青空文庫アーカイブ



踊る地平線
長靴の春
谷譲次

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)香橙色《オレンジ》の

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)その窓|硝子《ガラス》には

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「火+房」、203-1]《だんぼう》と
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     1

 反照電熱機のような、香橙色《オレンジ》の真《ま》ん円《まる》な夕陽を、地中海が受け取って飲み込んだ。同時に、いろいろの鳥が一せいに鳴き出して、白楊《はくよう》の林が急に寒くなった。私は、それらの現象を、すこしも自分に関係のないものとして、待合室の窓から眺めていた。その窓|硝子《ガラス》には、若い春の外気が、繊細な花模様を咲かせていた。
 そこは、ふらんすと伊太利《イタリー》の国境駅のヴァンテミイユだった。
 小停車場は、埃塵《ほこり》をかぶって白かった。そして、油灯《ゆとう》のくすぶる紫いろの隅々に、貧しいトランクの山脈と一しょに、この産業の自由流動と、それによる同色化傾向の濃厚な近代社会に、何とかして無理にも史的境界と、その尊厳を保とうとする国家なるものの喜劇的重大性が、無関心な流行者の哀愁にまで立ち罩《こ》めていた。それは私に、戦線のにおいをさえ嗅がせた。伊太利《イタリー》と仏蘭西《フランス》の二つの国家によって、そこの空気は二倍の比重を持っていたからだ。どこかバルチック海に沿う新興共和国の大統領護身兵のような、考え抜いた制服の、一人の鼻の尖《とが》った青年が、ふらんす側の車窓から、玄妙な言葉で私の荷物を強奪した。手荷物運搬人だった。それから、退屈な国境の儀式が開始された。
 旅券。仏蘭西《フランス》の出国スタンプ。写真と顔の比較。亡命客のように陰鬱な、あわただしい旅行者の行列。一人ずつ、小さな、それでいて何と多くの議論のあったであろう屋内柵を過ぎると、もうそこで、私達は仏蘭西から伊太利《イタリー》へ這入ったのだった。
 憲兵。警官。国境防備軍の歩哨。かれは、一本の羽毛を飾った狩猟帽をかぶって、自分の身長よりも高い銃剣で、新入国者にファシスト的な無言の警告を与うべく努力していた。真っ暗だった。停電だったのだ。また旅券。伊太利入国スタンプ。質問の大暴風雨、つぎは税関である。
 税関の役人は、貝殻のような眼をして私を白眼《にら》んだ。そうすることが彼の仕事なのだ。私は、用意の粉末微笑を取り出して、彼の上に振りかけた。無事に通関したとき、そばの亜米利加《アメリカ》の老婆が私にささやいた。
『伊太利人は、同じ拉丁《ラテン》系民族のなかでも、他人の所有物に対してあんまり興味を感じないほうに属します。これは非常にいいことです。』
 停電はいつまでも続いた。私は、手探りで廊下を進んだ。そして、向うから黒い影が来るごとに、接吻するほど頬を近づけて、両替所のありかを訊いた。が、彼らはみなこの辺の農民らしく、モンパルナスの珈琲《コーヒー》店で仕上げを済ましたはずの私の仏蘭西《フランス》語は、彼等には通じそうもなかった。その上、停電と乗換と出入国の煩瑣《はんさ》な手続とが、みんなをすっかり逆上させていて、誰も私のために足を停めようとするものはなかった。しかし、両替所は、その二本の蝋燭《ろうそく》の灯りで、直ぐに私の前に浮かび上った。何かを、多分この停電を、怒ってるらしい若い女の冷淡な手が、私の法《フラン》を取り上げて、不思議な伊太利《イタリー》金のリラを抛り出した。
 食堂《バフェ》には、僧院のにおいが冷たかった。が、それは、卓上の花挿しに立てた蝋燭の揺らぎと、熱心に、はじめてのマカロニと闘う赤い横顔と、お腹だけ白いフィジの水壜のためだったかも知れない。午後から、地中海の海岸線を私と同車して来た人々が、料理の湯気のなかから私に笑いかけていた。しかし、彼らと私との間には、ごく少数の了解と、多分の動物的好意とがあるだけだった。なぜなら、すこしでも私の話せる言語は、彼らの耳には、すべて単なる音響としかひびかなかったし、また、どんなに熱烈な彼らの主張も討論も、私にとっては音楽的価値以外の何ものでもなかったから。で、直ぐに私たちは、お互いに解らせようとする努力を諦めてしまった。けれど、私と彼らは、しじゅう眼を見合わせて、その眼を笑わせることによって、会話以上の社交的効果を保って同車して来たのだった。私達は、そこに満足な友情をさえ汲み取ることに成功していた。
 私は、マントンで、巴里《パリー》風の洒落た服装と、竜涎香《アンバア》のにおいとを私の車室へ運び入れて、それから私も、彼とだけずっと饒舌《しゃべ》りこんで来た、若いルセアニアの商人が、私を、自分の前の空《あき》椅子へ招待するのに任せた。銀灰色の細毛の密生した彼の手首に、六種の色彩の大理石を金で繋《つな》いだ鎖が掛かっていた。その小さな大理石の一つは腕時計だった。が、それにしても、この装身法は小|亜細亜《アジア》的に野蛮で、感心出来なかった。しかるに、彼の口からは、倫敦《ロンドン》リジェント街とピキャデリの角の英語が、尻上りの粋《すい》さをもって滑り出るのである。
 ルセアニア人は、私に、昔からここで、伊太利《イタリー》側から仏蘭西《フランス》側へ輸出して来た切花に、最近ふらんすが七割の税を課することにしたために、もとは、わざわざ昼間の汽車を選んで窓から見て行く人もすくなくなかった、国境と線路に接続した伊太利の花卉《かき》園が、
今では、見事に寂《さび》れてしまったと告げた。
『毎朝の化粧台に、変った花束を発見しないと一日頭痛のする大ホテルの婦人客達は、値段など聞かないうちに、濡れた花びらに鼻を近づけるものです。だから、いくら殺人的に高価であっても構わないわけですが、そこへ行く先に、七割の関税と聞いて、市場が手を引っ込めてしまいました。それかと言って、仏蘭西《フランス》側に新たな花園が拓《ひら》かれたでもありません。国境一つで全然地質が違うと見えます。このことは始めから判っていたのですから、七割税には、すこしも保護政策の意味は含まれていないのです。ただ伊太利《イタリー》の切花業者と園丁から長年の生活を奪って、そのかわり、彼らに、多くの悲劇と家庭の解散を与えたに過ぎません。あり余る者から取るつもりで、結果は、無いものをますますなくさせる。じつに合理的な政策です。が、伊太利だって文句は言えません。内政干渉と来ますし、それに、交換条件でも持ち出されちゃ嫌ですからね。どこでもそうであるように、ブルジョア政府同士の交渉の前には、郷土的利福なんか、花だろうが何だろうが、どんなに蹂躙《じゅうりん》しても構わないのです。そこでつまり、両方の政府が仲よく笑い合って、ここら一帯を荒土にしました。ちょうどあの辺が、先頃まで一番素晴らしかった花畠のあとです。』
 窓へ伸ばした彼の指先で、シシリイ島人らしい半黒の一家族が、スウプ汁から驚いた顔を上げた。
 それから私は、彼との食卓で、伊太利《イタリー》バムウスを舐《な》めて、赤|茄子《なす》入りのスパゲテは、いったいいかにして肉刺しへ巻きつけて、どうしたら一本の大匙《おおさじ》の補助だけで最も能率的に口へ送り込むことが出来るか、その術を習得した。そして、ルセアニア人と私と二人の煙草の明りで、私は、国内電報になるのを待って今まで控えていた羅馬《ローマ》の宿屋《アルベルゴ》への電報を書いて、それを給仕に打たせるのに、発車までの残りの時間の全部を費やした。
 国境通関業者の制帽が、暗黒のなかで呪文を大唱した。
『ジェノア・ピサ経由、羅馬《ローマ》行き急行! 羅馬ゆき急行!』
 これが、私達をナプキンから引き離した。
 停電のプラットフォウムには、緑と赤の灯の玉があった。
 煤煙。蒸気。光線。万国寝台会社|欧羅巴《ヨーロッパ》特急車が、傲慢で伊達者な潜勢力を押さえて、駅長《カピタノ》の笛を待っていた。明るい窓が、先へ往くほど小さく、長く続いていた。旅行の精神と、遠い都会の誘惑とが、人々を占領した。そこにもここにも、出発前の上吊《うわず》った声と、着物の擦《す》れ合う音とがあった。騒乱の中から、さっきの荷物運搬人が現われて、予約してある寝台車へ私を救助した。またルセアニアの商人と同じコンパアトメントである。私達は短衣《ヴェスト》の扣鈕《ボタン》を突つき合って、大笑いした。
 汽車が、停電中のヴァンテミイユを見棄てた。雪の帽子をかぶった山頂が、仏蘭西《フランス》の空に吸収された。車体が軋《きし》んで、その隙間から、水の香《かおり》が流れ込んで来た。それによって、私達は、また地中海が私たちを追跡しているのであることを知った。
 ジェノアは、真夜中に擦過するに相違ない。ルセアニア人は、巴里《パリー》ラプレ商店製の印のある靴を脱いで、その茶絹《ちゃぎぬ》に包まれた、バブイノ街の石膏細工のような恰好の好い足で、車室の深紅の絨毯を撫でた。

