青空文庫アーカイブ



みみずのたはこと
徳冨健次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)儂《わし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二千|余坪《よつぼ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「木+要」、第4水準2-15-13]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)近来ます/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   故人に

       一

 儂《わし》の村住居《むらずまい》も、満六年になった。暦《こよみ》の齢《とし》は四十五、鏡を見ると頭髪《かみ》や満面の熊毛に白いのがふえたには今更《いまさら》の様に驚く。
 元来田舎者のぼんやり者だが、近来ます/\杢兵衛《もくべえ》太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫《くるまや》が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後《あと》でぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のを否《いや》極《ごく》上等《じょうとう》のをと気前を見せて言い値《ね》でさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。然し店硝子《みせがらす》にうつる乃公《だいこう》の風采《ふうさい》を見てあれば、例令《たとえ》其れが背広《せびろ》や紋付羽織袴であろうとも、着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔《ひげがお》の間抜け加減、如何に贔屓眼《ひいきめ》に見ても――いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑《にがわら》いして帰って来る始末。此程村の巡査が遊びに来た。日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、十五歳を満二十歳と偽り軍夫になって澎湖島《ほうことう》に渡った経歴もある男で、今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。其巡査の話に、正服《せいふく》帯剣《たいけん》で東京を歩いて居ると、あれは田舎のお廻《まわ》りだと辻待《つじまち》の車夫がぬかす。如何して分《わ》かるかときいたら、眼《め》で知れますと云ったと云って、大笑した。成程《なるほど》眼で分かる――さもありそうなことだ。鵜《う》の目、鷹の目、掏摸《すり》の眼、新聞記者の眼、其様《そん》な眼から見たら、鈍如《どんより》した田舎者の眼は、嘸《さぞ》馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来《でき》ぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。
 東京に出ては儂《わし》も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃の彼《あの》あばら家とは雲泥《うんでい》の相違だ。尤も何方が雲か泥《どろ》かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末《そまつ》ながら浴室《ゆどの》や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿《かすやごてん》なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆《すっかり》別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千|余坪《よつぼ》になった。以前は一切無門関、勝手《かって》に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝の眠《ねむり》をさましたもので、乞食《こじき》物貰《ものもら》い話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬《めがき》や、※[#「木+要」、第4水準2-15-13]《かなめ》、萩ドウダンの生牆《いけがき》をめぐらし、外から手をさし入れて明けられる様《よう》な形ばかりのものだが、大小《だいしょう》六つの門や枝折戸が出入口を固《かた》めて居る。己《われ》と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑《おか》しくもある。但花や果物を無暗に荒《あら》されたり、無遠慮なお客様に擾《わずら》わさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩《けんか》、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂※[#「米+太」、第3水準1-89-82]甕《じんたがめ》一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔ての原《もと》で、物の執着《しゅうちゃく》は争の根《ね》である。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、煉瓦塀《れんがべい》上《うえ》に硝子の破片を剣の山と植《う》えたりはせぬつもりだが、何、程度《ていど》の問題だ、これで金でも出来たら案外|其様《そん》な事もやるであろうよ。

       二

 畑の物は可なり出来る。昨年は陸穂《おかぼ》の餅米が一俵程出来たので、自家で餅を舂いた。今年は大麦三俵|籾《もみ》で六円なにがしに売った。田園生活をはじめてこゝに六年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。去年は月に十日|宛《ずつ》きまった作男を入れたが、美的百姓と真物《ほんもの》の百姓とは反《そ》りが合わぬ所から半歳足らずで解雇《かいこ》してしまい、時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。自分も時々やる。少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗《きれい》になり、稀に肥桶を担《かつ》ぐと直ぐ肩が腫《は》れる。元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。最早《もう》地味《ちみ》に合わぬ球葱《たまねぎ》を無理に作ろうともせぬ。最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。甘藷苗の竪植《たてうえ》もせぬ。心《しん》をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減《かげん》も、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年|儂《わし》は蔬菜《そさい》花卉《かき》の種《たね》を何円《なんえん》と云う程買う。無論其れ程の地積《ちせき》がある訳《わけ》でも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。蒔《ま》いてしまうのも中々骨だから、育《そだ》ったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地に入《はい》って消えて了う。其度毎《そのたびごと》に種苗店の不徳義、種子の劣悪《れつあく》を罵《ののし》るが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果《けっか》には活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
 時の経《た》つは速いものだ。越《こ》した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘《つ》め、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。苺《いちご》は毎年移してばかり居たが、今年は毎日|喫飽《くいあき》をした上に、苺のシイロップが二|合瓶《ごうびん》二十余出来た。生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅《か》られて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植《すてうえ》にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味《やくみ》になったり、構わずに置く孟宗竹の筍《たけのこ》が汁の実になったり、杉籬の剪《はさ》みすてが焚附《たきつけ》になり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物《たまもの》である。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植《いしょく》し、中一年を置いてまた庭の一隅《いちぐう》へ移《うつ》し植えた二尺八寸|廻《まわ》りの全手葉椎《マテバシイ》が、此頃では梢の枝葉も蕃茂《はんも》して、何時花が咲いたか、つい此程|内《うち》の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六|粒《つぶ》拾った。「椎が実《な》った! 椎が実った!」驩喜《かんき》の声が家に盈《み》ちた。田舎住居は斯様な事が大《たい》した喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵《たいてい》根づいた。儂自身も少しは村に根を下《おろ》したかと思う。

       三

 少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初|戸籍《こせき》までひいて村の者になったが、過る六年の成績を省《かえりみ》ると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらも殆《ほとん》ど往《い》かぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯を預《あずか》ったきりで、一切の事務は相番《あいばん》の肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望《ひぼう》を懐いて居た。其は吾家の燈火《あかり》が見る人の喜悦になれかしと謂《い》うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥《きはず》かしくなって、儂《わし》は一切《いっさい》説法《せっぽう》をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅《たび》の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人《ひと》の生《いのち》の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛《あい》しないと云うのは嘘《うそ》である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿《すがた》を見かけた近所の子供に「何処《どけ》へ往ったンだよゥ」と云われると、油然《ゆうぜん》とした嬉しさが心の底《そこ》からこみあげて来る。
 東京が大分《だいぶ》攻め寄せて来た。東京を西に距《さ》る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮《しお》ひく汐《しお》の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様《よう》になって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分|拓《ひら》かれて麦畑《むぎばたけ》になった。道側の並木の櫟《くぬぎ》楢《なら》なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑《あらばた》が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《むざむざ》拓かるゝのは、儂にとっては肉を削《そ》がるゝ思《おもい》だが、生活がさすわざだ、詮方《せんかた》は無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪《もうそうやぶ》にしたり、養蚕《ようさん》の割が好いと云って桑畑が殖《ふ》えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時《むかし》の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込《こ》まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見《わきみ》する毎に、儂は眉を顰《ひそ》めて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場《こうば》の汽笛なぞが、近来《きんらい》明け方の夢を驚かす様になった。村人も寝《ね》ては居られぬ。十年前の此村を識って居る人は、皆が稼ぎ様の猛烈《もうれつ》になったに驚いて居る。政党騒《せいとうさわ》ぎと賭博は昔から三多摩の名物《めいぶつ》であった。此頃では、選挙争に人死《ひとじに》はなくなった。儂が越して来た当座《とうざ》は、まだ田圃向うの雑木山に夜灯《よるあかり》をとぼして賭博をやったりして居た。村の旧家の某が賭博に負《ま》けて所有地一切勧業銀行の抵当《ていとう》に入れたの、小農の某々が宅地《たくち》までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。然し此の数年来《すうねんらい》賭博風《とばくかぜ》は吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的《ひかくてき》堅気《かたぎ》になったりして、今は村民一同|真面目《まじめ》に稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが、第一|遊《あそ》んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

       四

 儂の家族は、主人夫婦《あるじふうふ》の外明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名を鶴《つる》と云う。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年|貰《もら》って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱《ひよわ》い児であったが、此の頃は中々|強健《きょうけん》になった。もらい立《たて》は、儂が結《ゆ》いつけ負《おん》ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽《らく》に歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量《たいりょう》四貫余。友達が無いが淋《さび》しいとも云わず育《そだ》って居る。子供は全く田舎で育てることだ。紙鳶《たこ》すら自由に飛ばされず、毬《まり》さえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車《にぐるま》、馬と怪俄《けが》させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育《そだ》つ子供は、本当に惨《みじめ》なものだ。雨にぬれて跣足《はだし》で※[#「足+包」、第3水準1-92-34]《か》けあるき、栗でも甘藷《いも》でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。儂等《わしら》親子《おやこ》三人の外に、女中が一人。阿爺《おやじ》が天理教に凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将《とうごうたいしょう》の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇《めいじてんのう》崩御《ほうぎょ》の際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込《うちこ》むべく大骨折った。天皇陛下を知らぬ程《ほど》だから、無論|皇后陛下《こうごうへいか》や皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点《がてん》が行くと、曰《いわ》くだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸《さぞ》困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都《ていと》を離《はな》るゝ唯三里、加之《しかも》二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏《かつてんし》無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女の外《ほか》に、テリアル種の小さな黒《くろ》牝犬《めいぬ》が一匹。名をピンと云う。鶴子より一月《ひとつき》前《まえ》にもらって、最早《もう》五歳《いつつ》、顎《あご》のあたりの毛が白くなって、大分《だいぶ》お婆《ばあ》さんになった。毎年二度三疋四疋|宛《ずつ》子を生む。ピンの子孫《しそん》が近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度|跟《つ》いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨《ほね》らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァ種《しゅ》の牡犬《おいぬ》が居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味《いみ》したのでは無い。獰猛《どうもう》な相貌をした虎毛《とらげ》の犬で、三四疋位の聯合軍《れんごうぐん》は造作もなく噛《か》み伏せる猛犬《もうけん》だったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入|聟《むこ》となった訳《わけ》である。儂も久しく考《かんが》えた末、届と税を出し、天下《てんか》晴《は》れて彼を郎等《ろうどう》にした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤も悪《わる》い癖《くせ》があって、今でも時々子供を追《おい》かける。噛みはせぬが、威嚇《いかく》する。彼が流浪《るろう》時代に子供に苛《いじ》められた復讎心《ふくしゅうしん》が消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛《かあい》がらぬのであろう。直ぐ畜生《ちきしょう》と云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格《しかく》が無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人《ちょうせんじん》台湾人《たいわんじん》をいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬《やけん》の牙は飼犬《かいいぬ》のそれより長くて鋭く、且|外方《そっぽう》へ向《む》くものだそうだ。生物《せいぶつ》には飢《うえ》程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士《のぶし》のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱《よわ》くなったのも※[#「しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫《おねこ》が居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳《たたみ》の上より土に寝《ね》るが好きで、儂等が出あるくと兎《うさぎ》の如《ごと》くピョン/\はねて跟《つ》いて来る。米の飯《めし》より麦《むぎ》の飯、魚《さかな》よりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜《まくわ》の喰い残りをがり/\噛《かじ》ったり、焼いた玉蜀黍《とうもろこし》を片手で押えてわんぐり噛《か》みつきあの鋭い牙で粒を食《く》いかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園《でんえん》の猫である。来客があって、珍《めず》らしく東京から魚を買ったら、トラ先生|早速《さっそく》口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎《よだれ》をたらし、人|騒《さわ》がせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度|飼《か》って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井《てんじょう》の鼠、物置の青大将《あおだいしょう》、其他無断同居のものも多いが、此等《これら》は眷族《けんぞく》の外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車に轢《ひ》かれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
 猫の話で思い出したが、儂《わし》は明治四十二年の春、塩釜《しおがま》の宿で牡蠣《かき》を食った時から菜食《さいしょく》を廃《よ》した。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進《しょうじん》、云わば昔の我に対する三年の喪《も》をやったようなものだ。以前はダシにも昆布《こんぶ》を使った。今は魚鳥獣肉何でも食《く》う。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒《くんしゅ》(酒はおまけ)山門《さんもん》に入るを許したばかりで、平素の食料《しょくりょう》は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食《にくじき》はせぬから、折角の還俗《げんぞく》も頗る甲斐《かい》がない訳である。甲州街道に肴屋《さかなや》はあるが、無論塩物干物ばかりで、都会《とかい》に溢るゝ※[#「魚+是」、第4水準2-93-60]《しこ》、秋刀魚《さんま》の廻《まわ》って来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人|威勢《いせい》よく盤台を担《かつ》いで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節《なまりぶし》が五六本に鮪《まぐろ》の切身が少々、それから此はと驚かされたのは血《ち》だらけの鯊《さめ》の頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋《かまぼこや》からでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。煮《に》て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷《きんごう》近在《きんざい》の衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪《ゆき》の様《よう》な米の飯《めし》で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処では魚《さかな》と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖《さば》や鮪に酔《よ》うたのである。此頃は、儂の健啖《けんたん》も大に減った。而して平素菜食の結果、稀《まれ》に東京で西洋料理なぞ食っても、甘《うま》いには甘いが、思う半分も喰《く》えぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式《もくべえしき》になった。

       五

 書《ほん》が沢山《たくさん》ある家《うち》、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村《ちとせむら》を風靡する心算《つもり》であったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷《こきょう》は此処《ここ》では無い、大きな樹木《じゅもく》を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数《こにんず》には広過ぎる家《うち》を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切《いっさい》永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕《てんと》であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否《いな》むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着《しゅうちゃく》がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間|孜々《しし》として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要《よう》あって来訪した東京の一|紳士《しんし》は、あまり見すぼらしい家の容子《ようす》に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争《あらそ》われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井《くるまい》の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄《よ》っても往《い》かなくなった。即|儂《わし》の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
 堕落か成功か、其様《そん》な屑々《けち》な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌《いや》ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会《とかい》を捨《す》てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居《すまい》は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐《かい》東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場《たちば》と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂《と》げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生《う》み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居《いなかずまい》の後、いさゝか獲《え》たものは、土に対する執着の意味をやゝ解《かい》しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾《わ》が樹木《じゅもく》を植え、吾が種を蒔《ま》き、我が家を建て、吾が汗を滴《た》らし、吾《わが》不浄《ふじょう》を培《つちか》い、而してたま/\死《し》んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭《いくとう》幾羽《いくわ》を葬った一町にも足らぬ土が、今は儂にとりて着物《きもの》の如く、寧《むしろ》皮膚《ひふ》の如く、居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪《た》えぬ程愛着を生じて来た。己《おのれ》を以て人を推せば、先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其|一端《いったん》を覗《うかが》うことが出来る。斯《この》執着《しゅうちゃく》の意味を多少とも解し得る鍵《かぎ》を得たのは、田舎住居の御蔭《おかげ》である。
 然しながら己《わ》が造った型《かた》に囚《とら》われ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。蛇が衣《から》を脱ぐ如く、人は昨日《きのう》の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生《うま》れねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、果して此処《ここ》に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村《きょそん》から調布《ちょうふ》まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂を此《この》巣《す》から追い立てる退去令の先触《さきぶれ》ではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止《ふみと》まるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。

[#ここから16字下げ]
大正元年十二月二十九日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から6字上げ]都も鄙《ひな》も押《おし》なべて白妙《しろたえ》を被《き》る風雪の夕
[#地から7字上げ]武蔵野粕谷の里にて
[#地から3字上げ]徳冨健次郎
[#改丁]

   都落ちの手帳から

     千歳村

       一

 明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家《すみか》を探すべく東京から玉川《たまがわ》の方へ出かけた。
 彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇《やそ》の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居《そんきょ》にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何を為《す》るのか分からぬが、兎《と》に角《かく》田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往《い》ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日《なんにち》に案内者をよこそう、と牧師は云うた。
 約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓《したつづみ》をうって、案内者なしに妻と二人《ふたり》西を指して迦南《カナン》の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村《ちとせむら》だと大束《おおたば》に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込《こ》んで、例の如くぶらりと出かけた。

       二

「家を有つなら草葺《くさぶき》の家、而して一反でも可《いい》、己が自由になる土を有ちたい」
 彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
 東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳《わけ》である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑《たはた》を有って居たが、其土は銭に化けて追々《おいおい》消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早|一撮《ひとつまみ》の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
 彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後《ひご》の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺《かわらぶき》の一棟が建増されたが、母屋《おもや》は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫《しずく》の様に、昔《むかし》のなつかし味が彼の頭脳に滲《し》みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末《すえ》で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生《ごうせんせい》をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女《むすめ》を製糸場の模範工女にしたり、自家《じか》でも養蚕《ようさん》製糸《せいし》をやったり、桑苗販売《そうびょうはんばい》などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛《ほう》り出して、柄《え》の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌《いや》になり、疳癪《かんしゃく》を起してやめてしまうが例であった。
 父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹《しんじゅ》などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗《さとうきび》など標本的に試作《しさく》した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時|菓樹《かじゅ》は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効《こう》があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木《わかき》の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵《たてきず》をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻《まわ》り、甘蔗と間違えて西洋|箒黍《ほうききび》を噛《か》んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃《そっ》と拳固で打破って川に投げ込んで素知《そし》らぬ顔して居たり、悪戯《いたずら》ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕|稽古《げいこ》もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌《てのひら》の拇指《おやゆび》の根にざっくり切り込んだ其|疵痕《きずあと》は、彼が養蚕家としての試みの記念《きねん》として今も三日月形に残って居る。
 斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

       三

 青山高樹町の家《うち》をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有《とあ》る饂飩屋《うどんや》に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知《きゅうち》の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷|宿《しゅく》のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊《じぞうそん》の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早《もう》千歳村《ちとせむら》であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難《なや》む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸《ようや》く小さな流れに出た。流れに沿《そ》うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒《しょうしゃ》とした草葺《くさぶき》の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処《ここ》は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
 会堂《かいどう》がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家《うち》に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方《どちら》と云うたら、かみさんはふッと噴《ふ》き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
 尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴《みはら》しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦《おんな》が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺《ぶき》の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵《どぞう》など見えた。暫《しばら》くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山《いしやま》八百蔵《やおぞう》と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分|禿《は》げかゝり、猩々《しょうじょう》の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識《ものしり》口利《くちきき》で、今も村会議員をして居るが、政争の劇《はげ》しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜《くぐ》って来た男であった。推参《すいさん》の客は自ら名のり、牧師の紹介《しょうかい》で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白《かすり》の筒袖羽織、禿《ち》びた薩摩下駄《さつまげた》、鬚髯《ひげ》もじゃ/\の彼が風采《ふうさい》と、煤竹《すすたけ》色の被布を着て痛そうに靴《くつ》を穿《は》いて居る白粉気も何もない女の容子《ようす》を、胡散《うさん》くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐《じゅっかい》を聞いて、やゝ小首を傾《かし》げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰《もら》い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚《おうよう》な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井《てんじょう》の低い鮓詰《すしづめ》にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋《へや》があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距《さ》る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
 会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
 晩秋の日は甲州《こうしゅう》の山に傾き、膚寒い武蔵野《むさしの》の夕風がさ/\尾花を揺《ゆ》する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処《どこ》やらで夕鴉《ゆうがらす》が唖々と鳴き出した。我儕《われら》の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
 甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有《とあ》る店で、妻は草履《ぞうり》を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。
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     都落ち

       一

 二月ばかり経《た》った。
 明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼《かれ》が僑居《きょうきょ》に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘《しょうへい》されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
 彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川《たまがわ》は一里の余もあると云う。風景も平凡《へいぼん》である。使って居た女中《じょちゅう》は、江州《ごうしゅう》彦根在の者で、其|郷里地方《きょうりちほう》には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、※[#「言+虚」、第4水準2-88-74]《うそ》の様に廉《やす》い地面家作の売物《うりもの》があると云う。江州――琵琶湖東《びわことう》の地、山美しく水清く、松茸が沢山《たくさん》に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会《しょうかい》してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込《ひきこ》む者があろうか、戯談《じょうだん》に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇《むやみ》と乗地《のりじ》になって、幸《さいわ》い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
 一は上祖師ヶ谷で青山《あおやま》街道《かいどう》に近く、一は品川へ行く灌漑《かんがい》用水の流れに傍《そ》うて居た。此等《これら》は彼が懐《ふところ》よりも些《ちと》反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所《じしょ》で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫《しらかし》の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑《むぎばたけ》になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林《くぬぎばやし》になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字《となりあざ》の大工の有であった。其大工の妾《めかけ》とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
 石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
 手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障《ばんしょう》一排《いっぱい》して二月二十七日を都落《みやこおち》の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒《くさぼうき》と雑巾《ぞうきん》とバケツを持って、東京から掃除《そうじ》に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀《ひばり》の歌が纔《わずか》に一同の心を慰めた。
 来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住《せんじゅう》の人々はまだ仕舞《しま》いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士《そうし》をしたと云う家主《やぬし》の大工とも挨拶《あいさつ》を交換した。其妾と云う髪《かみ》を乱《みだ》した女は、都の女等を憎《に》くさげに睨《にら》んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩《いこ》うた。小さな墓場一つ隔てた東隣《ひがしどなり》の石山氏の親類だと云う家《うち》のおかみが、莚《むしろ》を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼《どんぶり》を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座《すわ》って、持参の握飯を食うた。
 十五六の唖に荷車を挽《ひ》かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家《あきや》は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有《もの》になった家《うち》のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根《むぎわらやね》、ぼろ/\崩《くず》れ落ちる荒壁、小供の尿《いばり》の浸《し》みた古畳《ふるだたみ》が六枚、茶色に煤《すす》けた破れ唐紙が二枚、蠅《はえ》の卵《たまご》のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈《へっつい》と、糞壺《くそつぼ》の糞と、おはぐろ色した溷《どぶ》の汚水《おすい》と、其外あらゆる塵芥《ごみ》を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然《ふんぜん》として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床《ゆか》の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭《てぬぐい》かぶって、襷《たすき》をかけた。
 二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶《そそくさ》と帰途に就いた。今日《きょう》も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸《ようや》く新宿に辿《たど》り着いた時は、女連はへと/\になって居た。

       二

 明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日《びじつ》であった。
 村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田《うすだ》氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食《ひる》過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸《えんげい》が好きで、原宿五年の生活に、借家《しゃくや》に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立《かぶだち》の榛《はん》の木まで、駄々を捏《こ》ねて車に積んでもろうた。宰領《さいりょう》には、原宿住居の間よく仕事に来た善良《ぜんりょう》な小男の三吉と云うのを頼んだ。
 加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其|細君《さいくん》は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別《わかれ》を告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札《かしやふだ》が張られてあった。
 彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻《てまわ》りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者《ぎょしゃ》に教えてもらって、上高井戸《かみたかいど》の山谷《さんや》で下りた。
 粕谷田圃に出る頃、大きな夕日《ゆうひ》が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円|金色《こんじき》の光明を浴《あ》びた。都落ちの一行三人は、長い影《かげ》を曳《ひ》いて新しい住家《すみか》の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車《くるま》の軋《きし》る響《おと》がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道《りょうはなみち》から草葺の孤屋《ひとつや》に乗り込んだ。
 昨日《きのう》掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁《へり》無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工《だいく》が、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏《やねうら》を隠す可く粗末な天井を張って居た。
 日の暮れ/″\に手車《てぐるま》の諸君も着いた。道具《どうぐ》の大部分は土間に、残りは外に積《つ》んで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃《おはち》ごと持参《じさん》の冷飯で夕餐《ゆうげ》を済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。
 明治の初年、薩摩近い故郷《こきょう》から熊本に引出で、一時|寄寓《きぐう》して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家《わがいえ》が好い」と喜んで踊ったそうである。
 生れて四十年、一|反《たん》五|畝《せ》の土と十五坪の草葺のあばら家《や》の主《ぬし》になり得た彼は、正に帝王《ていおう》の気もちで、楽々《らくらく》と足踏み伸ばして寝たのであった。
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     村入

 引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速《さっそく》田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木《うえき》を植えて了うて、「到底一年とは辛抱《しんぼう》なさるまい」と女中に囁《ささ》やいて帰って往った。昨日荷車を挽《ひ》いた諸君が、今日も来て井戸を浚《さら》えてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物《もらいもの》の干物少々持って、近所四五軒に挨拶に廻《まわ》った。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両《りょう》角田君《つのだくん》は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家《うち》は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃《たんぼ》に下《お》りたり、富士大山から甲武連山《こうぶれんざん》を色々に見る原に上ったり、霜解《しもどけ》の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫《かし》欅《けやき》の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字《あざ》の外、船橋《ふなばし》、廻沢《めぐりさわ》、八幡山《はちまんやま》、烏山《からすやま》、給田《きゅうでん》の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍《そ》い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早《もう》そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子《むすこ》が教えてくれた。
 期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講《いなりこう》の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更《あらた》めて、午後石山氏に跟《つ》いて当日の会場たる下田氏の家に往った。
 其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤《どて》を流るゝ品川堀《しながわぼり》と云う玉川浄水の小さな分派《わかれ》に沿うて居た。村会議員も勤むる家《うち》で、会場は蚕室《さんしつ》の階下であった。千歳村でも戸毎に蚕《かいこ》は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べり敷《し》いて、大きな欅の根株《ねっこ》の火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、
「これは今度東京から来《き》されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某《なにがし》さんで」
と紹介《しょうかい》する。其尾について、彼は両手《りょうて》をついて鄭重《ていちょう》にお辞儀《じぎ》をする。皆が一人※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《ひとりひとり》来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代《たるだい》壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげの礼《れい》を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入《はい》ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中で唯《ただ》一人チョン髷《まげ》に結った腫《は》れぼったい瞼《まぶた》をした大きな爺《じい》さんが「これははァ御先生様《ごせんせいさま》」と挨拶した。
 やがてニコ/\笑って居る恵比須顔《えびすがお》の六十|許《ばかり》の爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。
 二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草《たばこ》の烟《けむり》。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合《てあい》もある。米の値段の話から、六十近い矮《ちいさ》い真黒な剽軽《ひょうきん》な爺さんが、若かった頃米が廉《やす》かったことを話して、
「俺《わし》と卿《おまえ》は六合の米よ、早くイッショ(一緒《いっしょ》、一|升《しょう》)になれば好い」
 なんか歌ったもンだ、と中音《ちゅうおん》に節《ふし》をつけて歌い且話して居る。
 腰の腫物《はれもの》で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛《くつう》の石山氏の注意で、雑談会《ざつだんかい》はやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題《しゅっきんもんだい》、此は隣字から徴兵《ちょうへい》に出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。
 其れから衛生委員《えいせいいいん》の選挙、消防長の選挙がある。テーブルが持ち出される。茶盆《ちゃぼん》で集めた投票《とうひょう》を、咽仏《のどぼとけ》の大きいジャ/\声《ごえ》の仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉《けいきち》さんと立って投票の結果を披露《ひろう》する。彼が組頭の爺さんが、忰《せがれ》は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得《なっとく》さす。
 此れで事務はあらかた終った。これからは肝心《かんじん》の飲食《のみくい》となるのだが、新村入《しんむらいり》の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末《しまつ》なので、一座《いちざ》に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人|達《だち》に遠《とお》ながら目礼して引揚げた。

           *

 日ならずして彼は原籍地《げんせきち》肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張《いば》って居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れから捨《す》てぬ先《さ》きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深《ろちしん》の髯《ひげ》ではないが、些《ちと》惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早|浪人《ろうにん》では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。
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     水汲み

 玉川に遠いのが第一の失望で、井《いど》の水の悪いのが差当っての苦痛であった。
 井は勝手口《かってぐち》から唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根《むぎわらやね》が通路と井を覆《おお》うて居る。上窄《うえすぼま》りになった桶《おけ》の井筒《いづつ》、鉄の車《くるま》は少し欠《か》けてよく綱がはずれ、釣瓶《つるべ》は一方しか無いので、釣瓶縄《つるべなわ》の一端を屋根の柱に結《ゆ》わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨《いかり》を下ろして見たら、渇水《かっすい》の折からでもあろうが、水深《すいしん》が一尺とはなかった。
 移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚《いどさら》えをやってくれた。鍋蓋《なべぶた》、古手拭《ふるてぬぐい》、茶碗のかけ、色々の物が揚《あ》がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁《にご》り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座《とうざ》は貰《もら》って使ったが、何れも似寄《によ》った赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井を覗《のぞ》いたら芥《ごみ》だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙《しか》めて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処《そこ》の息子が、此《この》家《うち》の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。
 使い水は兎に角、飲料水《いんりょうすい》だけは他に求めねばならぬ。
 家《うち》から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水《ながれ》がある。玉川上水《たまがわじょうすい》の分派で、品川方面の灌漑専用《かんがいせんよう》の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓《おしめ》の洗濯もする、肥桶も洗う。何《な》ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲《みずく》む役を引受けた。起きぬけに、手桶《ておけ》と大きなバケツとを両手に提げて、霜を※[#「足へん+咨」、第4水準2-89-41]《ふ》んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水|摩擦《まさつ》をやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、面《めん》籠手《こて》かついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、膚《はだ》を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々《なみなみ》と水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。耐《こら》えかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七|分《ぶ》に減って居る。其れから半丁に一休《ひとやすみ》、また半丁に一憩《ひといこい》、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさに脱《ぬ》ける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君《さいくん》女中《じょちゅう》によって金漿《きんしょう》玉露《ぎょくろ》と惜《おし》み/\使われる。
 余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂《どうげんざか》で天秤棒《てんびんぼう》を買って来た。丁度《ちょうど》股引《ももひき》尻《しり》からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止《しょうし》な顔で笑われた。買って戻《もど》った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担《にの》うて、汐汲《しおく》みならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何《いくら》か優《まし》だが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、曳《えい》やっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりと折《お》れそうに、体は顛倒《ひっくりかえ》りそうになる。※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉《ひょろひょろ》とよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷《に》を下《お》ろす。尻餅|舂《つ》く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。撞《どう》と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、また担《かつ》ぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風《あらし》の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄《せきずい》から後頭部にかけ強直症《きょうちょくしょう》にかゝった様に一種異様の熱気《ねつけ》がさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろした後《のち》は、失神した様に暫くは物も言われぬ。
 早速右の肩が瘤《こぶ》の様に腫《は》れ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手《かって》が悪いが、痛い右よりまだ優《まし》と、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩《りょうかた》の腫瘤《こぶ》で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日《あす》は何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、夜《よ》の明《あ》くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒《てんびんぼう》の下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体《ぜんたい》誰に頼まれた訳でもなく、誰|誉《ほ》めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様《こんな》事《こと》をするのか、と内々|愚痴《ぐち》をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面《じゅうめん》作って朝々通う。度重《たびかさ》なれば、次第《しだい》に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少|力《ちから》が出来《でき》、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日《きょう》は八分だ、今日は九分だ、と成績《せいせき》の進むが一の楽《たのしみ》になる。
 然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛《おおじかけ》に井浚《いどさらえ》をすることにした。赤土《あかつち》からヘナ、ヘナから砂利《じゃり》と、一|丈《じょう》余《よ》も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚《さら》ってしまって、井筒にもたれ、井底《せいてい》深く二つ三つの涌き口から潺々《せんせん》と清水《しみず》の湧く音を聴いた時、最早《もう》水汲みの難行苦行《なんぎょうくぎょう》も後《あと》になったことを、嬉《うれ》しくもまた残惜しくも思った。
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     憶出のかず/\

       一

 跟《つ》いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
 意気地の無い亭主に連添《つれそ》うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯《びんぼうじょたい》は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方《ひとかた》ならず悩《なや》まされた。一番近い隣《となり》が墓地に雑木林《ぞうきばやし》、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母《おば》は「若い女なぞ、一人で留守《るす》は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣《す》があって、破落戸漢《ならずもの》が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻《さっき》帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子《ようす》であったが、調子を更えて「宮前《みやまえ》のお広さん処へは如何《どう》参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸《びた》る其|賭博《とばく》の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪《こら》え、素知らぬ振《ふり》して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍《そ》うて、ずッと往《い》って、と馬鹿叮嚀《ばかていねい》に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸《もんこ》あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向《そむ》けて読書して居ると、後《うしろ》に撞《どう》と物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将《あおだいしょう》を見た。葺《ふ》きっぱなしの屋根裏の竹に絡《から》んで衣《から》を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、正《まさ》しく彼が頭上に蛇が降《ふ》るところであった。
 人烟稀薄な武蔵野《むさしの》は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗《なかぬり》もせぬ荒壁は恣《ほしいまま》に崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子《からかみしょうじ》も足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きな炉《ろ》が命《いのち》である。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火《たきび》、自在《じざい》の鍋は、彼が田園生活の重《おも》なる誘因《ゆういん》であった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲《あたり》が狭《せま》くて三人とは座《すわ》れなかった。加之《しかも》其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、熾《さかん》な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月《ひとつき》ばかりして面白くない此《この》型《かた》ばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋《ふるどうぐや》で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車《こえぐるま》の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃《すすほこり》にまみれた古葭簀《ふるよしず》で、腐《くさ》れ屋根から雨が漏《も》ると、黄ろい雫《しずく》がぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、盥《たらい》やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家を樫《かし》の木にしばりつけてあるので、風当《かぜあた》りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨《ようしゃ》もなくウナリをうってぶつかる。はりがねに縛《しば》られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様に床《ゆか》が跳《おど》る。それに樫の直ぐ下まで一面《いちめん》の麦畑《むぎばたけ》である。武蔵野固有の文言通《もんごんどお》り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年|蘇士《スエズ》運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣《おと》る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入《おしいれ》、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》の中まで会釈《えしゃく》もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内《やうち》に引越すのである。
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都をば塵の都と厭《いと》ひしに
    田舎も土の田舎なりけり
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 あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴《さ》える、水が荒い。四拍子|揃《そろ》って、妻の手足は直ぐ皸《ひび》、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油《ゆ》やリスリンを塗《ぬ》った位では、血が止まらぬ。主人の足裏《あしうら》も鯊《さめ》の顋《あご》の様に幾重《いくえ》も襞《ひだ》をなして口をあいた。あまり手荒《てあら》い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟《つ》いて来た糟糠《そうこう》の御台所《みだいどころ》も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留《とうりゅう》に来て見ては、零落《れいらく》と思ったのであろ、台所の隅《すみ》で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       二

