女《むすめ》の時其のまゝの濕みを有ツて、活々《いき/\》として奈何にも人を引付ける力があツた。
 家の裡には矢張|鳥籠《とりかご》が幾ツもかけ[#「かけ」に傍点]てあツて、籠を飛廻ツてゐる目白の羽音が、パサ/\と靜に聞えた。前からある時計もチクチク鈍い音で時を刻むで、以前は無かツた月琴の三挺も壁にかゝツてゐた。
 父は火鉢の許《とこ》に坐ツて、煙草を喫しながらジロリ/″\由三の樣子を瞶めて、ちよツくら口を利《き》かうともしない。そして時々ゴホン/″\咳込むで、蒼《あを》ざめた顔を眞ツ紅にしてゐた。前から無愛想な人だ。顔にはむくみ[#「むくみ」に傍点]が來てゐた。
 由三は、其の甚《ひど》く衰弱してゐるのを見て、
「お惡いんですか。」と訊《き》くと、
「あ、」と横柄に謂ツテ、「肺に熱を持ツたといふことでな。」
と平氣で謂ツてケロリとしてゐる。
「可けませんナ。」
と顔を顰めると、
「何有《なあに》」と被《かぶ》せて「養生さへすれば可いといふことだが、何分家が此の通ぢやて、思はしく行かんのでナ。」
と隔《へだて》なく謂ツて苦笑する。
 娘や家内は浴衣がけてゐるといふに、これはまた尚だ木綿の黒紋付の羽織に垢づいた袷で、以前の通り堅くるしい態《なり》をしてゐた。
 由三は何がなし冷い手で胸を撫でられるやうな心地《こゝち》がした。
 綾さんには男の兄弟といふがなかツた。妹が両人あツて、次の妹はお兼と謂ツて、姉にも優ツて美しかツた。もう十六になツたといふ。其は近頃印刷局に通ツてゐるとのことであツたが、末ツ子のお芳といふのは、大した駄々ツ子で、九ツにもなツて尚だ母親の膝の上に乗ツて、萎びかゝツた乳をさぐッてゐるといふ風であツた。母親は氣の好い人で、開《あ》けひろげた胸を芳坊にいじらせながら、早口にクド/\と貧乏話を始めた。そして由三が家を探しに來たことをいふと、綾さんと兩人《ふたり》で、那處《あすこ》は何うの此處は何うと、恰で親族の者が引越して來るとでもいふやうな騒をする。父は一切沒交渉で、其の話が始まるとプイと立ツて縁側に出て、鶯に遣る餌を摺ツてゐた。
 結局綾さんが案内に立ツて、近所の空家《あきや》を探すことになツた。そして適當な家を目付けて、其を借りることになツたが、敷金家賃其の他一切の話合《はなしあひ》は都《すべ》て綾さんが取仕切《とりしき》ツて、由三は只其の後《あと》について挨拶するだけであツた。で由三は、餘りに綾さんの世馴《よな》れた所置振り、何んとも謂はれぬ一種の不快を感じた。其でも左《と》に右《かく》話が定《きま》ツて、由三の一家は直《すぐ》に其の家へ引越した。して其の當座、兩人はこツそり[#「こツそり」に傍点]其處らを夜歩きしたり、また何彼《なにか》と用にかこつけて彼方《あツち》此方《こツち》と歩き廻ツて、芝居にも二三度入ツた。其は然し、二月ばかりの間で、兩人の関係は何時とはなく疎々《うと/\》しくなツた。其でも綾さんは毎日のやうにやツ[#「やツ」に傍点]て來て、母や妹と一ツきりづゝ話して歸ツた。何うかすると工場の歸りだとか謂ツて、鉛筆の心《しん》の粉《こな》で手を眞ツ黒にしながら、其を自慢にしてゐるやうなこともあツた。兩手共荒れて皹《ひゞ》[#「皹」は底本では「暉」]の切たやうになツて、そしてカサ/\してゐた。言《ことば》にしろ姿にしろ其の通で、何んでもあけすけ[#「あけすけ」に傍点]にさらけ出して、世帯の苦しいことが口に付いてゐた。で臆面もなく米も借りに來れば小遣も借りに來た。此方に都合があツて、質屋の事でも相談すると、オイソレと直[#「直」は底本では「値」]に受込むで、サツサと自分で出掛けて來て呉れる、見得も外聞もあツたものでない、此方で頼むのに極の惡いやうなことでもいふと、