     2

 車輪とレイルとの摩擦による火気が、鉄材を伝わって、上って来るのかも知れなかった。室内は、莫迦げて暑かった。そのために窓の硝子《ガラス》が膨脹して、白い汗を流した。で、私達は相談して、入口の扉《ドア》を開け放して置くことに合意した。
 恐ろしい転轍の技能だった。その度《た》びに、列車は何|米《メートル》かを飛行した。窓掛けが散乱した。衣裳鞄が踊った。脱いであるルセアニア人の靴が、ひとりでに歩き出した。私達は、空気を抱擁しようとして、何度か失敗した。
 鈍い音を立てて、戸口が人を吸い込んだ。その人は、激しく投げ出された身体《からだ》が、機会的にルセアニア人の寝台を打って、その拍子に彼と並んで、そうして私と向き合って、上手に腰かけたので、やっと倒れることから自分を防いだ。それは、指を鳴らしたような出来事だった。私は、ルセアニア人へ話しかけようとしていた言葉を、唇の上で揉《も》み消したまま、この不可抗力による闖入者《ちんにゅうしゃ》を観察《スタディ》した。
 彼女は、アストラカンの長い外套を着て、空想的な創造になる黒のフェルト帽をかぶっていた。顔は、プラタナスの落葉の吹きつける百貨店の飾窓《ウインド》に、春の先駆を着て片手を上げている茶褐色の衣裳人形のように、どこまでも人工的な印象だった。眉は、細い鉛筆の一線だった。大きな口が、官能の門を閉ざしていた。眼は、熟さない林檎《りんご》の皮の青さだった。それが、汽車の震動を誇張して、二つの驚愕の窓のように見ひらかれていた。
 彼女は、咽喉《のど》の奥から笑いを転がし出して、含嗽《うがい》をした。そして急に、執事のような真面目な顔を作った。それから、この椿事《ちんじ》を説明すべく、両方の肘《ひじ》を左右へ振った。
『何て揺れる汽車でしょう!』
 こうして彼女の全身は、私達のコンパアトメントのものとなったのだ。それなのに、彼女は、そこにそうして存在を延長していていいという私たちの許可を、沈黙の眼で促しているのである――。
 私は、必要を認めて、同室者の意見をも兼ねた。
『私達は、すこし神経質なのです。お互いに鼻を見ては笑い、つぎに悲しそうに考え込んで、果ては寝台を相手に大声に喚《わめ》くだけのことです。居らしっても、面白いことはあるまいと思います。』
『私は、このままここにいていいのでしょうか。それとも、もう一度、あの車廊の遊動木を渡って、自分の部屋まで旅行しなければならないのでしょうか。』
『御随意に。』
 私はうしろへ反《そ》って、両脚をぶらぶらさせた。そのほうが、汽車の速力を助けるように思えたからだ。
『しかし、ご覧のとおり、私の同室者は、もう靴を脱いでしまって、靴下だけで床を踏んでいるのです。それさえお差支《さしつかえ》なければ――。』
 すると、彼女の表情を、私への軽侮が走った。この私の紳士性は、彼女の憐愍《れんびん》を買うに充分だったのだ。
『何という興味ある話題でしょう!』
 彼女は、俄かの喜悦を示すために、外套の襟を抱き締めた。そして、前屈《まえかが》みの姿勢を採って、私達二人を聴衆に、こういう驚くべき秘密結社の暴露に着手したのである。
『明らかに、あなた方は、まだ、国際裸体婦人同盟に関して、何らお聞きになったことはないと見えますね。女でさえ今は裸体を主張しているのに、男の方が、靴下一枚でいたって、それが何でしょう? 国際裸体婦人同盟は、アントワアプに本部のある最左翼解放運動の前線で、言わばその独立活動隊です。会員は、目下|欧羅巴《ヨーロッパ》じゅうに七十人あまりですが、そのなかには、あの「|幸福な白痴《ハッピイ・フウル》」を書いた倫敦《ロンドン》の劇作家モウド・ハインもいます。巴里《パリー》の雑誌記者が三人います。リデルヒブルグ大学の生物学教授シャンツ夫人もいます。最近では、ワルシャワ歌劇団のソプラノ花形のリル・デ・メル嬢と、ルツェルンの美容師で、六十七歳になるお婆さんとが加盟しました。そのほか、詩人、労働運動者、音楽家など、勿論みんな智識階級の女ばかりです。』
 彼女は語を切って、自分は何も国際裸体婦人同盟の宣伝をしているのではないと、私達を誤解から切断しようとした。私たちは、私達も今ちょうどそういう話を始めるところだったからと言って、彼女に、続けることを頼んだ。
『同盟の信条は、ごく簡単です。年中裸体で生活すること。これだけです。但し、外套と靴下は特別に許されることになっています。外套は、必要に応じて寒気を防ぐため。そして靴下は、跣足《はだし》で歩いていい設備が、まだ多くの都市に出来ていないものですから、仕方なしに靴をはく、その附属品としてです。が、そういう方面の訓練の全く欠けている、教養のない男達の眼から、私たちが裸体でいることを隠すために、私達は、四六時中どんな要心を強いられていることでしょう! 余計な注意を惹いて悶着を起したくないからです。それでも、私たち国際裸体婦人同盟の会員にとっては、裸かでいるほうが遥かに自然なのです。近代の女は、現世紀の狂気じみた性の騒ぎには、飽き飽きしました。性のことなど、問題にすべきではないのです。誰が、食べ物のことをそう喧《やかま》しく言う人があるでしょう? 性は、はじめから種族的な「縦の本能」に過ぎません。人間には、もっと社会的な「横の仕事」がたくさんあるはずです。ところが、この簡単な「性」に神秘を着せるのが、われわれの着物です。一体着物というものは、支配階級が、富と権力を誇示して民衆を脅《おど》かしつけるために発明されたものではないでしょうか。それは徳律や宗教や評判のいい学説と同じに、現在の社会制度を支持するほか、何の役目もしていないのです。』
『すべてが習慣なのだ。』
 ここで、ルセアニア人が考え深そうに言った。
『だから、われわれは新しい習慣を創造しさえすればいいのだ。そして、それを、一般が不審がらずに受け入れるまで、闘って押しつけることだ。』
『そうです。その通りです。だから人間は、ことに女は今、男の前に真っ裸になる必要があるのです。衣服は、在来のすべての社会的罪悪の母でした。裸かですと、人は絶えず内省します。そして、対人関係と、それを総合した社会における個の位置と進展の方向とを、はっきり認識することが出来るでしょう。そこに、近代的に健康なスポウツマンシップも、理論上一つの瑕《きず》もない完全な自由も発見されるわけです。』
『そうすると。』
 と私も、何か彼女の議論の助けになるようなことを、早く言わなければならない義務を感じ出した。口を閉じた彼女が、黙って私を激励した。それが私を、さっそく勇敢な独断家にしてしまった。
『そうすると、あらゆる意味での装身を景品の一つにして、こんなにまで個人間の自由競争を亢進させてその利をはんでいる狡猾な資本主義もお洒落な都会人に関する限り、その魅力の半分を失くすることになりますね。』
『勿論です。』彼女の顎が襟の開きを打った。『各方面から切り崩さなければならないほど、資本主義は、あまりにしっかり[#「しっかり」に傍点]無智な人間を把握しています。ちょっと考えても解ることではないでしょうか。近代の女が、まだ着物を着てるなんて、何という古い醜さでしょう! 彼女らの言語でいっても、それは実に嗤《わら》うべき流行遅れなのです。しかし、何事もはじめの間は厄介なものです。一番いけないことは、男が、女の裸体に慣れていないことです。けれど、これは無理もありません。が、そのうちには、マデレイヌもボンド街も第五街も、通行の裸かの女で充満する日が来ることでしょう。それが、国際裸体婦人同盟の理想なのです。これは必ず実現するにきまっていますが、そうなった日、女を見る男の眼も、自然変って来なければなりません。一般の女を、女としてより先に、まず人間として眺めて、そして、一般の女のなかからさえ、性ばかりでない、もっと価値あるもの、もっと智的なものを探し出そうとするでしょう。性は詰《つま》りません。お互いですもの。』
 つまり彼女によれば、国際裸体婦人同盟は、この、世紀的に古い誤謬に毒され切っている男達を、その可哀そうな状態から救い出すための、親切な教育団体だと言うのだ。私達は、彼女の説に、異常な恐怖と好奇と感謝を感じながらも、それを表面に現わさないだけの努力を必要とした。すこしでも、「この瞬間の傾向」の背後に立っていると思われたくない虚栄心が、私たちという二人の男を強く支配している事実に、私は気がついていた。したがって、近く彼女が示そうとしているであろう彼女自身の実証に対しても、私たちは、それを待ちあぐんでいることなどは気振《けぶ》りにも見せなかった。実際、若いルセアニア人は、そんなところは何|哩《マイル》も先に行ってると言ったように、しきりに欠伸《あくび》をしていたし、私は、出来るだけ詰らなそうに、度《た》びたび窓の外を覗かなければならなかった。硝子《ガラス》が一面に塩を吹いて、何も見えはしなかったけれど。
 私は、汽車の両腹を撫でて、非常な速力でうしろへ逃げて行く暗黒《くらやみ》の音を聞いた。
 それは、長靴の膝に当る地方の深夜だった。そして、停電は沿線全体のものだった。
 彼女が言っていた。
 一九二八年の暮れだった。そこは、伯林《ベルリン》の雑沓だった。電車を降りようとしていた彼女は、無礼な群衆の不注意から、彼女の外套の下を瞥見されるような過失を結果してしまった。そういう訓練のない男達の眼が、彼女に一斉射撃された。警官が来た。彼女は既に、拘引と、そして退屈きわまる訊問とを覚悟していた。が、警官は、警察へ同行するかわりに、保護と称して、暗い公園の奥へ彼女を伴《つ》れ込もうとしたというのだ――。
『救われない!』
 ルセアニア人が叫んだ。すると彼女は、啓示を受けた人のように、急に起《た》ち上ったのである。
『一たい誰が、あなたに着物を着ることを教えましたか。』
 そして、彼女は、今まで片手で押さえていたアストラカン外套の前を、手早く開けて見せた。下には直ぐに、薄桃色の曲線と、円味《まるみ》を持った面《おもて》とが、三十年近く生きて来て、たる[#「たる」に傍点]んでいた。毛穴が、早春の地中海の夜気を呼吸して、全体をすこし粟立《あわだ》たせているように、私は観察した。
『ポケットがなくて、不便です。』彼女が打ち明けた。『が、靴下を吊る仕掛けのほか、私はいつもこれで、そして、誰よりも一番好い着物を着ているつもりです。』
 私達は、あわてて賛成した。彼女は、もう一度、アストラカンの前を合わせて、濡れた気体か何ぞのように、ルセアニア人の寝台の端に固くなった。それが彼女を、急に疲れて見せた。
『あなた方が、私のこの服装を気にするほど、反動的でなければいいがと思います。』
 私は、第一、そうして外套さえ掻《か》き合わせていれば、絶対に私達の眼に入りっこないし、仮りに外套を脱いだところで、私も、私の同室者も、そんな小さなことからは解放されているからと言って、彼女を安心させた。そうすると彼女は、まだ自分の服装のことを考えて、それを話題に上《のぼ》すような仕方は、まるで今までの普通の女と同じで、同盟員が目的にしている若々しい反逆――実は、それは、単なる純理論の実行に過ぎないのだが――には、何らならないと反省して、淑《しと》やかに自分を責めた。それから彼女は、耳の上に挟んでいた喫《の》みかけの葉巻をくわえて、ううう[#「ううう」に傍点]と唸《うな》りながら、私達に燐寸《マッチ》を催促するために、それを擦《す》る手真似をした。