 主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益《みやます》の興農園から柄《え》の長い作切鍬、手斧鍬《ちょうなぐわ》、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌《しばかりがま》など百姓の武器と、園芸書類《えんげいしょるい》の六韜三略《りくとうさんりゃく》と、種子と苗《なえ》とを仕入れた。一反五|畝《せ》の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地《あきち》と云っては畑の中程に瘠《や》せこけた桑樹と枯れ茅《かや》枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝《うね》を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘《にんじん》二十日大根《はつかだいこん》など蒔《ま》くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様《ああ》するのかと眼を瞠《みは》って眺《なが》めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂《いわゆる》賭博《とばく》の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔《じゃま》になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆《ひゃくしょうしゅう》に、棕櫚縄《しゅろなわ》を蠅頭《はえがしら》に結ぶ事を教わって、畑中に透籬《すいがき》を結い、風よけの生籬《いけがき》にす可く之に傍《そ》うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役《ぞうえき》をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸《つかど》の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞《ごようき》きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚《はなはだ》不興気《ふきょうげ》な顔をした。
 手脚を少し動かすと一廉《いっかど》勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌《いっぱいきげん》で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担《かつ》いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革《あずきかわ》の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破《うちこわ》してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広《せびろ》で、北海道にも此れで行き、富士《ふじ》で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜《ろしあ》へも此れで往って、トルストイの家でも持参《じさん》の袷《あわせ》と此洋服を更代《こうたい》に着たものだ。西伯利亜鉄道《シベリアてつどう》の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石《さすが》無頓着《むとんちゃく》な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円《まる》く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物《しろもの》である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹《あおだけ》で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆《しゅう》がドッと笑った。引越後《ひっこしご》間《ま》もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪《わる》いので、矢張此洋服で甲州《こうしゅう》街道《かいどう》まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃《はや》し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広《つばびろ》の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢《す》を買いに往ったら、小学校|中《じゅう》の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物《こうぶつ》の中に、雪花菜汁《おからじる》がある。此洋服着て、味噌漉《みそこし》持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石|剛《ごう》の者も髯と眼鏡《めがね》と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人《とうきょうじん》珍《めず》らしいので、妻なぞ出かけると、女子供《おんなこども》が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾《めかけ》の居た家《うち》に越して来た東京のおかみさんが通《とお》るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚《わめ》き立てゝ大騒《おおさわ》ぎしたものだ。
 東京客が沢山《たくさん》来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取《たねと》りに来た。遠足半分《えんそくはんぶん》の学生も来た。演説依頼の紳士《しんし》も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶《あいさつ》でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突《けんつく》を喰《く》わした。芝居気《しばいげ》も衒気《げんき》も彼には沢山にあった。華美《はで》の中に華美を得|為《せ》ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑《そもそ》もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小《ちい》さな草屋のぬれ縁《えん》に立って、田圃《たんぼ》を見渡す時、彼は本郷座《ほんごうざ》の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴《ふ》き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾《しゅゆ》も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町《ふちゅうまち》へ買った地所と家作の登記《とうき》に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘《さそ》うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介《しょうかい》して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々《つくづく》彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何《どう》して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多《めった》に欠員《けついん》があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪《しゃく》に障《さわ》り、斯《こ》う見えても憚りながら文字の社会では些《ちっと》は名を知られた男だ、其様な喰詰《くいつ》め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大《おおい》に啖呵《たんか》を切ったが、虫を殺して彼は俯《うつむ》いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其《その》家《うち》をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然《ごうぜん》として「大尽《だいじん》さんの家《うち》だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛《かろ》うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様《どんな》に威張《いば》っても、東京の喰詰者であった。但《ただ》字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵《たくわん》の二三本、小松菜の一二|把《わ》礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫《さいほう》の師匠をやれと勧められた。自身《じしん》上州《じょうしゅう》の糸屋から此村の農家に嫁《とつ》いで来た媼《ばあ》さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕《ようさん》をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。

       三

 東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州《こうしゅう》街道《かいどう》に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀《まれ》であった。彼等が千歳村《ちとせむら》に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷《しぶや》から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義《とほしゅぎ》を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋《わらじ》、ある時は高足駄《たかあしだ》をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便《たよ》りに夜《よる》晩《おそ》く帰ったりした。丸《まる》の内《うち》三菱《みつびし》が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原《くさはら》に足投げ出して、悠々《ゆうゆう》と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時《いつ》も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍《たけのこ》を二本|担《にな》って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄《はなすすき》を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷《いも》を洗ったり、外竈《そとへっつい》を焚《た》いて見たり、実地の飯事《ままごと》を面白がったが、然し東京の玄関《げんかん》から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物|脊負《せお》うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都《みやこ》の子女《しじょ》として至って平民的な彼等も流石に羞《はず》かしそうな笑止《しょうし》な顔をした。
 彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切《いっさい》の角《つの》を隠して、周囲に同化す可く努《つと》めた。彼はあらゆる村の集会《しゅうかい》に出た。諸君が廉酒《やすざけ》を飲む時、彼は肴《さかな》の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番《つきばん》になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参《じさん》した。村の耶蘇教会にも日曜毎《にちようごと》に参詣して、彼が村入して程なく招《まね》かれて来た耳の遠い牧師の説教《せっきょう》を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵《こしら》えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突《けんつく》喫《く》わすことはある共、田舎の客に相手《あいて》にならぬことはなかった。誰《たれ》にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽《しりがる》に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈《そとへっつい》の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分《だいぶ》話《はな》せる」と良人にほめられた。
 玉川に遠いのが毎《いつ》も繰り返えされる失望であったが、井水が清《す》んだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間も沸《わ》かしては入《はい》り沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢《がまん》して入った。夏になってから外で立てた。井《いど》も近くなったので、水は日毎に新にした。青天井《あおてんじょう》の下の風呂は全く爽々《せいせい》して好い。「行水《ぎょうずい》の捨て処なし虫の声」虫の音《ね》に囲まれて、月を見ながら悠々と風呂に浸《つか》る時、彼等は田園生活を祝した。時々雨が降《ふ》り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休《なつやすみ》に逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑い興《きょう》じて傘風呂《からかさぶろ》に入った。

       四

 彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢《こずえ》から真白《まっしろ》な富士を見て居た武蔵野《むさしの》は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]其月※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物《まきもの》の如くのべて見せた。彼等は周囲《あたり》の自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋《げや》をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室《よくしつ》を建《た》て、井筒《いづつ》も栗の木の四角な井桁《いげた》に更《か》えることにした。畑も一|反《たん》四|畝《せ》程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的《かんけつてき》だが、小婢《こおんな》も来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初《つかいぞめ》をして、「日々新」と父が其《その》板壁《いたかべ》に書いてくれた。
 斯くて千歳村《ちとせむら》の一年は、馬車馬の走る様《よう》に、さっさと過ぎた。今更《いまさら》の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令《たとえ》此《この》創業《そうぎょう》の一年が、稚気乃至多少の衒気《げんき》を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁《からさわ》ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
 彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。
[#改丁]

   草葉のささやき

     二百円

 樫《かし》の実が一つぽとりと落ちた。其|幽《かすか》な響が消えぬうちに、突《つ》と入って縁先に立った者がある。小鼻《こばな》に疵痕《きずあと》の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物《しまもの》ずくめの小商人《こあきんど》と云う服装《なり》。眉から眼にかけて、夕立《ゆうだち》の空の様な真闇《まっくら》い顔をして居る。
「私《わたし》は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻《かない》に不幸な者でして……斯《こう》申上げると最早《もう》御分かりになりましょうが」
 最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈《み》ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。
 彼は埼玉《さいたま》の者、養子であった。繭《まゆ》商法に失敗して、養家の身代を殆《ほと》んど耗《す》ってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、暫《しばらく》暮らして居たが、思わしい事もないので、大連《だいれん》に移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭《まんざくさ》い裏町にころがって居る内に、子供を亡《な》くしてしまった。
「可愛いやつでした。五歳《いつつ》でした、女児《おんなのこ》でしたがね、其《そ》れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻《かない》は無愛想でしても、女児《やつ》が阿爺《とうさん》、阿爺と歓迎して、帽子《ぼうし》をしまったり、其《そ》れはよくするのです。私も全《まった》く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンです。医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様《そん》な事をしたものでしょう。尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾《かつ》て斯々の事をした、それで斯様《かよう》な罰を受けたと懺悔《ざんげ》したそうですがね」
 彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、其会社のまあ大将ですね、其大将の家《うち》に奉公に住み込みました。何《なに》しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、生活なンかそりゃ贅沢《ぜいたく》なもンです。召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。奥さんは好《い》い方で、私共によく眼をかけてくれました。其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何《どう》も妻の容子《ようす》が変《かわ》って来ました。――妻ですか、何、美人なもンですか、些《ちっと》も好くはないのです」と彼は吐き出す様に云った。
「妻の容子がドウも変《へん》になりました。私も気をつけて見て居ると、腑《ふ》に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒《びいる》を盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼《わきめ》に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、窃《そっ》と主人の書斎の扉《どあ》の外に抜足《ぬきあし》してじいッと聴いたり、鍵《かぎ》の穴からも覗《のぞ》いて見ました。が、厚い厚い扉《どあ》です。中は寂然《ひっそり》して何を為《し》て居るか分かりません。私は実に――」
 彼は泣き声になった。一つに寄《よ》った真黒《まっくろ》い彼の眉はビリ/\動いた。唇《くちびる》は顫《ふる》えた。
「妻の眼色《めいろ》を読もうとしても、主人の貌色《かおいろ》に気をつけても、唯《ただ》疑念《ぎねん》ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様《こん》な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様《そう》妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出《いで》なさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出《おいで》なさい、と突慳貪《つっけんどん》に云うンです。最早《もう》私も堪忍出来なくなりました」
「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原《かわら》です。種々と妻を詰問しましたが、如何《どう》しても実を吐《は》きません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状《はくじょう》するなら宥《ゆる》す、嘘《うそ》を吐《つ》くなら命を貰《もら》うからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責《せ》めつけると、到頭《とうとう》悉皆《すっかり》白状してしまいました」
 彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人の俺《わし》が斯《こ》う手をついてあやまるから、何卒《どうぞ》内済《ないさい》にしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度《きっと》成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れる様《よう》な十円|札《さつ》でした、二百円呉れました」
「君は其二百円を貰ったンだね、何故《なぜ》其《その》短刀で其男を刺殺さなかった?」
 彼は俯《うつむ》いた。
「それから?」
「それから一旦《いったん》内地に帰って、また大連に行きました。最早《もう》主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而《そう》して今は?」
「今は東京の場末《ばすえ》に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君《さいくん》は?」
「妻は一緒に居るのです」
 話は暫く絶えた。
「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸《むね》がむしゃくしゃして仕様《しよう》がないものですから、それで今日《こんにち》は――」

           *

 忽然《こつぜん》と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。
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     百草園

 田の畔《くろ》に赭《あか》い百合《ゆり》めいた萱草《かんぞう》の花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園《もぐさえん》にでも往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中《ふちゅう》から遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路《じゅくろ》である。時計を見れば十一時、ちと晩《おそ》いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。
 大麦小麦はとくに刈《か》られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑《みどり》ならぬ処もない。其緑の中を一条《ひとすじ》白く西へ西へ山へ山へと這《は》って行く甲州街道を、二人は話しながらさッさと歩いた。太田君は紺絣《こんがすり》の単衣、足駄ばきで古い洋傘《こうもり》を手挾《たばさ》んで居る。主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅《いっちょうら》に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、麦藁の海水帽をかぶり、素足《すあし》に萎《な》えくたれた茶の運動靴をはいて居る。二人はさッさと歩いた。太田君は以前社会主義者として、主義《しゅぎ》宣伝《せんでん》の為、平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、中々健脚である。主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。一日に十里も歩けば、二日目は骨である。二人は大胯《おおまた》に歩いた。蒸暑《むしあつ》い日で、二人はしば/\額の汗を拭《ぬぐ》うた。
 府中に来た。千年の銀杏《いちょう》、欅《けやき》、杉など欝々蒼々《うつうつそうそう》と茂った大国魂神社の横手から南に入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川《たまがわ》の磧《かわら》に出た。此辺を分倍河原《ぶばいかわら》と云って、新田義貞大に鎌倉《かまくら》北条勢《ほうじょうぜい》を破った古戦場である。玉川の渡《わたし》を渡って、また十丁ばかり、長堤《ちょうてい》を築いた様に川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀《よ》じて百草園に来た。もと松蓮寺の寺跡《じせき》で、今は横浜の某氏が別墅《べっしょ》になって居る。境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。茶屋からまた一段|堆丘《たいきゅう》を上って、大樹に日をよけた恰好《かっこう》の観望台《かんぼうだい》がある。二人は其処の素床《すゆか》に薄縁《うすべり》を敷いてもらって、汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁《は》せた。
 東京近在で展望無双と云わるゝも譌《うそ》ではなかった。生憎《あいにく》野末の空少し薄曇《うすぐも》りして、筑波も野州上州の山も近い秩父《ちちぶ》の山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、磧《かわら》と人の手のあとの道路や家屋を示す些《ちと》の灰色とをもて描《えが》かれた大きな鳥瞰画《ちょうかんが》は、手に取る様に二人が眼下に展《ひろ》げられた。「好《い》い喃《なあ》」二人はかわる/″\景《けい》を讃《ほ》めた。
 やゝ眺《なが》めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳《かげ》った。時計をもたぬ二人は最早《もう》暮《く》るゝのかと思うた。蒸暑かった日は何時《いつ》しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。唯《と》見《み》ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨《いんき》色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然《そう》、降るかも知れんですな」
 二人は茶菓の代《しろ》を置いて、山を下りた。太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。日野までは一里強である。山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
 人家の珊瑚木《さんごのき》の生籬《いけがき》を廻って太田君の後姿《うしろすがた》は消えた。残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡《わたし》の方へ歩いて行った。川上《かわかみ》の空に湧いて見えた黒雲は、玉川《たまがわ》の水を趁《お》うて南東に流れて来た。彼の一足毎に空はヨリ黯《くら》くなった。彼は足を早めた。然し彼の足より雲の脚は尚早かった。一《いち》の宮《みや》の渡を渡って分倍河原に来た頃は、空は真黒になって、北の方で殷々※[#「門+眞」、第3水準1-93-54]々《ごろごろ》雷が攻太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車《こやしぐるま》も、あと押しをつけて、曳々声《えいえいごえ》して家の方へ急いで居る。
「太田君は何《ど》の辺まで往ったろう?」
 彼は一瞬時《またたくま》斯く思うた。而して今にも泣き出しそうな四囲《あたり》の中を、黙って急いだ。
 府中へ来ると、煤色《すすいろ》に暮れた。時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点《とも》して居る。早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。此処《ここ》で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、こゝに何時《いつ》霽《は》れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家《うち》に急いで居た。彼は一の店に寄って糸経《いとだて》を買うて被《かぶ》った。腰に下げた手拭《てぬぐい》をとって、海水帽の上から確《しか》と頬被《ほおかむり》をした。而して最早大分|硬《こわ》ばって来た脛《すね》を踏張《ふんば》って、急速に歩み出した。
 府中の町を出はなれたかと思うと、追《おい》かけて来た黒雲が彼の頭上《ずじょう》で破裂《はれつ》した。突然《だしぬけ》に天の水槽《たんく》の底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落《たきおと》しに撞々《どうどう》と落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。直《す》ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇《はげ》しい雷《らい》が鳴った。彼はぐっと息《いき》が詰《つま》った。本能的に彼は奔《はし》り出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあ※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]ドウ※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と漲《みなぎ》り落ちた。彼の頬被りした海水帽《かいすいぼう》から四方に小さな瀑が落ちた。糸経《いとだて》を被った甲斐もなく総身濡れ浸《ひた》りポケットにも靴にも一ぱい水が溜《たま》った。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色の電《いなずま》がぱっ/\と一しきり闇に降る細引《ほそびき》の様《よう》な太い雨を見せて光った。ごろ/\/\雷《かみなり》がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、夥《おびただ》しい爆竹《ばくちく》を一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上に砕《くだ》けた。長大《ちょうだい》な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。其《その》度《たび》に彼は思わず立竦《たちすく》んだ。如何《どう》しても落ちずには済《す》まぬ雷《らい》の鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度《きっと》落ちると覚期《かくご》せねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。此《この》街道《かいどう》の此部分で、今動いて居る生類《しょうるい》は彼一人である。雷が生《い》き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれて死《し》ぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りも直《なお》さず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里|隔《へだ》てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己《じこ》の生涯を省みた。其れは美《うつく》しくない半生であった。妻に対する負債《ふさい》の数々も、緋の文字《もじ》をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人《ひとり》はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭《あたま》に閃《ひらめ》いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇《はげ》しく鳴った。最早《もう》今度《こんど》は落ちた、と彼は毎々《たびたび》観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類《しょうるい》に対する憐愍《あわれ》に満された。彼の眼鏡《めがね》は雨の故ならずして曇《くも》った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
 調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降《こぶ》りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白《なまじろ》い夕明《ゆうあかり》になった。調布の町では、道の真中《まんなか》に五六人立って何かガヤ/\云いながら地《ち》を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出《で》りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋《まきごや》に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
 雷雨が過ぎて、最早|大丈夫《だいじょうぶ》と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡《ぬ》れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
 家へ六七丁の辺《へん》まで辿《たど》り着くと、白いものが立って居る。それは妻《つま》であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩《おそ》いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

 翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川《たまがわ》の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳《へさき》に居た男はうたれて即死、而して艫《とも》に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。
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     月見草

 村の人になった年《とし》、玉川の磧《かわら》からぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程に殖《ふ》えた。此頃は十数株、少《すくな》くも七八十輪|宵毎《よいごと》に咲いて、黄昏《たそがれ》の庭に月が落ちたかと疑われる。
 月見草は人好きのする花では無い。殊《こと》に日間《ひるま》は昨夜の花が赭《あか》く凋萎《しお》たれて、如何にも思切りわるくだらりと幹《みき》に付いた態《ざま》は、見られたものではない。然し墨染《すみぞめ》の夕に咲いて、尼《あま》の様に冷たく澄んだ色の黄、其《その》香《か》も幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁《はなびら》の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳《こころおど》らずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。
 八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家《うち》から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来《こらい》の死刑場《しおきば》、一方が墓地の其|中間《ちゅうかん》を通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳《こふん》新墳《しんふん》累々《るいるい》と立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間《ひるま》通る時、彼は毎《つね》に赭くうな垂《だ》れた昨宵《ゆうべ》の花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗《のぞ》く花を見た。斯《か》くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。
 其墓場の一端には、彼が甥《おい》の墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父《おじ》甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆の軸《じく》を甥に与えて、犬の如く啣《くわ》えて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭を掉《ふ》った。憎さげに甥を睨《にら》んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬《ほお》をぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎にかゝって、明《あ》くる年の正月元日病院で死んだ。屠蘇《とそ》を祝うて居る席に死のたよりが届《とど》いた。叔父の彼は異な気もちになった。彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。
 墓地は一方大川に面《めん》し、一方は其大川の分流に接して居た。甥は其分流近く葬《ほうむ》られた。甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。自分の甥の墓があると誇り貌《が》に告げて、彼は友達を引張って、甥の墓に詣《まい》った。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪《ひざまず》いて、凋《しお》れた月見草の花を折って、墓前の砂に插《さ》した。
 彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。
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     腫物

       一

 人声が賑《にぎ》やかなので、往って見ると、久《ひさ》さんの家は何時《いつ》の間にか解き崩《くず》されて、煤《すす》けた梁《はり》や虫喰《むしく》った柱、黒光りする大黒柱、屋根裏の煤竹《すすたけ》、それ/″\類《るい》を分って積まれてある。近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。件《くだん》の古家《ふるや》を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、其《そ》れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。時々|壁土《かべつち》が撞《どう》と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、庭木《にわき》や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、其処らじゅう明るくガランとして居る。
 家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳《ふるだたみ》を敷いて、眼の少し下って肥《こ》え脂《あぶら》ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろの剥《は》げた歯を桃色の齦《はぐき》まで見せて、買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出《つきだ》したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、コト/\藁《わら》を打って居る。婆さんや唖の巳代吉《みよきち》は本家へ帰ったとか。末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。
 一切の人と物との上に泣く様な糠雨《ぬかあめ》が落ちて居る。
 あゝ此《この》家《うち》も到頭《とうとう》潰《つぶ》れるのだ。

       二

 今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。弟は一人前なかったので婿養子をしたが、婿《むこ》と舅の折合が悪い為に、老夫婦《としよりふうふ》は息子を連れて新家に出た。今《いま》解《と》き崩されて片々《ばらばら》に売られつゝある家《うち》が即ち其れなのである。己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、老夫婦《としよりふうふ》は家財道具万端好いものは皆《みな》引《ひき》たくる様にして持って出た。よく実る柿の木まで掘って持って往った。
 痴《おろか》な息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をお広《ひろ》と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。婿入《むこいり》の時、肝腎《かんじん》の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、皆ドッと笑い出した。久太郎が彼の名であった。
 久さんに一人の義弟があった。久さんが生れて間もなく、村の櫟林《くぬぎばやし》に棄児《すてご》があった。農村には人手が宝《たから》である。石山の爺さんが右の棄児を引受《ひきう》けて育てた。棄児は大きくなって、名を稲次郎《いねじろう》と云った。彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子《むすこ》が行《ゆ》く/\の力にもなれと、稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。
 ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家《うち》を出たきり行方不明になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺《きちじょうじ》、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。彼は酒が好きだった。年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死《こごえし》んだのを物取りが来て剥《は》いだか、それとも追剥《おいはぎ》が殺して着物を剥いだか、死骸《しがい》は何も告げなかった。彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。
 主翁《おやじ》が死んで、石山の新家は※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《よめ》の天下《てんか》になった。誰も久《ひさ》さんの家《うち》とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。宮前は八幡前を謂うたのである。外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。彼女は相応《そうおう》に久さんを可愛《かあい》がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、義弟《ぎてい》稲次郎の子を二人まで生《う》んだ。其子は兄が唖で弟が盲であった。罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。其内、稲次郎は此辺で所謂|即座師《そくざし》、繭買《まゆかい》をして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子《おうじ》で首を縊《くく》って死んだ。其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字《となりあざ》の大工が妾の住家となった。私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

       三

 背後は雑木林、前は田圃《たんぼ》、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰《たつ》爺《じい》さんの家、それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事《ないしょうごと》には誂向《あつらえむ》きの場所だった。石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。唖と盲は稲次郎の胤《たね》と分ったが、彼《あの》二人《ふたり》は久さんのであろ、とある人が云うたら、否、否、あれは何某《なにがし》の子でさ、とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑《にがわらい》した。Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖《ふ》えた。殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還《かえ》って往った。新家は博徒|破落戸《ならずもの》の遊び所になった。博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己《わ》が不断《ふだん》の住家にした。眼のぎろりとした、胡麻塩髯《ごましおひげ》の短い、二度も監獄の飯を食った、丈の高い六十|爺《じじい》の彼は、村内に己が家はありながら婿夫婦《むこふうふ》を其家に住まして、自身は久さんの家を隠れ家にした。昼《ひる》は炉辺《ろべた》の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並《なら》べた。久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵《たくわん》で早飯食わして、僕《ぼく》かなんぞの様に仕事に追い立て、あとでゆる/\鰹節《かつぶし》かいて甘《うま》い汁《しる》をこさえて、九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。
「俺《おら》ァ嬶《かか》とられちゃった」と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人《やど》が正直《しょうじき》だから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしい媼《ばあ》さんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝《けげん》な眼を上げて、「え?」と頓狂《とんきょう》な声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜《まくわ》を食《く》ってたて事よ、ふ※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然し婆《ばあ》さんは※[#「女+息」、第4水準2-5-70]の乱行《らんぎょう》家の乱脈《らんみゃく》に対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液《めしる》たらして竈《へっつい》の下を焚《た》いたり、海老《えび》の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃《は》いたり、杖にすがって※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《よめ》の命のまに/\使《つか》いあるきをしたり、其《そ》れでも其《その》無能《むのう》の子を見すてゝ本家に帰ることを得《え》為《せ》なかった。それに婆《ばあ》さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭《しらがあたま》の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切《しりきれ》草履突かけて竹杖《たけづえ》にすがって行く婆さんの背《うしろ》から、鍬《くわ》をかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、※[#「女+息」、第4水準2-5-70]に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「お広《ひろ》、断わるがいゝ」と啖呵《たんか》を切った。

       四

 死んだ棄児《すてご》の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書《ほん》を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其|韮《にら》や野菜菊は内で作ったの、其|炉縁《ろぶち》は自分のだの、と物毎に争《あらそ》うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其|値《ね》を争うた。買主は戯談《じょうだん》に「無代《ただ》でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者《やそきょうしんじゃ》じゃありませんか。信者が其様《そん》な事を云うてようござンすか」とやり込《こ》めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其|素行《そこう》について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹《きっ》と向き直り、あべこべに義兄に喰《く》ってかゝり、老人と正直者を任《まか》せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張《よくば》ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖《くちぐせ》であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語《がた》りの勢込《いきおいこ》んでまくしかけ、「如何《いか》に兄が本《ほん》が読めるからって、村会議員《そんかいぎいん》だからって、信者だって、理《り》に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》、※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》、ふん、ふん」と鼻《はな》を鳴《な》らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者《ばくれんもの》で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太《ぶた》さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨《やぶにらみ》で、気が少し変である。ピイ/\声《ごえ》で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負《おぶ》っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女《むすめ》もなくなっただァ」と云いかけて、斜視《やぶ》の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原《はぎわら》の武太郎は、五宿へ往って女郎買《じょろうかい》ばかしするやくざ者《もの》で」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙《おりがみ》つきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、久《ひさ》さんのおかみばかりである。「彼様な女房《にょうぼ》持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言う毎《ごと》に武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかず媼《ばあ》さんばかりは、久さんのおかみを済度《さいど》す可く彼女に近しくした。
 稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱《むぎこ》きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆《えんどう》や里芋を売ってもらったりした。おかみも小金《こがね》を借《か》りに来たり張板を借《か》りに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家に集《つど》う博徒《ばくと》の若者が、夏の夜帰《よがえ》りによく新村入の畑に踏《ふ》み込《こ》んで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんの家《うち》に往く毎に胸を悪くして帰った。障子《しょうじ》は破れたきり張ろうとはせず、畳《たたみ》は腸《はらわた》が出たまゝ、壁《かべ》は崩《くず》れたまゝ、煤《すす》と埃《ほこり》とあらゆる不潔《ふけつ》に盈《みた》された家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよく此《この》中《なか》で蚕に桑をくれたり、大肌《おおはだ》ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンと響《おと》をさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡《めがね》をかけて縁先《えんさき》で襤褸《ぼろ》を繕《つくろ》ったりして居た。

       五

 新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんの家《うち》で、今一つは品川堀の側にある店《みせ》であった。其店には賭博《ばくち》をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰《つぶ》れ、目ざす家は久さんの家だけになった。己《わ》が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩《わずろ》うた。色々の「我」が寄って形成《けいせい》して居る彼家は、云わば大《おお》きな腫物《はれもの》である。彼は眼の前に臭《くさ》い膿《うみ》のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
 ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色《こうもりいろ》の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧《わ》いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退《しざ》り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀《かみそり》で殺害した事を、彼女は何処《どこ》からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己《わ》が肉《にく》にうけたかの様に切ない声で云った。
 聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁《ささや》いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊《き》いた。おかみは、巳代が三歳《みっつ》までよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言《いちごん》にして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃|飼《か》った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛の祟《たた》りだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公《いのこう》が盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさし俯《うつむ》くおかみに向うて、此《この》家《うち》の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届《ふとどき》の数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。
 それから二三日|経《た》つと、彼は屋敷下を通る頬冠《ほおかむり》の丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張《ひっぱ》った。満地の日光を樫の影が黒《くろ》く染《そ》めぬいて、あたりには人の影《かげ》もなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒《ふらち》を責め最早《もう》六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花《しにばな》を咲かせろと勧めた。親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

       六

 然しながら彼《かの》癌腫《がんしゅ》の様な家の運命は、往く所まで往かねばならなかった。
 己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩《あんま》の弟子にした。家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻《まわ》った勝気の亥之吉は、按摩の弟子になってめき/\上達し、追々《おいおい》一人前の稼ぎをする様になった。おかみは行々《ゆくゆく》彼をかゝり子にする心算《つもり》であった。それから自身によく肖《に》た太々《ふてぶて》しい容子をした小娘《こむすめ》のお銀を、おかみは実家近くの機屋《はたや》に年季奉公に入れた。
 二人の兄の唖の巳代吉《みよきち》は最早若者の数に入った。彼は其父方の血を示《しめ》して、口こそ利けね怜悧な器用な華美《はで》な職人風のイナセな若者であった。彼は吾家に入り浸《びた》る博徒の親分を睨《にら》んだ。両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様《こんな》だと眼色を変えて人に訴えた。親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。母を窃《ぬす》む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。巳代公を入れるより彼《あの》二人《ふたり》を入れろ、と村の者は罵った。巳代吉は本家から願下《ねがいさ》げて、監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。然し親分は中々其居馴れた久さんの家《うち》の炉《ろ》の座《ざ》を動こうともしなかった。親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合《にらみあい》の姿となった。或日巳代吉は手頃《てごろ》の棒《ぼう》を押取って親分に打ってかゝった。親分も麺棒《めんぼう》をもって渡り合った。然し血気の怒に任《まか》する巳代吉の勢鋭く、親分は右の手首を打折《うちお》られ、加之《しかも》棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂《さ》かれ、大分の痛手《いたで》を負うた。隣家の婆さんが駈《か》けつけて巳代吉を宥《なだ》めなかったら、親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。繃帯《ほうたい》して右手《めて》を頸《くび》から釣って、左の手で不精鎌《ぶしょうがま》を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後《あと》の事だった。喧嘩の仲入《なかいり》に駈けつけた隣の婆さんは、側杖《そばづえ》喰《く》って右の手を痛めた。久さんのおかみは、詫《わ》び心に婆さん宅の竈《へっつい》の下など焚《た》きながら、喧嘩の折節《おりふし》近くに居合わせながら看過《みすぐ》した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

       七

 田畑は勿論《もちろん》宅地《たくち》もとくに抵当《ていとう》に入り、一家中|日傭《ひやとい》に出たり、おかみ自身《じしん》手織《ており》の木綿物《もめんもの》を負って売りあるいたこともあったが、要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。「お広さん、大層《たいそう》精《せい》が出ますね」久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、「天狗様《てんごうさま》の様に働くのさ」とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。おかみは一切稼ぎを廃《よ》した。而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装《なり》をして親分と東京に往った。家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前《きまえ》を見せて素手では帰さなかった。彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵《ふてき》であった。

           *

 到頭|腫物《しゅもつ》が潰《つぶ》れる時が来た。
 おかみは独で肝煎《きもい》って、家を近在《きんざい》の人に、立木《たちき》を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻《とりもど》して隣の辰爺さんに売り、大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、一人残った腫れぼったい瞼《まぶた》をした末の息子を近村の人に頼み、唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉《いのきち》と間借《まが》りして住む可く東京へ往って了うた。
 酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。
 嬶《かか》に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰《く》って一人木小屋に踏み留まった久さんも、是非なく其姉と義兄の世話になるべく、頬冠《ほおかむり》の頭をうな垂れて草履《ぞうり》ぼと/\懐手《ふところで》して本家に帰った。
 屋敷のあとは鋤《す》きかえされて、今は陸稲《おかぼ》が緑々《あおあお》と茂って居る。
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     わかれの杉

 彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡《ちんじゅはちまん》である。型の通りの草葺の小宮《こみや》で、田圃《たんぼ》を見下ろして東向きに立って居る。
 月の朔《ついたち》には、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞《のりと》を上げ、氏子《うじこ》の神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山《たくさん》入《はい》った神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。春の雹祭《ひょうまつり》、秋の風祭《かざまつり》は毎年の例である。彼が村の人になって六年間に、此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽《ひるかぐら》が一度あった。入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事《よりあいごと》があれば、天候季節の許す限りは此処の拝殿《はいでん》でしたものだ。乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、つい昨年になって拝殿に格子戸《こうしど》を立て、締《しま》りをつけた。内務省のお世話が届き過ぎて、神社合併が兎《と》の、風致林《ふうちりん》が角《こう》のと、面倒な事だ。先頃も雑木《ぞうき》を売払って、あとには杉か檜苗《ひのきなえ》を植えることに決し、雑木を切ったあとを望の者に開墾《かいこん》させ、一時豌豆や里芋を作らして置いたら、神社の林地なら早々《そうそう》木を植えろ、畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、其筋から脅《おど》されたので、村は遽《あわ》てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。
 粕谷八幡はさして古《ふる》くもないので、大木と云う程の大木は無い。御神木と云うのは梢《うら》の枯《か》れた杉の木で、此は社《やしろ》の背《うしろ》で高処だけに諸方から目標《めじるし》になる。烏がよく其枯れた木末《こずえ》にとまる。
 宮から阪の石壇《いしだん》を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃《たんぼ》がよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋《いしばし》を渡り、東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干《らんかん》無しの石橋を渡り、やがて二つに分岐《ぶんき》して、直な方は人家の木立の間を村に隠《かく》れ、一は人家の檜林に傍《そ》うて北に折れ、林にそい、桑畑《くわばたけ》にそい、二丁ばかり往って、雑木山の端《はし》からまた東に折れ、北に折れて、六七丁往って終に甲州街道に出る。此雑木山の曲《まが》り角《かど》に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。
 村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下《した》に立って色々の人を送った。彼《かの》田圃を渡《わた》り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送《もくそう》した人も少くはなかった。中には生別《せいべつ》即《そく》死別《しべつ》となった人も一二に止まらない。生きては居ても、再び逢《あ》うや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送《みおくり》の杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。
 其は小説|寄生木《やどりぎ》の原著者篠原良平の小笠原《おがさわら》善平《ぜんぺい》である。明治四十一年の三月十日は、奉天決勝《ほうてんけっしょう》の三週年。彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、三年前の前々日《ぜんぜんじつ》であった。三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂《さび》しい日であった。突然彼小笠原は来訪した。一年前、此家の主人《あるじ》は彼小笠原に剣を抛《なげう》つ可く熱心《ねっしん》勧告《かんこく》したが、一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙《えこ》情実に愛想《あいそう》をつかし疳癪《かんしゃく》を起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語《ろご》をやろうと云って居た。陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。雪は終日降り、夜すがら降った。主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆《はんぷく》討論《とうろん》した。而して共に六畳に枕《まくら》を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。
 明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。まだ綿の様《よう》な雪がぼったり/\降って居る。此辺では珍らしい雪で、一尺の上《うえ》積《つも》った。彼小笠原は外套の頭巾《ずきん》をすっぽりかぶって、薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏《ふ》み込みながら家《うち》を出《で》て往った。主は高足駄を穿《は》き、番傘《ばんがさ》をさして、八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉《たま》え」
「色々お世話でした」
 傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、また一しきり烈《はげ》しく北から吹きつくる吹雪《ふぶき》の中を、黒い外套姿が少し前俛《まえこご》みになって、一足ぬきに歩いて行く。第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折《お》れて、到頭《とうとう》見えなくなってしもうた。
 半歳《はんとし》の後、彼は郷里の南部《なんぶ》で死んだ。
 漢人の詩に、
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歩出《ほしていづ》城東門《じやうとうのもん》、     遙望《はるかにのぞむ》江南路《こうなんのみち》、
前日《ぜんじつ》風雪中《ふうせつのうち》、     故人《こじん》従此去《これよりさる》、
[#ここで字下げ終わり]
 別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。
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     白