「何有、何處のお家《うち》だツて然うですわ。幾ら玄関を張ツてゐらしツても、此の邊のお家で質屋の帳面の無い家と謂ツたら、そりや少ないわ。」と低聲《こごえ》に謂ツて、はしやいだ笑方《わらひかた》をする。
 綾さんは近所の家の世帯を軒別に能く知抜いてゐた。そして其家《そこ》此家《こゝ》の質使をすることを平氣で吹聴した。かと思ふと茶屋女のやうな、嫌味《いやみ》に意氣がツた風をして、白粉をこツてり塗りこくツて、根津や三崎町あたりの小芝居に出てゐる役者の噂をしてホク/\してゐることもあツた。蔭沙汰では根津の下廻りの後《あと》を追駈け廻してゐるといふことも聞いた。
 氷店は春の間《うち》ひツそりとして、滅多と人の入ツてゐることがなかツた。母親は能く居眠をしてゐる、父は何時も火鉢の傍で煙草を喫しながらゴボ/\咳《せき》をしてゐる、芳坊は近所の男の子の仲間に入ツて、カン/\日の照付ける大道《だいだう》で砂塗《すなまぼし》になツて遊んでゐた。が夜となると、店の景氣がカラリと變る。綾さんも兼さんも、綺麗にお化粧をして店に出てゐる頃には、一人または二人づゞ若い書生さん等《たち》が集ツて來て、多い時には八九人も頭を揃へて何やらガヤ/″\騷いでゐた。何れも定連だ。そして月琴を彈く者もあれば、明笛《みんてき》を吹く者もあり、姉妹がまた其がいけた[#「いけた」に傍点]ので、喧《やかま》しい合奏は十一時十二時まで續いた。母親はこツそり其の騒を脱《ぬ》けて翌日《あす》の米の心配に來たことも往々《ま/\》あツた。由三は他に若い血を躁がせて歩くところが出來たので、決して其の仲間に加はらなかツた。して冷ツこい眼で傍觀者の地位に立ツてゐた。
 秋になツた。氷店はスツカリさびれて、夜《よる》集ツて來る定連も少なくなツた。秋が深くなるにつれて、父の衰弱も目に立ツたが、一家の癈頽も目に立ツて、綾さんはせツせ[#「せツせ」に傍点]と工場に通ひ出した。で綾さんの手は何時も鉛筆の粉で眞ツ黒になツてゐた。其でも滅多と欝いだり悄氣《しよげ》たりしてゐるやうなことはなかツたが、何うかするとツク/″\と、「阿父さんが那如《あゝ》してゐたんぢや、幾ら稼いだツて到底《とても》遣切れ[#「遣切れ」は底本では「遺切れ」]やしないわ。寧《いツそ》もう家を飛出して了はうかも思ふこともあるけれども……」と謂ツて歎息してゐた。然うかと思ふと、ノンキに根津の替りを見て來た狂言の筋を話したり役者の噂をしたりして獨ではしやい[#「はしやい」に傍点]でゐることもあツた。然う此うするうちに綾さんに婿を取るといふ話が持上ツた。婿は綾さんの出てゐる工場の職工で、先方から[#「から」は底本では「がら」]望むで貧乏な家に入らうといふのであツた。無論綾さんの容貌《きりやう》を命にして來る婿だ。綾さんも滿更でもなかツたらしい。で、其の話の進行中に由三は一家を提《ひツさ》げて下谷の七軒町に引越《ひツこ》した。そして綾さんの家との交通は、ふツつり絶えて了ツた。