     3

 トラモンタナと呼ばれる狂暴なアルプス颪《おろし》が、窓の外に汽車の轟音と競争して、私達に、今夜は暗いばかりでなく、恐らくは、粉雪を含んで寒いのであろうことを、間断なく報《し》らせていた。
 しかし、私達のコンペアメントは、感謝すべき装置で一ぱいだった。そこにはまず、万国寝台会社が、旅行好きな公衆と同業者とに誇る、そして誇っていい、照明と煖※[#「火+房」、203-1]《だんぼう》と装飾とが、好意ある経営をもって往き届いていた。
 模様入りの人造革を張り詰めた室内の壁には、白樺材を真似た塗料が被《き》せてあった。鋲《びょう》が、掃除婦の忠実を説明して、光っていた。窓では、眼科医の色盲検査布のようにいろいろに見える、が、その実ただの緑いろの厚いカアテンが、私達の賞美を得ようとして、大げさに揺れていた。その下に、折曲げ式の、皮張りの板が立てられて、机の代用をしていた。それは、ルセアニア人の旅行用香水壜と、私のクック版大陸時間表とを支えていた。大陸時間表は、いくら私が注意して離して置いても、五分もすると、汽車の動揺に乗じて革の上を滑って行って、しきりにルセアニア人の香水壜に接吻しては、恋をささやいていた。が、この事実に気が付いたのは、私だけらしかった。で、私は黙って、二つを放任することにした。仏蘭西《フランス》語の文法から言えば、煤煙臭い大陸時間表は男性で、香水は、もちろん女性に相違なかったから。
 そのほか、私の正面には、ルセアニア人の羸弱《フラジル》な眼鼻立ちがあった。彼は、頸《くび》へ青い血管を巻いて、蓴菜《じゅんさい》のような指を組んでいた。そして、国際裸体婦人同盟員の耳へ、訳の解らない口笛を吹きつけていた。
 私が、視線を移動すると、今度はその尖端に、アストラカンの間から電灯へ微笑している彼女の胸部が、ぶら下った。光線は、何度反撥されても、露出している彼女の部分を愛撫しようと試みた。それは、酔った好色紳士のように、しつこかった。
 とうとうしまいに、我慢し切れなくなって、彼女は、外套を脱ぐと言い出した。そして、その弁解として、この部屋は熱帯性の怪物であると論断した。実際、室内は、万国寝台会社の心づくしのために、まるで赤道下の貨物船の釜前《ダウン・ビロウ》のように暑かったのだ。が、この、彼女に外套を脱がれることは、私達の一番恐れているところだった。そこで、私は、ルセアニア人と素早く無言の評議を交したのち、二人を代表して、彼女に申し入れたのである。
『私たちは、もう暫くの間、表面古風な女としてのあなたを眺めていたいと思うのですが――。』
『なぜでしょう。』
 アストラカンを肩まで辷《すべ》らせたまま、彼女が反問した。
『こんなに理解のある方々とだけ、排他的に同席出来るということは、私にとって珍しい名誉です。私は自分の健全な自由さを極度に享楽出来る、こういう好機会を逃がしたくありません。』
『御尤《ごもっと》もです。しかし、ほんとのことを言うと、その、あなたの健全な自由に価値するほどの、教養も、準備も、自信も、まだ私達には出来ていないのです。私は決して、伝統という幽霊に屈服しているのではありません。ただ、あなた方の採用した新しい生活様式と、その刺戟には、まだすこしばかり慣れていないというだけのことなのです。言い換えれば、あなたの「服装《コスチュウム》」の前に、私達は、私たち自身が恐ろしいのです。お解りになりましたか。お解りになりましたら、外套を脱ぐことだけは見合せて下さい。もし強いて脱ぐと仰言《おっしゃ》るんでしたら、私とこの名前は知りませんが、私の同室者は、きっと、私達の大嫌いな徳律の命令に服従して、寝台車掌《コントロルウ》を呼んで、あなたを、あなたの車室まで送り届けなければならないことになるでしょう。それは、実に不愉快な事業で、私達も、その必要に迫られたくはないのです。』
 この駁論が作用して、一時彼女に、外套をぬぐことを中止させたらしかった。
 すると、そこへ、いま私が引用したばかりの寝台車掌が、飲酒の形跡と一しょに、顔を出した。もうこの部屋が最後だから、寝台を作らせてくれと言うのだ。
 私達は、眼で合議した。そして、私が答えた。
『困ったことには、私はまだちっとも眠くないのだ。』
『それからここに一つの告白がある。』
 ルセアニア人が続いた。
『この頃、頑固な不眠症が取っ憑《つ》いていて、僕を離れないのです。』
『そう来なければうそです。』彼女がアストラカンの中から叫んだ。『多分私たちは、羅馬《ローマ》へ着くまでのこの一晩を、自由に語り明かして使うことでしょう。共通の新しい思想に昂奮している私達にとって、寝て過ごすべくあまりに惜しい今夜ですから――。』
 車掌は、勝手にと言うように、帽子へ手をやって、廊下へ退いた。車扉《ドア》が流れて、音とともに外部を遮断した。
 彼女は、私達に向き直った。
『私は、多くの愉快な話材を、旅行用として、身体《からだ》のあちこちに隠しているのです。』
 こう言って、彼女は立ち上った。
『何という常識のない暑さ! 私の判断では、確かにこの汽車は機関の余剰スチイムを車内へ向けて濫費しています。』
 そうして、彼女は、私達が抗議するひまもなく、今まで彼女を、外見上ほかの女と同種に呈示《プレゼント》していた、その唯一のアストラカン外套の扮装を、とうとう見事に拒絶してしまったのである。
 私たちは、恥じ入った。ルセアニア人は、自分の神経と感覚を保護するために、出来るだけこの国際裸体婦人同盟から遠ざかって、窓ぎわの壁に密着した。彼は、溜息を吐《つ》いた。
 無警告に、裸体の全身が上へ伸びた。そして、彼女の手が、壁のスイッチに触れた。それが、もう一つ、万国寝台会社の到れり尽せりの魔術的設備となって現われた。車室の電灯が、緑色に一変したのだ。天井に、二つの電灯が一つずつ点《つ》くように仕掛けしてあって、釦鈕《スイッチ》を捻ると、白い光りが自動的に消えて緑いろのが生き出すのだった。
 こうして、室内を濃い緑色に落して置いて、彼女は、その裸体を元の位置に返した。
 空気は、青苔の細胞で充満された。その密度を通して見る彼女の皮膚は、日光を知らない深海の海草のように、不気味に濡れていた。
 彼女は、脚を組んで、両手を膝へ挟んだ。
『これでいいでしょう。緑いろの光線は、正しいことを考えるのに相応《ふさわ》しいものです。』
 私たちは、一時紛失した落着きを、すこしずつ取り戻して、国際裸体婦人同盟員の示威運動が、あまり邪魔にならなくなり出した。
 それでも、ルセアニア人は、先刻《さっき》から、ZIPの手鞄を開けて取り出した|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》を、しきりに鼻へ当てていた。これは、気付けのためである。彼は、それを、まだ続けていた。
 汽車は、レイルを噛んでは、うしろへ吐き出した。外部の重い闇黒《くらやみ》のなかで、もうジェノアが近づいているに相違なかった。どこかに港のにおいがすると、私は思った。しかし、それは、過度の熱気に一層発散し出して、この狭いコンパアトメントを今にも爆破しようとしている、窒息的な彼女の体臭を、私がそう誤認したのかも知れなかった。
 暫らくは、快活な汽車の奏楽と、緑いろの半暗電灯だけの世界だった。
 彼女は、自分の乳首の検査に熱中していた。が、直ぐ、彼女の顔が、私の方向へ起き上った。
『あなたは、新聞記者《ジョナリスタ》ですね。』
 驚きを隠すために、私は、答える前に、自然らしく耳の背部を掻いた。
『もしそうだとしたら、あなたはどうしてそれを御存じですか。』
『簡単なことですからです。ヴァンテミイユの旅券係のまえで、私は、あなたの直ぐうしろに立っていました。』
 これは、じつに満足な解答である。私は、そう言って笑い消すことによって、この話頭の転化を計ろうと望んだ。が、結果は、かえって彼女の追求を招いただけだった。なぜと言うに、彼女は、急に非常な秘密を打ち明ける人のように腰をずらして、出来るだけ浅く寝台に掛け直したからだ。
 そして、緑色の舌の先で、下唇を舐《な》めた。
『あなたはジョナリスタです。その他、私には、あなたに関するいろいろなことが判ります。第一、あなたはこれから、羅馬《ローマ》へ行って、シニョオル・ムッソリニに面会を申込もうとしている――そうでしょう?』
『何らの根拠もない、恐るべき断定だ!』
 私は、ルセアニア人に、援助を求める眼をやった。しかし、彼は、彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》といっしょに非常に多忙だった。私は、単独で彼女に対抗しなければならなかった。
『一体誰が、そんなことを言いました。』
『読心術《テレパセイ》です。私は、ノルマンディの漁村で、不思議な力を有する一人のお婆さんから、読心術《テレパセイ》の手解《てほど》きを受けたことがあります。』
『おやおや? あなたの裸体に対する僕の心持だけは、読まれると困る瞬間がある。』
 ルセアニア人が、彼の楽しい塩壜の上から、声を持った。
『どうぞ茶化さないで下さい。ですから、私には、大概の人が、その希望も、その個人的難境も、一眼で判断出来るのです。そこで、当面の問題へ帰るとして、第二のあなたは、ムッソリニに会ったら、政治哲学上の議論などを吹っかけることは極度に排斥して、飽くまでも、亜米利加《アメリカ》産の訪問記者手法で往こうとしているでしょう。つまり、専門の智識なんかすこしも持ち合わせていない、無邪気な顔をして、莫迦げ切った質問ばかり発します。そうして、それによって、その返答を素材に、こっちで勝手に、あなたの好む通りの「人間」を拵《こしら》え上げる。それは、この上なく賢明な遣《や》り方です。公衆《パブリック》は、自分達の偶像との、こういう電光石火的面談記《ライトニング・インタヴュウ》に胸を躍らせて愛読すべく、ジャアナリズムの英雄達によって、もう充分に教育され尽していますから、今あなたが、ムッソリニに対して、この方法を採用すれば、或る程度までの効果は期待していいはずです。』
 私は、一々自分の意図が、この国際裸体婦人同盟員の口から繰り出されるのに、新奇な驚異を経験しながら、それなら、仮りに私がムッソリニに会うとしたら、私は、果してどんな質問を次ぎつぎにポケットから取り出して、ムッソリニのどこを狙って投げつけべきであろうかと、彼女に訊いてみた。
 彼女は、そこから名案を叩き出そうとでもするように、一つの握り拳《こぶし》で、暫らく手の平を打ち続けたのち、やがて、注意深い小鳥のように、首を曲げて、言い出したのだった。
[#ここから天付き、折り返して2字下げ]
『1 一日に何時間眠りますか。或いは、何時に寝て、何時に起きますか。
 2 一番好きな食物は?
 3 一番嫌いな食物は?
 4 一番好きな葡萄酒は?
 5 一番好きなスポウツは?
 6 一番好きな格言は?
 7 一番好きな史上の人物は?
 8 一番好きな煙草は? そして、それを一日に何本お喫《す》いになりますか。
 9 本はいま何をお読みですか。
 10 あなたの養生法は何ですか。
 11 もし、日課的に散歩なさるなら、規則《ルウル》として犬をお伴《つ》れになりますか。
 12 あなたは、何個国語を話しますか。
 13 物心ついてからの、最初の記憶は何ですか。
 14 何があなたの少年時代の野心でしたか。
 15 あなたの一番幸福な瞬間はいつでしたか――今のほかに。
 16 あなたは、新しい靴のために足が痛む時は、いつもどういう方法を講じますか。
 17 忘れましたが、珈琲《コーヒー》には砂糖をお入れになりますか。お入れになるようでしたら、一つですか。二つですか。
 18 私は、あなたから読者への伝言《メセイジ》として、何を伝えたらいいでしょうか。
 19 このあなたのプロマイドに署名して下さい。
 20 いろいろ有難う御座いました。さよなら。
[#ここで字下げ終わり]
 そして、必ず正面を向いたまま、戸口まで後ずさりに歩いて、退出するのです。しかし、これには、絨毯に蹴躓《けつまず》いたり、出口のつもりで書棚の硝子《ガラス》戸に手をやったりしないように、大変な注意を要します。が、これだけ引き出せば、どんな偶像でも、人間の片鱗《へんりん》は覗かせるだろうから、そこを掴めばいいと、あなたは簡単にお考えのようですね。ところが、ムッソリニの場合だけは、例外なのです。』