       一

 彼の前生は多分《たぶん》犬《いぬ》であった。人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程|可愛《かあい》いものを知らぬ。子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、裾《すそ》は喰《く》いさかれ、其様《そん》なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱《しか》られても、また走り出ては犬と狂うた。犬の為には好きな甘《うま》い物《もの》も分けてやり、小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半《よなか》にも起きて見た。明治十年の西郷戦争《さいごうせんそう》に、彼の郷里の熊本は兵戈《へいか》の中心となったので、家を挙《あ》げて田舎に避難したが、オブチと云う飼犬のみは如何しても家《うち》を守って去らないので、近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。三月程して熊本城の包囲が解け、薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、オブチは彼の家に陣《じん》どった薩摩健男《さつまたけお》に喰われてしまって、頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。彼の絶望と落胆は際限が無かった。久しぶりに家《うち》に還《かえ》って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯|哭《なげ》いた。南洲《なんしゅう》の死も八千の子弟の運命も彼には何《なん》の交渉もなく、西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。
 村入して間もなく、ある夜|先家主《せんやぬし》の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。二子の渡《わたし》の近所から貰って来たと云う。鼻尖《はなさき》から右の眼にかけ茶褐色の斑《ぶち》がある外は真白で、四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前《きまえ》鷹揚《おうよう》に、坊ちゃんと云った様な小犬である。既に近所からもらった黒い小犬もあるので、二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、到頭貰うことにした。今まで畳《たたみ》の上に居たそうな。早速《さっそく》畳に放尿《いばり》して、其晩は大きな塊《かたまり》の糞を板の間にした。
 新来の白《しろ》に見かえられて、間もなく黒《くろ》は死に、白の独天下となった。畳から地へ下ろされ、麦飯《むぎめし》味噌汁《みそしる》で大きくなり、美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。雄《おす》であったが、雌《めす》の様な雄であった。
 主夫妻《あるじふさい》が東京に出ると屹度|跟《つ》いて来る。甲州《こうしゅう》街道《かいどう》を新宿へ行く間《あいだ》には、大きな犬、強い犬、暴《あら》い犬、意地悪い犬が沢山居る。而してそれを嗾《け》しかけて、弱いもの窘《いじ》めを楽む子供もあれば、馬鹿な成人《おとな》もある。弱い白は屹度|咬《か》まれる。其れがいやさに隠れて出る様《よう》にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。而して咬まれる。悲鳴をあげる。二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥《む》き出す。己れより小さな犬にすら尾を低《た》れて恐れ入る。果ては犬の影され見れば、己《われ》ところんで、最初から負けてかゝる。それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。最早《もう》懲《こ》りたろうと思うて居ると、今度出る時は、又候《またぞろ》跟いて来る。而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫《かし》の木の下にぐったり寝ながら、夢中で走るかの様に四肢《しし》を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
 弱くても雄は雄である。交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、村内唯一の牝犬《めいぬ》の許《もと》に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、床の下に三日|潜《もぐ》り込んで居たのであった。武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉《よろよろ》と帰って来る姿を見ると、生殖の苦を負《お》う動物の運命を憐まずには居られなかった。一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。美しいポインタァ種の黒犬で、家の人が見廻《みまわ》りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲《まわり》を巡視し、夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。其犬がぶらりと遊びに来た。而して主人《しゅじん》に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸《すえくび》で、甚《はなはだ》固くなって居た。牝犬はやがて往きかけた。白は纏綿《てんめん》として後になり先きになり、果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、媒妁《なかだち》して下さいと云い貌《がお》にクンクン鳴いたが、主人はもとより如何ともすることが出来なかった。
 其秋白の主人《あるじ》は、死んだ黒のかわりに彼《かの》牝犬の子の一疋をもらって来て矢張《やはり》其《そ》れを黒と名づけた。白は甚《はなはだ》不平《ふへい》であった。黒を向うに置いて、走りかゝって撞《どう》と体当《たいあた》りをくれて衝倒《つきたお》したりした。小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動《うご》けぬ処にもぐり込んで、其処《そこ》から白に敵対して吠えた。然し両雄《りょうゆう》並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。而《しか》して再《ふたた》び白の独天下になった。可愛《かあい》がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍《どん》の性質はいよ/\鈍になった。よく寝惚《ねぼ》けて主人《しゅじん》に吠えた。主人と知ると、恐れ入って、膝行頓首《しっこうとんしゅ》、亀《かめ》の様に平太張りつゝすり寄って詫《わ》びた。わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭《へいしんていとう》して恐る/\すり寄って来る。頭を撫でると、其手を軽く啣《くわ》えて、衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息《ためいき》をついた。

       二

 死んだ黒《くろ》の兄《あに》が矢張黒と云った。遊びに来ると、白《しろ》が烈しく妬《ねた》んだ。主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日《しゅうじつ》影を見せぬことがあった。
 甲州《こうしゅう》街道《かいどう》に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。坊ちゃんの白を一方《ひとかた》ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬《か》んだ。ある時、裏の方で烈《はげ》しい犬の噛み合う声がするので、出《で》て見ると、黒と白とが彼|天狗《てんぐ》犬《いぬ》を散々《さんざん》咬んで居た。元来平和な白は、卿《おまえ》が意地悪だからと云わんばかり恨《うら》めしげな情なげな泣き声をあげて、黒と共に天狗犬に向うて居る。聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立《さかだ》てゝ、甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送《みおく》った。
 其後白と黒との間に如何《どん》な黙契が出来たのか、白はあまり黒の来遊《らいゆう》を拒まなくなった。白を貰《もら》って来てくれた大工が、牛乳《ぎゅうにゅう》車《ぐるま》の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納《おさ》まって居ることもあった。界隈《かいわい》に野犬《やけん》が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻《いなずま》強盗《ごうとう》の如く横行し、夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。雨戸《あまど》引きあけると、何ものか影の如く走《は》せ去《さ》った。白は後援を得てやっと威厳《いげん》を恢復し、二足三足あと追《おい》かけて叱《しか》る様に吠えた。野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。其様な事が二三度もつゞいた。其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。一夜《いちや》庭先《にわさき》で大騒ぎが起った。飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆《きたい》であった。
 白と黒は大の仲好《なかよし》になって、始終共に遊んだ。ある日近所の与右衛門《よえもん》さんが、一盃機嫌で談判《だんぱん》に来た。内の白と彼《かの》黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑《はたけ》の大豆を散々踏み荒したと云うのである。如何して呉《く》れるかと云う。仕方が無いから損害を二円払うた。其後黒の姿はこっきり見えなくなった。通りかゝりの武太《ぶた》さんに問うたら、与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家《とこ》では余儀なく作男《さくおとこ》に黒を殺させ、作男が殺して煮《に》て食うたと答えた。うまかったそうです、と武太さんは紅い齦《はぐき》を出してニタ/\笑った。
 ある日見知らぬかみさんが来て、此方《こちら》の犬に食われましたと云って、汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏《しゃも》の頭と足を二本出して見せた。内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、確に此方の犬と認《みと》めたのかときいたら、かみさんは白い犬だった、聞けば粕谷《かすや》に悪《わり》イ犬が居るちゅう事だから、其《そ》れで来たと云うのだ。折よく白が来た。かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。然し新参者《しんざんもの》の弱身で、感情を傷《そこな》わぬ為|兎《と》に角《かく》軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。彼《かれ》は斯様な出金を東京税《とうきょうぜい》と名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。
 白の頭上には何時となく呪咀《のろい》の雲がかゝった。黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪《しょうわる》の天狗犬と交る様になった。天狗犬に嗾《そそのか》されて、色々の悪戯も覚えた。多くの犬と共に、近在《きんざい》の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。遅鈍な白《しろ》は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、其|着物《きもの》の著《いちじる》しい為に認められたのかも知れなかった。其内村の収入役の家で、係蹄《わな》にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、其れは黒い犬だったそうで、さし当《あた》り白の冤は霽《は》れた様《よう》なものゝ、要するに白の上に凶《あし》き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳《かげ》を作った。
 到頭白の運命の決する日が来た。隣家《りんか》の主人が来て、数日来猫が居なくなった、不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。貴家《おうち》の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。
 最早詮方は無い。此まゝにして置けば、隣家は宥《ゆる》してくれもしようが、必《かならず》何処《どこ》かで殺さるゝに違いない。折も好し、甲州《こうしゅう》の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。白の主人は夏の朝早く起きて、赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪《おぎくぼ》の停車場《ていしゃば》まで牽《ひ》いて往った。千歳村《ちとせむら》に越した年の春もろうて来て、この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。田圃を通って、雑木山《ぞうきやま》に入る岐《わか》れ道まで来た時、主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙《はるか》に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟《つ》いて来た。停車場前の茶屋で、駄菓子《だがし》を買うてやったが、白は食《く》おうともしなかった。貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。

       三

 最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家《うち》から約四里|甲府《こうふ》の停車場まで帰路《きろ》を探がしたと云う事を報じた。然《しか》し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。
 赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。眼尻が少し下《さが》って、口をあんとあいたところは、贔屓目《ひいきめ》にも怜悧な犬ではなかった。然し赤沢君の村は、他《ほか》に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。

           *

 白が甲州に養《やしな》われて丁度一年目の夏、旧主人《きゅうしゅじん》夫妻《ふさい》は赤沢君を訪ねた。其《その》家《うち》に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。喫驚《びっくり》する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。「白」と声をかくるより早く、土足《どそく》で座敷に飛び上り、膝行《しっこう》匍匐《ほふく》して、忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。其日は始終《しじゅう》跟《つ》いてあるき、翌朝山の上の小舎《こや》にまだ寝て居ると、白は戸の開《あ》くや否飛び込んで来て、蚊帳《かや》越《ご》しにずうと頭をさし寄せた。帰《かえ》りには、予め白を繋《つな》いであった。別《わかれ》に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。而《しか》して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋《とうりんきょう》の辺まで、白《しろ》は彼等の足跡を嗅《か》いで廻《まわ》って、大騒ぎしたと云うことであった。
 翌年の春、夫妻は二たび赤沢君《あかざわくん》を訪うた。白は喜のあまり浮かれて隣家《りんか》の鶏を追廻し、到頭一羽を絶息させ、而《しか》して旧主人《きゅうしゅじん》にまた損害を払わせた。
 其《その》後《のち》白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。笛吹川《ふえふきがわ》未曾有《みそう》の出水で桃林橋が落ちた。防水護岸の為|一村《いっそん》の男総出で堤防に群《むら》がって居ると、川向うの堤に白いものゝ影が見えた。其は隣郡に遊びに往って居た白であった。白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、白は向うの堤を川上へ凡《およそ》二丁ばかり上ると、身を跳《おど》らしてざんぶとばかり濁流、箭の如《ごと》き笛吹川に飛び込んだ。あれよ/\と罵《ののし》り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、斜に洪水の川を游《およ》ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉《いっせい》に喝采の声をあげた。弱い彼にも猟犬《りょうけん》即《すなわ》ち武士の血が流れて居たのである。
 白に関する最近の消息は斯《こ》うであった。昨春《さくしゅん》当時《とうじ》の皇太子殿下今日の今上陛下《きんじょうへいか》が甲州御出の時、演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。其《その》時《とき》吠《ほ》えたりして貴顕に失礼《しつれい》があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。主人が拘束されなかったのはまだしもであった。

       四

 白の旧主《きゅうしゅ》の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアル種《しゅ》の鼠《ねずみ》程《ほど》な可愛い牝犬《めいぬ》をもらって来てくれた。ピンと名をつけて、五年来《ごねんらい》飼うて居る。其子孫も大分|界隈《かいわい》に蕃殖した。一昨年から押入婿《おしいりむこ》のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。昨秋からは追うても捨《す》てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来《ふうらい》の牝犬も居る。然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。


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白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。「白」は幸福な犬です。
  大正十二年二月九日追記
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     ほおずき

       一

 其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。一家《いっか》総出《そうで》の時は、大戸を鎖《さ》して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、
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○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣《きたどなり》△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
  月日  氏名
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 斯く張札《はりふだ》して置いた。稀には飼犬を縁先《えんさ》きの樫の木に繋《つな》いで置くこともあったが、多くは郵便箱に留守をさした。帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、主人《しゅじん》が穿《は》きふるした薩摩下駄を物数寄《ものずき》にまだ真新《まあたら》しいのに穿きかえて行《い》く人なぞもあった。ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。
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君を尋ねて草鞋《わらぢ》で来れば
君は在《いま》さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ
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 明治四十一年の新嘗祭の日であった。東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児《むすめ》と共に、つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車《しょうにぐるま》を押して、星光を踏みつゝ野路《のじ》を二里くたびれ果てゝ帰宅した。
 隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、二三人の足音と車の響が門口に止まった。車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来《き》た。つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げて置《お》きましたが……」
 其様《そん》な手紙は未だ見なかったのである。来意《らいい》を聞けば、信州の者で、一晩《ひとばん》御厄介《ごやっかい》になりたいと云うのだ。主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、と勉強して兎に角戸をあけて内に請《しょう》じた。吉祥寺《きちじょうじ》から来たと云う車夫は、柳行李《やなぎごうり》を置いて帰った。

       二

 ランプの明《あか》りで見れば、男は五分刈《ごぶがり》頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷《まるまげ》に結って居る。主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物《みやげもの》を取出し主人夫妻《しゅじんふさい》の前にならべた。葡萄液|一瓶《ひとびん》、「醗酵《はっこう》しない真の葡萄汁《ぶどうしる》です」と男が註を入れた。杏《あんず》の缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出《とりだ》したのは、十七八ずつも実《な》った丹波酸漿《たんばほおずき》が二本。いずれも紅《あか》いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事《みごと》な」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母《うば》が丹精《たんせい》して大事に大事に育てたのです」と婦人が誇《ほこ》り貌《が》に口を添えた。二つ三つ語を交《か》わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者《やそしんじゃ》、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日《あした》は少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。
 兎に角|飯《めし》を食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女が憂《うれ》わしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好《いけな》かった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊《わがままぼっ》ちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉《かいろ》を入れてやった。大分《だいぶ》落《おち》ついたと云う。晩《おそ》くなって風呂が沸《わ》いた。まあお客様からと請《しょう》じたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。寝《ね》ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組《しゅじんぐみ》は此方《こち》、客は彼方《あち》と頭《あたま》突《つ》き合わせである。無い蒲団を都合《つごう》して二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

       三

 明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯《あさめし》を十時にやります。あなた方はお構《かま》いなく」と何方《どち》が主やら客やら分《わ》からぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。
 畠仕事《はたけしごと》をして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。彼《かれ》は生活の闘烈しい雪の山国《やまぐに》に生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当《かんどう》同様《どうよう》の身となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖《さしづえ》を取ると、突然《いきなり》劇《はげ》しく先生たる彼の背《せなか》を殴《なぐ》った。彼は徐《しずか》に顧みて何を為《す》ると問うた。其《その》生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下《ごめんくだ》さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、と跪《ひざまず》いて詫《わ》びた。彼は其生徒を賞《ほ》めて、辞退するのを無理に筆を三本|褒美《ほうび》にやった。
 斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生が炙《い》れて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。
 女は甲州の釜無川《かまなしがわ》の西に当る、ある村の豪家の女《むすめ》であった。家では銀行などもやって居た。親類内《しんるいうち》に嫁に往ったが、弟が年若《としわか》なので、父は彼女夫妻を呼んで家《うち》の後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目《よそめ》には模範的夫婦と見られた。良人《おっと》はやさしい人で、耶蘇《やそ》教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州《しんしゅう》の一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心を撼《うご》かした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時《いつ》となく彼女と彼の間に無線電信《むせんでんしん》がかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、妻《つま》に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若《としわか》ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭《とうとう》家《うち》を脱け出して信州の彼が許《もと》に奔《はし》ったのである。

           *

 朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内《みちしるべ》かた/″\柳行李を負《お》わせてやることにした。
 彼は尻をからげて、莫大小《めりやす》の股引《ももひき》白足袋《しろたび》に高足駄をはき、彼女は洋傘《こうもり》を杖《つえ》について海松色《みるいろ》の絹天《きぬてん》の肩掛《かたかけ》をかけ、主婦に向うて、
「何卒《どうぞ》覚《おぼ》えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

 一年程過ぎた。
 此世から消え失せたかの様に、二人の消息《しょうそく》ははたと絶えた。
「如何《どう》したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
 主人夫妻は憶《おも》い出《だ》す毎《たび》に斯く云い合った。
 丁度《ちょうど》満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日《いちにち》一夜《いちや》を忘れなかった、と書いてある。
 吁《ああ》彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言《いちごん》を言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中《ひゃっかえんちゅう》のそゞろあるきではあるまい、とは期《ご》して居たが、彼女は早くも死んだの乎。
 聞《き》きたいのは、沈黙の其一年の消息である。知りたいのは、其《その》死《し》の状《さま》である。

           *

 あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。
 彼等夫妻は千曲川《ちくまがわ》の滸《ほとり》に家をもち、養鶏《ようけい》などやって居た。而して去年《きょねん》の秋の暮、胃病《いびょう》とやらで服薬して居たが、ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加《つけくわ》えた。

           *

 某氏はまた斯様《こん》な話をした。亡くなった彼女は、思い切った女であった。人の為に金でも出す時は己が着類《きるい》を質入《しちい》れしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫《ぜんふ》は親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇《やそ》を信じて外川先生の門人となるに及んで、聖書の教を文句通《もんくどお》り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸《ならずもの》等が借金に押しかけ、数千円は斯くして還らぬ金となった。彼の家には精神病の血があった。彼も到頭遺伝病に犯された。其為彼の妻は彼と別居した。彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家《うち》に時々来ては、妻を呼び出してもろうて逢うた。彼の臨終の場にも、妻は居なかった。此時彼女の魂はとく信州にあったのである。彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。実家の母が瞋《いか》ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に居る時から追々《おいおい》に金を信州へ送り、千曲川の辺の家《うち》も其れで建てたと云うことであった。

           *

 彼夜彼女が持《も》て来てくれたほおずきは、あまり見事《みごと》なので、子供にもやらず、小箪笥《こだんす》の抽斗《ひきだし》に大切にしまって置いたら、鼠が何時の間にか其《その》小箪笥を背《うしろ》から噛破って喰ったと見え、年《とし》の暮《くれ》に抽斗をあけて見たら、中実《なかみ》無しのカラばかりであった。
 年々《ねんねん》酸漿《ほおずき》が紅くなる頃になると、主婦はしみ/″\彼女を憶《おも》い出すと云うて居る。
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     碧色の花

 色彩の中で何色《なにいろ》を好むか、と人に問われ、色彩について極めて多情な彼《かれ》は答に迷うた。
 吾墓の色にす可き鼠色《ねずみいろ》、外套に欲しい冬の杉の色、十四五の少年を思わす落葉松の若緑《わかみどり》、春雨を十分に吸うた紫《むらさき》がかった土の黒、乙女の頬《ほお》に匂《にお》う桜色、枇杷バナナの暖かい黄、檸檬《れもん》月見草《つきみそう》の冷たい黄、銀色の翅《つばさ》を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯《ねったい》の海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉を泛《うか》べ或時は底深く日影金糸を垂《た》るゝ山川の明るい淵《ふち》の練《ね》った様な緑玉《エメラルド》、盛り上り揺《ゆ》り下ぐる岩蔭の波の下《した》に咲く海アネモネの褪紅《たいこう》、緋天鵞絨《ひびろうど》を欺く緋薔薇《ひばら》緋芥子《ひげし》の緋紅、北風吹きまくる霜枯の野の狐色《きつねいろ》、春の伶人《れいじん》の鶯が着る鶯茶、平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠《はとはねずみ》、高山の夕にも亦やんごとない僧《そう》の衣にもある水晶にも宿《やど》る紫、波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも大理石にも樺《かば》の膚《はだ》にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白《しろ》、数え立つれば際限《きり》は無い。色と云う色、皆《みな》好《す》きである。
 然しながら必其一を択《えら》まねばならぬとなれば、彼は種として碧色を、度《ど》として濃碧《のうへき》を択ぼうと思う。碧色――三尺の春の野川《のがわ》の面《おも》に宿るあるか無きかの浅碧《あさみどり》から、深山の谿《たに》に黙《もだ》す日蔭の淵の紺碧《こんぺき》に到るまで、あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊《こと》に鮮《あざ》やかに煮え返える様な濃碧は、彼を震いつかす程の力を有《も》って居る。
 高山植物の花については、彼は呶々《どど》する資格が無い。園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。西洋草花《せいようくさばな》にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。春竜胆《はるりんどう》、勿忘草《わすれなぐさ》の瑠璃草も可憐な花である。紫陽花《あじさい》、ある種の渓※[#「くさかんむり/孫」、第3水準1-91-17]《あやめ》、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。秋には竜胆《りんどう》がある。牧師の着物を被た或詩人は、嘗《かつ》て彼の村に遊びに来て、路に竜胆の花を摘《つ》み、熟々《つくづく》見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。露の乾《ひ》ぬ間《ま》の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素《ようそ》とする。それから夏の草花には矢車草がある。舶来種のまだ我《わが》邦土《ほうど》には何処やら居馴染《いなじ》まぬ花だが、はらりとした形も、深《ふか》い空色も、涼しげな夏の花である。これは園内《えんない》に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄《き》ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗ってトルストイ翁《おう》のヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]に赴《おもむ》く時、朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮《こうふん》とで熱病患者の様であった彼の眼にも、花の空色は不思議に深い安息《いこい》を与えた。
 夏には更《さら》に千鳥草《ちどりそう》の花がある。千鳥草、又の名は飛燕草。葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状《さま》をして居る。園養《えんよう》のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞《しま》のもあるが、野生の其《そ》れは濃碧色《のうへきしょく》に限られて居る様だ。濃碧が褪《うつろ》えば、菫色《すみれいろ》になり、紫になる。千鳥草と云えば、直ぐチタ[#「チタ」に二重傍線]の高原が眼に浮ぶ。其れは明治三十九年露西亜の帰途《かえり》だった。七月下旬、莫斯科《もすくわ》を立って、イルクツク[#「イルクツク」に二重傍線]で東清鉄道の客車に乗換え、莫斯科を立って十日目《とおかめ》にチタ[#「チタ」に二重傍線]を過ぎた。故国を去って唯四ヶ月、然しウラル[#「ウラル」に二重傍線]を東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。イルクツク[#「イルクツク」に二重傍線]で乗換《のりか》えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。イルクツク[#「イルクツク」に二重傍線]から一駅毎に支那人を多く見た。チタ[#「チタ」に二重傍線]では殊《こと》に支那人が多く、満洲《まんしゅう》近い気もち十分《じゅうぶん》であった。バイカル[#「バイカル」に二重傍線]湖《こ》から一路上って来た汽車は、チタ[#「チタ」に二重傍線]から少し下りになった。下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗《のぞ》いて居ると、空にはあらぬ地の上の濃い碧色《へきしょく》がさっと眼に映《うつ》った。野生千鳥草の花である。彼は頭を突出して見まわした。鉄路の左右、人気も無い荒寥《こうりょう》を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧《のうへき》の其花が、今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫《むらさき》がかったり、まだ蕾《つぼ》んだり、何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。窓に凭《もた》れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。
 然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優《ま》した美しい碧色を知らぬ。つゆ草、又の名はつき草、螢草《ほたるぐさ》、鴨跖草《おうせきそう》なぞ云って、草姿《そうし》は見るに足らず、唯二弁より成《な》る花は、全き花と云うよりも、いたずら子に※[#「手へん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》られたあまりの花の断片か、小さな小さな碧色の蝶《ちょう》の唯《ただ》かりそめに草にとまったかとも思われる。寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉《きんふん》を浮べた花蕊《かずい》の黄《き》に映発《えいはつ》して惜気もなく咲き出でた花の透《す》き徹《とお》る様な鮮《あざ》やかな純碧色は、何ものも比《くら》ぶべきものがないかと思うまでに美しい。つゆ草を花と思うは誤《あやま》りである。花では無い、あれは色に出た露の精《せい》である。姿|脆《もろ》く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那《せつな》の天の消息でなければならぬ。里のはずれ、耳無地蔵の足下《あしもと》などに、さま/″\の他の無名草《ななしぐさ》醜草《しこぐさ》まじり朝露を浴びて眼がさむる様《よう》に咲いたつゆ草の花を見れば、竜胆《りんどう》を讃《ほ》めた詩人の言を此にも仮《か》りて、青空の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32]気《こうき》滴《したた》り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦《よみがえ》らせるつゆ草よ、地に咲く天の花よと讃《たた》えずには居られぬ。「ガリラヤ[#「ガリラヤ」に二重傍線]人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間《ま》に蹂《ふ》みにじる。
 碧色の草花として、つゆ草は粋《すい》である。
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     おぼろ夜

 早夕飯のあと、晩涼《ばんりょう》に草とりして居た彼は、日は暮れる、ブヨは出る、手足を洗うて上ろうかとぬれ縁に腰かけた。其時門口から白いものがすうと入って来た。彼はじいと近づくものを見て居たが、
「あゝM君《くん》ですか」
と声《こえ》をかけた。
 其は浴衣の着流《きなが》しで駒下駄を穿《は》いたM君であった。M君は早稲田《わせだ》中学の教師で、かたわら雑誌に筆を執って居る人である。彼が千歳村に引越したあくる月、M君は雑誌に書く料《りょう》に彼の新生活を見に来た。丁度《ちょうど》樫苗《かしなえ》を植えて居たので、ろく/\火の気の無い室に二時間も君を待たせた。君は慍《いか》る容子もなく徐《しずか》に待って居た。温厚な人である。其れから其年の夏、月の好《い》い一夜《いちや》、浴衣の上に夏羽織など引かけて、ぶらりと尋ねて来た。M君は綱島《つなしま》梁川《りょうせん》君《くん》の言として、先ず神を見なければ一切の事悉く無意義だ、神を見ずして筆を執るなぞ無用である、との説に関し、自身の懊悩《おうのう》を述べ、自分の様な鈍根の者は、一切を抛擲《ほうてき》して先ず神を見る可く全力を傾注する勇気が無い、と嘆息して帰った。
 其後久しく消息を聞かなかったが、今夜一年ぶりに突然君は来訪したのであった。
 君の所要は、先月|茅《ち》ヶ崎《さき》で物故した一文士に関する彼の感想を聞くにあった。彼は故人について取りとめもない話をした。故人と彼とは同じ新聞社の編輯局《へんしゅうきょく》に可なり久しく居たのであったが、故人は才華発越、筆をとれば斬新警抜《ざんしんけいばつ》、話をすれば談論火花を散らすに引易え、彼はわれながらもどかしくてたまらぬ程の迂愚《うぐ》、編輯局の片隅に猫の如く小さくなって居たので、故人と心腹を披《ひら》いて語る機会もなく、故人の方には多少の侮蔑《ぶべつ》あり、彼の方には多少の嫉妬《しっと》羨望《せんぼう》あり、身は近く心ははなれ/″\に住んだ。其後故人も彼も前後に新聞社を出て、おの/\自家《じか》の路を歩み、顔を見ること稀に、消息を聞かぬ日多く打過ぎた。然し彼は一度故人と真剣の話をしたいと久しく思うて居た。日露戦争の終った年の暮、彼は一の心的革命を閲《けみ》して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓《ざっとう》の中に故人を見出した。何処《どこ》ぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折《なかおれ》をかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒《さっぱり》した洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅《かたすみ》に引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔《そかく》を謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始《さいし》の接近で、また最後の面会であった。
 M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。
 彼等は久しく芝生の縁代《えんだい》で話した。M君が辞《じ》し去ったのは、夜も深《ふ》けて十二時近かった。
 彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧《ぼんやり》とうち煙り、田圃《たんぼ》の蛙《かわず》の声も夢を誘う様なおぼろ夜である。
「それじゃ」
「失礼」
 駒下駄の音も次第《しだい》に幽《かすか》になって、浴衣《ゆかた》姿《すがた》の白いM君は吸わるゝ様に靄《もや》の中に消えた。

           *

 其後ふっつりM君の消息を聞かなかったが、翌年《よくとし》ある日の新聞に、M君が安心《あんしん》を求む可く妻子を捨てゝ京都|山科《やましな》の天華香洞《てんかこうどう》に奔《はし》った事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見たが、やがて君が死去の報は伝えられた。
 見神の一義に君は到頭《とうとう》精力《せいりょく》を傾注《けいちゅう》せずに居られなくなったのである。而《しか》して生涯の大事《だいじ》、生存の目的を果したので、君は軽く肉の衣《ころも》を脱いだのであろう。
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     ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]の未亡人へ

       一

 夫人《おくさん》。
 私は夙《とく》に手紙を差上げねばならなかったのでした。実は幾回《いくたび》も幾回もペンを執《と》ったのでした。ペンを執りは執りながら、如何《どう》しても書くことが出来なかったのです。今日《きょう》、ビルコフ[#「ビルコフ」に傍線]さんの書いた故先生小伝の英訳を見て居ましたら、丁度先生の逝去《せいきょ》六週間前に撮影されたと云う先生とあなたの写真が出て居ました。熟々《つくづく》見て居る内に、私の眼は霞《かす》んで来ました。嗚呼ものが言いたい! 話がしたい! 然し先生は最早《もう》霊です。私の拙《まず》い言葉を仮《か》らずとも、先生と話すことが出来ます。書くならあなたに書かねばならぬ。そこで此手紙を書きます。私はうちつけに書きます。万事直截其ものでお出のあなたは、私が心底《しんそこ》から申すことを容《ゆる》して下さるだろうと思います。

       二

 何から申しましょうか。書く事があまり多い。最初先生の不可思議《ふかしぎ》な遽《にわ》かの家出を聞いた時、私は直ぐ先生の終が差迫《さしせま》って来た事を知りました。それで先生の訃《ふ》に接した時も、少しも驚きませんでした。勿論先生を愛する者にとっては、先生の最期は苦しい最期でした。何故《なぜ》先生は愛妻愛子愛女の心尽しの介抱《かいほう》の中に、其一片と雖も先生を吾有《わがもの》と主張し要求し得ぬものはない切っても切れぬ周囲の中に、穏《おだやか》に死なれる事が何故出来なかったでしょうか? 何故其生の晩景《ばんけい》になって、あわれなひとり者の死に様をする為に其温かな巣《す》からさまよい出られねばならなかったのでしょうか? 世故《せこ》を経尽《へつく》し人事を知り尽した先生が、何故其老年に際し、否《いや》墓に片脚《かたあし》下《おろ》しかけて、釈迦牟尼《しゃかむに》の其生の初に為《せ》られた処をされねばならなかったか? 世間は誰しも斯く驚き怪《あやし》みました。不相変|主我的《しゅがてき》だと非難した者も少なくありませんでした。一風《いっぷう》変《かわ》った天才の気まぐれと笑ったのは、まだよい方かも知れません。先生もつらかったでしょう。然し夫人《おくさん》、悲痛の重荷は偏《ひとえ》にあなたの肩上に落ちました。あなたの経歴された処は、思うも恐ろしい。長い長い生涯の間、先生と棲《す》んで先生を愛されたあなたが、此世の旅の夕蔭《ゆうかげ》に、見棄てゝしまわれた様な姿になられようとは! 而《そう》してトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の邪魔物は此であると云った様に白昼《ひるひなか》世界の眼の前に曝《さら》しものになられようとは! 夫人、誰かあなたに同情をさゝげずに居られましょう乎。如何に頑固な先生の加担者《かとうど》でも、如何程|苦《にが》り切ったあなたの敵対者《てきたいしゃ》でも、堪え難いあなたの苦痛と断腸《だんちょう》の悲哀《かなしみ》とは、其幾分を感ぜずに居られません。彼池の滸《ほと》りの一刹那《いっせつな》を思うては、戦慄《せんりつ》せずには居られません。