 其から四五年も經ツて、由三は一度本郷通で綾さんに遇ツたことがある。十月も半ばであツたが、綾さんは洗ひざれた竪縞の單衣でトボ/\と町の片側を歩いてゐた。何處か氣脱のした體で由三が眼前《めのまえ》に突ツ立ツても氣が付かなかツた。で聲を掛けると、ソワ/\しな不安な眼光《まなざし》で、只見で置いて、辛面《やツと》にツこり[#「にツこり」に傍点]して挨拶をするといふ始末。家はと訊くと、越ケ谷の方に行ツてゐるといふ。そこで些と立話に一家の事情を訊くと、那《かれ》から間もなく父は死んで了ふ、婿といふのが思ツたより意久地がなくツて、到底一家を支へて行く力がなかツたばかりか、病身で稼が思ふやうでないで、家が始終《しよつちゆ》ゴタ/\する。するうちにお兼は定連の一人と出來て神戸の方へ駈落ちして、彼方で世帯を持つ。家は益々遣切れ[#「遣切れ」は底本では「遺切れ」]なくなツて、遂々《とう/\》世帯を疊むで了ふ、芳坊《よしぼう》は川越の親類に預かツて貰ふ、母親は東京で奉公することになる、自分等は世帯を持つ工面の出來るまで越ケ谷に引込むことになツて、一家は全く離散の運命に陥ツて了ツた。して今日は、母親が奉公先で病ついたといふとで、取る物も取りあえず久しぶりで東京に出て來たとのことであツたが、然ういふ自身も、世帯の瘻か、それとも病氣か、頭髪は地色の見えるまで薄くなり、顔も蒼ざめて、腫物の痕の見えた首筋には絹のハンケチを巻付けてゐた。そして聲は變に喉に引ツ絡むで、色も匂も失せた哀な姿となツてゐた。
 由三は只聞いたまゝで別れて、格別同情も寄せなかツた。でも二三日は影の薄くなツた綾さんの姿を胸に活かして、變な氣持になツてゐた。併し直に忘れて了ツて、ついぞ思出して見るやうなこともなかツた。して其の後全く消息も絶えて了ツた。

 由三は然う謂ツたやうな過去の事象を胸に描いたり消したりして、フラ/\と歩き續けた。紫の羽織を着てゐた頃の綾さんの姿を思浮べると、遉に胸頭に輕い[#「輕い」は底本では「經い」]痛《いた》みを感ぜぬでもなかツた。叔父に「娶《もら》ツたら何うだ。」と謂はれたことなども思出した。兩人共夢を見て=意味も姿《すがた》も違ツてゐるが=活きてゐたことなども考へた。
 由三は何時か白山の森の中に入ツて、境内をグルリと廻ツた。森の中の空氣はしんめり[#「しんめり」に傍点]として冷たかツた。其處は始めて綾さんの手を握ツて、其のカサ/\してゐるのに驚いたところだ。して今は自分の心のカサ/\してゐるのに驚いた……其の思出の深い地を踏むでゐるからと謂ツて、由三は何んの感じにも味《あぢはひ》にも觸れなかツた。矢張飽々した心の底から、何か切に空乏を訴へて、ツク/\と自分の生の凋落を思ツてゐた。
 何しろ家へ歸るのが嫌《いや》だ!埃深い癈頽の氣の漂ツた家に歸ると、何時でもドン底に落込むだやうな感じがする……其の感じが嫌だ!で外《そと》さへ出ると、少時でも其の感じから脱れてゐやうとする。今日も其だ。由三は無意味に神樂殿の額を見たり、拜殿の前に突ツ立ツたり、または白旗櫻の碑を讀むだりして時を経てゐた。そしてもう何も見る物もなくなツた時分に、ウソ/\と森を出て、御殿町の方へ上ツた。其から植物園の傍の道《みち》を通ツて氷川田圃に出た。只ある工場の前に出ると、其は以前鉛筆を製造する工場であツたことを思出した。そして其の門、其の邊の路、何れも綾さんが毎日通ツた其であることを思ツた。たゞ思ツただけだ。由三は何がなし其の乾いた心が悲しくなツた。