     4

 私は、これらの彼女の思いつきは、すべて正当なもので、私も、ちょうど彼女と同じ内容の質問戦を計画しているところかも知れないと、彼女に告げた。しかし、それは、明かに彼女が、既定の事実として勝手に決めている、私とムッソリニとの面会を前提にして、始めて必要の生じるジャアナリステック準備であって、正直のところ、私は、私の大事なペンを翳《かざ》して、シニョオル・ムッソリニに肉迫するかどうか、私自身決めていないのである。と言うよりも、私の偽らない心持のなかでは、否定説のほうが有力だったのだ。問題のベニト・ムッソリニ氏は、この何年かの間に、世界各国のあらゆる新聞雑誌記者と、外国での記念《スウベニア》という他愛もないがらくた[#「がらくた」に傍点]を熱愛する旅行者の大訪問群によって、一日に何十回の面接と談話とで、すっかり職業的に荒らされてしまっているに相違ないことは、誰でもの常識内で許される想定だ。その彼を、すこし時節外れのこの頃になって襲撃するほど、私は、「去年の林檎《りんご》」でありたくない気が強かった。私は、常に明日に生くる自負を持っている。この意味で、いま話頭に上っている「今日の人」は、それだけで、私の感興を惹くべく既にすこし古いのだ。それに、英雄崇拝という変態宗教は、私に来るところの最後のものである。だから、私は、半ば以上、この「黒|襯衣《しゃつ》を着た世紀の怪物」を、一瞬間でも邪魔することなしに、彼を、彼の大好きな首相、外相、飛行大臣、拓殖大臣等々々の七つの大臣椅子の上に、彼の讃美者に取り巻かせたまま、幸福にしておいてやることにしようと決心していた。そのかわり私は、羅馬《ローマ》のホテルの酒場で、アルコホルが語らせる旅客の伊太利《イタリー》観から、より多くの真実を掴み出そうと耳を立てるであろう。そして、どこの都会ででもして来たように、私は、この鞄の底から放浪者の仮装一式を身につけて、幾晩も続けて臭い裏街の彷徨に徹夜するだろう。私は、ベニト・ムッソリニよりも、このほうを好むのだ。
 こういう言葉で、私は、しっくりと彼女の裸体を包んだ。
 多くの社交室をこな[#「こな」に傍点]して来たらしい、噴水式の彼女の笑いには、私に対する失望と賛成があった。彼女は下腹部の黒子《ほくろ》を押して、その弾力を享楽しながら、言った。
『あなたは素晴らしい空想の所有者です。そして、この場合、その空想は適中しているかも知れません。私は、ただ、巴里《パリー》への旅行者が、必ず一度はエッフェルへ昇るように、羅馬《ローマ》へ来る人は、初代|基督《キリスト》教徒の地下街《カタコンブ》と、カプツィニの人骨堂と、ベニト・ムッソリニだけは、誰でも、旅程の第一日に据えて参詣して行くものですから、きっとあなたも、クイリナアレ政庁への訪問者に相違ないと思ったまでのことです。あなたが、伊太利《イタリー》へ来てムッソリニを無視するのは、それだけでも、あなたの公衆にとって大きなセンセイションでなければなりません。実は、一人ぐらいムッソリニに会いたくないという旅行者が出て来ることを、私は、ひそかに望んでいたのです。』
『なぜそのことが、そんなにあなたの関心を強いますか。』
『私の性格が、すべて反対を好むからです。全く、ムッソリニは誰にでも合いますし、また誰でも、外国から来た人は、彼に会いたがるようです。どうして、あんな立憲政体の変態者が、こんなにまで反動主義者の世界的賞讃を博するようになったのでしょう? きっとそれは、彼が社会主義への裏切者であるからに決まっています。私には、ほかに正しいと思われる答案が発見出来ないのです。野蛮なほど自信と精力の強いブルジョア政治家なら、どこの国も、彼以上の紳士的悪漢で一ぱいで、それぞれ持て余しているはずではありませんか。伊太利だったからこそ、彼も、羊の群の獅子として、その自己集権慾を満足させることが出来たのでしょう。要するに、彼は、人気を取っていないように見せかけて人気を浚《さら》ってしまう、顔の怖いお上手者に過ぎないのです。私達には何らの関係もない、古風な、過失的存在です。』
『僕は、彼は東洋人ではないかと思う。』
 ルセアニア人が、逡巡《しゅんじゅん》しながら、割り込んだ。彼女が、受け取った。
『東洋人ではありますまい。しかし、彼の顔には、純粋の白人らしくない暗示が見られます。』
『と言うと、どういう意味ですか。』
『彼の奉ずる力の讃美には、もっと太陽に近い土地の、砂漠と大植物との、黒色の哲学が潜んでいるような気がしはしませんか。』
『立派にあり得ることです。伊太利《イタリー》、西班牙《スペイン》、葡萄牙《ポルトガル》などの、南|欧羅巴《ヨーロッパ》の羅典《ラテン》系文明が、近世に到って一足遅れたのは、奴隷として輸入された黒人の血が、雑婚によって吸収されたためだと言う説があるくらいですから。血統のどこかに、飛び離れた異人種を持つ家は、往々にして巨人を出すものです。』
『爪を見れば、判るそうではありませんか。』
『しかし、ムッソリニという名は、古い伊太利名です。「ムッソリニ」は普通名詞のモスリンから転化したもので、つまり、彼の家は、職業世襲時代に、代々モスリンの織匠だったのでしょう。』
『そういうことは、私の国の日本にもあります。ちょうど、ムッソリニと同じ語源に、織部《おりべ》というのがある。』
『とにかく、先刻《さっき》私が言ったように、彼は誰にでも会います。亜米利加《アメリカ》から来た、下着の旅行販売人《トラヴェリング・セイルスマン》にも、インクの流れるように能弁な万年筆の行商人にも! それでも、はじめのうちは、人に自分を見せることの政策的な必要と利益から、今よりももっと多量に、俳優的態度で引見することを好んだものです。近頃は、それ程でもありませんが、今は外交関係から、殊に亜米利加人に盛んに会いつつあるということです。』
『彼は、亜米利加へ移民を送ることを止《よ》して、そのかわり、仏蘭西《フランス》との国境地方あたりへ国内植民を始めているそうではありませんか。そのために、仏蘭西が、すこし警戒し出したというような噂も聞きましたが――。』
『ブルジョア国家という、現在の人類生活の単位は、その人類である私達の日常生活には、何らの交渉もない事件のために、しじゅう忙がしがってばかりいるのが、その特性です。』
『法王庁とムッソリニは?』
『あなたは、いつの間にか、私を「訪問」していますね。結構です。彼は、三月の総選挙に、加徒力《カトリック》教徒の人気が入要なはずですから、悦《よろこ》んで、その前に、ヴァテカンと伊太利《イタリー》との握手の世話役に立つことでしょう。』
『皇帝と彼とは?』
『この間伝えられた、あれは、全然嘘報でした。巴里《パリー》で発行される、反ファッシズム新聞「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」紙の投げた逆宣伝の一つに過ぎません。』
 ここで、彼女は、私達からの、これ以上の質問を拒否するために、ジャズのカスタネットのように細かく笑って、両腕を抛り上げた。
 脂肪が圧搾《あっさく》されて、肋骨の装飾が現れた。
『今まで私は、まるでナポリの案内人のように饒舌《しゃべ》って来ましたね。そして、私は、何という不注意な女でしたろう! ムッソリニ、ムッソリニと大きな声で言って、しかも、総選挙だの、黄嘴紙《ベッコ・ジャロ》だのと! 人が聞いたら、どうしましょう! それは、怖いものを知らない者のすることです。なぜなら、密偵は、空気のようにどこにでも這入り込んでいるからです。これはソヴィエト・ラシアとムッソリニ政府だけが、ほんとに世界的に誇り得る制度なのです。この汽車も、そういう密偵達をぎっしり満載していることでしょう。あなたが、その一人かも知れない! この方が、そうかも知れない! あの、先刻、寝台を作りましょうかと言って来た、不随意筋ばかりで出来てるような寝台車掌《コントロルウ》! あの男は、確かにクイリナアレの廻し者です! 私の読心術《テレパセイ》は、決して私を欺《あざむ》きません。それから、あなた方は気が付きましたかしら。この、一つ置いて前のコンパアトメントにいる、商業から教会へ引退したばかりの肉屋のような、フロック・コウトの肩に赭《あか》ら顔を載せて、靴紐《くつひも》で鼻眼鏡を吊ってるお爺さんこそは、言うまでもなく密偵に決まっています。実際、市場、ホテル、料理店、街角、音楽会、今の伊太利《イタリー》は、もとの乞食のかわりに、憲兵と、売子、観光客、給仕人、花売りなんかに化けた密偵とで、隙間もなく覆い尽されているのです。そして、もし人民がムッソリニなどと言っているのを聞こうものなら、好《よ》くても悪くても、忽《たちま》ち彼らの眼が光ります。ですから、不必要な嫌疑を招きたくない一般の人々は、お互いに注意し合って、ムッソリニという名を口にしないようにしています。銘々それに代る略号を発明して、用を達すのです。で、私達もこれ以上この色彩的な話題を進めて行こうとするなら――。』
 ちょうどこの時、急に車内に、叫喚と呶号の無政府状態が始まった。車輪の下に鉄橋が横たわり出したのだ。
 彼女は、眉を下げた。そしてその横暴な音響と闘って、言語を、私達の聴神経まで届けるために、直ちに、可笑《おか》しいほどの努力に移った。
 咽喉《のど》を紫にして、彼女は、あとを絶叫した。
『――綽名《あだな》をつけましょう! 三人の間で。ベニイ!――ベニイと。私はいつも、自分の創造力を自慢しているのです。これなら、判りっこありません。聞えますか。ベニイなら、大・丈・夫! ベ・ニ・イ!』