       三

 然し夫人、世に先生を非難する者の多かった様に、あなたを非難する者も少くありませんでした。白状します、私も其一人でした。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]と云う様な偉大な名は、世界の目標です。先生や先生の一家一門の所作《しょさ》は、万人の具《つぶさ》に瞻《み》る所、批評の的《まと》であります。そこで先生の哀《かな》しい最期前後の出来事は、如何様《どのよう》な微細な事までも、世界中の新聞雑誌に掲載されて、色々の評判を惹起《ひきおこ》しました。私は漏らさず其記事を見ました。無論|誤報《ごほう》曲説《きょくせつ》も多かったでしょう。針小棒大《しんしょうぼうだい》の記事も沢山あったに違いありません。然し打明けて云えば、其記事については、私は非常に心を痛《いた》むる事が多かった。打明けて云えば、夫人、私はあなたに対して少からぬ不平があったのです。勿論白が弥《いや》白くなれば、鼠色《ねずみいろ》も純黒《まっくろ》に勢《いきおい》なる様なもので、故先生があまりに物的《ぶってき》自我《じが》を捨てようとせられた為、其反動の余勢であなたは実際以上に自己を主張されねばならぬ様なハメになられたこともありましょう。それでなくても、婦人は自然に物質的になる可き約束の下《もと》にあるのです。先生が産《さん》を治《おさ》むる事をやめられてから、一家の主人役に立たれたあなたが、児孫《じそん》の為に利益を計り権利を主張し、切々《せっせ》と生活の資を積む可く努められたのも、致方はないと云った様な御気の毒なわけで、あなたの方から云えば先生にこそ不平あれ、先生から不足を云われる事はない筈です。と、誰も然《そう》申しましょう。然し夫人、生計を立つると云うも、程度の問題です。あなたが家の為を思わるゝあまり、ノーベル賞金を辞された先生に不満を懐《いだ》かれたり、何万ルーブルの為に先生の声を蓄音器に入れさせようとしたり、其外種々|仁人《じんじん》としても詩人としても心の富、霊の自由、人格の尊厳《そんげん》を第一位に置く霊活不覊《れいかつふき》なる先生の心を傷《いた》むるのは知れ切った事まで先生に強《しい》られたのは、あまりと云えば無惨《むざん》ではありますまいか。あなたはトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の名を其様《そんな》に軽いやすっぽいものに思ってお出なのでしょう乎。「吾未だ義人《ぎじん》の裔《すえ》の物乞いあるくを見し事なし」とソロモン[#「ソロモン」に傍線]は申しました。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]の妻は其《その》夫《おっと》をルーブルにして置かねばならぬ程貧しい者でしょう乎。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]の子女は、其父を食わねば生きられぬ程《ほど》腑甲斐《ふがい》ないものでしょう乎。私にはあなたがハズミに乗って機械的に為《せ》られたと思う外、ドウもあなたのお心持が分かりません。全く正気の沙汰とは思われかねるのです。莫斯科《モスクワ》の小店なぞに切々《せっせ》と売溜《うりだめ》の金勘定ばかりして居るかみさんのマシューリナ、カテーリナならいざ知らず、世界のトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の夫人の挙動《ふるまい》としては、よく云えばあまりに謙遜《けんそん》な、正《まさ》しく云えばあまりに信仰がない鄙《さもし》い話ではありますまい乎。私は先生の心中が思われて、つらくてなりません。昔先生が命をかけて惚《ほ》れられた美しい素直なソフィ[#「ソフィ」に傍線]嬢は、斯様《こん》な心の香《か》の褪《うつろ》った老伯爵夫人になってしまわれたのでしょう乎。其れから先生|逝去《せいきょ》後の御家の挙動《ふるまい》は如何です? 私はしば/\叫びました、先生も先生だ、何故《なぜ》先生は彼様な烈しい最後《さいご》の手段を取らずに、犠牲となって穏《おだやか》に家庭に死ぬることが出来なかっただろう乎、あまりに我強《がづよ》い先生であると。然し此は先生がトルストイ[#「トルストイ」に傍線]である事を忘れたからの叫びです。誰にでも其人|相応《そうおう》の生き様《よう》があり、また其人相応の死に様があります。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]の様な人でトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の様な境遇にある者は、彼様な断末魔《だんまつま》が当然で且自然であります。少しも無理は無い。余人にあっては兎も角も、先生にあっては彼様《ああ》でなくては生の結末がつかぬのです。一切の人慾《じんよく》、一切の理想が恐ろしい火の如く衷《うち》に燃えて闘《たたこ》うた先生には、灰色《はいいろ》にぼかした生や死は問題の外なのです。あなたに対する真《しん》の愛から云うても、理想に対する操節《そうせつ》から云っても、出奔《しゅっぽん》と浪死《ろうし》は必然の結果です。仮に先生が其趣味主張を一切胸に畳《たた》んで、所謂家庭の和楽《わらく》の犠牲となって一個の好々翁《こうこうおう》として穏にヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]に瞑目《めいもく》されたとして、先生は果してトルストイ[#「トルストイ」に傍線]たり得たでしょう乎。其死が夫人《おくさん》、あなたをはじめとして全世界に彼様《あん》な警策《けいさく》を与えることが出来たでしょう乎。彼《あの》最後《さいご》彼|臨終《りんじゅう》あるが為に、先生等身の著作、多年の言説に画竜《がりゅう》の睛《せい》を点《てん》じたのではありますまい乎。確に然です。トルストイ[#「トルストイ」に傍線]は手軽に理想を実行してのける実行家では無い、然しトルストイ[#「トルストイ」に傍線]は理想を賞翫《しょうがん》して生涯を終《おわ》る理想家で無い、トルストイ[#「トルストイ」に傍線]は一切の執着《しゅうちゃく》煩悩《ぼんのう》を軽々に滑《すべ》り脱《ぬ》ける木石人で無い、然しトルストイ[#「トルストイ」に傍線]は最後の一息を以ても其理想を実現すべく奔騰《ほんとう》する火の如き霊であると云う事が、墨黒《すみぐろ》の夜の空に火焔《かえん》の字をもて大書した様に読まるゝのです。獅子は久しく眼に見えぬ檻《おり》の中で獅子吼《ししく》をしたり、毬《まり》を弄《もてあそ》んだり、無聊《むりょう》に悶《もだ》えたりして居ましたが、最後に身を跳《おど》らして一躍《いちやく》檻外《らんがい》に飛び出で、万里の野に奔《はし》って自由の死を遂げました。惨《いた》ましく然も偉大なる死! 先生の死は、先生が最後の勝利でした。夫人、あなたは負けました。だからあなたの煩悶《はんもん》も、御家の沸騰《ふっとう》も起きたのです。但今は斯く思うものゝ、其当時私は思いました、先生は先生としても、何故あなたも令息令嬢達も黙って哀《かな》しんで居られることが出来なかったのでしょう乎。何故の彼《あの》諍論《そうろん》? 何故の彼喧嘩? 無論先生の出奔と死は、云わば爆裂弾《ばくれつだん》を投げたもので、あとの騒ぎが大きいのが自然であるし、また必要でもあるし、石が大きければ水煙も夥《おびただ》しいと云った様なもので、傍眼《わきめ》には醜態《しゅうたい》百出トルストイ[#「トルストイ」に傍線]家の乱脈《らんみゃく》と見えても、あなたの卒直《そっちょく》一剋《いっこく》な御性質から云っても、令息令嬢達の腹蔵《ふくぞう》なき性質から云っても、世界の目の前にある家の立場《たちば》から云っても、云うべき事は云わねばならず、弁難《べんなん》論諍《ろんそう》も致方はもとよりありますまい。苟且《かりそめ》の平和より真面目の争はまだ優《まし》です。但《ただ》私は先生の彼《あの》惨《いた》ましい死を余儀なくした其事情を思うに忍びず、また先生の墓上《ぼじょう》涙《なみだ》未《いま》だ乾かざるに家族の方々が斯く喧嘩《けんか》さるゝを見るに忍びなかったのであります。然し我々は人間です。人間として衝突は自然の約束であります。先生もよく/\思い込まるればこそ、彼|死様《しによう》をされた。而《そう》して偽《いつわ》ることを得《え》為《せ》ぬトルストイ[#「トルストイ」に傍線]家の人々なればこそ、彼|争《あらそい》もあったのでしょう。加之《それに》、承われば此頃では諸事《しょじ》円滑《えんかつ》に運んで居るとやら、愚痴《ぐち》は最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇に因《よ》り御一同の大小《だいしょう》浅深《せんしん》さま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且|祷《いの》るのみであります。

       四

 勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じの筈《はず》。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。否《いや》、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んで為《せ》られたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度《さいど》にあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石と抛《なげう》つ場合もあります。獅子は子を崖《がけ》から落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難い宝《たから》なのです。先生にとって人の象《かたち》をとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言《うわごと》にもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様《あん》な死をされた。あなたは衷心《ちゅうしん》に確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛の下《もと》に頭を低《た》れて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊《ふき》独立《どくりつ》なもの、肉体一世の結合は彼|若《もし》くば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたの路《みち》を別々に辿《たど》られたのも致方は無いものゝ、先生が肉の衣《ころも》を脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式《こんごうせきこんしき》でもなく、第二の真の結婚が御両人《おふたり》の間に成就されん事を祈って已《や》まないのであります。悲哀《ひあい》を通して我々は浄《きよ》められるのです。苦痛を経由《けいゆ》して我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御|出《いで》でしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]小王国《しょうおうこく》の皇太后で御出ですが、同時にあなたを識《し》る程の者の母君となられるのである事をお忘《わす》れなすってはなりません。夫人、御安心なさい、あなたにお目にかゝった程の者は、誰かあなたの真面目な而《そう》して勇敢な霊魂《たましい》を尊敬せぬ者がありましょう乎。誰かあなたの故先生に対する愛の助勢によって、人類に貢献された働《はたらき》を知らない者がありましょう乎。あなたがお出《いで》でなかったら、先生が果して彼《あの》偉大なトルストイ[#「トルストイ」に傍線]と熟された乎、否乎《いなか》、分かりません。先生が不朽《ふきゅう》である如く、あなたも不朽です。あなたは曾《かつ》て自伝を書いて居ると云うお話でした。あれは著々《ちゃくちゃく》進行しつゝあることゝ思います。私は其面白かる可き頁《ページ》が覗《のぞ》きたくてなりません。出版されたら、種々分明する事があろうと思います。我々一同に対してあなたは楯《たて》の一面を示される義務があります。何卒《どうぞ》独得の真摯《しんし》と気力とをもてあなたの御言《おい》い分《ぶん》をお述べ下さい。我々一同其一日も早く出版されんことを待って居る者であります。

       五

 今日《きょう》は七月の三日です。七年前の丁度《ちょうど》今日は、ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]で御厚遇《ごこうぐう》を享《う》けて居ました。其折お目にかゝった方々や色々の出来事を、私は如何様《どんな》にはっきりと記憶して居るでしょう。正に今日でした、私は彼《あの》はなれからペンとインキを持ち出して、彼|楓《かえで》の下の食卓に居られる皆さんの署名を記念の為に求めました。其手帳は今私の手近にあります。私は開《あ》けて見ました。皆《みな》在《ある》焉。先生のも、あなたのも、其他皆さんの手によって署せられた皆さんの名が歴々《れきれき》として其処にあります。インキもまだ乾かないかと思われるばかりです。然るに、想《おも》えば先生の椅子《いす》は最早《もう》永久に空しいのです。此頃は楓《かえで》の下の彼食卓も嘸《さぞ》淋《さび》しいことでしょう。私はマウド[#「マウド」に傍線]氏の先生の伝を見て、オボレンスキー[#「オボレンスキー」に傍線]公爵夫人マリー[#「マリー」に傍線]さんも、私がお目にかゝって間もなく死去された事を知りました。私はマリー[#「マリー」に傍線]さんが大好《だいす》きでした。最早あの方もホンの記憶になってしまわれたのです。先頃|莫斯科《モスクワ》から帰って来られた小西君に面会しました。小西君は彼|哀《かな》しい出来事の少し前に先生に会われ、それから葬儀にも出られたそうです。然しあなたや御家族の事については、あまり知って居られないのでした。多分伯アンドリゥ[#「アンドリゥ」に傍線]君は御同居だろうと思います。ドウかよろしく、私は時々アンドリゥ[#「アンドリゥ」に傍線]君の事を思うて居るとお伝《つた》え下さい。レオ[#「レオ」に傍線]君の御一家は聖彼得堡《サンペテルブルグ》にお住いですか。ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]の園でトチ/\歩みをして居られたお孫達も、最早大きなむすこさん達になられたでしょう。伯令嬢《はくれいじょう》アレキサンドラ[#「アレキサンドラ」に傍線]は如何して居られますか。私は折々あの※[#「濁点付き片仮名「ワ」」、1-7-82]ロンカ[#「※[#「濁点付き片仮名「ワ」」、1-7-82]ロンカ」に二重傍線]の川辺で迷子になって、令嬢を煩《わずら》わして探しに来ていたゞいた事を憶《おも》い出します。ミハイル[#「ミハイル」に傍線]君は如何です。私は唯一度、それもホンの一寸会ったゞけですが、大層好きな方と思いました。ジュリヤ[#「ジュリヤ」に傍線]嬢はとくにヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]を去られたとか。マコ※[#「濁点付き片仮名「ヰ」」、1-7-83]ィッキー[「マコ※[#「濁点付き片仮名「ヰ」」、1-7-83]ィッキー」に傍線]君は今何処に居られるでしょう? スホーチン[#「スホーチン」に傍線]君は矢張《やはり》ヂュマの議員でお出ですか。オボレンスキー[#「オボレンスキー」に傍線]公爵と、鼻眼鏡をかけて居られる其|母堂《ぼどう》とは、御息災ですか。イリヤ[#「イリヤ」に傍線]はまだ勤めて居ますか。曾て其人を私も手伝って牧草を掻《か》いた料理番の老細君は達者にして居ますか。
 嗚呼彼の楓の下の雪白《まっしろ》の布を覆《おお》うた食卓、其処《そこ》に朝々サモ※[#「濁点付き片仮名「ワ」」、1-7-82]ルが来り喫《の》む人を待って吟《ぎん》じ、其下の砂は白くて踏むに軟《やわらか》なあの食卓! 先生は読み、あなたは縫《ぬ》うて居られた彼|露台《バルコニー》の夕《ゆうべ》! 家の息達と令嬢とマンドリンを弾《ひ》いて歌われた彼※[#「濁点付き片仮名「ヱ」」、1-7-84]ランダの一夜! 彼※[#「濁点付き片仮名「ワ」」、1-7-82]ロンカ[#「※[#「濁点付き片仮名「ワ」」、1-7-82]ロンカ」に二重傍線]の水浴! 彼|涼《すず》しい、而《そう》して木の葉の網目《あみめ》を洩《も》る日光が金の斑点《はんてん》を地に落すあの白樺《しらかば》の林の逍遙《しょうよう》! 先生も其処に眠って居られる。記憶から記憶と群がり来って果しがない。嗟《ああ》今一度なつかしいヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]に往って見たい!
 敬愛する夫人よ。私は長い手紙を書いてしまいました。最早こゝでペンを擱《さしお》かねばなりません。願わくば神あなたの寂寥《せきりょう》を慰めて力を与え玉わんことを。願わくばあなたの晩年が、彼|露西亜《ろしあ》の美《うる》わしい夏の夕《ゆうべ》の様に穏に美しくあらんことを。終《おわり》に臨《のぞ》み、私の妻もあなたの負《お》われ負わるゝ数々《かずかず》の重荷に対し、真実御同情申上げる旨、呉々《くれぐれ》も申しました。
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一九一二年 七月三日
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ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]と其記念を永久に愛する
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―――  ―――――
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     安さん

 乞食《こじき》も色々のが来る。春秋《しゅんじゅう》の彼岸、三五月の節句《せっく》、盆なンどには、服装《なり》も小ざっぱりした女等が子供を負《おぶ》って、幾組も隊をなして陽気にやって来る。何処《どこ》から来るのかと聞いたら、新宿《しんじゅく》からと云うた。浅草紙、やす石鹸やす玩具《おもちゃ》など持て来るほンの申訳《もうしわけ》ばかりの商人実際のお貰《もら》いも少からず来る。喰《く》いつめた渡り職人、仕事にはなれた土方、都合《つごう》次第で乞食になったり窃盗《せっとう》になったり強盗《ごうとう》になったり追剥《おいはぎ》になったりする手合も折々《おりおり》来る。曾てある秋の朝、つい門前《もんぜん》の雑木林《ぞうきばやし》の中でがさ/\音がするので、ふっと見ると、昨夜此処に寝たと見えて、一人《ひとり》の古い印半纏《しるしばんてん》を着た四十ばかりの男が、眠《ねむ》たい顔して起き上り、欠伸《あくび》をして往って了うた。
 一般的乞食の外に、特別名指しの金乞いも時々来る。やりたくても無い時があり、あってもやりたくない時があり、二拍子《ふたひょうし》揃《そろ》って都合よくやる時もあり、ふかし甘藷《いも》二三本新聞紙に包《つつ》んで御免を蒙る場合もある。然し斯様《こん》な特別のは別にして、彼が村居《そんきょ》六年の間に懇意《こんい》になった乞食が二人ある。仙《せん》さんと安《やす》さん。
 仙さんは多少《たしょう》富裕《ゆたか》な家の息子の果であろう。乞食になっても権高《けんだか》で、中々吾儘である。五分苅頭《ごぶがりあたま》の面桶顔《めんつうがお》、柴栗を押つけた様な鼻と鼻にかゝる声が、昔の耽溺《たんでき》を語って居る。仙さんは自愛家である。飲料《いんりょう》には屹度《きっと》湯をくれと云う。曾て昆布《こんぶ》の出しがらをやったら、次ぎに来た時、あんな物をくれるから、醤油《しょうゆ》を損した上に下痢《げり》までした、と嗔《いか》った。小婢《こおんな》一人留守して居る処に来ては、茶をくれ、飯をくれ、果てはお前の着て居る物を脱いでくれ、と強請《ねだ》って、婢は一ちゞみになったことがある。主婦が仙さんの素生《すじょう》を尋ねかけたら、「乃公《おれ》に喧嘩を売るのか」と仙さんは血相を変えた。ある時やるものが無くて梅干《うめぼし》をやったら、斯様なものと顔をしかめる。居合わした主人は、思わず勃然《むっ》として、貰う者の分際《ぶんざい》で好悪《よしあし》を云う者があるか、と叱《しか》りつけたら、ブツ/\云いながら受取ったが、門を出て五六歩行くと雑木林《ぞうきばやし》に投げ棄てゝ往った。追かけて撲《ぶ》ちのめそうか、と思ったが、やっと堪《こら》えた。彼は此後仙さんを憎《にく》んだ。其後一二度来たきり、此二三年は頓斗《とんと》姿《すがた》を見せぬ。
 我強《がづよ》い仙さんに引易《ひきか》え、気易《きやす》の安さんは村でもうけがよい。安さんは五十位、色の浅黒《あさぐろ》い、眼のしょぼ/\した、何処《どこ》やらのっぺりした男である。安さんは馬鹿を作って居る。夏着《なつぎ》冬着ありたけの襤褸《ぼろ》の十二一重《じゅうにひとえ》をだらりと纏《まと》うて、破れしゃっぽのこともあり、黒い髪を長く額に垂らして居ることもあり、或は垢染《あかじ》みた手拭を頬冠《ほおかむ》りのこともある。下駄を片足、藁草履《わらぞうり》を片足、よく跛|曳《ひ》いてあるく。曾《かつ》て穿《は》きふるしの茶の運動靴《うんどうぐつ》をやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早《もう》跣足《はだし》で来た。
 江戸の者らしい。何時《いつ》、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀《そり》の磨《と》ぐのでもありませんか、とある時云うた。主人の髯《ひげ》は六七年来放任主義であまりうるさくなると剪《はさみ》で苅《か》るばかりだし、主婦は嫁《か》して来て十八年来一度も顔を剃《す》ったことがないので、家には剃刀《かみそり》と云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀《そり》があった処で、あの安さんの清潔《きれい》な手では全く恐れ入る。
 いつも門口《かどぐち》に来ると、杖のさきでぱっ/\と塵《ごみ》を掃く真似をする。其|響《おと》を聞いたばかりで、安さんと分《わか》った。「おゝそれながら……」と中音で拍子《ひょうし》をとって戸口に立つこともある。「春雨《はるさめ》にィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのを捉《つらま》えて、笊《ざる》で砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家《うち》では喫《の》まぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋《いっこく》で向張りが強く、智慧者《ちえしゃ》の安さんは狡獪《ずる》くて軟《やわらか》な皮をかぶって居た。
 夏は乞食の天国である。夏は我儕《われら》も家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食して廻《まわ》りたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯|蚊《か》だけが疵《きず》だが、至る処の堂宮《どうみや》は寝室《ねま》、日蔭《ひかげ》の草は茵《しとね》、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川《たがわ》の側に跪《ひざまず》いて居るのを見た。
「何をして居るのかね、安さん?」
 声《こえ》をかけると、安さんは寝惚《ねぼ》けた様な眼をあげて、
「エ、エ、洗濯をして」
と答えた。麦藁帽《むぎわらぼう》の洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。
 冬は惨《みじめ》だ。小屋かけ、木賃宿《きちんやど》、其れ等に雨雪を凌《しの》ぐのは、乞食仲間でも威張《いば》った手合で、其様な栄耀《えいよう》が出来ぬやからは、村の堂宮《どうみや》、畑の中の肥料《こやし》小屋、止むなければ北をよけた崖《がけ》の下、雑木林の落葉の中に、焚火《たきび》を力にうと/\一夜を明《あか》すのだ。そこでよく火事が起る。彼が隣の墓地《ぼち》にはもと一寸した閻魔堂《えんまどう》があったが、彼が引越して来る少し前に乞食の焚火《たきび》から焼けて了うて、木の閻魔様は灰《はい》になり、石の奪衣婆《だつえば》ばかり焼け出されて、露天《ろてん》に片膝立てゝ恐《こわ》い顔をして居る。鎮守《ちんじゅ》八幡でも、乞食の火が険呑《けんのん》と云うので、つい去年拝殿に厳重な戸締りを設けて了うた。安さんの為に寝所《しんじょ》が一つ無くなったのである。それかあらぬか、近頃一向安さんの影を見かけなくなった。
「安さんは如何したろ?」
 彼等はしば/\斯く噂《うわさ》をした。
 昨日|婢《おんな》が突然安さんの死を報じた。近所の女児《むすめ》が斯く婢に云うたそうだ。
「安さんなァ、安さんな内のお安さんが死んだ些前《ちょっとまえ》に、は、死んじまったとよ」
 近所のお安さんと云う娘が死んだのは、五月の初であったから、乞食の安さんは桜の花の頃に死んだものと見える。
 安さんは大抵《たいてい》甲州街道南裏の稲荷《いなり》の宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何《どん》な臨終《りんじゅう》であったやら。
「あれで中々女が好きでね、女なんかゞ一人で物を持って往ってやるといけないって、皆《みんな》が云ってました」
と婢が云うた。
 安さんが死んだか。乞食の安さんが死んだか。
「死んで安心な様な、可哀想《かあいそう》な様な気もちがしますよ」
 主婦が云うた。
 秋の野にさす雲の翳《かげ》の様に、淡《あわ》い哀《かなしみ》がすうと主人《あるじ》の心を掠《かす》めて過ぎた。
[#改丁]

   麦の穂稲穂

     村の一年

       一

 都近い此《この》辺《へん》の村では、陽暦陰暦を折衷《せっちゅう》して一月|晩《おく》れで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。いさゝか神楽《かぐら》の心得ある若者連が、松の内の賑合《にぎわい》を見物かた/″\東京に獅子舞《ししまい》に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾《かざ》り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋《きし》らしたり、黒の帽子に紫の袈裟《けさ》、白足袋に高足駄の坊さんが、年玉を入れた萌黄《もえぎ》の大風呂敷包を頸《くび》からつるして両手で抱《かか》えた草鞋《わらじ》ばきの寺男を連れて檀家《だんか》の廻礼をしたりする外は、村は餅搗《もちつ》くでもなく、門松一本立つるでなく、至極《しごく》平気な一月である。唯|農閑《のうかん》なので、青年の夜学がはじまる。井浚《いどざら》え、木小屋の作事《さくじ》、屋根の葺《ふ》き更え、農具の修繕《しゅうぜん》なども、此|隙《すき》にする。日なたぼこりで孫いじりにも飽いた爺の仕事は、啣《くわ》え煙管《ぎせる》の背手《うしろで》で、ヒョイ/\と野らの麦踏《むぎふみ》。若い者の仕事は東京行の下肥《しもごえ》取《と》りだ。寒中の下肥には、蛆《うじ》が涌《わ》かぬ。堆肥《たいひ》製造には持て来いの季節、所謂|寒練《かんねり》である。夜永の夜延《よな》べには、親子兄弟大きな炉側《ろばた》でコト/\藁《わら》を擣《う》っては、俺ァ幾括《いくぼ》だ卿《おめえ》は何足《なんぞく》かと競争しての縄綯《なわな》い草履《ぞうり》草鞋《わらじ》作り。かみさんや娘は、油煙《ゆえん》立つランプの傍《はた》でぼろつぎ。兵隊に出て居る自家《うち》の兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入《よめいり》車《ぐるま》の話もあろう。
 都では晴《はれ》の春着も夙《とう》に箪笥の中に入って、歌留多会の手疵《てきず》も痕《あと》になり、お座敷《ざしき》つゞきのあとに大妓《だいぎ》小妓のぐったりとして欠伸《あくび》を噛《か》む一月末が、村の師走《しわす》の煤掃《すすは》き、つゞいて餅搗《もちつ》きだ。寒餅《かんもち》はわるくならぬ。水に浸《ひた》して置いて、年中の茶受《ちゃうけ》、忙《せわ》しい時の飯代り、多い家では一石も二石も搗く。縁者《えんじゃ》親類加勢し合って、歌声《うたごえ》賑《にぎ》やかに、東でもぽったん、西でもどったん、深夜《しんや》の眠を驚かして、夜の十二時頃から夕方までも舂《つ》く。陽暦で正月を済《す》ましてとくに餅は食うてしもうた美的《びてき》百姓の家へ、にこ/\顔の糸ちゃん春ちゃんが朝飯前に牡丹餅《ぼたもち》を持て来てくれる。辰|爺《じい》さん家《とこ》のは大きくて他家《よそ》の三倍もあるが、搗《つ》きが細かで、上手《じょうず》に紅入の宝袋《たからぶくろ》なぞ拵《こさ》えてよこす。下田の金さん処《とこ》のは、餡《あん》は黒砂糖だが、手奇麗《てぎれい》で、小奇麗な蓋物《ふたもの》に入れてよこす。気取ったおかず婆さんからは、餡がお気に召すまいからと云って、唯搗き立てをちぎったまゝで一重《ひとじゅう》よこす。礼に往って見ると、奥《おく》は正月前らしく奇麗に掃《は》かれて、土間《どま》にはちゃんと塩鮭《しおざけ》の二枚もつるしてある。

       二

 二月は村の正月だ。松立てぬ家《うち》はあるとも、着物更えて長閑《のどか》に遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居《しばい》が立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会《げんとうかい》がある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会がある。節分は豆撒《まめま》き。七日が七草《ななくさ》。十一日が倉開き。十四日が左義長《さぎちょう》。古風にやる家も、手軽でやらぬ家もあるが、要するに年々昔は遠くなって行く。名物は秩父《ちちぶ》颪《おろし》の乾風《からっかぜ》と霜解《しもど》けだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るは稀《まれ》で、五日と消えぬは珍らしい。ある年四月に入って、二尺の余も積ったのは、季節からも、量からも、井伊《いい》掃部《かもん》さん以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野は霜《しも》の野だ。十二月から三月一ぱいは、夥《おびただ》しい霜解けで、草鞋か足駄《あしだ》長靴でなくては歩かれぬ。霜枯《しもが》れの武蔵野を乾風が※[#「風+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8]々《ひゅうひゅう》と吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土の皮膚《はだ》も、悉く皹《ひび》赤《あか》ぎれになる。乾いた畑の土は直ぐ塵《ちり》に化ける。風が吹くと、雲と舞い立つ。遠くから見れば正《まさ》に火事の煙だ。火事もよくある。乾き切った藁葺《わらぶき》の家は、此《この》上《うえ》も無い火事の燃料、それに竈《へっつい》も風呂も藁屑をぼう/\燃すのだからたまらぬ。火事の少ないのが寧《むしろ》不思議である。村々字々に消防はあるが、無論間に合う事じゃない。夜遊び帰りの誰かが火を見つけて、「おゝい、火事だよゥ」と呼わる。「火事だっさ、火事は何処《どこ》だンべか、――火事だよゥ」と伝える。「火事だよう」「火事だァよゥ」彼方《あち》此方《こち》で消防の若者が聞きつけ、家に帰って火事《かじ》袢纏《ばんてん》を着て、村の真中《まんなか》の火の番小屋の錠《じょう》をあけて消防道具を持出し、わッしょい/\駈《か》けつける頃は、大概の火事は灰《はい》になって居る。人家が独立して周囲に立木《たちき》がある為に、人家《じんか》櫛比《しっぴ》の街道筋を除いては、村の火事は滅多《めった》に大火にはならぬ。然し火の粉《こ》一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子《むすこ》の家の目ぼしい着物を悉皆《すっかり》預って丸焼にした家もある。
 梅は中々二月には咲かぬ。尤も南をうけた崖下《がけした》の暖かい隈《くま》なぞには、ドウやらすると菫《すみれ》の一輪、紫に笑んで居ることもあるが、二月は中々寒い。下旬になると、雲雀《ひばり》が鳴きはじめる。チ、チ、チ、ドウやら雲雀が鳴いた様だと思うと、翌日は聞こえず、又の日いと明瞭に鳴き出す。あゝ雲雀が鳴いて居る。例令《たとえ》遠山《とおやま》は雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木《らくようぼく》は皆|裸《はだか》で松の緑《みどり》は黄ばみ杉の緑は鳶色《とびいろ》に焦《こ》げて居ようとも、秩父《ちちぶ》颪《おろし》は寒かろうとも、雲雀が鳴いて居る。冴《さ》えかえる初春の空に白光《しろびか》りする羽たゝきして雲雀が鳴いて居る。春の驩喜《よろこび》は聞く人の心に涌《わ》いて来る。雲雀は麦の伶人《れいじん》である。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。

       三

 武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞《かす》む。庭の梅の雪とこぼるゝ辺《あたり》に耳珍しくも藪鶯《やぶうぐいす》の初音が響く。然しまだ冴《さ》え返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午《はつうま》には輪番《りんばん》に稲荷講の馳走《ちそう》。各自《てんで》に米が五合に銭十五銭宛持寄って、飲んだり食ったり驩《かん》を尽すのだ。まだ/\と云うて居る内に、そろ/\畑《はた》の用が出て来る。落葉《おちば》掻《か》き寄せて、甘藷《さつま》や南瓜《とうなす》胡瓜《きゅうり》の温床《とこ》の仕度もせねばならぬ。馬鈴薯《じゃがいも》も植えねばならぬ。
 彼岸前《ひがんまえ》の農家の一大事は、奉公男女の出代《でがわ》りである。田舎も年々人手が尠《すく》なく、良い奉公人は引張り合《あい》だ。近くに東京と云う大渦《おおうず》がある。何処へ往っても直ぐ銭《ぜに》になる種々の工場があるので、男も女も愚図※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《ぐずぐず》云われると直ぐぷいと出て往って了う。寺本さんの作代《さくだい》は今年も勤続《つづく》と云うが、盆暮の仕着せで九十円、彼様《あん》な好い作代なら廉《やす》いもンだ、と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で、下田さんの子守《こもり》に月五十銭で雇《やと》われて行く。下唇《したくちびる》の厚い久《ひさ》さんは、本家で仕事の暇を、大尽の伊三郎さん処《とこ》で、月十日のきめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往って居ると娘が駈《か》けて来て、作代が逃げ出すと云うので、石山さんは遽《あわ》てゝ葬式の場から尻《しり》引《ひ》っからげて作代引とめに走って行く。勘さんの嗣子《あととり》の作さんは草鞋ばきで女中を探してあるいて居る。些《ちと》好《よ》さそうな養蚕《かいこ》傭《やとい》の女なぞは、去年の内に相談がきまってしまう。メレンスの半襟《はんえり》一かけ、足袋の一足、窃《そっ》と他《ひと》の女中の袂《たもと》にしのばせて、来年の餌《えさ》にする家もある。其等の出代りも済んで、やれ一安心と息をつけば、最早彼岸だ。
 線香、花、水桶なぞ持った墓参《はかまいり》が続々やって来る。丸髷《まるまげ》や紋付は東京から墓参に来たのだ。寂《さび》しい墓場にも人声《ひとごえ》がする。線香の煙が上る。沈丁花《ちんちょうげ》や赤椿が、竹筒《たけづつ》に插《さ》される。新しい卒塔婆《そとば》が立つ。緋《ひ》の袈裟《けさ》かけた坊さんが畑の向うを通る。中日は村の路普請《みちぶしん》。遊び半分若者総出で、道側《みちばた》にさし出た木の枝を伐り払ったり、些《ちっと》ばかりの芝土を路の真中《まんなか》に抛《ほう》り出したり、路壊《みちこわ》しか路普請か分からぬ。

       四

 四月になる。愈《いよいよ》春だ。村の三月、三日には雛《ひな》を飾る家もある。菱餅《ひしもち》草餅《くさもち》は、何家でも出来る。小学校の新学年。つい去年まで碌《ろく》に口も利《き》けなかった近所の喜左坊《きさぼう》が、兵隊帽子に新らしいカバンをつるし、今日《きょう》から小学第一年生だと小さな大手を振って行く。五六年前には、式日《しきじつ》以外《いがい》女生の袴《はかま》など滅多に見たこともなかったが、此頃では日々の登校にも海老茶《えびちゃ》が大分|殖《ふ》えた。小学校に女教員が来て以来の現象である。桃之《ももの》夭々《ようよう》、其葉|蓁々《しんしん》、桃の節句は昔から婚嫁《こんか》の季節だ。村の嫁入《よめいり》婿取《むことり》は多く此頃に行われる。三日三晩村中呼んでの飲明《のみあか》しだの、「目出度《めでた》、※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《めでた》の若松様《わかまつさま》よ」の歌で十七|荷《か》の嫁入荷物を練込《ねりこ》むなぞは、大々尽《だいだいじん》の家の事、大抵は万事手軽の田舎風、花嫁自身髪結の家から島田で帰って着物を更《か》え、車は贅沢《ぜいたく》、甲州街道まで歩いてガタ馬車で嫁入るなぞはまだ好い方だ。足入れと云ってこっそり嫁を呼び、都合《つごう》の好い時あらためて腰入《こしいれ》をする家もある。はずんだところで調布《ちょうふ》あたりから料理を呼んでの饗宴《ふるまい》は、唯親類縁者まで、村方《むらかた》一同へは、婿は紋付で組内若くは親類の男に連れられ、軒別に手拭の一筋半紙の一帖も持って挨拶に廻るか、嫁は真白に塗って、掻巻《かいまき》程《ほど》の紋付の裾《すそ》を赤い太い手で持って、後見《こうけん》の婆《ばあ》さんかかみさんに連れられてお辞儀《じぎ》をして廻れば、所謂顔見せの義理は済む。村は一月晩《ひとつきおく》れでも、寺は案外|陽暦《ようれき》で行くのがあって、四月八日はお釈迦様《しゃかさま》の誕生会《たんじょうえ》。寺々の鐘《かね》が子供を呼ぶと、爺《とう》か嬶《かあ》か姉《ねえ》に連れられた子供が、小さな竹筒を提《さ》げて、嬉々《きき》として甘茶《あまちゃ》を汲みに行く。
 東京は桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥《しもごえ》ひきに往った音吉の話。村には桜は少いが、それでも桃が咲く、李《すもも》が咲く。野はすみれ、たんぽゝ、春竜胆《はるりんどう》、草木瓜《くさぼけ》、薊《あざみ》が咲き乱るゝ。「木瓜薊、旅して見たく野はなりぬ」忙《せわ》しくなる前に、此花の季節《きせつ》を、御岳詣《みたけまいり》、三峰かけて榛名詣《はるなまいり》、汽車と草鞋《わらじ》で遊んで来る講中の者も少くない。子供連れて花見、潮干に出かける村のハイカラも稀にはある。浮かれて蝶《ちょう》が舞いはじめる。意地悪《いじわる》の蛇も穴を出る。空では雲雀《ひばり》がます/\勢よく鳴きつれる。其れに喚《よ》び出される様に、麦《むぎ》がつい/\と伸びて穂《ほ》に出る。子供がぴいーッと吹く麦笛《むぎぶえ》に、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川の鮎《あゆ》が、密漁者の手から窃《そっ》と旦那の勝手に運ばれる。仁左衛門さん宅《とこ》の大欅《おおけやき》が春の空を摩《な》でて淡褐色《たんかっしょく》に煙りそめる。雑木林の楢《なら》が逸早く、櫟《くぬぎ》はやゝ晩れて、芽を吐《ふ》きそめる。貯蔵《かこい》の里芋《さといも》も芽を吐くので、里芋を植えねばならぬ。月の終は、若葉《わかば》の盛季《さかり》だ。若々とした武蔵野に復活の生気が盈《み》ち溢《あふ》れる。色々の虫が生れる。田圃《たんぼ》に蛙が泥声《だみごえ》をあげる。水がぬるむ。そろ/\種籾《たねもみ》も浸《ひた》さねばならぬ。桑の葉《は》がほぐれる。彼方《あち》も此方《こち》も養蚕前の大掃除《おおそうじ》、蚕具《さんぐ》を乾したり、ばた/\莚《むしろ》をはたいたり。月末には早い処《とこ》では掃《は》き立てる。蚕室を有《も》つ家は少いが、何様《どん》な家でも少くも一二枚|飼《か》わぬ家はない。筍《たけのこ》の出さかりで、孟宗藪《もうそうやぶ》を有つ家は、朝々早起きが楽《たのしみ》だ。肥料もかゝるが、一反八十円から百円にもなるので、雑木山は追々《おいおい》孟宗藪に化けて行く。