 フト軽い寒氣が身裡《みうち》に泌みた。見ると日光《ひかげ》は何時か薄ツすりして、空氣も空《そら》も澄むだけ澄みきり、西の方はパツと輝いてゐた。其處らには暗い蔭が出來た。由三はブラ下げてゐる肖像畫の重《おも》みが腕にこたへ[#「こたへ」に傍点]て來て、幾度か捨て了ふか、さらずば子供にでも呉れて了はうかと思ツた。で今更なけなし[#「なけなし」に傍点]の錢をはたい[#「はたい」に傍点]て購ツたのが悔《くい》られもする。かと思ふと、故郷に歸ツてゐた頃、切りと綾さんのことを思出してゐた其の時分のことが懐しいやうにも思ツた。
 また小時フラ/\と歩續けた。そして林町から巣鴨通に抜けて、瘋癲病院の赤煉瓦の土塀に沿ツて富士前に出た。動坂に入ると、其處らがもう薄々と黄昏れて、道行く人の吐く息が目に付いた。霧の深い晩景《ばんがた》であツた。高い木立の下を抜けると、家並が續く。冷たさうな火影が、ボンヤリ霧の中にちらついて、何《ど》の家もひツそりしてゐた。由三は腹をペコ/\に減らして、棒のやうになツた足を引摺りながらコソ/\と町を通ツた。そして何んの爲に的もなくウロ/\歩き廻ツたかを疑ひながら長屋の總門を入ツた。何んだか穴にでも入るやうな心地がした。地はしツ[#「しツ」に傍点]とり濕ツて、井戸のあたりには灰色の氣がモヤ/\と蒸上ツてゐた。其の奥の方に障子に映した火光《あかり》が狐色になツて見えた。荒涼の氣が襲ふ。
 家に入ツた。尚だ洋燈も灯さずにあツて、母親は暗い臺所で何かモゾクサ動《うご》いてゐた。向ふの家の臺所から火光が射《さ》してゐて、其が奈何にも奥深く見えた。其の狹い區域にも霧の色が濃《こまやか》に見える……由三は死滅の境にでも踏込むだやうな感がして、ブラ下げてゐた肖像畫を隅ツこの方に抛《ほふ》り出した。そして洋燈[#「洋燈」は底本では「洋澄」]を灯《とも》した。微暗《ほのぐら》い火影は沈靜な……といふよりは停滞した空氣に漂《たゞよ》ツて、癈頽した家のボロを照らした。由三は近頃になく草臥れた兩足を投出して、ぐッたり机に凭れかゝツた。そして眼を瞑《つぶ》ツて何んといふことはなく考出した。フト肖像畫の綾さんの姿が眼前にちらついた……何んだか癈物でも購ツて來たやうに思はれてならぬ。で眼を啓けて隅ツこに抛出した肖像畫を熟と見詰めてゐたが、ツト立起ツて引ツ摺ふやうに肖像畫を取上げた。そして古新聞を被せたまゝでこツそり[#「こツそり」に傍点]戸棚の奥に抛込むだ。

 少時すると由三は、何か此う馬鹿を見たやうな心持で、久しぶりで肉の味を味はツた。して由三は何時まで經ツても肖像畫を戸棚から出さなかッた。



底本:「三島霜川選集(中巻)」三島霜川選集刊行会
   1979(昭和54)年11月20日発行
初出:「中央公論」
   1908(明治41)年12月1日号
※「つくね[#「つくね」に傍点]込む」、「幾ら稼いだツて到底《とても》」は底本ではそれぞれ、「つく[#「つく」に傍点]ね込む」、「幾ら稼いだツて到《とても》底」となっています。
※改行行頭の1字下げに関し、不統一と思われるところもそのままにしました。
※新字と旧字の混在は、底本通りとしてました。
※平仮名に対して、片仮名繰り返し記号「ヽ」が用いられた箇所は、底本通りとしました。
※1行開きの箇所は、底本では2行に8個の「*」が配されています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
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