     5

 彼女の大声が終らないうちに、鉄橋が済んでしまったので、最後の「ベ・ニ・イ!」は、大音響の直ぐ後の静寂に残されて、喧嘩のように、突拍子もなくひびいた。
 私達は、真夜中を忘却して、笑った。
 すると、彼女は、演説者のように腰骨へ両手を置いて、突然、前後とすこしの関係もない奇怪な声を、詩の一節のように発し出したのである。
『Meglio vivere un giorno da leone !, che cento anni da pecora ――どなたか、新しい二十リレの銀貨をお持ちですか。お持ちでしたら、出して、読んで御覧なさい。それは、ファシスト政府の鋳造したもので、裏に、ベニイの言葉と伝えられる、こんなモトウが迎彫ってあります――めりよ・びいぶる・うん・じょるの・だ・れおね・け・つぇんと・あに・だ・ぺこら――羊として百年生きるよりも獅子として一日生きたほうが増しだ。何という、腕力的な野心でしょう! 何という旺盛な積極的人生観! しかし、すこし非科学的なようですね。すくなくとも、こういう英雄主義は、現代のものではありません。文句自身は、ベニイ個人の場合に限って、大出来でしょう。が、貨幣は、その性質として、誰の手にでも渡るものです。そして、この叱咤《しった》は、羊のように弱い人にとっては、すこしばかり強過ぎるのです。つまり、あまり露骨にファシスト的だというので、それは、一般に評判の好《よ》くない新貨ですが、あなた方は、どうお考えですか。』
『私は、勇敢で面白いと思います。』
『それは、あなたが青年だからです。いかがですか。また、ベニイに会ってみたくはなりませんか。ベニイに面会するためには絹高帽《シルク・ハット》と、モウニング・コウトと、閣下《ユア・エキセレンシイ》という敬語と、些少の礼譲と、多分の微笑をさえ用意して行けばいいのです。しかし、あなたは、いつか日本の代議士がしたように、特にそのため、前の晩にホテルの寝台で読んで来た、政治哲学めいた翻訳書の知識から、生硬な二、三の問題を出して、彼を苦笑させたりしてはなりません。ベニイは、彼の有名なる額部を光らせるばかりで、決して答えようとはしないでしょう。そういう議論にたいして黙っている時、彼は、ことのほか政治哲学の教授のように博識に見えるのです。そして、彼も、そのことをよく知っているのです。しかし、あなたも、絹高帽《シルク・ハット》の扱いにだけは、相当慣れるための下稽古が要ることでしょう。あの帽子は、置き場所に困る帽子です。だから、いよいよベニイの部屋へ通されて、あの眼と口が、あなたの前に立った時、あなたは、まず、あなたの絹高帽《シルク・ハット》をどこへ安置したものかと、魔誤々々《まごまご》するかも知れないのです。そして、狼狼《ろうばい》の極、秘書官に手渡ししようとしたり、或る亜米利加《アメリカ》人は、白手袋を投げ込んだまま、それをベニイに突き出して、持たせようとさえしました。が、これらは、すべて可哀そうな誤りです。あなたは、今あなたの一挙一動の上に、あの世界的に知られた、ベニイの白い視線があることを、忘れてはならないのです。そして、絹高帽《シルク・ハット》の置き場処は、所有者の頭のうえか、椅子に掛けた姿勢ならば、その膝の上といつも決まっているものです。で、絹高帽《シルク・ハット》を膝に立てると直ぐ、あなたは面談を開始するのですが、この場合、あなたは、先刻私が申し上げたような質問集で、すこしでも、ベニイの人間味を探り出そうなどと望んではなりません。彼は、あらゆる形式の面接にすっかり慣れ切っていて、どんなことがあっても、自分の影をさえ瞥見させるようなへま[#「へま」に傍点]はしないでしょう。従って、あなたに残された唯一の活動の余地は、室内を見廻して彼の事務家振りを推測することであり、灰皿の吸殻から彼の愛用する煙草を知ることであり、その一本を訪問記念としてこっそり[#「こっそり」に傍点]持って来るために、手を伸ばす機会を探すことであり、読んでいる本を突き留めるには、彼を押し退《の》けて、あなた自身、卓子《テーブル》の上下から抽斗《ひきだ》しを、根気よく捜索しなければなりますまい。何と、華やかな面会ではありませんか。』
『非常に面白そうなお話ですが、私は、残念ながら、やはり、彼を黙殺することに決めています。』
『そして、あなたは、仏蘭西《フランス》語か英語か伊太利《イタリー》語で、彼と、その二、三日の天気の批評をして、モウニングの尻尾を皺《しわ》だらけにして帰るのです。写真は、幾らでもくれます。署名《サイン》もします。最初に較《くら》べると、この頃は、そのほうが重々しいというので、すこし出し渋りますが、それでも、ベニイの机は、訪問者に持たして出す自分の写真で一ぱいで、その上、六人の写真師が、後からあとからと、日夜その複製に追われ続けています。署名用の万年筆に署名用インクを満たすためには、いつも、三人の秘書官が掛かり通しの有様です。そして、帰りがけに、あなたは、各国人を包んだモウニング・コウトの長列が、手に手に、官房主事の発行した、大型封筒の面会許可証を、切符のように握って、クイリナアレ政庁の長廊下に、忍耐深く待っているのを見かけるでしょう。』
『いよいよ私は、ベニイに面会を申込むまいという私の決心に、感謝しなければならない。しかし、あなたは、どうしてそう彼のことを知っているのです。』
『知る必要があるのです。彼は、私の敵ですから。』
 ルセアニア人は、彼女が裸体であることを忘れて、肘を突いた。
『あなたは、つい今し方、あんなに自分の不注意を悔いて、密偵を警戒すると誓ったではありませんか。私達は、単純な旅行者なのです。あなたの軽卒によって、馬鹿々々しい悶着への同伴になりたくはないのです。もうすこし、気を付けて戴けないでしょうか。』
『うっかり昂奮していたものですから――。』
 この注意に対して、彼女は、意外に簡単に収縮した風だった。国際裸体婦人同盟員が、はじめて自分の裸体を意識したように、緑色の肉体が、眼に見えて、動揺した。それには、汽車の震動ばかりと思えない、何か内容的なものがあった。
 が、彼女の精神は、印度護謨《インドごむ》で出来ているに相違なかった。それ程の強靭性を実証する言行に、次ぎの瞬間の彼女は、大飛躍していたのだ。
 ルセアニア人に対する彼女の反撥は、もう一度、例の、彼女のお得意の詩句の暗誦によって先駆された。
『Non dir di me, setu di me none sai. Prima pensa perte eppoi drai. 私を知らずに、私のことを言うな。第一にお前自身、それから、いうなら言うことだ――羅馬《ローマ》は、羅馬時代から、さまざまの名文句で混み合っています。』
『あなたは、何か大変な感違いをしているらしい。』
『そうでしょうか。ここはピサですね。』
 ピサの斜塔が、星を撫でて、真夜中の地上に接吻しようと骨を折っていた。
 一時に濃度を増した闇黒が、汽車を押し潰そうと、窓の外に犇《ひし》めいた。
 彼女は、そのなかに隠された小さな声を、懸命に聞き取ろうとしている様子だった。
 やがて、何か重大事に想到したように、彼女の眠が、細くなった。
『し――いっ!』
 と言うのである。
 彼女は、人差指を立てて、口唇《くちびる》へ当てた。その口びるは、指と十字を作って、横に固かった。
 そして、彼女は、敷いていたアストラカンから、徐々に起立した。と同時に、手が伸びて、車扉《ドア》の横にスイッチを探した。
 小さな音を合図に、車室が、今までの緑色の薄明から、完全な暗黒へ転落した。
 私は、私の全神経の騒ぐ音を聞いた。暗いなかに、ほの白い彼女の裸体が、窓の方へ走るのを見た。そこには、若いルセアニアの商人が、彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》とともに、平和に暮しているのである。
 私は、同室者として、彼の身の上を案じた。果して、国際裸体婦人同盟員は、ルセアニア人と、出来るだけ同じ空間を満たすべく決心したらしい。彼女は、その「服装」で、若いルセアニア人を、いきなり私の前から隠してしまった。
 ルセアニア人は、死んだルセアニア人のように、彼女の体重に耐《こら》えて、声も立てなければ、身動き一つしないで、牧師のようにきちん[#「きちん」に傍点]と腰かけているのだ。それが私を笑わせた。
『何が、可笑《おか》しいのです。』
 彼女の声だった。そして、それは、直ぐ、この自分の突飛な行動の事後説明に取り掛った。
『これに、すこしも性の意味がないとは、私は言いません。幾分あるようだからです。しかし、本能の処理は、恋愛とは全然別なものです。恋愛は、本能の享楽であり、処理は、どこまで往っても事務だからです。ところが、近代に到って、この本能の処理に、色んな思想や文学や都会生活やの扮飾が加えられて、それは、一見恋愛と同じ外観を備えるようになりました。その結果、この二つは、事実非常に紛らわしいために、現代人は、両方を一緒にしたり、本能の処理を恋愛と思い込んだりしています。つまり、本能の処理が、いつの間にか恋愛に接近するほど、それは、多くの装飾的な外面を持ち出したのです。けれど、二者の運命的な相違は、装飾恋愛の享楽性は、対者を条件とする内容にあるのに反し、本能の処理におけるそれは、要するに附帯物の作り出す一時的錯覚に過ぎないということです。では、一体何が、本能の処理に、これほどたくさんの夾雑物《きょうざつぶつ》を投げ込んで、近代人を惑わしているかと言うと、ここでも、資本主義の天才的狡猾さが、もう一度責められなければなりません。資本主義は、その蓄積した余剰価値の発散をこの方向へ集中して、こうして人の眼を眩惑し、それによって、すこしでも長く自分への人心を繋《つな》ぎ留めて置こうと計っているのです。おきまりの補助的方法が、また一つ、見事に成功したわけです。が、その手を直ちに逆に使って、私達は、この資本主義の奸手段に対抗することが出来ます。それは、その資本主義の煽動に乗じて、資本主義が一番大事な味方にしている道徳《マラリティ》を衝くことです。言い換えれば、与えられたあらゆる機会に、本能の処理を享楽するのです。実際、私達は、どんなにそれを享楽しても構いません。ただ、恋愛の享楽が、恋人の間にだけ許されるのと同じように、本能の処理を享楽するにも、そこには、一つの社会的特権団体があります。それは、地球を押している人達です。時代の進展に意識的に関与して、他のことはどうでもいい、つまり、私たち最左翼の知識群です。が、誤解なさらないで下さい。私は、年中人に誤解され通していますが、今の私は、こうして、僅《わず》かに、本能の処理から来る悪戯感を享楽しているだけのことなのです。ですから、この方がどう思おうと私の知ったことではありませんし、そこに、もう一人の紳士がいらっしゃればこそ、私も、自分を信用して、安心してこの方の膝に腰かけていられる訳です。が、実は、問題はそんな末梢的なこせではないのです。』
『何か、私達の眼に見えない、恐るべき突発事でもあったのでしょうか。それが、あなたに電灯を消さして、席を換えさせたと言ったような――。』
『そうです。私は、大変なことを思い出したのです。まず、あなたは、いま、国外に追放されている反ファシストの連中が、続々|伊太利《イタリー》に潜入しつつある事実を、思わなければなりません。彼らは、この三月に行われる総選挙を攪乱《かくらん》して、それを機会に、ベニイ一派に痛手を負わそうと勇み立っているのです。そのために、この数週間、国境の警戒は、あの通り殊に厳重を極めているのですが、ここに、驚くべき一事は、この列車で、あの、ベニイが一番怖がっている、巴里《パリー》の「黄嘴紙《ベッコ・ジャロ》」の論説部員の一人が、アンテ・ファシズム宣伝の目的で、決死の羅馬《ローマ》入りをしようとしていることです。それは、その筋には知れています。だから、この汽車の乗客の半ばは、政府の密偵であると、私は断定するのです。しかし、その勇敢な「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」は、名前も顔も、ちゃんと解っていると言いますから、途中で暗殺されずに、ともかく無事に羅馬へ着くことが出来れば、それだけでも、彼または彼女にとって、それは、非常な成功でしょう。が、いま私は、その冒険者の上に、瞬間の危機が迫っているのを嗅ぎます。こう申し上げれば、なぜ私が、突然コンパアトメントを暗くして、この紳士の膝に保護を求めたかが、お解りでしょう。』