       五

 五月だ。来月の忙《せわし》さを見越して、村でも此月ばかりは陽暦《ようれき》で行く。大麦も小麦も見渡す限り穂になって、緑《みどり》の畑は夜の白々と明ける様に、総々《ふさふさ》とした白い穂波《ほなみ》を漂《ただよ》わす。其が朝露を帯《お》びる時、夕日に栄《は》えて白金色に光る時、人は雲雀と歌声《うたごえ》を競《きそ》いたくなる。五日は※[#「木+解」、第3水準1-86-22]餅《かしわもち》の節句だ。目もさむる若葉の緑から、黒い赤い紙の鯉《こい》がぬうと出てほら/\跳《おど》って居る。五月五日は府中《ふちゅう》大国魂《おおくにたま》神社所謂六所様の御祭礼《ごさいれい》。新しい紺の腹掛、紺股引《こんももひき》、下ろし立てのはだし足袋《たび》、切り立ての手拭を顋《あご》の下でチョッキリ結びの若い衆が、爺《おやじ》をせびった小使の三円五円腹掛に捻込《ねじこ》んで、四尺もある手製の杉の撥《ばち》を担《かつ》いで、勇《いさ》んで府中に出かける。六所様には径《けい》六尺の上もある大太鼓《おおだいこ》が一個、中太鼓が幾個《いくつ》かある。若い逞《たくま》しい両腕が、撥と名づくる棍棒で力任《ちからまか》せに打つ音は、四里を隔てゝ鼕々《とうとう》と遠雷の如く響《ひび》くのである。府中の祭とし云えば、昔から阪東男《ばんどうおとこ》の元気任せに微塵《みじん》になる程御神輿の衝撞《ぶつけ》あい、太鼓の撥のたゝき合、十二時を合図《あいず》に燈明《あかり》と云う燈明を消して、真闇《まっくら》の中に人死が出来たり処女《むすめ》が女《おんな》になったり、乱暴の限を尽したものだが、警察の世話が届いて、此頃では滅多な事はなくなった。
 落葉木《らくようぼく》は若葉から漸次青葉になり、杉《すぎ》松《まつ》樫《かし》などの常緑木が古葉を落《おと》し落して最後の衣更《ころもがえ》をする。田は紫雲英《れんげそう》の花ざかり。林には金蘭銀蘭の花が咲く。ぜんまいや、稀に蕨《わらび》も立つが、滅多に見かえる者も無い。八十八夜だ。其れ茶も摘《つ》まねばならぬ。茶は大抵《たいてい》葉のまゝで売るのだ。隠元《いんげん》、玉蜀黍《とうもろこし》、大豆も蒔《ま》かねばならぬ。降って来そうだ。桑は伐《き》ったか。桑つきが悪いはお蚕様《こさま》が如何ぞしたのじゃあるまいか。養蚕《ようさん》教師《きょうし》はまだ廻って来ないか。種籾《たねもみ》は如何した。田の荒《あら》おこしもせねばならぬ。苗代掻《しろか》きもせねばならぬ。最早|早生《わせ》の陸稲《おかぼ》も蒔かねばならぬ。何かと云う内、胡瓜《きゅうり》、南瓜《とうなす》、甘藷《さつま》や茄子《なす》も植えねばならぬ。稗《ひえ》や黍《きび》の秋作も蒔かねばならぬ。月の中旬には最早|大麦《おおむぎ》が色づきはじめる。三寸の緑から鳴きはじめた麦の伶人《れいじん》の雲雀は、麦が熟《う》れるぞ、起きろ、急げと朝未明《あさまだき》から囀《さえ》ずる。折も折とて徴兵《ちょうへい》の検査。五分苅頭で紋付羽織でも引かけた体は逞しく顔は子供※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]した若者が、此村からも彼村からも府中に集まる。川端の嘉《かあ》ちゃんは甲種合格だってね、俺《おら》が家《とこ》の忠はまだ抽籤《くじ》は済まねえが、海軍に採《と》られべって事《こん》だ、俺も稼《かせ》げる男の子はなし、忠をとられりゃ作代《さくだい》でも雇うべい、国家の為だ、仕方が無えな、と与右衛門さんが舌鼓《したつづみ》うつ。下田の金さん宅《とこ》では、去年は兄貴《あにき》が抽籤で免《のが》れたが、今年は稲公が彼《あの》体格《たいかく》で、砲兵にとられることになった。当人は勇《いさ》んで居るが、阿母《おふくろ》が今から萎《しお》れて居る。
 頓着《とんちゃく》なく日は立って行く。わかれ霜を気遣うたは昨日の様でも、最早|春蝉《はるぜみ》が鳴き出して青葉の蔭《かげ》がそゞろ恋《こい》しい日もある。詩人が歌う緑蔭《りょくいん》幽草《ゆうそう》白花《はくか》を点ずるの時節となって、畑《はたけ》の境には雪の様に卯《う》の花が咲きこぼれる。林端《りんたん》には白いエゴの花がこぼれる。田川の畔《くろ》には、花茨《はないばら》が芳《かんば》しく咲き乱れる。然し見かえる者はない。大切《だいじ》の大切のお蚕様《こさま》が大きくなって居るのだ。然し月の中に一度|雹祭《ひょうまつり》だけは屹度《きっと》鎮守の宮でする。甲武の山近い三多摩の地は、甲府の盆地から発生する低気圧が東京湾へぬける通路に当って居るので、雹や雷雨は名物である。秋の風もだが、春暮《しゅんぼ》初夏《しょか》の雹が殊に恐ろしいものになって居る。雹の通る路筋《みちすじ》はほゞきまって居る。大抵上流地から多摩川《たまがわ》に沿うて下《くだ》り、此辺の村を掠《かす》めて、東南に過ぎて行く。既に五年前も成人《おとな》の拳大《こぶしほど》の恐ろしい雹を降らした。一昨年も唯十分か十五分の間に地が白くなる程降って、場所によっては大麦小麦は種《たね》も残さず、桑、茶、其外|青物《あおもの》一切全滅した処もある。可なりの生活《くらし》をして居ながら、銭《ぜに》になると云えば、井浚《いどざら》えでも屋根|葺《ふき》の手伝でも何でもする隣字《となりあざ》の九右衛門|爺《じい》さんは、此雹に畑を見舞《みま》われ、失望し切って蒲団《ふとん》をかぶって寝てしもうた。ゾラ[#「ゾラ」に傍線]の小説「土」に、ある慾深《よくふか》の若い百姓が雹に降られて天に向って拳《こぶし》をふり上げ、「何ちゅう事《こつ》をしくさるか」と怒鳴《どな》るところがあるが、無理はない。此辺では「雹乱《ひょうらん》」と云って、雹は戦争《いくさ》よりも恐れられる。そこで雹祭《ひょうまつり》をする。榛名様《はるなさん》に願をかける。然し榛名様も、鎮守の八幡も、如何《どう》ともしかね玉う場合がある。出水の患《うれい》が無い此村も、雹の賜物《たまもの》は折々受けねばならぬ。村の天に納める租税《そぜい》である。

       六

 六月になった。麦秋《むぎあき》である。「富士一つ埋《うづ》み残して青葉《あをば》かな」其青葉の青闇《あおぐら》い間々を、熟《う》れた麦が一面日の出《で》の様に明るくする。陽暦六月は「農攻《のうこう》五月《ごげつ》急於弦《げんよりもきゅうなり》」と云う農家の五月だ。農家の戦争で最劇戦《さいげきせん》は六月である。六月初旬は、小学校も臨時|農繁休《のうはんきゅう》をする。猫の手でも使いたい時だ。子供一人、ドウして中々馬鹿にはならぬ。初旬には最早《もう》蚕《かいこ》が上るのだ。中旬《ちゅうじゅん》には大麦、下旬には小麦を苅《か》るのだ。
 最早|梅雨《つゆ》に入って、じめ/\した日がつゞく。簑笠《みのかさ》で田も植えねばならぬ。畑勝《はたが》ちの村では、田植は一仕事、「植田《うえだ》をしまうとさば/\するね」と皆が云う。雨間《あまま》を見ては、苅り残りの麦も苅らねばならぬ。苅りおくれると、畑の麦が立ったまゝに粒から芽をふく。油断を見すまして作物《さくもつ》其方退《そっちの》けに増長して来た草もとらねばならぬ。甘藷《さつま》の蔓《つる》もかえさねばならぬ。陸稲《おかぼ》や黍《きび》、稗《ひえ》、大豆の中耕《ちゅうこう》もしなければならぬ。二番茶《にばんちゃ》も摘《つ》まねばならぬ。お屋敷に叱《しか》られるので、東京の下肥《しもごえ》ひきにも行かねばならぬ。時も時とて飯料《はんりょう》の麦をきらしたので、水車に持て行って一晩《ひとばん》寝《ね》ずの番をして搗《つ》いて来ねばならぬ。最早甲州の繭買《まゆかい》が甲州街道に入り込んだ。今年は値《ね》が好くて、川端《かわばた》の岩さん家では、四円十五銭に売ったと云う噂《うわさ》が立つ。隣村の浜田さんも繭買をはじめた。工女の四五人入れて足踏《あしぶみ》器械《きかい》で製糸をやる仙ちゃん、長さんも、即座師《そくざし》の鑑札を受けて繭買をはじめた。自家《うち》のお春っ子お兼っ子に一貫目《いっかんめ》何銭の掻《か》き賃をくれて、大急ぎで掻いた繭を車に積んで、重い車を引張って此処其処|相場《そうば》を聞き合わせ、一銭でも高い買手をやっと見つけて、一切合切《いっさいがっさい》屑繭《くずまゆ》まで売ってのけて、手取《てどり》が四十九円と二十五銭。夜の目も寝ずに五十両たらずかと思うても、矢張《やはり》まとまった金だ。持て帰って、古箪笥《ふるだんす》の奥にしまって茶一ぱい飲むと直ぐ畑に出なければならぬ。
 空ではまだ雲雀が根気よく鳴いて居る。村の木立の中では、何時の間にか栗の花が咲いて居る。田圃の小川では、葭切《よしきり》が口やかましく終日《しゅうじつ》騒《さわ》いで居る。杜鵑《ほととぎす》が啼《な》いて行く夜もある。梟《ふくろう》が鳴く日もある。水鶏《くいな》がコト/\たゝく宵《よい》もある。螢が出る。蝉《せみ》が鳴く。蛙が鳴く。蚊が出る。ブヨが出る。蠅が真黒《まっくろ》にたかる。蚤《のみ》が跋扈《ばっこ》する。カナブン、瓜蠅《うりばえ》、テントウ虫、野菜につく虫は限もない。皆|生命《いのち》だ。皆生きねばならぬのだ。到底《どうせ》取りきれる事ではないが、うっちゃって置けば野菜が全滅になる、取れるだけは取らねばならぬ。此方《こっち》も生きねばならぬ人間である。手が足りぬ。手が足りぬ。自家の人数《にんず》ではやりきれぬ。果ては甲州街道から地所にはなれた百姓を雇《やと》うて、一反何程の請負《うけおい》で、田も植えさす、麦も苅らす。それでもまだやり切れぬ。墓地の骸骨《がいこつ》でも引張り出して来て使いたい此頃には、死人か大病人の外は手をあけて居る者は無い。盲目《めくら》の婆さんでも、手さぐりで茶位《ちゃぐらい》は沸《わ》かす。豌豆《えんどう》や隠元《いんげん》は畑に数珠《じゅず》生《な》りでも、もいで煮《に》て食う暇《ひま》は無い。如才《じょさい》ない東京場末の煮豆屋《にまめや》が鈴《りん》を鳴らして来る。飯の代りに黍《きび》の餅で済ます日もある。近い所は、起きぬけに朝飯前《あさめしまえ》の朝作り、遠い畑へはお春っ子が片手に大きな薬鑵《やかん》、片手に茶受の里芋か餅かを入れた風呂敷包を重そうに提《さ》げ、小さな体を歪《ゆが》めてお八《や》つを持て行く。斯《この》季節《きせつ》に農家を訪えば大抵《たいてい》は門をしめてある。猫一疋居ぬ家もある。何を問うても、くる/\とした眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、「知ンねェや」と答うる五六歳《いつつむつ》の女の子が赤ン坊《ぼう》と唯二人留守して居る家《うち》もある。斯様《こん》な時によく子供の大怪我《おおけが》がある。家の内は麦の芒《のげ》だらけ、墓地は草だらけで、お寺や教会では坊さん教師が大欠伸《おおあくび》して居る。後生なんか願うて居る暇が無いのだ。

       七

 忙《せわ》しい中に、月は遠慮《えんりょ》なく七月に入る。六月は忙しかったが、七月も忙しい。
 忙しい、忙しい。何度云うても忙しい。日は永くても、仕事は終《お》えない。夜は短《みじか》くてもおち/\眠ることが出来ぬ。何処《どこ》の娘も赤い眼をして居る。何処のかみさんも、半病人《はんびょうにん》の蒼《あお》い顔をして居る。短気の石山さんが、鈍《どん》な久さんを慳貪《けんどん》に叱りつける。「車の心棒《しんぼう》は鉄《かね》だが、鉄だァて使《つか》や耗《へ》るからナ、俺《おら》ァ段々|稼《かせ》げなくなるのも無理はねえや」と、小男《こおとこ》ながら小気味よく稼ぐ辰《たつ》爺さんがこぼす。「違《ちげえ》ねえ、俺ァ辰さんよか年の十も下だンべが、何糞《なにくそ》ッ若け者《もん》に負けるもンかってやり出しても、第一|息《いき》がつゞかんからナ」と岩畳《がんじょう》づくりの与右衛門さんが相槌《あいづち》をうつ。然し耗っても錆《さ》びても、心棒は心棒だ。心棒が廻わらぬと家が廻わらぬ。折角《せっかく》苅《か》り入れた麦も早く扱《こ》いて撲《ぶ》って俵にしなければ蝶々《ちょうちょう》になる。今日も雨かと思うたりゃ、さあお天道様《てんとさま》が出なさったぞ、皆《みんな》来《こ》うと呼ばって、胡麻塩頭《ごましおあたま》に向鉢巻、手垢に光るくるり棒《ぼう》押取《おっと》って禾場《うちば》に出る。それっと子供が飛び出す。兄が出る。弟が出る。嫁《よめ》が出る。娘が出る。腰痛《ようつう》でなければ婆さんも出る。奇麗に掃いた禾場《うちば》に一面の穂麦を敷《し》いて、男は男、女は女と相並んでの差向い、片足《かたあし》踏出《ふみだ》し、気合を入れて、一上一下とかわる/″\打下ろす。男は股引《ももひき》に腹かけ一つ、黒《くろ》鉢巻《はちまき》の経木《きょうぎ》真田《さなだ》の帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶって、赤銅色《しゃくどういろ》の逞《たくま》しい腕に撚《より》をかけ、菅笠《すげがさ》若くは手拭で姉様冠《あねさまかぶ》りの若い女は赤襷《あかだすき》手甲《てっこう》がけ、腕で額の汗を拭き/\、くるり棒の調子を合わして、ドウ、ドウ、バッタ、バタ、時々《ときどき》群《むれ》の一人が「ヨウ」と勇《いさ》みを入れて、大地も挫《ひし》げと打下ろす。「お前《まえ》さんとならばヨウ、何処《どこ》までもウ、親を離れて彼世《あのよ》までもゥ」若《わか》い女の好い声《こえ》が歌う。「コラコラ」皆が囃《はや》す。禾場《うちば》の日はかん/\照って居る。くるり棒がぴかりと光る。若い男女の顔は、熟した桃の様に紅光《あかびか》って居る。空には白光りする岩雲《いわぐも》が堆《うずたか》く湧《わ》いて居る。
 七月中旬、梅雨《つゆ》があけると、真剣に暑くなる。明るい麦が取り去られて、田も畑も緑《みどり》に返える。然し其は春暮《しゅんぼ》の嫩《やわ》らかな緑では無い、日中は緑の焔《ほのお》を吐《は》く緑である。朝夕は蜩《ひぐらし》の声で涼しいが、昼間は油蝉《あぶらぜみ》の音の煎《い》りつく様に暑い。涼しい草屋《くさや》でも、九十度に上る日がある。家の内では大抵誰も裸体《はだか》である。畑ではズボラの武太さんは褌《ふんどし》一つで陸稲《おかぼ》のサクを切って居る。十五六日は、東京のお盆《ぼん》で、此処《ここ》其処に藪入姿《やぶいりすがた》の小さな白足袋があるく。甲州街道の馬車は、此等の小僧さんで満員である。

       八

 暴風にも静な中心がある。忙《せわ》しい農家の夏の戦闘《いくさ》にも休戦の期《き》がある。
 七月|末《すえ》か、八月初か、麦も仕舞《しま》い、草も一先ず取りしもうた程《ほど》よい頃を見はからって、月番から総郷上《そうごうあが》り正月のふれを出す。総郷業を休み足を洗うて上るの意である。其《その》期は三日。中日は村|総出《そうで》の草苅り路普請《みちぶしん》の日とする。右左から恣《ほしいまま》に公道を侵《おか》した雑草や雑木の枝を、一同|磨《と》ぎ耗《へ》らした鎌で遠慮|会釈《えしゃく》もなく切払う。人よく道を弘《ひろ》むを、文義《もんぎ》通りやるのである。慾張《よくばり》と名のある不人望な人の畑や林は、此時こそ思い切り切りまくる。昔は兎に角、此の頃では世の中せち辛《から》くなって、物日にも稼《かせ》ぐことが流行する。総郷上り正月にも、畑に田にぽつ/\働く影を見うける。
 八月は小学校も休業《やすみ》だ。八月七日は村の七夕《たなばた》、五色の短冊《たんざく》さげた笹《ささ》を立つる家もある。やがて于蘭盆会《うらぼんえ》。苧殻《おがら》のかわりに麦からで手軽に迎火《むかえび》を焚《た》いて、それでも盆だけに墓地も家内《やうち》も可なり賑合《にぎわ》い、緋の袈裟《けさ》をかけた坊さんや、仕着せの浴衣単衣で藪入《やぶいり》に行く奉公男女の影や、断続《だんぞく》して来る物貰いや、盆らしい気もちを見せて通る。然し斯《この》貧《まず》しい小さな野の村では、昔から盆踊《ぼんおど》りと云うものを知らぬ。一年中で一番好い水々《みずみず》しい大きな月が上《あが》っても、其れは断片的《きれぎれ》に若者の歌を嗾《そそ》るばかりである。まる/\とした月を象《かた》どる環《わ》を作って、大勢の若い男女が、白い地を践《ふ》み、黒い影を落して、歌いつ踊《おど》りつ夜を深して、傾《かたぶ》く月に一人《ひとり》減《へ》り二人《ふたり》寝に行き、到頭《とうとう》「四五人に月落ちかゝる踊かな」の趣《おもむき》は、此《この》辺《へん》の村では見ることが出来ぬ。
 夏蚕《なつご》を飼《か》う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山《たくさん》ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙《せわ》しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙《すき》を狙《ねら》って、富士詣《ふじまいり》、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里|日着《ひづ》きする。五円持て夜徹《よどお》し歩るき、眠たくなれば堂宮《どうみや》に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。夏の命《いのち》は日と水だ。照らねばならず、降らねばならぬ。多摩川遠い此村里では、水害の患《うれい》は無いかわり、旱魃《かんばつ》の恐れがある。大抵は都合よく夕立《ゆうだち》が来てくれる。雨乞《あまごい》は六年間に唯一度あった。降って欲しい時に降れば、直ぐ「おしめり正月」である。伝染病が襲うて来るも此月だ。赤痢《せきり》、窒扶斯《ちぶす》で草葺の避病院が一ぱいになる年がある。真白い診察衣《しんさつい》を着た医員が歩く。大至急清潔法施行の布令《ふれ》が来る。村の衛生係が草鞋ばきの巡査さんと溷《どぶ》、掃溜《はきだめ》を見てあるく。其巡査さんの細君が赤痢になったと云う評判が立つ。鉦《かね》や太鼓で念仏《ねんぶつ》唱《とな》えてねりあるき、厄病禳《やくびょうばら》いする村もある。
 其様《そん》な騒《さわ》ぎも何時しか下火になって、暑い/\と云う下から、ある日|秋蝉《つくつくぼうし》がせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花《おばな》が出て覗《のぞ》く。甘藷を手掘りすると、早生は赤児《あかご》の腕程になって居る。大根、漬菜《つけな》を蒔かねばならぬ。蕎麦、秋馬鈴薯もそろ/\蒔かねばならぬ。暫《しばら》く緑一色であった田は、白っぽい早稲の穂の色になり、畑では稗《ひえ》が黒く、黍《きび》が黄に、粟が褐色《かちいろ》に熟《う》れて来る。粟や黍は餅《もち》にしてもまだ食える。稗は乃木さんでなければ中々食えぬ。此辺では、米を非常、挽割麦《ひきわりむぎ》を常食にして、よく/\の家でなければ純稗《さらひえ》の飯は食わぬ。下肥《しもごえ》ひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラ/\して咽《のど》を通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶ/\流し込むのである。若い者の楽《たのしみ》の一は、食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と忿《いか》って飛び出した作代《さくだい》もある。

       九

 九月は農家の厄月《やくづき》、二百十日、二百二十日を眼の前に控えて、朔日《ついたち》には風祭をする。麦桑に雹《ひょう》を気づかった農家は、稲に風を気づかわねばならぬ。九月は農家の鳴戸《なると》の瀬戸だ。瀬戸を過ぐれば秋の彼岸《ひがん》。蚊帳《かや》を仕舞う。おかみや娘の夜延《よなべ》仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥《もず》が、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗が笑《え》む。豆の葉が黄ばむ。雁来紅《けいとう》が染《そ》むを相図に、夜は空高く雁《かり》の音《ね》がする。林の中、道草の中、家の中まで入り込んで、虫と云う虫が鳴き立てる。早稲が黄ろくなりそめる。蕎麦の花は雪の様だ。彼岸花と云う曼珠沙華《まんじゅしゃげ》は、此辺に少ない。此あたりの彼岸花は、萩《はぎ》、女郎花《おみなえし》、嫁菜《よめな》の花、何よりも初秋の栄《さかえ》を見せるのが、紅く白く沢々《つやつや》と絹総《きぬぶさ》を靡《なび》かす様な花薄《はなすすき》である。子供が其れを剪《き》って来て、十五夜の名月様に上げる。萱は葺料にして長もちするので、小麦からの一束《ひとたば》五厘に対し、萱は一銭も其上もする。そこで萱野《かやの》を仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減って行くばかりである。
 九月は農家の祭月《まつりづき》、大事な交際季節《シーズン》である。風の心配も兎やら恁《こ》うやら通り越して、先|収穫《しゅうかく》の見込がつくと、何処《どこ》の村でも祭をやる。木戸銭御無用、千客万来の芝居、お神楽《かぐら》、其れが出来なければ詮方《せんかた》無しのお神酒《みき》祭《まつり》。今日は粕谷か、明日《あす》は廻沢《めぐりさわ》烏山《からすやま》は何日で、給田が何日、船橋では、上下祖師ヶ谷では、八幡山では、隣村の北沢では、と皆が指折《ゆびおり》数《かぞ》えて浮き立つ。彼方の村には太鼓が鳴る。此方《こち》の字《あざ》では舞台《ぶたい》がけ。一村八字、寄合うて大きくやればよさそうなものゝ、八つの字には八つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九|軒《けん》の八幡山でも、各自に自家《うち》の祭をせねば気が済《す》まぬ。祭となれば、何様な家でも、強飯《おこわ》を蒸《ふか》す、煮染《にしめ》をこさえる、饂飩《うどん》をうつ、甘酒《あまざけ》を作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は此方のお神楽《かぐら》で、平生《ふだん》は真白な鳥の糞《ふん》だらけの鎮守の宮も真黒《まっくろ》になる程人が寄って、安小間物屋、駄菓子屋、鮨屋《すしや》、おでん屋、水菓子屋などの店が立つ。神楽は村の能狂言《のうきょうげん》、神官が家元で、村の器用な若者等が神楽師《かぐらし》をする。無口で大兵の鉄さんが気軽に太鼓をうったり、気軽の亀さんが髪髯《かみひげ》蓬々《ぼうぼう》とした面をかぶって真面目に舞台に立ちはだかる。「あ、ありゃ亀さんだよ、まァ」と可笑《おか》しざかりのお島がくつ/\笑う。今日自家の祭酒に酔うた仁左衛門さんが、明日は隣字の芝居で、透綾《すきや》の羽織でも引被《ひっか》け、寸志の紙包《かみづつみ》を懐中して、芝居へ出かける。毎日近所で顔を合して居ながら、畑の畔《くろ》の立話にも、「今日は」「今日は」と抑《そもそも》天気の挨拶からゆる/\とはじめる田舎《いなか》気質《かたぎ》で、仁左衛門さんと隣字の幹部の忠五郎さんとの間には、芝居《しばい》の科白《せりふ》の受取渡しよろしくと云う挨拶が鄭重《ていちょう》に交換される。輪番《りんばん》に主になったり、客になったり、呼びつ喚ばれつ、祭は村の親睦会だ。三多摩は昔から人の気の荒い処で、政党騒ぎではよく血の雨を降らし、気の立った日露戦争時代は、農家の子弟が面|籠手《こて》かついで調布まで一里半撃剣の朝稽古に通ったり柔道を習ったりしたものだが、六年前に一度粕谷八幡山対烏山の間に大喧嘩《おおげんか》があって、仕込杖《しこみづえ》が光ったり怪我人が出来たり長い間|揉《も》めくった以来、此と云う喧嘩の沙汰も聞かぬ。泰平有象《たいへいしょうあり》村々酒《そんそんのさけ》。祭が繁昌すれば、田舎は長閑《のどか》である。

       十

 十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲《わせ》から米になって行く。性急《せいきゅう》に百舌鳥《もず》が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉《あかとんぼ》が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図《ふと》見ると富士の北の一角《いっかく》に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。
 十月は雨の月だ。雨がつゞいたあとでは、雑木林に茸《きのこ》が立つ。野ら仕事をせぬ腰の曲った爺さんや、赤児を負ったお春っ子が、笊《ざる》をかゝえて採りに来る。楢茸《ならたけ》、湿地茸《しめじだけ》、稀に紅茸、初茸は滅多になく、多いのが油坊主《あぶらぼうず》と云う茸だ。一雨一雨に気は冷えて行く。田も林も日に/\色づいて行く。甘藷《さつま》が掘られて、続々都へ運ばれる。田舎は金が乏しい。村会議員の石山さんも、一銭|違《ちが》うと謂うて甲州街道の馬車にも烏山から乗らずに山谷《さんや》から乗る。だから、村の者が甘藷を出すにも、一貫目につき五厘も値《ね》がよければ、二里の幡《はた》ヶ谷《や》に下ろすより四里の神田へ持って行く。
 茶の花が咲く。雑木林の楢に絡《から》む自然薯《じねんじょ》の蔓《つる》の葉が黄になり、藪《やぶ》からさし出る白膠木《ぬるで》が眼ざむる様な赤《あか》になって、お納戸色《なんどいろ》の小さなコップを幾箇も列《つら》ねて竜胆《りんどう》が咲く。樫《かし》の木の下は、ドングリが箒《ほうき》で掃く程だ。最早|豌豆《えんどう》や蚕豆《そらまめ》も蒔《ま》かねばならぬ。蕎麦も霜前に苅《か》らねばならぬ。また其れよりも農家の一大事、月の下旬から来月初旬にかけて、最早麦蒔きがはじまる。後押しの二人もついて、山の如く堆肥《たいひ》を積んだ車が頻《しきり》に通る。先ず小麦を蒔いて、後に大麦を蒔くのである。奇麗に平《なら》した畑は一条《ひとすじ》一条丁寧に尺竹《しゃくだけ》をあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へ畝《うね》を立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種を振《ふ》れば、赤児を負った若いかみさんが竹杖《たけづえ》ついて、片足かわりに南から北へと足で土をかけて、奇麗に踏んづけて行く。燻炭《くんたん》肥料の、条播《すじまき》のと、農会の勧誘《かんゆう》で、一二年やって見ても、矢張仕来りの勝手がよい方でやって行くのが多い。

       十一

 霜らしい霜は、例年明治天皇の天長節《てんちょうせつ》、十一月三日頃に来る。手を浄《きよ》めに前夜雨戸をあくれば、鍼先《はりさき》を吹っかくる様な水気《すいき》が面を撲《う》って、遽《あわ》てゝもぐり込む蒲団の中でも足の先が縮《ちぢ》こまる程いやに冷《つめ》たい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場《うちば》と云わず、檐下《のきした》から転び出た木臼の上と云わず、出し忘れた物干竿の上のつぎ股引《ももひき》と云わず、田も畑も路も烏《からす》の羽の上までも、真白だ。日が出ると、晶々《きらきら》とした白金|末《まつ》になり、紫水晶末になるのである。山風をあらしと云えば霜の威力を何に譬《たと》えよう? 地の上の白火事《しろかじ》とでも云おう。大抵のものは爛《ただ》れてしまう。桑と云う桑の葉は、ぐったりとなって、二日もすれば、歯がぬける様にひとりでにぼろりと落ちる。生々《いきいき》として居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎《うで》られた様に凋《しお》れて、明くる日は最早真黒になり、触《さわ》ればぼろ/\の粉《こな》になる。シャンとして居た里芋《さといも》の茎《くき》も、ぐっちゃりと腐った様になる。畑が斯うだから、園の内も青い物は全滅《ぜんめつ》、色ある物は一夜に爛《ただ》れて了うのである。霜にめげぬは、青々《あおあお》とした大根の葉と、霜で甘くなる漬菜《つけな》の類《たぐい》と、それから緑の縞《しま》を土に織り出して最早ぼつ/\生えて来た大麦小麦ばかりである。
 霜は霽《はれ》に伴う。霜の十一月は、日本晴《にっぽんばれ》の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃《へきるり》になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴《さ》える。田は黄色から白茶《しらちゃ》になって行く。此処其処の雑木林や村々の落葉木が、最後の栄《さかえ》を示して黄に褐《かち》に紅に照り渡る。緑の葉の中に、柚子《ゆず》が金の珠を掛ける。光明は空《そら》から降《ふ》り、地からも湧《わ》いて来る。小学校の運動会で、父兄が招かれる。村の恵比寿《えびす》講《こう》、白米五合銭十五銭の持寄りで、夜徹《よっぴて》の食ったり飲んだり話したりがある。日もいよ/\短くなる。甘藷や里芋も掘って、土窖《あな》に蔵《しま》わねばならぬ。中稲《なかて》も苅らねばならぬ。其内に晩稲《おくて》も苅らねばならぬ。でも、夏の戦闘《たたかい》に比べては、何を云っても最早しめたものである。朝霜、夜嵐《よあらし》、昼は長閑《のどか》な小春日がつゞく。「小春日や田舎に廻る肴売《さかなうり》」。「※[#「魚+是」、第4水準2-93-60]《しこ》は? ※[#「魚+是」、第4水準2-93-60]?」「秋刀魚《さんま》や秋刀魚!」のふれ声が村から村を廻《まわ》ってあるく。牛豚肉は滅多《めった》に食わず、川魚は少《すくな》し、稀《まれ》に鼬《いたち》に吸われた鶏《とり》でも食えば骨《ほね》までたゝいて食い、土の物の外は大抵|塩鮭《しおざけ》、めざし、棒鱈にのみ海の恩恵を知る農家も、斯様《こん》な時には炙《あぶ》れば青い焔《ほのお》立《た》つ脂ぎった生魚を買って舌鼓《したつづみ》うつのである。
 月の末方《すえがた》には、除隊の兵士が帰って来る。近衛か、第一師団か、せめて横須賀《よこすか》位《ぐらい》ならまだしも、運悪く北海道三界|旭川《あさひがわ》へでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って来るのだ。親類《しんるい》縁者《えんじゃ》は遠出の出迎、村では村内少年音楽隊を先に立て、迎何々君之帰還《なになにくんのきかんをむかう》の旗押立てゝ、村界まで迎いに出かける。二年三年の兵営《へいえい》生活《せいかつ》で大分|世慣《よな》れ人ずれて来た丑之助君が、羽織袴、靴、中折帽、派手《はで》をする向きは新調のカーキー服にギュウ/\云う磨き立ての長靴、腰の淋《さび》しいのを気にしながら、胸に真新《まあたら》しい在郷軍人|徽章《きしょう》をつるして、澄まし返《かえ》って歩いて来る。面々|各自《てんで》の挨拶がある。鎮守の宮にねり込んで、取りあえず神酒《みき》一献《いっこん》、古顔の在郷軍人か、若者頭の音頭《おんど》で、大日本帝国、天皇陛下、大日本帝国陸海軍、何々丑之助君の万歳がある。丑之助君が何々有志諸君の万歳を呼ぶ。其れから丑之助君を宅《たく》へ送って、いよ/\飲食《のみくい》だ。赤の飯、刻※[#「魚+昜」、上巻-147-8]《きざみするめ》菎蒻《こんにゃく》里芋蓮根の煮染《にしめ》、豆腐に芋の汁、はずんだ家では菰冠《こもかぶ》りを一樽とって、主も客も芽出度《めでたい》と云って飲み、万歳と云っては食い、満腹満足、真赤《まっか》になって祝うのだ。二三日すると帰り新参《しんざん》の丑之助君が、帰った時の服装《なり》で神妙《しんみょう》に礼廻りをする。軒別に手拭か半紙。入営に餞別《せんべつ》でも貰った家へは、隊名姓名を金文字で入れた盃や塗盆《ぬりぼん》を持参する。兵士一人出す家の物入も大抵では無い。
 兵隊さんの出代《でがわ》りで、除隊を迎えると、直ぐ入営送りだ。体格がよく、男の子が多くて、陸海軍拡張の今日と来て居るので、何れの字からも二人三人兵士を出さぬ年は無い。白羽《しらは》の箭が立った若者には、勇んで出かける者もある。抽籤《くじ》を遁《のが》れた礼参りに、わざ/\鴻《こう》の巣《す》在《ざい》の何宮さんまで出かける若者もある。二十歳《はたち》前後が一番百姓仕事に実《み》が入る時ですから、とこぼす若い爺《とっ》さんもある。然し全国皆兵の今日だ。一人息子でも、可愛息子でも、云い聞かされた「国家の為」だ、出せとあったら出さねばならぬ。出さぬと云ったら、お上に済まぬ。近所に済まぬ。そこで父の右腕《みぎうで》、母のおもい子の岩吉も、頭は五分刈、中折帽、紋付羽織、袴、靴、凜《りゅう》とした装《なり》で、少しは怯々《おどおど》した然し澄《す》ました顔をして、鎮守の宮で神酒《みき》を飲まされ、万歳の声と、祝入営の旗五六本と、村楽隊と、一字総出の戸主連に村はずれまで見送られ、知らぬ生活に入る可く往ってしまう。二三日、七八日《ななようか》過ぐると、軒別に入営済《にゅうえいずみ》の御礼のはがきが来る。