『まさか、あなたが、国際裸体婦人同盟員である一方、その、命知らずな「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」の論説部員なのだと、仰言《おっしゃ》るのではないでしょうね。』
 私の声は、何度か躓《つまず》いた。
 ルセアニア人は、唖のトラピスト僧のように黙り込んだきりなので、私一人が、この、彼女の表明に対して、期待されただけの驚愕を、反応させなければならない立場にあったのだ。
 彼女の裸体が、不安そうに凝結した。
 彼女は、私が、痛いと感じた程の語調で、突っ返した。
『なぜ、そうであってはいけないのでしょう!――ああ! しかし、もう間もなく夜が明けます。私は、もう一度、朝の日光を見ることが出来そうです。そうすると、羅馬《ローマ》! 羅馬! 世界のどこの都会よりも輝かしい朝を持つ羅馬! 私は、一つは、それが忘れられなくて、こうして帰って来たのです。おや! この方は、眠っていますね。私の体温が、彼を眠りに誘ったのです。何という、一志《シリング》の切れかかった瓦斯ストウヴのような可愛い鼾《いびき》! 鼻を突いてやりましょうか。私は、この人の小さな足を、その茶色絹の靴下と一緒に、塩と胡椒《こしょう》だけで食べてしまいたい。』
『彼のために、その衝動を押さえて下さい。彼は、疲れているのです。』
『ベニイも、この頃は、すこし疲れて来ました。可哀そうなベニイ! 神経衰弱だという評判もあります。』
『彼は、家族と別れて住んでいるのですね。』
『そうです。家族は、ロマニア州のフリウリ村に居ます。ベニイの羅馬《ローマ》の邸《やしき》は、ノメンタナ街―― Via Nomentana ――の六六・六八・七〇番で、アルサンドロ街から次ぎの角まで、一区劃《ブロック》を占めている、宏大なものです。ミケランジェロの建築と言われている法王門《ポルタ・ピア》から、両側に、閑静なアパートメントと、乾麺類や薬を売る近処相手の小商店とを持つ、かなり広い並木街が、真直ぐに逃げています。そこの、門《ポルタ》に一番近く立っているアカシア街路樹に、いつか、ベニイを暗殺し損《そこ》ねた同志の弾丸の痕《あと》が、今でもはっきり[#「はっきり」に傍点]木肌に残っているはずです。その前から、眠そうな電車に乗ります。すると、一|伊仙《チェンテズモ》分だけ行ったところに、あなたは、聖ジュセッペの寺院の円屋根《まるやね》を見るでしょう。そうしたら、電車に別れて、あの辺特有の、今ならば霜解けの非道《ひど》い、鋪装《ペイヴ》してない歩道|傍《わき》の土を踏まなければなりません。ベニイの家は、その近くから始まっています。それは、白い、高い石塀の上から、巨大な赤松の林立が、周囲に、森のような影を落していることによって、直ぐに判別されます。正門は、角軒灯と石材との威嚇的効果です。お上品な砂利道と芝生の向うは、神秘そのもののような建物の散在です。そして、勿論、全体の空気には、まるで、王宮のように、そのあちこちに、大きく「禁止」と書かれてあります。邸内には、ヨニック式の礼拝堂があります。円形野外劇場《アンフィセアタア》もあります。埃及角塔《オベリスク》もあります。この邸宅は、トロニア公爵《プリンチペ》の屋敷《パラット》として、羅馬《ローマ》名所の一つなのです。』
『それが、どうして、ベニイ住宅になったのですか。勿論、例の、国際的な猶太《ユダヤ》人の覆面資本団からでも貰った金で、買ったのでしょうね。』
『ところが、そうではないのです。今のトロニア公爵は、この前の駐英大使でしたが、その母親という人が非常なべニイ・ファンで、或る猛烈な感激の瞬間に、このノメンタナ街の家を、土地ぐるみそっくりベニイに贈呈したのでした。で、ベニイは、毎日ここからクイリナアレ庁へ出かけているのですが、その出入は、数度の奇襲に懲りて、じつに厳戒を極めています。毎日、彼の自動車と、往復の通路とをいろいろに取り換えて、眼に付かないように努めています。そして、夜も昼も、塀の外には、私服刑事の一隊が、普通市民の散歩者に混ざって、何気なさそうに逍遥しています。がベニイ自身は、いつも、運命を自分に有利なようにだけ仮定していて、しかも、絶対にそれを信ずる心が強いのです。ですから、どこへでも公衆の場所へ出掛けて行きますし、万一のことがあってはと、みんなが停めるのも肯《き》かずに、旅行は、すべて飛行機と決めています。公用は勿論、土曜から日曜にかけて、ちょっとフリウリ村へ家族に会いに行くにも、ベニイは、飛行大臣として、飛んでいくのです。しかし、彼は、運の好《い》い男で、軽い事故さえも、まだ経験したということを聞きません。暗殺も、今までのところでは、すべて失敗に終りました。一度は、胸の勲章が彼を救ったほどの、|狭い逃亡《ナロウ・エスケイプ》でしたけれど。』
『情婦があると言うではありませんか。』
『事実です。マリア・セラファチといって、ちょっと原稿なんかも書く女です。彼女の著したベニイの伝記もあります。が、さあ、同棲しているんですかどうですか――。』
 彼女は、先刻から、ルセアニア人から接吻を盗み続けていた。そして、この時も一つ、濡れた音響と共に、肥ったのを奪《と》った。
 しかし、ルセアニア人は、眠っているのではなかった。彼は、この、不可思議な受難の夜を、羅馬《ローマ》まで甘受して往く覚悟が、もうすっかり出来たとみえて、彼女の肩の上に据《す》わっている彼の眼が、平静に私を凝視していた。そのうえ彼は、出来るだけ二つの身体を揺れさせないように、それを自分の責任として、一人で汽車の震動と争っていた。それらのことが、闇黒にも係わらず、私には、よく見えるのだった。
 暁《あかつき》と羅馬《ローマ》とが、線路の末にあった。
 それを眼当てに、汽車は、一層勇躍した。
 加速度の廻転で灼熱したピストンが、足の下に、熟く感じられた。
『時間通りに、羅馬へ這入りそうですね。』
 彼女が、観察した。
『伊太利《イタリー》の汽車が、時間を守るなんて、私達は、これだけでも、ベニイの功績を認めべきではないでしょうか。それから、第二に、名物の乞食が姿を潜めたこと。』
『みんな、役人や兵隊になったのです。そのうちで、よほど哲学的な連中だけが、ヴェニスへ集まって、停車場の前で日光浴をしています。客がゴンドラへ乗ると、その舟べりを押さえて、銅貨一枚《チェンテズモ》を受け取らないうちは、どんなことがあっても、ゴンドラを岸から離さないのが、彼らの職業です。彼らはまた、その時貰う銅貨の多寡によって、ゴンドラの上の外国人を、自由に呪ったり祝福したりすることも出来ます。彼らは、その一|仙《セント》二|仙《セント》で、直ぐに紙巻煙草を買うのです。煙草屋では、特に彼らのために、煙草の袋を切って、一本でも、二本でも、分けて売っています。』
 彼女の好物の一つに、格言があるらしいことが、間もなく、私に解った。
『あなたは、伊太利《イタリー》でよく使われる、こういう文句を御存じですか。「銀行が湖水を潰すか、湖水が銀行を潰すか」と言うのです。ベニイが、この出典に、幾らかの関係を持っています。いまベニイのいる、トロニア屋敷《パラット》の先の所有主、トロニア公爵《プリンチペ》の先祖の出世物語なのです。一八〇〇年代の始めでした。その頃まで、まだ、ただの平民の富豪に過ぎなかったトロニア家は、羅馬《ローマ》で銀行を営んでいました。すると、当時、中部|伊太利《イタリー》のフシイノ地方に、ラルゴ湖という湖水があったのですが、この湖を、時のトロニア氏が、大金を投げて埋めにかかりました。多分、その湖の大きさだけの領土を持とうとする中世紀らしい発案だったのでしょうが、それは、まるで、金銀で湖水を埋立てしようとするようなものです。夥しい人夫と土砂と支出を負担して、トロニア銀行は、今にも潰れそうになりました。そこで、華やかだったその時代の人々は、手を拍《う》って喜びました。銀行が湖水を潰すか、湖水が銀行を潰すか――つまり、この文句の意味と用途は、危なっかしいことだが、どっちが勝つか、傍観していて、面白い見物だというのです。ところが、この場合は、銀行が勝ちました。とうとう初代トロニア氏が、一八四二年から七〇年まで掛って、その湖を埋めたのです。そして、埋められた湖水の跡は、今では、伊太利で最も豊沃《ほうよく》な農園地の一つとして、知られていますし、埋めたトロニア家には、その時から、この功によって、公爵の位が与えられました。トロニア公爵一世は、ラルゴ湖征服のお祝いを、竣工の年の九月二十日に、いまのベニイの家で催しました。それは、実に盛大極まるものでした。欧羅巴《ヨーロッパ》の近世史上に、第一の宴会として伝えられています。この祭典は、昼夜三日続きました。羅馬《ローマ》市とその近郊が、全精神を挙げて参加しました。最初の日には、法王と、バヴァリアからは、王様の一行が乗り込みました。二日目には、羅馬の市民が、全部招待されました。父母の記念にと言って、新公爵は、オッソラから埃及角塔《オベリスク》を担ぎ込ませました。公爵家の紋章で美々《びび》しく装われた三十三頭の牛が、羅馬の街上に、その尨大な石材を牽《ひ》いて、ノメンタナ街の邸《やしき》へ練り込みました。その家が、いまベニイの私生活と、彼の夢のうらおもてを知悉《ちしつ》しているのです。で、同じことが言えないでしょうか。人は、自分の利器に一番注意すべきです。ベニイがファッシズムを潰すか、ファッシズムがベニイを潰すか――。』
 明け方は、睡眠の満潮時だ。
 彼女の饒舌が、受動的に働いて、いつしか、私の意識をぼや[#「ぼや」に傍点]かしたに相違ない。
 私は、二人をその儘《まま》にして、眠ってしまったのだ。それが、何時間だったか、私は知らない。咽喉《のど》が乾いて、身を起したとき、私は、停車している車室のカアテンに日光の波紋を見た。
 そして、外には、羅馬停車場《ローマスタツィオネ》の喧噪な構内が、静止していた。
 が、コンパアトメントは、私だけのものだった。そこには、国際裸体婦人同盟員と彼女のアストラカン外套も、若いルセアニアの商人と彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》も、見られなかった。あるのは、ただ、ルセアニア人が残して行った微かな竜涎香《アンバア》の薫りと、一晩中密閉されていた彼女の体臭とが混合して、喫煙室のそれのように、重く揺らいでいる空気だけだった。
 二人は、到着と同時に汽車から走り出て、急いで、ホテルへ向ったのであろう。真面目顔のホテルの番頭《クラアク》は、二人を夫妻として登録して、一室の鍵を渡すだろう。微笑が、寝不足の私を軽くした。
 私は、酸素を要求して、窓を開けた。
 金色《こんじき》の風が、歓声を上げて、突入した。何と、爽やかな羅馬《ローマ》の朝!
 私は、ここで、歴史の真ん中へ降り立つのだ。
 直ぐにナポリ行きへ乗換える人や、朝だちの旅客のために、プラットフォウムには、駅売りの呼び声が縦横に飛び交していた。
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あっか・みねらあれ!
あらっち・まんだりいね!
しがれって!
ちょこらって!
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     6

 ホテルの私の部屋で、電話の鈴《ベル》が私を驚かしたのは、その日の午後だった。
 電話は、女の声だったので、私は、紳士として、部屋着の襟を合わせた。
 接続線の向端《むこうはし》に、アストラカンの外套がちら[#「ちら」に傍点]ついているような気がした。どうして私が、それを感知したのか、また、いかにして彼女が、私のホテルを突き止めたのか、これらは、完全に私の理解の外部にある。とにかく、それは、国際裸体婦人同盟の熱心な会員でもあり、同時にまた、反ファシスト派の巴里《パリー》機関紙「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」の論説部員として、今朝《けさ》死を賭して、この「|久遠の街《イタアナル・シティ》」へ潜り込んだのだと信ずるに足る、あの、彼女からの、あわただしい電話だった。
 受話機から、昨夜《ゆうべ》の声がこぼれて、私の足許へ散らばった。
『私は、尾行されています。いま、何よりも男の方の守護が必要なのです。』
 そして、直ぐに私に、国民大街《ヴィア・ナツォナレ》の端《はず》れの、第二回|万国自動車展覧会会場《インテルナツォナアレ・アウトモビイレ・サロネ》へ来るように、と言うのだ。
 私は、不思議にも、若いルセアニア人のことなぞは、すっかり忘れていた。そして、敵地にいる彼女から、こうして私に、こんな命令的な呼出しが来るのは、何だか当然至極のことのように思えた。私は、それを早晩来べきものとして、予期していたような気さえした。
 間もなく、羅馬《ローマ》の雑沓が私のタキシの左右に後退していた。
 到るところに、噴水と憲兵が立っていた。彫刻と、大石柱の並立とがあった。史的色調と、民族の新しい厳則《デサイプリン》とが、どこの露路からも、二階の窓からも、晴々しく覗いていた。
 料理店では、食慾がマカロニを吸い込んでいた。それが、私を見て、手を振った。
 英吉利《イギリス》の小都会からの観光団が、案内者の雄弁に引率されて、国民経済省の建物を見上げていた。それを、子供と写真帖《アルバム》売りが、遠巻きにしていた。
 軍楽隊が来た。
 黒装束に、腰の革帯に短刀を一本挟んだきりの、フュウメ決死隊の一人が、軍旗といっしょに、先頭だった。それに続いて、青灰色の軍服の行列が、重い靴で、鋪道を鳴らした。
 私のタキシは、徐行した。運転手は、右腕を真直ぐに伸ばして、前方へ斜め上に突き出す礼をした。これは、昔|羅馬《ローマ》武士が、出陣に際して、王と神の前に戦勝を誓った、儀礼の型であり、そして、今は、ムッソリニと彼の仲間が、公式に流行《はや》らせているいわゆる「羅馬挨拶《サルタ・ロマノ》」なのだ。
 私の運転手は、ファシストだった。が、いまこの街上に、何とファシストの多いことよ! 老人の手、青年の手、労働者の手、警官の手、通行人の手。
 青物屋は、野菜の車を停めて手を上げ、その野菜の山の上から、青物屋の伜《せがれ》が手を上げ、軒並みの商店からは、主人と店員が走り出て手を上げ、そして、電車の窓からも自動車の中からも、何本となく手が上がっている。軍旗は、この、手の森林を潜《くぐ》って、消えた。
 これが、現在の伊太利《イタリー》の常用礼式なのだ。官庁ででも倶楽部ででも、劇場ででもホテルででも、家庭ででも、こうして手を上げ合っている人々を、見るであろう。羅馬《ローマ》は、いや、伊太利《イタリー》は、このとおりファシストで一ぱいである。ファシストにあらずんば、人にあらず――。
 正規には、これに、ファシスト式の万歳《エイル》の高唱が加わるのだ。
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Eja ! Eja ! Alala !
えや! えや! あらら!
えや! えや! あらら!
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 第二回万国自動車展覧会場の入口に、いつもの宣伝用の「服装」をアストラカン外套で隠した、国際裸体婦人同盟員が、私を期待していた。
 ところが、彼女は、先刻《さっき》の電話の声で示したかなりの恐怖と狼狽を、どこかに置き忘れて来ていた。
 私は、第一に、誰が彼女を尾行しているのかと、訊いてみた。
 が、彼女は、もうその問題を、まるで他人事のように考えているのである。
『尾行者は、美少年だったり、落葉だったりします。何者だか解りませんが、ただ私の読心術《テレパセイ》が、しきりに私の尾行されていることを私に警告しています。』
 彼女は、この読心術《テレパセイ》という言葉を、何にでも代用して使うことが、好きらしかった。私は、ルセアニア人のことは、思い出さなかったし、また、どうして彼女が、私のホテルを知ったかという疑点も、別に質《ただ》そうとはしなかった。彼女が、それをも直ぐに、彼女の「読心術《テレパセイ》」の能力で片付けるに相違ないことを、私は承知し過ぎていたから。
 私達は、会場を一巡して、戸外へ出た。
 その間、彼女の眼は、陳列してある各会社の、一九二九年の新春型を、機械的に送迎していただけだった。が、彼女の口は、絶えず言語の洪水を漲《みなぎ》らして、私を溺死させようとした。私は、一体自分は、何のために騎士的感激をもってここへ駈けつけて来たのだろうと、そのことばかり考えていた。
 彼女は、サンパウロ発行の反ファシスト新聞「防禦《ラ・ジフェサ》」について、多くを語った。そして、その主筆である、元の社会党代議士フランチェスコ・フロラに関して、より多くの呼吸を費やした。殊に、一亡命者としてのフロラが、上陸禁止令を無視して、警戒線を突破した当時のことや、その後の彼を覆った官憲の圧迫には、彼女は、特別に、詳細な知識を所有している様子だった。しかし、私は、彼女の身辺に、今までなかった弱々しいものを感じて、それを、汽車の疲れであろうと判断した。そして、宿所へ帰って休むことを、彼女に奨《すす》めてみた。
 すると、彼女は、この私の説を逆証すべく、俄かに努力した。自分は、この通り精力に満ちていると言いたいために、彼女は、歩きながら、針金細工の人形のように手足を張って笑い出した。
 一七六〇年|開店《フォンダト》のキャフェ・グレコが、その金文字入りの扉《ドア》で、私達に敬礼した。「車《ワゴン》」と呼ばれている、奥まった細長い部屋に、その家の財産の、古い、汚い一個の卓子《テーブル》があった。卓子は、マアク・トウェイン、ビョルンソン、ゴウゴル、ゲエテ、グノウ、ビゼエと言った詩人《ポエタ》達の、手垢と、楽書《らくがき》と、小刀《ナイフ》の痕とで、有名に装飾されてあった。その上で、彼女は、常食と称して、牛乳に蜂蜜を落して飲み、私は、また、彼女の雑談の続きを食べた。
 配達に来た郵便脚夫を見て、彼女は、私に私語した。
『あの男が、私を尾行しているのです。』と。
 彼女の音盤《レコウド》は、まだまだ切れなかった。
『選挙の準備と、その妨害の秘密戦は、いよいよ白熱化しつつあります。あなたは、この三月の総選挙が、ファシスト政府の新しい選挙法によって行われる、全く特殊のものであることを、知らなければなりません。まず、一千の地方労働組合から、四百人の準候補者を推薦させて、それを、ファシスト最高幹部会の評議にかけます。ファシスト最高幹部は、五十二人から出来ています。羅馬《ローマ》進軍当時の四人の将軍、ファシスト革命直後三年間の大臣と次官、一九二二年以後のファシスト事務総長、国民軍指揮官、学士院長、国防特別裁判所長、総組合長《シンダカト》などです。そこで、この最高幹部会で、取捨選択して、すっかり定員数の候補者を決めてしまって、その全体を、最後に、いっぱん一千万人の投票に問うのです。人々は、午前七時から午後七時までの間に出かけて行って、投票します。投票紙には、然《シイ》・否《ノウ》という二つの実に明白な文字が、印刷してあります。そのどっちかを消して、投票箱へ入れればいいのです。つまり、個々の候補者に投票するのではなくて、既にファシスト最高幹部会で決定した、その全部の顔触れに異存があるかないかを、投票するのです。そして、一体どこに、ファシスト最高幹部会の決議に反対するほどの、好奇な冒険家がいますか?――これは、何という、見事な選挙でしょう! 何という、優れた世紀の冗談でしょう! 何という、天才的な手数の簡略でしょう! あなたは、そうはお考えになりませんか。』
 それきり、私は、彼女に会わないのである。