       十二

 兵隊さんの出代りを村の一年最後の賑合にして、あとは寂《さび》しい初冬の十二月に入る。
「稼収《かおさまって》平野濶《へいやひろし》」晩稲も苅られて、田圃《たんぼ》も一望ガランとして居る。畑の桑は一株ずつ髻《もとどり》を結《ゆ》われる。一束ずつ奇麗に結わえた新藁《しんわら》は、風よけがわりにずらりと家の周囲《まわり》にかけられる。ざら/\と稲を扱《こ》く音。カラ/\と唐箕車《とうみぐるま》を廻す響《おと》。大根引、漬菜洗い、若い者は真赤な手をして居る。昼《ひる》は北を囲うた南向きの小屋の蓆《むしろ》の上、夜は炉《ろ》の傍《はた》で、かみさんはせっせと股引、足袋を繕《つくろ》う。夜は晩くまで納屋《なや》に籾《もみ》ずりの響がする。突然《だしぬけ》にざあと時雨《しぐれ》が来る。はら/\と庇《ひさし》をうって霰《あられ》が来る。ちら/\と風花《かざはな》が降る。北から凩《こがらし》が吹いて来て、落葉した村の木立を騒々しく鳴らす。乾いた落葉が、遽《あわ》てゝカラカラと舞い奔《はし》る。箒を逆《さかさ》に立てた様な雑木山に、長い鋸《のこ》を持った樵夫《さきやま》が入って、啣《くわ》え煙管《ぎせる》で楢《なら》や櫟《くぬぎ》を薪に伐《き》る。海苔疎朶《のりそだ》を積んだ車が村を出る。冬至までは、日がます/\つまって行く。六時にまだ小暗《おぐら》く、五時には最早《もう》闇《くら》い。流しもとに氷が張る。霜が日に/\深くなる。
 十五日が世田《せた》ヶ谷《や》のボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰《しょういん》神社《じんじゃ》の入口から世田ヶ谷の上宿《かみじゅく》下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃《すすは》きの塵箱《ごみばこ》を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸《ぼろ》やガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買う者も買う、と唯驚かるゝばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。咽《のど》を稗《ひえ》が通る様に、店の間を押し合いへし合いしてぞろ/\人間《にんげん》が通る。近郷《きんごう》近在の爺さん婆さん若い者女子供が、股引《ももひき》草鞋《わらじ》で大風呂敷を持ったり、荷車を挽《ひ》いたり、目籠《めかご》を背負ったりして、早い者は夜半から出かける。新しい莚《むしろ》、筍掘器《たけのこほり》、天秤棒を買って帰る者、草履《ぞうり》の材料やつぎ切れにする襤褸《ぼろ》を買う者、古靴を値切《ねぎ》る者、古帽子、古洋燈、講談物《こうだんもの》の古本を冷かす者、稲荷鮨《いなりずし》を頬張《ほおば》る者、玉乗の見世物の前にぽかんと立つ者、人さま/″\物さま/″\の限を尽す。世田ヶ谷のボロ市を観《み》て悟《さと》らねばならぬ、世に無用のものは無い、而《そう》して悲観は単に高慢であることを。
 ボロ市過ぎて、冬至もやがてあとになり、行く/\年も暮《くれ》になる。蛇《へび》は穴に入り人は家に籠《こも》って、霜枯《しもがれ》の武蔵野は、静かな昼《ひる》にはさながら白日《まひる》の夢に定《じょう》に入る。寂しそうな烏が、此|樫《かし》の村から田圃を唖々《ああ》と鳴きながら彼|欅《けやき》の村へと渡る。稀には何処から迷い込んだか洋服ゲートルの猟者が銃先《つつさき》に鴫《しぎ》や鵯《ひよ》のけたゝましく鳴いて飛び立つこともあるが、また直ぐともとの寂しさに返える。凩《こがらし》の吹く夜は、海の様な響《ひびき》が武蔵野に起って、人の心を遠く遠く誘《さそ》うて行く。但東京の屋敷に頼《たの》まれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂《もちつ》きに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処《どこ》に師走《しわす》の忙《せわ》しさも無い。二十五日、二十八日、晦日《みそか》、大晦日、都の年の瀬は日一日と断崖《だんがい》に近づいて行く。三里東の東京には、二百万の人の海、嘸《さぞ》さま/″\の波も立とう。日頃《ひごろ》眺むる東京の煙も、此四五日は大息《おおいき》吐息《といき》の息巻荒く※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あが》る様に見える。然し此処《ここ》は田舎である。都の師走《しわす》は、田舎の霜月《しもつき》。冬枯《ふゆがれ》の寂しい武蔵野は、復活の春を約して、麦が今二寸に伸びて居る。気に入りの息子を月の初に兵隊にとられて、寂しい心の辰《たつ》爺《じい》さんは、冬至が過ぎれば日が畳の目一つずつ永くなる、冬のあとには春が来る、と云う信仰の下に、時々|竹箆《たけべら》で鍬の刃につく土を落しつゝ、悠々《ゆうゆう》と二寸になった麦のサクを切って居る。
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     媒妁

 結婚の媒妁《なかだち》を頼まれた。式は宜い様にやってくれとの事である。新郎《しんろう》とは昨今の知合で、新婦は初めて名を聞いた。媒妁なンか経験もなし、断ったが、是非との頼《たの》み、諾《よし》と面白半分引受けてしもうた。
 明治四十年の九月|某日《それのひ》、媒妁夫妻は小婢《こおんな》と三人がかりで草屋の六畳二室を清《きよ》め、赤、白、鼠、婢の有《もの》まで借りて、あらん限りの毛布を敷きつめた。家のまわりも一《ひと》わたり掃《は》いた。隔ての唐紙《からかみ》を取払い、テーブルを一脚《いっきゃく》東向きに据《す》え、露ながら折って来た野の草花を花瓶《かへい》一ぱいに插《さ》した。女郎花《おみなえし》、地楡《われもこう》、水引、螢草、うつぼ草、黄碧紫紅《こうへきしこう》入り乱れて、あばら家も為に風情《ふぜい》を添えた。媒妁夫妻は心嬉しく、主人は綿絽《めんろ》の紋付羽織に木綿茶縞の袴、妻は紋服《もんぷく》は御所持なしで透綾《すきや》の縞の単衣にあらためて、徐《しずか》に新郎新婦の到着を待った。
 正午過ぎ、村を騒がして八台の車が来た。新郎新婦及縁者の人々である。新婦は初めて見た。眼のきれの長い佳人《かじん》である。更衣室も無いので、仕切りの障子をしめ、二畳の板の間を半分《はんぶん》占《し》めた古長持の上に妻の鏡台《きょうだい》を置いた。鏡台の背には、破簾《やれみす》を下げて煤《すす》だらけの勝手を隔てた。二十分の後此|楽屋《がくや》から現われ出た花嫁君《はなよめぎみ》を見ると、秋草の裾模様《すそもよう》をつけた淡紅色《ときいろ》絽《ろ》の晴着で、今咲いた芙蓉《ふよう》の花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、凜《りゅう》として座って居る。
 媒妁は一咳《いちがい》してやおら立上った。
「勝田慶三郎」
「松居千代」
 卒業免状でも渡す時の様に、声《こえ》厳《おごそか》に新郎新婦を呼び出して、テーブルの前に立たせた。而《そう》して媒妁は自身愛読する創世記《そうせいき》イサク[#「イサク」に傍線]、リベカ[#「リベカ」に傍線]結婚の条を朗々《ろうろう》と読み上げた。
「祈祷《きとう》を致します」
 斯く云って、媒妁がやゝ久しく精神を統一すべく黙って居ると、
「祈祷を致すのでございますか」
と新郎がやゝ驚いた様に小声できく。媒妁は頓着《とんじゃく》なく祝祷《しゅくとう》をはじめた。
 祈祷が終る。妻が介抱《かいほう》して、新郎新婦を握手させる。一旦新婦の手からぬいて置いた指環を新郎に渡し、あらためて新郎の手ずから新婦の指に嵌《は》めさす。二人ながら震えて居る。
 屋敷に門無く、障子は穴だらけである。村あってより見たこともない夥《おびただ》しい車の入来《じゅらい》に眼を驚かした村の子供が、草履《ぞうり》ばた/\大勢《おおぜい》縁先《えんさき》に入り込んで、ぽかんとした口だの、青涕《あおばな》の出入する鼻だの、驚いた様な眼だのが、障子の穴から覗《のぞ》いて居る。「何だ、ありゃ」。「あ、あ、あら、如何《どう》するだンべか」なンか云って居る。
 六畳の大広間には、新郎新婦相並んで正面赤毛布の上に座《すわ》って居る。結婚証書を三通|新婦《はなよめ》の兄者人に書いてもらって、新郎新婦をはじめ其|尊長達《そんちょうたち》、媒妁夫妻も署名した。これで結婚式は芽出度終った。小婢《こおんな》が茶を運んで来た。菓子が無いので、有り合せの梨《なし》を剥《む》き、数が無いので小さく切って、小楊枝《こようじ》を添《そ》えて出した。
 四時過ぎお開きとなった。
 媒妁《なかだち》の役目相済んだつもりで納まって居ると、神田《かんだ》の料理屋で披露の宴をするとの事で、連れて来られた車にのせられ、十台の車は静かな村を犇《ひし》めかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内された。
 媒妁は滅多に公会祝儀の席なぞに出た事のない本当の野人《やじん》である。酒がはじまった。手をついたり、お辞儀《じぎ》をしたり、小むつかしい献酬《けんしゅう》の礼が盛に行われる。酒を呑まぬ媒妁は、ぽかんとして皆の酒を飲むのを眺めて居る。料理が出たが、菜食主義の彼は肉食をせぬ。腹は無闇《むやみ》に減る。新郎の母者人が「ドウカお吸物《すいもの》を」との挨拶《あいさつ》が無い前に、勝手に吸物《すいもの》椀《わん》の蓋をとって、鱚《きす》のムスビは残して松蕈《まつだけ》とミツバばかり食った。
 九時過ぎやっとお開きになった。媒妁夫婦は一同に礼して、寿《じゅ》の字の風呂敷に包んだ引き物の鰹節籠《かつぶしかご》を二つ折詰《おりづめ》を二つもらって、車で送られてお茶の水停車場に往った。媒妁の家は菜食で、ダシにも昆布《こんぶ》を使って居るので、二つの鰹節包は二人の車夫にやった。車夫は眼を円《まる》くして居た。
 新宿に下りると、雨が盛《さかん》に降って居る。夜も最早《もう》十時、甲州街道口に一台の車も居ない。媒妁夫婦は、潜《くぐ》りの障子だけあかりのさした店に入って、足駄《あしだ》と傘とブラ提灯《ちょうちん》と蝋燭とマッチと糸経《いとだて》を買った。而《そう》しておの/\糸経を被《かぶ》り、男が二人のぬいだ日和下駄を風呂敷包《ふろしきづつみ》にして腰につけ、小婢《こおんな》にみやげの折詰|二箇《ふたつ》半巾《はんかち》に包んで片手にぶら下げて、尻高々とからげれば、妻は一張羅《いっちょうら》の夏帯を濡《ぬ》らすまいとて風呂敷を腰に巻き、単衣の裾短に引き上げて、提灯ぶら提げ、人通りも絶え果てた甲州街道三里の泥水をピチャリ/\足駄に云わして帰った。
「如何《どう》だ、此《この》態《ざま》を勝田君に書いてもらったら、一寸《ちょっと》茶番《ちゃばん》の道行が出来ようじゃないか」
 夫が笑えば、妻も噴《ふ》き出し、
「本当にね」
と相槌《あいづち》をうった。
 新郎《しんろう》勝田君は、若手で錚々《そうそう》たる劇作家《ドラマチスト》である。
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     螢

 先刻《さっき》から田圃《たんぼ》に呼びかわす男の子の声がして居たと思うたら、闇《やみ》の門口から小さな影が二つ三つ四つ縁先にあらわれた。小さな握拳《にぎりこぶし》の指の間から、ちら/\碧《あお》い光を見せて居る。
 皆近所の子で、先夜|主人《あるじ》が「ミゼラーブル」の話を聞いて息をのんだ連中《れんじゅう》である。
「螢を捕《と》ったね」
「え」
と一人が云ったが、
「あ、此れに這《は》わせて見べいや」
と云って、縁先《えんさき》に据《す》えてある切株の上の小さな姫蘆《ひめあし》の橢円形《だえんけい》の水盤《すいばん》へ、窃《そっ》と拳《こぶし》の中のものを移した。
 すると、余《よ》の子供が吾も吾もと皆手を水盤の上に解《と》いた。水を吹いた小さな姫蘆の葉の上、茎の間、蘆の根ざす小さな岩の上に、生きた、緑玉《りょくぎょく》、碧玉、孔雀石《くじゃくせき》の片がほろ/\とこぼれて、其数約二十余、葉末の露にも深さ一分の水盤の水にも映《うつ》って、光ったり、消えたり、嬉《うれ》しそうに明滅《めいめつ》して、飛び立とうともしない。
「綺麗《きれい》だ喃《なあ》」
「綺麗だ喃」
 皆|嬉々《きき》としてしたり貌《がお》にほめそやす。
「皆何してるだか」
 云って、また二人《ふたり》男の子が草履《ぞうり》の音をさせて入って来た。
「あッ綺麗だな、俺《おら》がのも明けてやるべ」
と云って、また二人して八九|疋《ひき》螢の島へ螢を放《はな》った。
 主人《あるじ》と妻と逗留《とうりゅう》に来て居る都の娘と、ランプを隅へ押《お》しやって、螢と螢を眺むる子供を眺める。田圃《たんぼ》の方から涼しい風が吹いて来る。其風に瞬《またた》く小さな緑玉《エメラルド》の灯でゞもあるように、三十ばかりの螢がかわる/″\明滅する。縁にかけたり蹲《しゃが》んだりして、子供は黙って見とれて居る。
 斯涼しい活画《いきえ》を見て居る彼の眼前に、何時《いつ》とはなしにランプの明るい客間《パーラー》があらわれた。其処に一人の沈欝《ちんうつ》な顔をして丈高《たけたか》い西洋人が立って居る。前には学生が十五六人腰かけて居る。学生の中に十二位の男の子が居る。其は彼自身である。彼は十二の子供で、京都同志社の生徒である。彼は同窓諸子と宣教師デビス先生に招かれて、今茶菓と話の馳走になって居るのである。米国南北戦争に北軍の大佐であったとか云うデビス先生は、軍人だけに姿勢が殊に立派で、何処やら武骨《ぶこつ》な点もあって、真面目な時は頗る厳格《げんかく》沈欝《ちんうつ》な、一寸|畏《おそ》ろしい様な人であったが、子供の眼からも親切な、笑えば愛嬌の多い先生だった。何かと云うと頭を掉《ふ》るのが癖だった。毎度先生に招かるゝ彼等学生は、今宵《こよい》も蜜柑やケークの馳走になった。赤い碁盤縞《ごばんじま》のフロックを着た先生の末子《ばっし》が愛想《あいそ》に出て来たが、うっかり放屁《ほうひ》したので、学生がドッと笑い出した。其子が泣き出した。デビス先生は左の手で泣く子の頭を撫《な》で、右手の金網の炮烙《ほうろく》でハゼ玉蜀黍《もろこし》をあぶりつゝ、プチヽヽプチヽヽ其はぜる響《おと》を口真似して笑いながら頭を掉られた。其つゞきである。先生は南北戦争の逸事《いつじ》を話して、ある夜|火光《あかり》を見さえすれば敵が射撃するので、時計を見るにマッチを擦《す》ることもならず、恰《ちょうど》飛んで居た螢を捉《つかま》えて時計にのせて時間を見た、と云う話をされた。
 其れは彼が今此処に居る子供の一番小さなの位の昔であった。其後彼はデビス先生に近しくする機会を有たなかった。先生の夫人は其頃から先生よりも余程ふけて居られた。後《のち》気が変になり、帰国の船中太平洋の水屑《みくず》になられたと聞いて居る。デビス先生は男らしく其苦痛に耐え、宣教師|排斥《はいせき》が一の流行になった時代に処《しょ》して、恚《いか》らず乱れず始終一貫同志社にあって日本人の為に尽し、「吾生涯即吾遺言也」との訣辞《けつじ》を残して、先年終に米国に逝《ゆ》かれた。
 螢を見れば常に憶《おも》い出すデビス先生を、彼は今宵《こよい》も憶い出した。
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     夕立雲

 畑のものも、田のものも、林のものも、園のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦《こが》れた。
「おしめりがなければ、街道は塵埃《ほこり》で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。
「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆《ぼん》ですがね」と内の婢《おんな》もこぼして居た。
 両三日来非常に蒸《む》す。東の方に雲が立つ日もあった。二声《ふたこえ》三声|雷鳴《らいめい》を聞くこともあった。
「いまに夕立が来る」
 斯く云って幾日か過ぎた。
 今日早夕飯を食って居ると、北から冷《ひ》やりと風が来た。眼を上げると果然《はたして》、北に一団|紺※[#「青+定」、第4水準2-91-94]色《インジゴーいろ》の雲が蹲踞《しゃが》んで居る。其紺※[#「青+定」、第4水準2-91-94]の雲を背《うしろ》に、こんもりした隣家の杉樫の木立、孟宗竹の藪《やぶ》などが生々《なまなま》しい緑を浮《う》かして居る。
「夕立が来るぞ」
 主人《あるじ》は大声に呼んで、手早く庭の乾し物、履物《はきもの》などを片づける。裏庭では、婢が駈けて来て洗濯物を取り入れた。
 やがて食卓から立って妻児が下りて来た頃は、北天の一隅に埋伏《まいふく》し居た彼濃い紺※[#「青+定」、第4水準2-91-94]色《インジゴーいろ》の雲が、倏忽《たちまち》の中にむら/\と湧《わ》き起《た》った。何の艶《つや》もない濁った煙色に化《な》り、見る/\天穹《てんきゅう》を這《は》い上り、大軍の散開する様に、東に、西に、天心に、ず、ずうと広がって来た。
 三人は芝生に立って、驚嘆《きょうたん》の眼を※[#「目+登」、第3水準1-88-91]《みは》って斯|夥《おびただ》しい雨雲の活動を見た。
 あな夥しの雲の勢や。黙示録に「天は巻物を捲《ま》くが如く去り行く」と歌うたも無理はない。青空は今南の一軸に巻き蹙《ちぢ》められ、煤煙《ばいえん》の色をした雲の大軍は、其青空をすら余《あま》さじものをと南を指してヒタ押しに押寄《おしよ》せて居る。つい今しがたまで雨を恋しがって居た乾き切った真夏《まなつ》の喘《あえ》ぎは何処へ往ったか。唯十分か十五分の中に、大地は恐ろしい雨雲の下に閉じこめられて、冷たい黯《くら》い冥府《よみ》になった。
 雲の運動は秒一秒|劇《はげ》しくなった。南を指して流るゝ雲、渦《うず》まく雲、真黒に屯《とま》って動かぬ雲、雲の中から生るゝ雲、雲を摩《さす》って移り行く雲、淡くなり、濃くなり、淡くなり、北から東へ、東から西へ、北から西へ、西から南へ、逆流《ぎゃくりゅう》して南から東へ、世界中の煙突《えんとつ》と云う煙突をこゝに集めて煤煙の限りなく涌《わ》く様に、眼を驚かす雲の大行軍《だいこうぐん》、音響《おと》を聞かぬが不思議である。
 彼等は驚異の眼を※[#「目+登」、第3水準1-88-91]って、此活動する雲の下に魅せられた様に彳《たたず》んだ。冷たい風がすうっすうっと顔に当る。後《おく》れ馳せに雷《かみなり》がそろ/\鳴り出した。北の方で、条《すじ》をなさぬ紅《くれない》や紫の電光《いなずま》が時々ぱっぱっと天の半壁《はんぺき》を輝《てら》して閃《ひら》めく。近づく雷雨を感じつゝ、彼等は猶頭上の雲から眼を離し得なかった。薄汚《うすぎたな》い煤煙色をした満天の雲はます/\南に流れる、水の様に、霧の様に、煙の様に。空は皆動いて居る。濶《ひろ》い空の何《ど》の一寸四方として動いて居ないのはない。皆恐ろしい勢を以て動いて居る。仰ぎ見る彼等は、流るゝ雲に引きずられてやゝもすれば駈《か》け出しそうになる足を踏《ふ》みしめ踏みしめ立って居なければならなかった。時々西の方で、或《ある》一処雲が薄《うす》れて、探照燈《たんしょうとう》の光めいた生白《なまじろ》い一道の明《あかり》が斜《ななめ》に落ちて来て、深い深い井《いど》の底でも照す様に、彼等と其足下の芝生《しばふ》だけ明るくする。彼等ははっと驚惶《おどろき》の眼を見合わす。と思うと、怒れる神の額《ひたい》の如く最早|真闇《まっくら》に真黒になって居る。妻児《さいじ》の顔は土色になった。草木も人も息を屏《ひそ》めたかの様に、一切の物音は絶えた。何処《どこ》から来たか、犬のデカが不安の眼つきをして見上げつゝ、大きな体を主人の脚にすりつける。
 空は到頭雲をかぶって了った。著しく水気《すいき》を含んだ北風が、ぱっ/\と顔を撲《う》って来た。やがて粒だった雨になる。雷《らい》も頭上近くなった。雲見《くもみ》の一群《ひとむれ》は、急いで家に入った。母屋《おもや》の南面の雨戸だけ残して、悉く戸をしめた。暗いのでランプをつけた。
 ざあっと降り出した。雷が鳴る。一庭《いってい》の雨脚を凄《すさま》じく見せて、ピカリと雷が光る。颯《ざあ》、颯と烈しく降り出した。
 見る/\庭は川になる。雨が飛石《とびいし》をうって刎《は》ねかえる。目に入る限りの緑葉《あおば》が、一葉々々に雨を浴《あ》びて、嬉《うれ》しげにぞく/\身を震わして居る。
「あゝ好いおしめりだ」
 斯く云った彼等は、更に
「まだ七時前だよ、まあ」
と婢《おんな》の云う声に驚かされた。
 夕立から本降りになって、雨は夜すがら降った。
[#地から3字上げ](大正元年 八月十四日)
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     葬式

       一

 午前十時と云う触込《ふれこ》みなので、十一時に寺本さんの家に往って見ると、納屋《なや》と上塗せぬ土蔵《どぞう》の間の大きな柿の木の蔭に村の衆《しゅう》がまだ五六人、紙旗を青竹《あおだけ》に結《ゆ》いつけて居る。
「ドウも御苦労さま、此方様《こちらさま》でも御愁傷《ごしゅうしょう》な」
と云う慣例《かんれい》の挨拶を交《か》わして、其の群《むれ》に入る。一本の旗には「諸行無常《しょぎょうむじょう》」、一本には「是生滅法《ぜしょうめっぽう》」、一本には「皆滅々己《かいめつめっき》」、今一本には何とか書いてある。其上にはいずれも梵字《ぼんじ》で何か書いてある。
「お寺は東覚院《とうがくいん》ですか」
「否《いや》、上祖師ヶ谷の安穏寺《あんのんじ》です」
 其安穏寺の坊《ぼう》さんであろう、紫紺《しこん》の法衣で母屋《おもや》の棺の前に座って居るのが、此方《こち》から見える。棺は緑色の簾《すだれ》をかけた立派な輿《こし》に納めて、母屋の座敷の正面に据《す》えてある。洋服の若い男が坊さんと相対して座《すわ》って居る。医者であろう。左の腕《うで》に黒布を巻いた白衣《はくい》の看護婦の姿が見える。
「看護婦さんも、癒《なお》って帰るじゃ帰り力があるが」と誰やらが嘆息する。
 時分《じぶん》だから上れと云わるゝので、諸君の後について母屋の表《おもて》縁側《えんがわ》から上って、棺の置いてある十畳の次ぎの十畳に入る。頭の禿《は》げた石山氏が、黒絽の紋付、仙台平の袴で、若主人に代って応対《おうたい》する。諸君と共に二列に差向って、饌《ぜん》に就く。大きな黒塗の椀に堆《うずたか》く飯を盛ってある。汁椀《しるわん》は豆腐と茄子《なす》と油揚《あぶらあげ》のつゆで、向うに沢庵《たくあん》が二切つけてある。眼の凹《くぼ》い、鮫の歯の様な短い胡麻塩《ごましお》髯《ひげ》の七右衛門爺さんが、年増《としま》の婦人と共に甲斐※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しく立って給仕《きゅうじ》をする。一椀をやっと食い終えて、すべり出る。

       二

 柿の木蔭《こかげ》は涼しい風が吹いて居る。青苔《あおごけ》蒸《む》した柿の幹から花をつけた雪の下が長くぶら下って居る。若い作男が其処にあった二台の荷車を引きのけ、大きな鍵《かぎ》で土蔵の戸前を開けて、蓆《むしろ》を七八枚出して敷いてくれた。其れに座《すわ》った者もある。足駄ばきのまゝ蹲《しゃが》んで話して居る者もある。彼は納屋《なや》の檐下《のきした》にころがって居る大きな木臼《きうす》の塵を払って腰かけた。追々人が殖《ふ》えて、柿の下は十五六人になった。
「何《なん》しろむつかしい事がありゃ一番に飛び込もうと云うンだからエライや」
「全くだね。寺本さんはソノ粕谷の人物ばかりじゃねえ、千歳村の人物だからね」
と紺飛白《こんがすり》で何処やら品《ひん》の好い昨年|母《おふくろ》をなくした仁左衛門さんが相槌をうつ。「俺《おら》ァ全くがっかりしちまった。コウ兄か伯父《おじ》見たいで、何と云いや来ちゃ相談したもンだからな。今後《これから》何処へ往って相談したらいゝんだか――勘さん、卿《おめえ》の所へでも往くだね」と縞《しま》の夏羽織を着た矮《ちいさ》い真黒な六十爺さんの顔を仁左衛門さんは見る。爺さんは黙って左の掌《てのひら》にこつ/\煙管《きせる》をはたいて居る。
「寺本さんも、こちとら見たいに銭《ぜに》が無かったから何だが、あれで金でも持って居たらソラエライ事をやる人だったが」と隅の方から誰やら云うた。
「他《ひと》が死にゃ働くなンか全くいやになっちまうね」まだ若い組の浜田の金さんが云う。
「いやになったって、死にゃえゝが、生命《いのち》がありゃ困っちまうからな」
 故人の弟達や縁者の志《こころざし》だと云って、代々木の酒屋の屋号《やごう》のついた一升徳利が四本持ち出された。茶碗と箸と、それから一寸五分角程に切った冷豆腐《ひやどうふ》に醤油をぶっかけた大皿と、輪ぎりにした朝漬《あさづけ》の胡瓜《きゅうり》の皿が運ばれた。皆|蓆《むしろ》の上に車座になった。茶碗になみ/\と酒が注《つ》がれた。彼も座って胡瓜の漬物をつまむ。羽織袴の幸吉さんが挨拶に来た。故人の弟である。故人は丈高い苦《にが》み走った覇気満々たる男であったが、幸さんは人の好さそうな矮《ちいさ》い男だ。一戸から一銭出した村香奠《むらこうでん》の礼を丁寧に述べて、盃を重ぬべく挨拶して立つ。
「幸さん一つ」と誰やらが茶碗をさす。
「酒どころかよ、兄貴が死んだンだ、本当に」と来た時から已《すで》に真赤な顔して居た辰爺さん――勘さんの弟――が怒鳴る。皆がドッと笑う。
「兄貴が死んだンだ、本当に、酒どころかよ」と辰爺さんは呟《つぶや》く様に繰りかえす。
 皆好い顔になって立上った。村中で唯一人《ただひとり》のチョン髷の持主、彼に対してはいつも御先生《ごせんせい》と挨拶する佐平爺さんは、荒蓆《あらむしろ》の上にころり横になって、肱枕《ひじまくら》をしたが、風がソヨ/\吹くので直ぐ快《い》い気もちに眠ってしまったと見え、其|腫《は》れぼったい瞼《まぶた》はヒタと押《おっ》かぶさって、浅葱縞《あさぎじま》の単衣の脇《わき》がすう/\息つく毎に高くなり低くなりして居る。

       三

 母屋の方では、頻に人が出たり入ったりして居る。白襦袢、白の半股引、紺の腹掛、手拭を腰にさげた跣足《はだし》の若い衆は、忙しそうに高張の白提灯《しらちょうちん》の仕度をしたり、青竹のもとを鉈《なた》で削《そ》いだりして居る。
 二人|挽《びき》の車が泥塗《どろまみれ》になって、入って来た。車から下りた銀杏返の若い女は、鼠色のコオトをぬいで、草色の薄物《うすもの》で縁に上り、出て来た年増《としま》の女と挨拶して居る。
「井《いど》は何処ですかな」
 抓《つか》んだ手拭で額の汗を拭き/\、真赤になった白襦袢の車夫《くるまや》の一人が、柿の木の下の群《むれ》に来て尋ねる。
「井かね、井は直ぐ其《その》裏《うら》にあるだよ、それ其処をそう往ってもえゝ、彼方《あっち》へ廻ってもいかれるだ」辰爺さんが顋《あご》でしゃくる。
 美的百姓は木臼《きうす》に腰かけたまゝ、所在《しょざい》なさに手近にある大麦の穂を摘んでは、掌で籾《もみ》を摺《す》って噛《かじ》って居る。不図気がつくと、納屋の檐下《のきした》には、小麦も大麦も刈入れた束《たば》のまゝまだ扱《こ》きもせずに入れてある。他所《よそ》では最早|棒打《ぼううち》も済んだ家もある。此家の主人の病気が、如何に此家の機関を停止して居たかが分《わ》かる。美的百姓も、黯《くら》い気分になった。此家の若主人に妻君《かみさん》があったか如何《どう》か、と辰爺さんに尋ねて見た。
「まだ何もありませんや。ソラ、去年の暮に帰《けえ》って来たばかりだからね」
 然《そう》だ。若主人は二年の兵役にとられて、去年の十二月初やっと帰って来たのであった。一人息子だったので、彼を兵役に出したあと、五十を越した主人は分外に働かねばならなかった。彼の心臓病《しんぞうびょう》は或は此無理の労働の結果であったかも知れぬ。尤も随分酒は飲んで居た。故人は村の兵事係《へいじがかり》であった。一人子でも、兵役に出すは国家に対する義務ですからと、毎《つね》に云うて居た。若主人の留守中、彼の手助けは若い作男であった。故人は其作代が甲斐々々しく骨身を惜まず働く事を人毎《ひとごと》に誉《ほ》めて居た。
 時が大分移った。酔った辰爺さんは煙管と莨入《たばこいれ》を両手に提げながら、小さな体をやおら起して、相撲が四股《しこ》を踏む様に前を明けはたげ、「のら番は何しとるだんべ。のら番を呼んで来《こ》う」と怒鳴った。
「野良番を呼んで来う。のら番は何しとるだンべ。酔っぱらって寝てしまったンべ」と辰爺さんは重ねて怒鳴った。
「何《なあに》、銀平さんに文ちゃんだから、酔っぱらってなンか居るもンか。最早《もう》来る時分だ」仁左衛門さんが宥《なだ》める。
「いや野ら番ばかりァ酒が無えじゃやりきれねえナ。彼《あの》臭《にお》いがな」と誰やらが云う。
「来た、来た、噂をすりゃ影だ、野ら番が来た」
 墓掘番《はかほりばん》の四人が打連れて来た。
「御苦労様でしたよ」皆が挨拶する。
「棺が重いぞ。四人じゃ全くやりきれねえや。八人|舁《か》きだもの」と云う声がする。
 勘爺さんが頷《うなず》いた。「然だ/\、手代《てがわ》りでやるだな。野良番が四人《よったり》に、此家の作代に、俺《おら》が家の作代に、それから石山さんの作代に、それから、七ちゃんでも舁《か》いてもらうべい」
 野良番四人の為に蓆の上に膳が運ばれた。赤児の風呂桶大《ふろおけほど》の飯櫃《おはち》が持て来られる。食事|半《なかば》に、七右衛門爺さんが来て切口上で挨拶し、棺を舁《かつ》いで御出の時|襷《たすき》にでもと云って新しい手拭を四筋置いて往った。粕谷で其子を中学二年までやった家は此家《ここ》ばかりと云う程万事|派手《はで》であった故人が名残《なごり》は、斯様《こん》な事にまであらわれた。

       四

「念仏でもやるべいか」
と辰爺さんが言い出した。「おい、幸さんとこの其児、鉦《かね》を持て来いよ」
 呼ばれた十二三の子が紐《ひも》をつけた鉦と撞木《しゅもく》を持て来た。辰爺さんはガンと一つ鳴らして見た。「こらいけねえな、斯様《こん》な響《おと》をすらァ」ガン/\と二つ三つ鳴らして見る。冴《さ》えない響がする。
「さあ、念仏は何にしべいか。南《な》ァまァ陀《だ》ァ仏《ぶつ》にするか。ジンバラハラバイタァウンケンソバギャアノベイロシャノにするか」
「ジンバラハラバイタァが後生《ごしょう》になるちゅうじゃねいか」仁左衛門さんが真面目に口を入れた。「辰さん、お前《めえ》音頭《おんどう》をとるンだぜ」
「※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》、乃公《おら》が音頭とるべい。音頭とるべいが、皆であとやらんといけねえぞ。音頭取りばかりにさしちゃいけねえぞ――ソラ、ジンバラハラバイタァ」ガーンと鉦が鳴る。
「ジンバラハラバイタァ――」仁左衛門さんが真面目について行く。多くは唯笑って居る。
「いかん/\、今時の若けい者ァ念仏一つ知んねえからな。昔は男は男、女は女、月に三日宛寄っちゃ念仏の稽古したもンだ」辰爺さん躍起《やっき》となった。
「教えて置かねえからだよ」若い者の笑声が答える。
「炬火《たいまつ》は如何《どう》だな。おゝ、久《ひさ》さんが来た。久さん/\、済まねえが炬火を拵《こさ》えてくんな」
 唇の厚い久さんは、やおら其方《そち》を向いて「炬火かね、炬火は幾箇《いくつ》拵えるだね?」
「短くて好《え》えからな、四つも拵えるだな。そ、其処の麦からが好いよ」
「※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》」と久さんは答えて、のそり/\檐下《のきした》から引き出して、二握三握一つにして、トンと地につき揃《そろ》えて、無雑作《むぞうさ》に小麦からで縛《しば》って、炬火をこさえた。
「まだかな」先刻《さっき》から焦々《いらいら》して居る辰爺さんが大声に唸《つぶ》やく。
「今本膳が出てる処だからな」母屋の方を見ながら一人が辰さんを宥《なだ》める。
「それはソウと、上祖師《かみそし》ヶ谷《や》の彦さんは分ったかな」
「分からねえとよ。中隊でも大騒ぎして、平服で出る、制服で出る、何でも空井戸《からいど》を探してるちゅうこンだ」
「窘《いじ》められたンですかね?」
「ナニ、中隊では評判がよかったンですよ。正直でね」
「正直者が一番|危《あぶ》ねえだ。少し時間に後《おく》れたりすると、直ぐ無分別をやるからな」
「違えねえ」
 皆一寸黙った。
 辰爺さんは、美的百姓に大きな声で囁《ささ》やいた。「岩もね、上等兵の候補者になりましたってね」
「然《そう》かね。岩さんは何処に往っても可愛がられる男だよ」
「毎月ね、」辰爺さんは声を落して囁いた。「毎月ね、三|円《りょう》宛《ずつ》やりますよ。それから兄の所から三|円《りょう》宛ね、くれますよ。ソレ小遣《こづかい》が足りねえと、上祖師ヶ谷の様にならァね」
「月に六円宛、其れは大変だね」
「岩もね、其当座は腹が減って困ったてこぼして居ましたっけ。何《なん》しろ麦飯の七八|杯《はい》もひっかけて居ったンだからね。酒保《しゅほ》に飛んで行き/\したって話してました。今じゃ大きに楽《らく》になったってますよ。最早《もう》あと一年半で帰《けえ》って来ますだよ」
 農家から大切な働き男を取って、其上間接に小使としての税金を金の乏しい農村から月々六円もとる兵役と云うものについて、美的百姓は大に考えざるを得なかった。

       五

 母屋では、最早《もう》仕度が出来たと見え、棺が縁の方に舁《か》き出された。柿の木の下では、寝た者も起き、総立になった。手々《てんで》に白張提灯を持ったり、紙の幟《はた》を握ったり、炬火《たいまつ》をとったりした。辰爺さんはやおら煙草入を腰に插して鉦《かね》と撞木《しゅもく》をとった。
「旗が先に行くかね、提灯《ちょうちん》かね?」
「冥土《めいど》の案内じゃ提灯が先だんべ」
「東京じゃ旗が先きに行くようだね、ねえ先生」
「東京は東京、粕谷は粕谷流で行こうじゃねえか」と誰やらの声。
「炬火が一番先だよ」
「応、然《そう》だ、炬火が一番先だ」
 白無垢《しろむく》を着た女達が、縁から下りて草履をはいた。其草履は墓地でぬぎ棄てるので、帰途《かえり》の履物《はきもの》がいる。大きな目籠《めかご》に駒下駄も空気草履も泥だらけの木履も一つにぶち込んで、久さんが背負《せお》って居る。
「南無阿弥陀《なむあみだ》ァ仏《ぶつ》」
 辰爺さんが音頭《おんど》をとりながら先に立つ。鉦がガァンと鳴る。講中《こうじゅう》が「南無阿弥陀ァ仏」と和する。鉦、炬火、提灯、旗、それから兵隊帰りの喪主《もしゅ》が羽織袴で位牌を捧《ささ》げ、其後から棺を蔵《おさ》めた輿《こし》は八人で舁《か》かれた。七さんは着流《きなが》しに新しい駒下駄で肩を入れて居る。此辺には滅多に見た事も無い立派な輿だ。白無垢の婦人、白衣の看護婦、黒い洋服の若い医師、急拵《きゅうごしら》えの紋を透綾《すきや》の羽織に張《は》った親戚の男達、其等が棺の前後に附添うた。大勢の子供や、子守が跟《つ》いて来る。婆さんかみさんが皆出て見る。
 昨夜《ゆうべ》の豪雨《ごうう》は幸にからり霽《は》れて、道も大抵乾いて居る。風が南からソヨ/\吹いて、「諸行無常」「是生滅法」の紙幟《はた》がヒラ/\靡《なび》く。「南無阿弥陀ァ仏――南無阿弥陀ァ仏」単調《たんちょう》な村の哀《かなしみ》の譜《ふ》は、村の静寂の中に油の様に流れて、眠れよ休めよと云う様に棺を墓地へと導く。
 葬列は滞《とどこおり》なく、彼が家の隣の墓地に入った。此春墓地拡張の相談がきまって、三|畝《せ》余《あま》りの小杉山を拓《ひら》いた。其杉を買った故人外二名の人々が、大きな分は伐《き》って売り、小さなのは三人で持って来て彼の家に植えてくれた。其れは唯三月前の四月の事であった。其れから最早墓が二つも殖えた。二番目が寺本さんである。
 墓地の樒《しきみ》の木に障《さわ》るので、若い洋服の医師が手を添えて枝を擡《もた》げたりして、棺は掘られた墓の前に据えられた。輿を解くのが一仕事、東京から来た葬儀社の十七八の若者は、真赤になってやっと輿をはずした。白木綿《しろもめん》で巻かれた柩《ひつぎ》は、荒縄《あらなわ》で縛《しば》られて、多少の騒ぎと共に穴の中に下《おろ》された。野良番は鍬《くわ》をとった。どさりと赤土の塊《くれ》が柩の上に落ちはじめた。
「皆入れてしまうとよ」囁《ささや》き合うて、行列の先頭に来た紙幟は青竹からはずして、柩の上に投げ込まれた。
 土がまたドサ/\落ちる。

           *

 葬式の五日目に、話題に上った上祖師ヶ谷の行衛不明の兵士の消息を乳屋《ちちや》が告げた。兵士の彦さんは縊死《いっし》したのであった。代々木の山の中に、最早|腐《くさ》りかけて、両眼は烏《からす》につゝかれ、空洞《うろ》になって居たそうだ。原因は分らぬが、彦さんの実父は養子で、彦さんの母に追出され、今の爺《おやじ》は後夫《あといり》と云う事であった。
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     田川

 最初近いと聞いた多摩川《たまがわ》が、家から一里の余もある。玉川上水すら半里からある。好い水の流れに遠いのが、幾度《いくたび》も繰り返えさるゝ失望であった。つい其まゝに住むことになったが、流水《りゅうすい》があったらと思わぬことは無い。せめて掘抜井《ほりぬきいど》でも掘ろうかと思うが、経験ある人の言によると、此附近では曾て多額の費用をかけて掘った人があって、水は地面まで来るには来たが、如何しても噴《ふ》き上らぬと云うのである。水の楽《たのしみ》は、普通の井と、家内に居ては音は聞こえぬ附近の田川《たがわ》で満足しなければならぬ。
 彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌《あらいすすぎ》の用にしかならぬ。一昨々年の夏の出水に、村内で三間ばかり堤防が崩れ、堤《つつみ》から西は一時首まで浸《つか》る程の湖水になり、村総出で防水工事をやった。曾て村の小児が溺死したこともあって、村の為にはあまり有り難くもない水である。品川堀の外には、彼が家の下なる谷を西から東へ流るゝ小さな田川と、八幡|田圃《たんぼ》を北から南東に流るゝ大小|二筋《ふたすじ》の田川がある。
 彼の屋敷下の小さな谷を流るゝ小川は、何処から来るのか知らぬが、冬は大抵|涸《か》れて了う。其かわり夏の出水には堤を越して畑に溢《あふ》れる。其様な時には、村の子供が大喜悦《おおよろこび》で、キャッ/\騒いで泳いで居る。本当の畑水練である。農としては出水を憂うべきだが、遊び好きなる事に於て村の悪太郎《あくたろう》等に劣るまじい彼は、畑を流るゝ濁水《だくすい》の音|颯々《さっさつ》として松風の如く心耳《しんじ》一爽《いっそう》の快を先ず感じて、尻《しり》高々とからげ、下駄ばきでざぶ/\渡って見たりして、其日|限《ぎ》りに水が落ちて了うのを毎《つね》に残念に思うのである。兎に角此気まぐれな小川でも、これあるが為に少しは田も出来る。堤《つつみ》の萱《かや》や葭《よし》は青々と茂《しげ》って、殊更《ことさら》丈《たけ》も高い。これあるが為に、夏は螢《ほたる》の根拠地《こんきょち》ともなる。朝から晩までべちゃくちゃ囀《さえず》る葭原雀《よしわらすずめ》の隠れ家《が》にもなる。五月雨《さみだれ》の夜にコト/\叩《たた》く水鶏《くいな》の宿にもなる。
 八幡|田圃《たんぼ》を流るゝ田川の大きな方を、此辺では大川と云う。一間|幅《はば》しかない大川で、玉川|浄水《じょうすい》を分った灌漑用水である。此水あるが為に、千歳村から世田《せた》ヶ谷《や》かけて、何百町の田が出来る。九十一歳になる彼の父は、若い頃は村吏《そんり》県官《けんかん》として農政には深い趣味と経験を有って居る。其子の家に滞留中此田川の畔《くろ》を歩いて、熟々《つくづく》と水を眺め、喟然《きぜん》として「仁水《じんすい》だ喃《なあ》」と嘆じた。趣味を先ず第一に見る其子の為にも不仁の水とは云われない。此水あるが為に田圃がある。春は紫雲英《れんげそう》の花氈《はなむしろ》を敷く。淋しい村を賑《にぎ》わして蛙《かわず》が鳴く。朝露白い青田の涼しさも、黄なる日の光を震わして蝗《いなご》飛ぶ秋の田の豊けさに伴うさま/″\の趣も、此水の賜ものである。こゝにこの水流るゝがために、水を好む野茨《のばら》も心地《ここち》よく其の涯《ほとり》に茂って、麦が熟《う》れる頃は枝も撓《たわ》に芳《かんば》しい白い花を被《かぶ》る。薄紫の嫁菜《よめな》の花や、薄紅の犬蓼《いぬたで》や、いろ/\の秋の草花も美しい。鮒《ふな》や鰌《どじょう》を子供が捕る。水底《みなそこ》に影を曳《ひ》いて、メダカが游《およ》ぐ。ドブンと音して蛙が飛び込む。稀《まれ》にはしなやかな小さな十六盤橋《そろばんばし》を見せて、二尺五寸の蛇が渡る。田に入るとて水を堰《せ》く頃は、高八寸のナイヤガラが出来て、蛙の声にまぎらわしい音を立てる。玉川に行くかわりに子供はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も隅田川」然《そう》だ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川の孫《まご》であった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この孫川《まごがわ》の水も灰《はい》がゝった乳色になるのである。乞食は時々こゝに浴びる。去年の夏は照《てり》がつゞいたので、村居六年はじめて雨乞《あまごい》を見た。八幡に打寄って村の男衆が、神酒《みき》をあげ、「六根清浄《ろっこんしょうじょう》………………懺悔※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《さんげさんげ》」と叫んだあとで若い者が褌《ふんどし》一つになって此二間|幅《はば》の大川に飛び込み、肩から水を浴びて「六根清浄」……何とかして「さんげ※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]」と口々に叫んだ。其声は舜旻天《しゅんびんてん》に号泣《ごうきゅう》する声の如くいじらしく耳に響いた。霜の朝など八幡から眺めると、小川の上ばかり水蒸気がほうっと白く騰《た》って、水の行衛《ゆくえ》が田圃はるかに指《ゆび》さゝれる。
 筧《かけひ》の水音を枕に聞く山家《やまが》の住居。山雨常に来るかと疑う渓声《けいせい》の裡《うち》。平時は汪々《おうおう》として声なく音なく、一たび怒る時万雷の崩るゝ如き大河の畔《ほとり》。裏に鳧《ふ》を飼い門に舟を繋《つな》ぐ江湖の住居。色と動と音と千変万化の無尽蔵たる海洋の辺《ほとり》。野に※[#「厭/食」、第4水準2-92-73]《あ》いた彼には、此等のものが時々|幻《まぼろし》の如く立現われる。然しながら仮《かり》にサハラ[#「サハラ」に二重傍線]、ゴビ[#「ゴビ」に二重傍線]の一切水に縁遠い境に住まねばならぬとなったら如何《どう》であろう。また竈《かまど》に蛭《ひる》這《は》い蛇《へび》寝床《ねどこ》に潜《もぐ》る水国《すいごく》卑湿《ひしつ》の地に住まねばならぬとなったら如何であろう。中庸は平凡である。然し平凡には平凡の意味があり強味《つよみ》がある。
 田川の水よ。※[#「人べん+爾」、第3水準1-14-45]《なんじ》に筧の水の幽韻《ゆういん》はない。雪氷を融《と》かした山川の清冽《せいれつ》は無い。瀑布《ばくふ》の咆哮《ほうこう》は無い。大河の溶々《ようよう》は無い。大海の汪洋《おうよう》は無い。※[#「人べん+爾」、第3水準1-14-45]は謙遜な農家の友である。高慢な心の角《つの》を折り、騒がしい気の遽《あわ》たゞしさを抑《おさ》えて、心静《こころしずか》に※[#「人べん+爾」、第3水準1-14-45]の声低く語る教訓を聴かねばならぬ。
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     驟雨浴

 両三日来、西の地平線上、甲相武信の境を造くる連山の空に当って、屡々《しばしば》黒雲が立った。遠寄《とおよせ》の太鼓の様に雷も時々鳴る。黒雲の幕の中で、ぱっ/\と火花を散す様に、電光も射す。夕立が来ると云いながら、一滴も落ちずして二三日過ぎた。
 土用太郎《どようたろう》は涼しい彼の家でも九十一度と云う未曾有の暑気であった。土用二郎の今日《きょう》は、朝来少し曇ったが、風と云うものはたと絶え、気温は昨日程上って居ないにも拘わらず、脂汗《あぶらあせ》が流れた。
 昼飯を食って汗になったので、天日で湯と沸《わ》いて居る庭の甕《かめ》の水を浴び、籐《とう》の寝台に横になって新聞を見て居る内に、快《い》い心地になって眠って了うた。
 一寝入して眼をさますと、室内が暗くなって居る。時計を見ると、まだ二時廻ったばかりである。縁側に出て見た。南の方は明るく、午後二時の日がかん/\照って居るが、西の方が大分暗い。近村の二本松を前景《ぜんけい》にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延いた様に妙に黄色になり、其上層は人を脅《おど》す様な真黯《まっくら》い色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみ妙《みょう》に黄朱《おうしゅ》を抹《なす》った様になる時は、屹度何か出て来る。已《すで》に明治四十一年の春の暮、成人《おとな》の握掌大《にぎりこぶしほど》の素晴しい雹が降った時も然《そう》だった。斯う思いながら縁から見て居ると、頭上《ずじょう》の日はカン/\照りながら、西の方から涼しいと云うより寧《むしろ》冷《つめ》たい気が吻々《ふつふつ》と吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。山から都へ行く途中、彼が住む野の村を過《よ》ぎるのである。
 西は本気に曇った。雷様も真面目に鳴り出した。最早多摩川の向うは降って居るのであろう。彼は大急ぎで下りて、庭に乾してあった仕事着やはだし足袋《たび》を取り入れた。帰って北の窓をあけると、面《つら》が冷やりとした。北の空は一面鼠色になって居る。日傭《ひよう》のおかみが大急ぎで乾し麦や麦からを取り入れて居る。
 北の硝子窓《がらすまど》をしめて、座敷の南縁に立って居ると、ぽつりと一つ大きな白い粒《つぶ》が落ちて、乾いて黄粉《きなこ》の様になった土にころりところんだ。
「来たぞ、来たぞ」
 四十五歳の髯男《ひげおとこ》、小供か小犬の様に嬉《うれ》しい予期《よき》気分《きぶん》になって見て居ると、そろそろ落ち出した。大粒小粒、小粒大粒、かわる/″\斜《はす》に落ちては、地上にもんどりうって団子《だんご》の様にころがる。二本松のあたり一抹《いちまつ》の明色は薄墨色《うすずみいろ》に掻《か》き消されて、推し寄せて来る白い驟雨《ゆうだち》の進行《マアチ》が眼に見えて近づいて来る。
 彼は久しく羨《うらや》んで居た。熱帯を過ぐる軍艦の甲板で、海軍の将卒が折々やると云う驟雨浴《しゅううよく》「総員入浴用意!」の一令で、手早く制服《ふく》をぬぎすて、石鹸《しゃぼん》とタオルを両手に抓《つか》んで、真黒の健児共がずらり甲板に列んだ処は、面白い見ものであろう。やがて雷鳴電光よろしくあって、錨索大《いかりづなだい》の雨の棒が瀑布落《たきおと》しに撞々《どうどう》と来る。さあ、今だ。総員|鶩《あひる》の如くきゃッ/\笑い騒いで、大急ぎで石鹸を塗る、洗う。大洋の真中で大無銭湯が開かれるのだ。愚図々々すれば、石鹸を塗ったばかりの斑人形《まだらにんぎょう》を残して、いたずらな驟雨《しゅうう》はざあと駈《か》けぬけて了う。四方水の上に居ながら、バケツ一ぱいの淡水《まみず》にも中々ありつかれぬ海の子等に、蒸溜水の天水浴《てんすいよく》とは、何等贅沢の沙汰であろう。世界一の豪快《ごうかい》は、甲板の驟雨浴であらねばならぬ。
 不幸にして美的百姓氏は、海上ならぬ陸上に居る。熱帯ならぬ温帯に居る。壮快限り無い甲板の驟雨浴に真似られぬが、自己流の驟雨浴なら出来ぬことは無い。やって見るかな、と思うて居ると、妻児が来た。彼は手早《てばや》く浴衣をぬいで真裸になり、突《つ》と走り出て、芝生の真中に棒立ちに立った。
 ポトリ肩をうつ。脳天まで冷やりとする。またぽとり。ぽと/\ぽと/\。其たびに肩や腹や背が冷やり/\とする。好い気もちだ。然しまだ夕立の先手で、手痛くはやって来《こ》ぬ。
「此れをかぶっていらっしゃいな」
と云って、妻は硝子《がらす》の大きな盂《はち》を持て来た。硝子は電気を絶縁する、雷よけのまじないにかぶれと謂うのだ。諾《よし》と受取って、いきなり頭にかぶった。黒眼鏡をかけた毛だらけの裸男《はだかおとこ》が、硝子鉢《がらすばち》を冠って、直立不動の姿勢をとったところは、新式の河童《かっぱ》だ。不図思いついて、彼は頭上の硝子盂を上向けにし、両手で支《ささ》えて立った。一つ二つと三十ばかり数《かぞ》うると、取り下ろして、ぐっと一気に飲み乾《ほ》した。やわらかな天水である。二たび三たび興に乗じて此大|觴《さかずき》を重ねた。
「もう上《あが》っていらっしゃいよ」
 妻児が呼ぶ頃は、夕立の中軍《ちゅうぐん》まさに殺到《さっとう》して、四囲《あたり》は真白い闇《やみ》になった。電がピカリとする。雷《らい》が頭上で鳴る。ざあざあっと落ち来る太い雨に身の内|撲《う》たれぬ処もなく、ぐっと息が詰まる。驟雨浴《しゅううよく》もこれまでと、彼は滝《たき》の如く迸《ほとばし》る樋口《といぐち》の水に足を洗わして、身震いして縁に飛び上った。
 上ると土砂降《どしゃぶ》りになった。庭の平たい甕《かめ》の水を雨が乱れ撲って、無数の魚児の※[#「口+僉」、第4水準2-4-39]※[#「口+禺」、第3水準1-15-9]《げんぎょう》する様に跳《は》ね上って居たが、其れさえ最早見えなくなった。
「呀《あっ》、縁《えん》が」
と妻《つま》が叫んだ。南西からざァっと吹かけて来て、縁は忽《たちまち》川になった。妻と婢《おんな》は遽《あわ》てゝ書院の雨戸をくる。主人は障子、廊下の硝子窓《がらすまど》をしめてまわる。一切の物音は絶えて、唯ざあと降る音、ざあっと吹く響《おと》ばかりである。忽|珂※[#「王+黎」、第3水準1-88-35]《からん》と硝子戸が響《ひび》いた。また一つ珂※[#「王+黎」、第3水準1-88-35]と響いた。雹《ひょう》である。彼はまだ裸であった。飛び下りて、雨の中から七八つ白いのを拾った。あまり大きなのではない。小指の尖《さき》位なのである。透明、不透明、不透明の核《かく》をもった半透明のもある。主人は二つ食った。妻は五六個食った。歯が痛い程冷たい。
 座敷の縁は川になった。母屋《おもや》の畳は湿《しと》る程吹き込んだ。家内は奥の奥まで冷たい水気がほしいまゝにかけ廻《ま》わる。
「あゝ好《い》い夕立だ。降れ、降れ、降れ」
 斯う呼わって居る内、夜の明くる様に西の空が明るくなり出した。霽際《あがりぎわ》の繊《ほそ》い雨が、白い絹糸を閃《ひら》めかす。一足《ひとあし》縁へ出て見ると、東南の空は今真闇である。最早夕立の先手が東京に攻め寄せた頃である。二百万の人の子の遽《あわ》てふためく状《さま》が見える様だ。
 何時《いつ》の間にかばったり雨は止んで、金光《こんこう》厳《いかめ》しく日が現われた。見る/\地面を流るゝ水が止まった。風がさあっと西から吹いて来る。庭の翠松がばら/\と雫《しずく》を散らす。何処かでキリン/\と蜩《ひぐらし》が心地よく鳴き出した。
 時計を見ると、二時三十分。夕立は唯三十分つゞいたのであった。
 浴衣《ゆかた》を引かけ、低い薩摩下駄を突かけて畑に出た。さしもはしゃいで居た畑の土がしっとりと湿《うるお》うて、玉蜀黍《とうもろこし》の下葉やコスモスの下葉や、刎《は》ね上げた土まみれになって、身重げに低れて居る。何処《どこ》を見ても、うれしそうに緑《みどり》がそよいで居る。東の方では雷《らい》がまだ鳴って居る。
「虹収仍白雨《にじおさまってなおはくう》、雲動忽青山《くもうごいてたちまちせいざん》」
 斯く打吟《うちぎん》じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧《みどり》鮮《あざ》やかに、富士も一筋《ひとすじ》白い竪縞《たてじま》の入った浅葱《あさぎ》の浴衣を着て、すがすがしく笑《え》んで居る。
「キリン、キリンキリン!」
 蜩《ひぐらし》がまた一声鳴いた。
 隣家《となり》の主人が女児《こども》を負って畑廻わりをして居る。
「好いおしめりでございました」
と云う挨拶を透垣越《すいがきご》しに取りかわす。
 二時間ばかりすると、明日《あす》は「おしめり正月」との言いつぎが来た。
詩篇《しへん》を出して、大声に第六十五篇を朗詠《ろうえい》する。
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『爾《なんぢ》地にのぞみて水そゝぎ、大に之をゆたかにし玉へり。神の川に水満ちたり。爾《なんぢ》かくそなへをなして、穀物《たなつもの》をかれらにあたへたまへり。爾《なんぢ》※[#「田+犬」、第4水準2-81-26]《たみぞ》を大にうるほし、畝《うね》をたひらにし、白雨《むらさめ》にてこれをやはらかにし、その萌《も》え出づるを祝し、また恩恵《めぐみ》をもて年の冕弁《かんむり》としたまへり。爾《なんぢ》の途には膏《あぶら》したゝれり。その恩滴《したゝり》は野の牧場《まき》をうるほし、小山はみな歓《よろこ》びにかこまる。牧場は皆《みな》羊《ひつじ》の群を衣《き》、もろ/\の谷は穀物《たなつもの》におほはれたり。彼等は皆《みな》よろこびてよばはりまた謳《うた》ふ』
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[#地から3字上げ](明治四十五年 七月廿一日)
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     村芝居

 裏《うら》の八幡で村芝居《むらしばい》がある。
 一昨日《おとつい》は、一字の男総出で、隣村の北沢から切組《きりくみ》舞台《ぶたい》を荷車で挽いて来た。昨日は終日舞台かけで、村で唯一人《ただひとり》の大工は先月来仕かけて居る彼が家の仕事を休《やす》んで舞台や桟敷《さじき》をかけた。今夜は愈芝居である。
 十一月も深い夜の事だ。外套《がいとう》を着て、彼等夫妻は家を空虚《からあき》にして出かけた。
 平生から暗くて淋《さび》しい八幡|界隈《かいわい》が、今夜は光明世界人間の顔の海に化けて居る。八幡横手の阪道から、宮裏《みやうら》の雑木林をかけて、安小間物屋、鮨屋《すしや》、柿蜜柑屋、大福駄菓子店、おでん店、ずらりと並んで、カンテラやランプの油煙《ゆえん》を真黒に立てゝ、人声がや/\噪《さわ》いで居る。其中を縫《ぬ》うて、宮の横手に行くと、山茶花《さざんか》小さな金剛纂《やつで》なぞ植え込んだ一寸した小庭が出来て居て、ランプを入れた燈籠《とうろう》が立ち、杉皮葺《すぎかわぶき》の仮屋根の下に墨黒々と「彰忠《しょうちゅう》」の二大字を書いた板額《いたがく》が掲《かか》って居る。然る可き目的がなければ村芝居の興行は許されぬと云う其筋の御意だそうで、此度の芝居も村の諸君が智慧《ちえ》をしぼって、日露戦役記念の為とこじつけ、漸《ようや》く役場や警察の許可を得た。其れについて幸い木目《もくめ》見事《みごと》の欅板《けやきいた》があるので、戦役記念の題字を書いてくれと先日村の甲乙《たれかれ》が彼に持込んで来たが、書くが職業と云う条あまりの名筆故《めいひつゆえ》彼は辞退した。そこで何処《どこ》かの坊さんに頼んだそうだが、坊さんは佳《いい》墨《すみ》がなければ書けぬと云うたそうで、字を書かぬなら墨を貸してくれと村の人達が墨を借りに来た。幸い持合せの些《ちと》泥臭《どろくさ》いが見かけは立派な円筒形《えんとうけい》の大きな舶来《はくらい》唐墨《とうぼく》があったので、快《こころよ》く用立てた。今夜見れば墨痕《ぼくこん》美わしく「彰忠《しょうちゅう》」の二字に化《な》って居る。
 拝殿には、村の幹部が、其ある者は紋付羽織など引かけて、他村から来る者に挨拶したり、机に向って奉納寄進のビラを書いたりして居る。「さあ此方《こち》へ」と招かれる。ビラを書いてくれと云う。例の悪筆を申立てゝ逃げる。
 拝殿から見下ろすと、驚く可し、東向きのだら/\坂になって居た八幡の境内《けいだい》が、何時の間にか歌舞伎座か音楽学校の演奏室の様な次第高の立派な観劇場になり済ました。坂の中段もとに平生《ふだん》並んで居る左右二頭の唐獅子《からじし》は何処へか担《かつ》ぎ去られ、其あとには中々馬鹿にはならぬ舞台花道が出来て居る。桟敷《さじき》も左右にかいてある。拝殿下《はいでんした》から舞台下までは、次第下りに一面|莚《むしろ》を敷きつめ、村はもとより他村の老若男女彼此四五百人も、ぎっしり詰まって、煙草を喫《す》ったり、話したり、笑ったり、晴れと着飾った銀杏返《いちょうがえ》しの娘が、立って見たり座《すわ》ったり、桟敷からつるした何十と云うランプの光の下にがや/\どよめいて居る。無論屋根が無いので、見物の頭の上には、霜夜《しもよ》の星《ほし》がキラ/\光って居る。舞台横手のチョボの床《ゆか》には、見た様な朝鮮簾《ちょうせんみす》が下って居ると思うたは、其れは若い者等が彼の家から徴発《ちょうはつ》して往った簾であった。花道には、一《ひとつ》金《きん》何十銭也船橋何某様、一金何十銭也廻沢何某様と隙間《すきま》もなくびらを貼《は》った。引切りなしに最寄《もより》の村々から紋付羽織位引かけた人達がやって来る。拝殿の所へ来て、「今晩《こんばん》は御芽出度《おめでと》う、此はホンの何ですが」と紙包を出す。幹部が丁寧に答礼して、若い者を呼び、桟敷や土間に案内さす。ビラを書く紙がなくなった、紙を持て来《こ》うと幹部が呼ぶ。素通《すどお》し眼鏡をかけたイナセな村の阿哥《あにい》が走る。「ありゃ好い男だな」と他村の者が評する。耳の届く限り洋々たる歓声《かんせい》が湧《わ》いて、理屈屋の石山さんも今日《きょう》はビラを書き/\莞爾※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《にこにこ》上機嫌で居る。
 彼等の来様《きよう》が些《ちと》晩《おそ》かったので、三番叟《さんばそう》は早や済んで居た。伊賀越《いがごえ》の序幕は、何が何やら分からぬ間に過ぎた。彼等夫妻も拝殿から下りて、土間に割《わ》り込み、今幕があいた沼津の場面を眺める。五十円で買われて来た市川某尾上某の一座が、団十菊五|芝翫《しかん》其方退《そっちの》けとばかり盛に活躍する。お米は近眼の彼には美しく見えた。お米の手に持つ菊の花、飾《かざ》った菊の植木鉢、それから借金取が取って掃《は》き出す手箒《てぼうき》も、皆彼の家から若者等が徴発《ちょうはつ》して往ったのである。分かるも、分からぬも、観客《けんぶつ》は口あんごりと心も空《そら》に見とれて居る。平作《へいさく》は好かった。隣に座って居る彼が組頭《くみがしら》の恵比寿顔《えびすがお》した爺さんが眼を霑《うる》まして見て居る。頭上《ずじょう》の星も、霜夜も、座下の荒莚《あらむしろ》も忘れて、彼等もしばし忘我の境に入った。やがてきり※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と舞台が廻る。床下《ゆかした》で若者が五人がゝりで廻すのである。村芝居に廻り舞台は中々|贅沢《ぜいたく》なものだ。
 次ぎは直ぐ仇討《かたきうち》の幕になった。狭い舞台にせゝこましく槍をしごいたり眉尖刀《なぎなた》を振ったり刀を振り廻したりする人形が入り乱れた。唐木《からき》政右衛門《まさえもん》が二刀を揮って目ざましく働く。「あの腰付《こしつき》を御覧なさい」と村での通人《つうじん》仁左衛門さんが嘆美する。「星合団四郎なンか中々強いやつが向う方に居るのですからナ」と講談物《こうだんもの》仕入れの智識をふり廻す。
 夜は最早十二時。これから中幕の曾我対面がある。彼等は見残して、留守番も火の気も無い家に帰った。平作やお米が踊《おど》る彼等が夢の中にも、八幡の賑合《にぎわい》は夜すがら海の音の様に響いて居た。
[#地から3字上げ](明治四十年 十一月)
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     夏の頌

       一

 夏は好い。夏が好い。夏ばかりでも困ろうが、四時春なンか云う天国は平に御免を蒙る。米国加州人士の中には、わざ※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]夏を迎えに南方に出かける者もあるそうな。不思議はない。
 夏は放胆《ほうたん》の季節だ。小心《しょうしん》怯胆《きょうたん》屑々乎《せつせつこ》たる小人の彼は、身をめぐる自然の豪快を仮って、纔《わずか》に自家の気焔を吐くことが出来る。排外的に立籠めた戸障子を思いきり取り払う。小面倒な着物なンか脱いでしもうて、毛深い体丸出しの赤裸々黒条々をきめ込む。大抵の客には裸体若くは半裸体で応接する。一夏過ぎると、背も腹も手足も、海辺に一月も過した様に真黒になる。臆病者も頗英雄になった気もちだ。夏の快味は裸の快味だ。裸の快味は懺悔《ざんげ》の快味だ。さらけ出した体《からだ》の土用干《どようぼし》、霊魂《れいこん》の煤掃《すすは》き、あとの清々《すがすが》しさは何とも云えぬ。起きぬけに木の下で冷たい水蜜桃をもいでがぶりと喰いついたり、朝露に冷え切った水瓜《すいか》を畑で拳固《げんこ》で破《わ》って食うたり、自然の子が自然に還る快味は言葉に尽せぬ。
 彼が家では、夏の夕飯《ゆうめし》をよく芝生でやる。椅子テーブルのこともあり、蓆《むしろ》を敷いて低い食卓の事もある。金を爍《とら》かす日影椎の梢に残り、芝生はすでに蔭に入り、蜩《ひぐらし》の声何処からともなく流れて来ると、成人《おとな》も子供も嬉々《きき》として青芝の上の晩餐《ばんさん》の席に就くのである。犬や猫が、主人も大分開けて我党に近くなった、頗話せると云った様な顔をして、主人の顔と食卓の上を等分に見ながら、おとなしく傍に附いて居る。毎常《いつも》の夕飯がうまく喰われる、永くなる。梢に残った夕日が消えて、樺色《かばいろ》の雲が一つ波立たぬ海の様な空に浮いて居る。夏の夕明《ゆうあかり》は永い。まだ暮れぬ、まだ暮れぬ、と思う間に、其まゝすうと明るくなりまさる、眼をあげると、何時の間にか頭の上にまん丸な月が出て居て、団欒《だんらん》の影黒く芝生に落ちて居る。

       二

 強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭《ひかげ》幽《ゆう》に笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花の和《やわら》かに落ちついた色も好いが、真夏の赫々《かくかく》たる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。彼は色が大好きである。緋でも、紅でも、黄でも、紫でも、碧でも、凡そ色と云う色皆|焔《ほのお》と燃え立つ夏の日の花園を、経木《きょうぎ》真田《さなだ》の帽一つ、真裸でぶらつく彼は、色の宴《うたげ》、光の浴《バス》に恍惚とした酔人である。彼は一滴の酒も飲まぬが、彼は色にはタワイもなく酔う。曾て戯れにある人のはがき帖《じょう》に、
[#ここから5字下げ]
此身|蝶《てふ》にもあるまじけれど
[#ここから3字下げ]
わけもなくうれしかりけり日は午《ご》なる
[#ここから7字下げ]
真夏《まなつ》の園《その》の花のいろ/\
[#ここで字下げ終わり]

       三

 変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間《ひるま》は百度近い暑さで、夜も油汗《あぶらあせ》が流れてやまぬ程|蒸暑《むしあつ》い夜が少くない。蒲団《ふとん》なンか滅多に敷かず、蓙《ござ》一枚で、真裸に寝たものだ。此様《こんな》でも困る。朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼《ちょうりょう》、岐阜《ぎふ》提灯《ちょうちん》の火も消えがちの風の晩冷《ばんれい》、涼しさを声にした様な蜩《ひぐらし》に朝涼《あさすず》夕涼《ゆうすず》を宣《の》らして、日間《ひるま》は草木も人もぐったりと凋《しお》るゝ程の暑さ、昼夜の懸隔《けんかく》する程、夏は好いのである。
 ヒマラヤ[#「ヒマラヤ」に二重傍線]を五《いつつ》も積み重ねた雲の峰が見る間に崩《くず》れ落ちたり、濃《こ》いインキの一点を天の一角にうった雲が十分間に全天空《ぜんてんくう》を鼠色に包んだり、電を閃《ひらめ》かしたり、雹《ひょう》を撒《ま》いたり、雷を鳴らしたり、夕立になったり、虹《にじ》を見せたり。而《そう》して急に青空になったり、分秒を以てする天空の変化は、眼にもとまらぬ早わざである。夏の天に目ざましい変化があれば、夏の地にも鮮やかな変化がある。尺を得れば尺、寸を獲《う》れば寸と云う信玄流《しんげんりゅう》の月日を送る田園の人も、夏ばかりは謙信流《けんしんりゅう》の一気呵成《いっきかせい》を作物の上に味《あじ》わうことが出来る。生憎《あいにく》草も夏は育つが、さりとて草ならぬものも目ざましく繁《しげ》る。煙管《きせる》啣《くわ》えて、後手《うしろで》組んで、起きぬけに田の水を見る辰《たつ》爺《じい》さんの眼に、露だらけの早稲《わせ》が一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子《なす》が、明日はもうもげる。瓜の蔓《つる》は朝々伸びて、とめてもとめても心《しん》をとめ切れぬ。二三日打っちゃって置くと、甘藷《さつまいも》の蔓は八重がらみになる。如何に一切を天道様に預けて、時計に用がない百姓でも、時には斯様《こん》なはき/\した成績《せいせき》を見なければ、だらけてしまう。夏は自然の「ヤンキーズム」だ。而《そう》して此夏が年が年中で、正月元日浴衣がけで新年御芽出度も困りものだが、此処《ここ》らの夏はぐず/\するとさっさと過ぎてしまう位なので、却ってよいのである。