     7

 羅馬《ローマ》のホテルから廻送して来た、彼女の手紙を、私は、ナポリで見た。
『私は、あなたに報告しなければならない、一つの誤謬を発見しました。それは、いつか申し上げた、私の尾行者に関してです。彼は、確かに、私を尾行していました。けれど、彼の尾行の意思は、決して私が思ったような、政争的な、物騒なものではなかったのです。あなたは、羅馬で、スカラ・サンタという寺院の内部を御覧になったことがあるでしょう。あそこの正面の大理石階段は、十字軍の末期に、エルサレムから持って来たもので、基督《キリスト》が、ピラトの審判を受ける時に上った階段であると伝えられています。ですから、参詣の女は、あの階段だけは、必ず跪《ひざま》ずいて昇らなければならないことになっているのですが、あの、急な二十八段を膝で上るのですから、洋袴《スカア卜》の短い、この頃の若い女などは、随分余計な苦心をしなければなりません。
 以前はよく、男達が、それを下から見上げていて、これという狙いを付けたものです。そして、お寺から、その女を尾行して行って、住処《じゅうしょ》を突き留めます。それからは、毎日女の家を見張っていて、女が外出する度《た》びに、尾行を続けるのです。そして、いつからとなく、そのうちに交際が始まって、やがて、目的を達するかも知れない日を、男は、根気よく待つのです。この習慣は、何もスカラ・サンタの寺院にだけ限られているわけではありません。これは、一つの例で、伊太利《イタリー》では、どこでもやっていることです。結婚も、野合も、この経路から生れるものが、かなりに多いようです。私は、この「服装」でスカラ・サンタへお詣《まい》りしたわけではありませんが、私の尾行者は、どこかで私を見初《みそ》めて、それから、この尾行を始めたものに相違ありません。彼は、私を恋していると言うのです。恋だそうです! 何という馬鹿な男でしょう! あなたは、そうはお考えになりませんか。』
 シシリイ島、ソレント、カプリ島、フロウレンス、ミランと、私は、この「長靴」に、予定以上の日数を持ってしまった。
 そして、ヴェニスで、私は、春の跫音《あしおと》を歓迎した。
 ヴェニスの春は、第一に、温みかけたグラン・キャナルの水が、親切に知らせてくれた。
 私は、長靴の伊太利から、明るい春の煙りが、カラカラ浴場跡の雑草のように、生々《いきいき》と沸き上るのを見た。
 ゴンドラを繋ぐ、理髪屋《とこや》の標柱のような彩色棒の影が、水の上で、伸びたり縮んだり、千切《ちぎ》れたり附着したりして、一日遊んでいた。
 裏町では、毎日、窓から窓へ、夥しい洗濯物の陳列会が開催された。
 泥柳が、岸に堵列して、晴天を祝っていた。
 私は、|溜息の橋《ブリッジ・オヴ・サイ》の下に、ゴンドラを流して、ヴェニス市民の全生活を、そこの石垣の根に眺めて暮らした。ヴェニス市民の全生活が、その、赤土《あかつち》沼のような水の表面を、ゆるく旋廻して通り過ぎつつあったのだ。それは、古靴の片っぽ、破れた洋傘《こうもり》、果物の皮、死んだ箒《ほうき》、首のない人形、去年の雑誌、無生物になった仔猫など、すべて、この町の春の支度に用のないものばかりだった。
 こうして、一九二九年の春は、長靴から立ち昇っていた。
 が、このヴェニスのホテルの酒場で、私は、ルセアニアの商人に化けて、密かに這入り込んだ「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」の若い論説部員が、羅馬《ローマ》へ着くと同時に、逮捕されたことを聞いた。彼は、前夜から同室していた刑事に、徹宵《てっしょう》警戒されていたのだということだった。
 しかし、私は、それ以上、いろいろなことに思い当った。
 第一、その論説部員は、同室の刑事に、徹宵警戒のため抱擁されていたのだ。
 そして、刑事は、外国人のひとりとして、私をも注意視し、私の行動を追うために、車内で問わず語りにベニイのことを饒舌したり、ホテルを嗅ぎ当てたり、自動車会へ呼び出したり、ナポリへ手紙を送ったりしたのではなかったか。
 私の眼に、ヴァンテミイユ羅馬《ローマ》間の国際特急を移動管轄している、ムッソリニ直属の外事課高等刑事の乳房と、彼女の下腹部の黒子《ほくろ》が、瞬間、浮かんだ。



底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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