       四

 夏の命《いのち》は水だが、川らしい川に遠く、海に尚遠い斯《この》野の村では、水の楽《たのしみ》が思う様にとれぬ。
 昨年《さくねん》の夏、彼は大きな甕《かめ》を買った。径《わたり》三尺、深さは唯《たった》一尺五寸の平たい甕である。これを庭の芝生の端《はし》に据えて、毎朝水晶の様な井《いど》の水を盈《み》たして置く。大抵大きなバケツ八はいで溢《あふ》るゝ程になる。水気の少い野の住居は、一甕《ひとかめ》の水も琵琶《びわ》洞庭《どうてい》である。太平洋大西洋である。書斎《しょさい》から見ると、甕の水に青空が落ちて、其処に水中の天がある。時々は白雲《しらくも》が浮く。空を飛ぶ五位鷺《ごいさぎ》の影も過《よ》ぎる。風が吹くと漣《さざなみ》が立つ。風がなければ琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]《ろうかん》の如く凝《こ》って居る。
 日は段々高く上り、次第に熱して来る。一切の光熱線《こうねつせん》が悉く此径三尺の液体《えきたい》天地に投射《とうしゃ》せらるゝかと思われる。冷たく井を出た水も、日の熱心にほだされて、段々冷たくなくなる。生温《なまぬる》くなる。所謂日なた水になる。正午の頃は最早湯だ。非常に暑い日は、甕の水もうめ水が欲しい程に沸く。
 午後二時三時の交《あいだ》は、涼しいと思う彼の家でも、九十度にも上る日がある。風がぱったり止まる日がある。昼寝にも飽きる。新聞を見るすらいやになる。此時だ、此時彼は例の通り素裸《すっぱだか》で薩摩下駄をはき、手拭《てぬぐい》を持って、突《つ》と庭に出る。日ざかりの日は、得たりや応《おう》と真裸の彼を目がけて真向から白熱箭《はくねつせん》を射かける。彼は遽《あわ》てず騒がず悠々と芝生を歩んで、甕の傍に立つ。先《まず》眼鏡《めがね》をとって、ドウダンの枝にのせる。次ぎに褌《したおび》をとって、春モミジの枝にかける。手拭を右の手に握り、甕から少しはなれた所に下駄を脱いで、下駄から直に大胯《おおまた》に片足を甕に踏み込む。呀《あ》、熱《あつ》、と云いたい位。つゞいて一方の足も入れると、一気に撞《どう》と尻餅《しりもち》搗《つ》く様に坐《す》わる。甕の縁《ふち》を越して、水がざあっと溢《あふ》れる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭を濡《ぬ》らして、頭から面《つら》、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をした蟻《あり》や螻《けら》が泡《あわ》を喰《く》って逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼を開《あ》いて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸《あかはだか》の彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれを楓《かえで》の枝に曝《さ》らして置く。五分間で火熨斗《ひのし》をした様に奇麗に乾く。
 十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭《ぬれてぬぐい》を頭にのせたまゝ、四体は水の滴《た》るゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩《だいとうほ》して庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮《ひとかわ》脱《ぬ》いだ様で、己《わ》が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目に減《へ》った甕の水がまだ揺々《ゆらゆら》して居る。其れは夕蔭に、乾《かわ》き渇《かわ》いた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児《さいじ》が入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水《ぎょうずい》するも、田舎住居のお蔭である。
 夏は好い。夏が好い。
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     低い丘の上から

       一

 彼は毎《つね》に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末《ばすえ》で、景が小さく、豪宕《ごうとう》な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕|莽蒼《もうそう》の気を領《りょう》することが出来ず、且|居常《きょじょう》流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。
 彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字|粕谷《かすや》の南耕地《みなみこうち》と云って、昔は追剥《おいはぎ》が出たの、大蛇が出て婆《ばば》が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林《おはやし》を、明治近くに拓《ひら》いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前|株《かぶ》を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊《こと》に疎《まばら》な方面である。就中《なかんずく》彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸《せど》の方へ唯一軒、加之《しかも》小一丁からある。田圃《たんぼ》向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞《ふさ》がれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。

       二

 三鷹村《みたかむら》の方から千歳村を経《へ》て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝《えだ》が、入江《いりえ》の如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築《つ》き上げた品川堀の堤《つつみ》の藪《やぶ》だたみになって、其上から遠村近落の樫《かし》の森や松原を根占《ねじめ》にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様に淡《あわ》く、秋の夕《ゆうべ》は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山の鏈《くさり》を突破《とっぱ》して居る。
 此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠《かん》した相州連山の御国山《みくにやま》から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林《ぼうふうりん》の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦《じ》らす様にちら/\透《す》いて見えるのが、却て懊悩《おうのう》の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝《したえだ》を払った百尺もある杉の八九十本、欝然《うつぜん》として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨《はるさめ》の明けの朝、秋霧《あきぎり》の夕、此杉の森の梢《こずえ》がミレージの様に靄《もや》から浮いて出たり、棚引く煙を紗《しゃ》の帯の如く纏《まと》うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨《うすずみ》の画になったり、梅雨には梟《ふくろう》の宿、晴れた夏には真先に蜩《ひぐらし》の家になったり、雪霽《ゆきばれ》には青空に劃然《くっきり》と聳《そび》ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉《からす》をとまらして見たり、秋の入日の空《そら》樺色に※[#「日+熏」、第3水準1-85-42]《くん》ずる夕は、濃紺《のうこん》濃紫《のうし》の神秘な色を湛《たた》えて梢を距《さ》る五尺の空に唯一つ明星を煌《きら》めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。

       三

 彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重《おも》で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足《はだし》の女の子が、小目籠《めかい》と庖刀を持って、芹《せり》、嫁菜《よめな》、薺《なずな》、野蒜《のびる》、蓬《よもぎ》、蒲公英《たんぽぽ》なぞ摘みに来る。紫雲英《れんげそう》が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾《たにしひろ》いに来る。簑笠《みのかさ》の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突《どじょうつ》きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜《くぐ》って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹《めだけ》の藪の中を流れ、それから稀に葭《よし》を交えた萱《かや》の茂る土堤《どて》の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切《よしきり》、水鶏《くいな》の棲家《すみか》になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂《ひとだま》を真似て、時々は彼が家の蚊帳《かや》の天井まで舞い込む。夏は翡翠《ひすい》の屏風《びょうぶ》に光琳《こうりん》の筆で描いた様に、青萱《あおかや》まじりに萱草《かんぞう》の赭《あか》い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤《つつみ》に立つ。それから日に/\秋風《あきかぜ》をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜《つけな》を洗う七ちゃんが舌鼓《したつづみ》うつ程、小川の水は浅くなる。行く/\年《とし》闌《た》けて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日には光り、風ある日にはがさ/\と人が来るかの様に響《ひび》く。其内ある日近所の辰さん兼さんが※[#「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]々《さくさく》※[#「「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]々と音さして悉皆堤の上のを苅《か》って、束《たば》にして、持って往って了《しま》う。あとは苅り残されの枯尾花《かれおばな》や枯葭《かれよし》の二三本、野茨《のばら》の紅い実まじりに淋《さび》しく残って居る。覗《のぞ》いて見ると、小川の水は何処へ潜《くぐ》ったのか、窪《くぼ》い水道だけ乾いたまゝに残される。

       四

 谷の向う正面は、雑木林、小杉林、畑などの入り乱れた北向きの傾斜である。此頃は其筋の取締も厳重《げんじゅう》になったが、彼が引越して来た当座は、まだ賭博《とばく》が流行して、寒い夜向うの雑木林に不思議の火を見ることもあった。其火を見ぬ様になったはよいが、真正面《ましょうめん》に彼が七本松と名づけて愛《め》でゝ居た赤松が、大分伐られたのは、惜しかった。此等の傾斜を南に上りつめた丘《おか》の頂《いただき》は、隣字の廻沢《めぐりさわ》である。雑木林に家がホノ見え、杉の森に寺が隠れ、此程並木の櫟《くぬぎ》を伐ったので、畑の一部も街道も見える。彼が粕谷《かすや》に住んだ六年の間に、目通りに木羽葺《こっぱぶき》が一軒、麦藁葺《むぎわらぶき》が一軒出来た。最初はけば/\しい新屋根が気障《きざ》に見えたが、数年の風日は一を燻《くす》んだ紫に、一を淡褐色《たんかっしょく》にして、あたりの景色としっくり調和して見せた。此《この》丘《おか》を甲州街道の滝阪《たきざか》から分岐《ぶんき》して青山へ行く青山街道が西から東へと這《は》って居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車《こやしぐるま》が通う。馬士《まご》が歌うて荷馬車を牽《ひ》いて通る。自転車が鈴を鳴《な》らして行く。稀に玉川行の自動車が通る。年に幾回か人力車が通る。道は面白い。座《すわ》って居て行路の人を眺《なが》むるのは、断片《だんぺん》の芝居を見る様に面白い。時々は緑《みどり》の油箪《ゆたん》や振りの紅《くれない》を遠目に見せて嫁入りが通る。附近に寺があるので、時々は哀しい南無阿弥陀《なむあみだ》ァ仏《ぶつ》の音頭念仏に導かれて葬式が通る。
 街道は此丘を東に下りて、田圃を横ぎり、また丘に上って、東へ都《みやこ》へと這って行く。田圃をはさむ南北の丘が隣字の船橋《ふなばし》で、幅四丁程の此田圃は長く世田ヶ谷の方へつゞいて居る。田圃の遙《はるか》東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留《とうりゅう》に来た幼《おさ》ない姪《めい》が、二三日すると懐家病《ホームシック》に罹って、何時《いつ》も庭の端に出ては右の煙を眺めて居た。五月雨《さみだれ》で田圃が白くなり、雲霧《くもきり》で遠望が煙にぼかさるゝ頃は、田圃の北から南へ出る岬《みさき》と、南から北へと差出る※[#「山+鼻」、第4水準2-8-70]《はな》とが、宛《さ》ながら入江を囲《かこ》む崎の如く末は海かと疑われる。廻沢《めぐりさわ》と云い、船橋と云い、地形から考えても、昔は此田圃は海か湖《みずうみ》かであったろうと思われる。

       五

 谷から向うの丘《おか》にかけて、麦と稲とが彼の為に一年両度緑になり黄になってくれる。雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、三度の栄《さかえ》を見せる。常見てはありとも見えぬ辺《あたり》に、春来れば李《すもも》や梅が白く、桃が紅く、夏来れば栗の花が黄白く、秋は其処此処に柿紅葉、白膠木《ぬるで》紅葉《もみじ》、山紅葉が眼ざましく栄《は》える。雪も好い。月も好い。真暗い五月闇《さつきやみ》に草舎《くさや》の紅い火を見るも好い。雨も好い。春陰《しゅんいん》も好い。秋晴も好い。降《ふ》る様な星の夜も好い。西の方甲州境の山から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎《まむか》えて見送るに好い。向うの村の梢《こずえ》に先ず訪《おと》ずれて、丘の櫟林、谷の尾花が末、さては己が庭の松と、次第に吹いて来る秋風を指点《してん》するに好い。翳《かげ》ったり、照ったり、躁《さわ》いだり、黙《だま》ったり、雲と日と風の丘と谷とに戯るゝ鬼子っこを見るにも好い。白鯉《しろこい》の鱗《うろこ》を以て包んだり、蜘蛛《くも》の糸を以て織りなした縮羅《しじら》の巾《きぬ》を引きはえたり、波なき海を縁《ふち》どる夥《おびただ》しい砂浜を作ったり、地上の花を羞《は》じ凋《しぼ》ます荘厳《そうごん》偉麗《いれい》の色彩を天空に輝《かがや》かしたり、諒闇《りょうあん》の黒布を瞬く間に全天に覆《おお》うたり、摩天《まてん》の白銅塔《はくどうとう》を見る間に築き上げては奈翁《なぽれおん》の雄図よりも早く微塵《みじん》に打崩したり、日々眼を新にする雲の幻術《げんじゅつ》天象《てんしょう》の変化を、出て見るも好い。
 四辺《あたり》が寂《さび》しいので、色々な物音が耳に響く。鄙《ひな》びて長閑《のどか》な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛《むぎぶえ》。うなりをうって吹く二百十日の風。音《おと》なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙《しじま》。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺《もみず》りの響《おと》。凱旋の爆竹《ばくちく》を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋《あめや》の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨《しぐれ》のさゝやき。東京の午砲《どん》につゞいて横浜の午砲。湿《しめ》った日の電車汽車の響《ひびき》。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家《となり》で井汲《いどく》む音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音《くつおと》や砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。一番好いのは、春四月の末、隣の若葉した雑木林に朝日が射す時、ぽたり……ぽたりと若葉を辷《すべ》る露の滴《したた》りを聴くのである。
 夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺の鐘《かね》。真言宗の安穏寺《あんのんじ》。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘の音《ね》は聞こえる。東覚院《とうがくいん》、これも真言宗、つい向うの廻沢《めぐりさわ》にあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺《ほうしょうじ》、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしの橡《とち》の木は、小さく彼の縁から指さゝれる。
 大木は地の栄《さかえ》である。彼の周囲に千年の古木《こぼく》は無い。甲州の山鏈《さんれん》を突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木は、北の方三丁ばかり畑を隔《へだ》てゝ欅《けやき》の杜《もり》の大欅が亭々と天を摩して聳《そび》えて居る。其若葉は此あたりで春の目じるし、其|鳶色《とびいろ》は秋も深い目じるしである。北の方は、此欅の中の欅と下枝を払った数本のはら/\松を点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。

       六

 家の門口は東にある。出ると直ぐ雑木林。彼の有《もの》ではないが、千金|啻《ただ》ならず彼に愛される。彼が家の背《うしろ》に、三角形をなす小さな櫟林《くぬぎばやし》と共に、春夏の際は若葉青葉の隧道《とんねる》を造る。青空から降る雨の様に落葉《おちば》する頃は、人の往来《ゆきき》の足音が耳に立つ。蛇の巣《す》でもあるが、春は香の好いツボスミレ、金蘭銀蘭、エゴ、ヨツドヽメ、夏は白百合、撫子花、日おうぎ、秋は萩、女郎花、地楡《われもこう》、竜胆《りんどう》などが取々《とりどり》に咲く。ヨツドヽメの実も紅《くれない》の玉を綴《つづ》る。楢茸《ならたけ》、湿地茸《しめじだけ》も少しは立つ。秋はさながらの虫籠《むしかご》で、松虫鈴虫の好い音《ね》はないが、轡虫《くつわむし》などは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。今は無くなったが、先年まで其林の南、墓地の東隣に家があって、十五六の唖の兄と十二三になる盲の弟が、兄が提灯《ちょうちん》つけて見る眼を働かすれば、弟《おとうと》が聞く耳を立てゝ虫の音を指し、不具二人寄って一人前の虫採《むしとり》をしたものだ。最早《もう》其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩《あんま》になり、兄は本家に引取られて居るが、虫は秋毎に依然として鳴いて居る。家がさながら虫の音に溺《おぼ》れる様な宵《よい》がある。
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[#201ページ、地蔵尊の写真]
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大正十二年九月一日の大震に倒れただけで無事だった地蔵尊が、大正十三年一月十五日の中震に二たび倒れて無惨や頭が落ちました。私共の身代りになったようなものです。身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました。

  大正十三年 春彼岸の中日
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   ひとりごと

     地蔵尊

 地蔵様が欲しいと云ってたら、甲州街道の植木なぞ扱う男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の蔭《かげ》に南向きに据《す》えてくれた。八王子の在《ざい》、高尾山下浅川附近の古い由緒《ゆいしょ》ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だと云う。眼を半眼に開いて、合掌《がっしょう》してござる。近頃出来の頭の小さい軽薄な地蔵に比すれば、頭が余程大きく、曲眉《きょくび》豊頬《ほうきょう》ゆったりとした柔和《にゅうわ》の相好《そうごう》、少しも近代生活の齷齪《あくせく》したさまがなく、大分ふるいものと見えて日苔《ひごけ》が真白について居る。惜しいことには、鼻の一部と唇の一部にホンの少しばかり欠《か》けがあるが、情《なさけ》の中に何処か可笑味《おかしみ》を添えて、却て趣をなすと云わば云われる。台石の横側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初|一瞥《いちべつ》して寛永と見たが、見直すと寿永《じゅえい》に見えた。寿永では古い、平家没落の頃だ。寿永だ、寿永だ、寿永にして措け、と寿永で納まって居ると、ある時|好古癖《こうこへき》の甥が来て寿永じゃありません宝永ですと云うた。云われて見ると成程宝永だ。暦を繰ると、干支《えと》も合って居る。そこで地蔵様の年齢《とし》も五百年あまり若くなった。地蔵様は若くなって嬉しいとも云わず、古さが減っていやとも云わず、ゆったりした頬《ほお》に愛嬌を湛えて、気永に合掌してござる。宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山《ほうえいざん》が一夜に富士の横腹を蹴破って跳《おど》り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被《かぶ》られたことであろう。如何《いかが》でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか? 何と云うても返事もせず、雨が降っても、日が照りつけても、昼でも、夜でも、黙って只合掌してござる。時々は馬鹿にした小鳥が白い糞をしかける。いたずらな蜘《くも》めが糸で頸《くび》をしめる。時々は家の主が汗臭い帽子を裏返しにかぶせて日に曝《さ》らす。地蔵様は忍辱《にんにく》の笑貌《えがお》を少しも崩さず、堅固に合掌してござる。地蔵様を持て来た時植木屋が石の香炉を持て来て前に据えてくれた。朝々其れに清水を湛えて置く。近在を駈け廻って帰ったデカやピンが喘《あえ》ぎ/\来ては、焦《こが》れた舌で大きな音をさせて其水を飲む。雀や四十雀《しじゅうから》や頬白《ほおじろ》が時々来ては、あたりを覗《うかが》って香炉の水にぽちゃ/\行水をやる。時々は家の主も瓜の種なぞ浸《ひた》して置く。散《ち》り松葉《まつば》が沈み、蟻や螟虫《あおむし》が溺死《できし》して居ることもある。尺に五寸の大海に鱗々の波が立ったり、青空や白雲が心《こころ》長閑《のどか》に浮いて居る日もある。地蔵様は何時も笑顔で、何時も黙って、何時も合掌してござる。
 地蔵様の近くに、若い三本松と相対して、株立《かぶだ》ちの若い山もみじがある。春夏は緑、秋は黄と紅の蓋《がい》をさし翳《かざ》す。家の主《あるじ》は此山もみじの蔭に椅子テーブルを置いて、時々読んだり書いたり、而して地蔵様を眺めたりする。彼の父方の叔母《おば》は、故郷《ふるさと》の真宗の寺の住持の妻になって、つい去年まで生きて居たが、彼は儒教実学の家に育って、仏教には遠かった。唯乳母が居て、地獄、極楽、剣《つるぎ》の山、三途《さんず》の川、賽《さい》の河原《かわら》や地蔵様の話を始終聞かしてくれた。四《よつ》五歳《いつつ》の彼は身にしみて其話を聞いた。而して子供心にやるせない悲哀《かなしみ》を感じた。其様な話を聞いたあとで、つく/″\眺めたうす闇《ぐら》い六畳の煤《すす》け障子にさして居る夕日の寂しい/\光を今も時々憶い出す。
 賽《さい》の河原は哀《かな》しい而して真実な俚伝《りでん》である。此世は賽の河原である。大御親《おおみおや》の膝下から此世にやられた一切衆生は、皆賽の河原の子供である。子供は皆小石を積んで日を過《すご》す。ピラミッドを積み、万里の長城を築くのがエライでも無い。村の卯之吉が小麦|蒔《ま》くのがツマラヌでも無い。一切の仕事は皆努力である。一切の経営は皆遊びである。而して我儕《われら》が折角骨折って小石を積み上げて居ると、無慈悲の鬼めが来ては唯一棒に打崩す。ナポレオンが雄図《ゆうと》を築《きず》くと、ヲートルルー[#「ヲートルルー」に二重傍線]が打崩す。人間がタイタニックを造って誇り貌《が》に乗り出すと、氷山《ひょうざん》が来て微塵《みじん》にする。勘作が小麦を蒔いて今年は豊年だと悦んで居ると、雹《ひょう》が降《ふ》って十分間に打散らす。蝶よ花よと育てた愛女《まなむすめ》が、堕落書生の餌《えば》になる。身代を注《つ》ぎ込んだ出来の好い息子が、大学卒業間際に肺病で死んで了う。蜀山《しょくさん》を兀《は》がした阿房宮が楚人《そびと》の一炬《いっきょ》に灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる。右を見、左を見ても、賽の河原は小石の山を鬼に崩されて泣いて居る子供ばかりだ。泣いて居るばかりなら猶《まだ》可《よ》い。試験に落第して、鉄道往生をする。財産を無くして、狂《きちがい》になる。世の中が思う様にならぬでヤケを起し、太く短く世を渡ろうとしてさま/″\の不心得《ふこころえ》をする。鬼に窘《いじ》められて鬼になり、他の小児の積む石を崩してあるくも少くない。賽の河原は乱脈《らんみゃく》である。慈悲柔和《じひにゅうわ》にこ/\した地蔵様が出て来て慰めて下さらずば、賽の河原は、実に情無《なさけな》い住《す》み憂《う》い場所ではあるまいか。旅は道づれ世は情《なさけ》、我儕《われら》は情によって生きることが出来る。地蔵様があって、賽の河原は堪《た》えられる。
 庭に地蔵様を立たせて、おのれは日々《ひび》鬼の生活をして居るでは、全く恥かしい事である。
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     水車問答

 田川の流れをひいて、小さな水車《すいしゃ》が廻って居る。水車のほとりに、樫《かし》の木が一本立って居る。
 白日《まひる》も夢見る村の一人の遊び人が、ある日樫の木の下の草地に腰を下して、水車の軋々《ぎいぎい》と廻るを見つゝ聞きつゝ、例の睡るともなく寤《さ》むるともなく、此様な問答を聞いた。
 軋《ぎい》と一声長く曳張《ひっぱ》るかと思えば、水車が樫の木を呼びかけたのであった。
「おい樫君、樫君。君は年が年中|其処《そこ》につくねんと立って居るが、全体何をするのだい? 斯忙しい世の中にさ、本当に気が知れないぜ。吾輩を見玉え。吾輩は君、君も見て居ようが、そりゃァ忙しいんだぜ。吾輩は君、地球と同じに日夜《にちや》動いて居るんだぜ。よしかね。吾輩は十五|秒《びょう》で一回転する。ソレ一時間に二百四十回転。一昼夜に五千七百六十回転、一年には勿驚《おどろくなかれ》約《やく》二百十万○三千八百四十回転をやるんだ。なんと、眼が廻るだろう。君は吾輩が唯道楽に回転して居ると思うか。戯談じゃない、全く骨が折れるぜ。吾輩は決して無意味の活動をするんじゃない。吾輩は人間の為に穀《こく》も搗《つ》くのだ、粉《こな》も挽《ひ》く。吾輩は昨年中に、エヽと、搗いた米がざっと五百何十石、餅米が百何十石、大麦が二千何百石、小麦が何百石、粟が……稗《ひえ》が……黍《きび》が……挽いた蕎麦粉《そばこ》が……饂飩粉《うどんこ》が……まだ大分あるが、まあざっと一年の仕事が斯様《こん》なもんだ。如何だね、自賛じゃないが、働きも此位やればまず一人前はたっぷりだね。それにお隣に澄まして御出《おいで》の御前《ごぜん》は如何《どう》だ。如何に無能か性分か知らぬが、君の不活動も驚くじゃないか。朝から晩までさ、年が年中|其処《そこ》にぬうと立ちぽかァんと立って居て、而して一体お前は何をするんだい? 吾輩は決してその自ら誇るじゃないが、君の為に此顔を赧《あこ》うせざるを得ないね。おい、如何《どう》だ。樫君《かしくん》。言分《いいぶん》があるなら、聞こうじゃないか」
 云い終って、口角沫《こうかくまつ》を飛ばす様に、水車は水沫《しぶき》を飛ばして、響も高々と軋々《ぎーいぎーい》と一廻り廻った。
 其処に沈黙の五六秒がつゞいた。かさ/\かさ/\頭上に細い葉ずれの音がするかと思うと、其れは樫君が口を開いたのであった。
「然《そう》つけ/\云わるゝと、俺《わし》は穴《あな》へでも入りたいが、まあ聞いてくれ。そりゃ此処に斯うして毎日君の活動を見て居ると、羨《うらや》ましくもなるし、黙《だま》って立って居る俺は実以て済まぬと恥かしくもなるが、此れが性分だ、造り主の仕置だから詮方《しかた》は無い。それに君は俺が唯遊んで昼寝《ひるね》して暮らす様に云うたが、俺にも万更仕事が無いでもない。聞いてくれ。俺の頭《あたま》の上には青空がある。俺の頭は、日々《にちにち》夜々《やや》に此青空の方へ伸びて行く。俺の足の下には大地《だいち》がある。俺の爪先は、日々夜々に地心へと向うて入って行く。俺の周囲《ぐるり》には空気と空間とがある。俺は此周囲に向うて日々夜々に広がって行く。俺の仕事は此だ。此が俺の仕事だ。成長が仕事なのだ。俺の葉蔭で夏の日に水車小屋の人達が涼《すず》んだり昼寝をしたり、俺の根が君を動かす水の流れの岸をば崩れぬ様に固めたり、俺のドングリを小供が嬉々と拾うたり、其様な事は偶然の機縁で、仕事と云う俺の仕事ではない。俺は今一人だが、俺の友達も其処《そこ》此処《ここ》に居る。其一人は数年前に伐《き》られて、今は荷車《にぐるま》になって甲州街道を東京の下肥のせて歩いて居る。他の友達は、下駄《げた》の歯《は》になって、泥濘《どろ》の路石ころ路を歩いて居る。他の一人は鉋《かんな》の台になって、大工の手脂《てあぶら》に光って居る。他の友達は薪《まき》になって、とうに灰になった。ドブ板になったのもある。また木目が馬鹿に奇麗だと云って、茶室《ちゃしつ》の床柱《とこばしら》なンかになったのもある。根こぎにされて、都の邸《やしき》の眼かくしにされたのもある。お百姓衆の鍬《くわ》や鎌《かま》の柄《え》になったり、空気タイヤの人力車の楫棒《かじぼう》になったり、さま/″\の目に遭うてさま/″\の事をして居る。失礼ながら君の心棒も、俺の先代が身のなる果だと君は知らないか。俺は自分の運命を知らぬ。何れ如何《どう》にかなることであろう。唯其時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動し玉え。俺は黙って成長する」
 云い終って、一寸|唾《つば》を吐《は》いたと思うと、其《それ》はドングリが一つ鼻先《はなさき》に落ちたのであった。夢見男は吾に復えった。而《そう》して唯いつもの通り廻る水車と、小春日に影も動かず眠った様な樫の木とを見た。
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     農

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我父は農夫なり  約翰《ヨハネ》伝第十五章一節
[#ここで字下げ終わり]

       一

 土の上に生れ、土の生《う》むものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕《われら》は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択《えら》み得た者は農である。

       二

 農は神の直参《じきさん》である。自然の懐《ふところ》に、自然の支配の下に、自然を賛《たす》けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰《しゅさい》を神とすれば、彼等は神の直轄《ちょくかつ》の下に住む天領《てんりょう》の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。

       三

 農は人生生活のアルファにしてオメガである。
 ナイル[#「ナイル」に二重傍線]、ユウフラテ[#「ユウフラテ」に二重傍線]の畔《ほとり》に、木片で土を掘って、野生の穀《こく》を蒔《ま》いて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷を閲《けみ》した。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草《あおひとぐさ》の上を唯風の如く吹き過ぎた。農の命《いのち》は土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン[#「ナポレオン」に傍線]、維廉《ヰルヘルム》、シシルローヅ[#「シシルローヅ」に傍線]をして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルド[#「ロスチャイルド」に傍線]、モルガン[#「モルガン」に傍線]をして勝手に其|弗《ドル》法《フラン》を掻き集めしめよ。幾多のツェッペリン[#「ツェッペリン」に傍線]、ホルランド[#「ホルランド」に傍線]をして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソン[#「ベルグソン」に傍線]、メチニコフ[#「メチニコフ」に傍線]、ヘッケル[#「ヘッケル」に傍線]をして盛んに論議せしめ、幾多のショウ[#「ショウ」に傍線]、ハウプトマン[#「ハウプトマン」に傍線]をして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガン[#「ガウガン」に傍線]、ロダン[#「ロダン」に傍線]をして盛に塗《ぬ》り且|刻《きざ》ましめよ。大多数の農は依然として、日出而作《ひいでてさくし》、日入而息《ひいってやすみ》、掘井而飲《いどをほってのみ》、耕田而食《たをたがやしてくら》うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟《くつ》となり、世は終に近づく時も、サハラ[#「サハラ」に二重傍線]の沃野《よくや》にふり上ぐる農の鍬は、夕日に晃《きら》めくであろう。

       四

 大なる哉土の徳や。如何なる不浄《ふじょう》も容《い》れざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇《さくき》の将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂を遣《や》ることが出来る。あらゆる放浪《ほうろう》を為尽《しつく》して行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
 あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底《ちてい》の坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣《だいかく》の人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松の膚《はだ》の如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日《れつじつ》の下《もと》に滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯《むぎめし》を食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、遽《あわ》てず恚《いか》らず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、旱《ひでり》、水、雹《ひょう》、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日《あす》乞丐《こじき》となる市井《しせい》の投機児《とうきじ》をして勝手に翻筋斗《とんぼ》をきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。

       五

 農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒《ふんびょう》に争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫《さもあれ》農をオロカと云うは、天網《てんもう》を疎《そ》と謂《い》い、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃《いっせん》する電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕《われら》に届かぬ星の存在を否《いな》むは僻事《ひがごと》である。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。

       六

 農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑を博《はく》した事がある。然し乾《けん》を父と称し、坤《こん》を母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受《にんじゅ》し、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
 農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙《じゅうりん》される様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共に具《そな》えて居る。

       七

 農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上《おかみ》の沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜《ずいき》の結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納《ほうのう》の小金《こがね》を常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、と詮《あき》らめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如《どんより》した農の顔を見れば、限りなく蹂躙《じゅうりん》してよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷《じすべ》りあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、沸《わ》く水もあり、清《すず》しい命の水もあり、燃《も》せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石も潜《ひそ》んで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土に※[#「にんべん+牟」、第3水準1-14-22]《ひと》しい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜《ろしあ》の強味は、農の強味である。莫斯科《モスクワ》まで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤《じばん》の震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?

       八

 農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受け容《い》れなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何《どう》なることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床《おんしょう》たるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神は正《まさ》しく一の大農夫である。神は一切を好《よし》と見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。

       九

 土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。
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     蛇

       一

 虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂《かまきり》、蠑※[#「虫+原」、第3水準1-91-60]《いもり》、蛞蝓《なめくじ》、尺蠖《しゃくとり》。
 蠑※[#「虫+原」、第3水準1-91-60]の赤腹を見ると、嘔吐《へど》が出る。蟷螂はあの三角の小さな頭、淡緑色の大きな眼球に蚊の嘴《はし》程の繊《ほそ》く鋭い而してじいと人を見詰むる瞳《ひとみ》を点じた凄《すご》い眼、黒く鋭い口嘴《くちばし》、Vice の様な其両手、剖《さ》いて見れば黒い虫の様に蠢《うごめ》く腸を満たしたふくれ腹、身を逆さにして草木の葉がくれに待伏《まちぶせ》し、うっかり飛んで来る蝉の胸先に噛《か》みついてばた/\苦しがらせたり、小さな青蛙の咽《のど》に爪うちかけてひい/\云わしたり、要するに彼はこれ虫界の Iago 悪魔の惨忍《ざんにん》を体現した様なものである。引捉えてやろうとすれば、彼は小さな飛行機《ひこうき》の如く、羽をひろげてぱッぱた/\と飛んで往って了う。憎いやつである。それから、家を負う蝸牛《かたつむり》の可愛気はなくて、ぐちゃりと唯意気地なさを代表した様で、それで青菜|甘藍《キャベツ》を何時の間にか意地汚なく喰い尽す蛞蝓と、枯枝の真似して居て、うっかり触《さわ》れば生きてますと云い貌にびちりと身を捩《もじ》り、あっと云って刎《は》ね飛ばせば、虫のくせに猪口才《ちょこさい》な、頭と尾とで寸法とって信玄流に進む尺蠖とは、気もちの悪い一対《いっつい》である。此等は何れも嬉しくない連中だが、然しまだ/\蛇には敵《かな》わぬ。

       二

 蛇嫌いは、我等人間の多数に、祖先から血で伝わって居る。話で聞き、画で見、幼ない時から大蛇は彼の恐怖の一であった。子供の時から彼はよく蛇の夢を見た。今も心身にいやな事があれば、直ぐ蛇を夢に見る。現《うつつ》に彼が蛇を見たのは五六歳の頃であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明《ありあけ》の海辺《うみべ》の小天《おあま》の温泉に連れられて往った時、宿が天井の無い家で、寝ながら上を見て居ると、真黒に煤《すす》けた屋根裏の竹を縫うて何やら動いて居た。所謂|青大将《あおだいしょう》であったが、是れ目に見ていやなものと蛇を思う最初であった。
 彼の兄は彼に劣らぬ蛇嫌いで、ある時家の下の小川で魚を抄《すく》うとて蛇を抄い上げ、きゃっと叫んで笊《ざる》を抛《ほう》り出し、真蒼《まっさお》になって逃げ帰ったことがある。七八歳の頃、兄弟連れ立っての学校帰りに、川泳ぎして居た悪太郎が其時は一丈もあろうと思うた程の大きな青大将の死んだのを路の中央に横たえて恐れて逡巡する彼を川の中から手を拍《う》って笑った。兄が腹を立て、彼の手を引きずる様にして越えようとする。大奮発して二足三足、蛇の一間も手前まで来ると、死んで居る動かぬとは知っても、長々と引きずった其体、白くかえした其段だらの腹《はら》を見ると、彼の勇気は頭の頂辺《てっぺん》からすうとぬけてしもうて如何しても足が進まぬ。已むを得ず土堤《どて》の上を通ろうとすれば、悪太郎が川から上って来て、また蛇を土堤の上に引きずって来る。結局如何して通ったか覚えぬが、生来斯様な苦しい思をさせられたことはなかった。彼の従弟《いとこ》は少しも蛇を恐れず、杉籬《すぎがき》に絡《から》んで居るやつを尾をとって引きずり出し、環《わ》を廻《まわ》す様に大地に打つけて、楽々《らくらく》と殺すのが、彼には人間以上の勇気神わざの様に凄《すさま》じく思われた。十六歳の夏、兄と阿蘇《あそ》の温泉に行く時、近道をして三里余も畑の畔《くろ》の草径《くさみち》を通った。吾儘《わがまま》な兄は蛇払《へびはらい》として彼に先導《せんどう》の役を命じた。其頃は蛇より兄が尚|恐《こわ》かったので、恐《お》ず/\五六歩先に立った。出るわ/\、二足行ってはかさ/\/\、五歩往ってはくゎさ/\/\、烏蛇、山かゞし、地もぐり、あらゆる蛇が彼の足許《あしもと》から右左に逃げて行く。まるで蛇を踏分けて行くようなものだ。今にも踏《ふ》んで巻きつかれるのだと観念し、絶望の勇気を振うて死物狂《しにものぐるい》に邁進《まいしん》したが、到頭直接接触の経験だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社で識《し》って居た其処の息子が、先日川端の湯樋《ゆどい》を見に往って蝮《まむし》に噛まれたと云って、跛をひいて居た。彼の郷里では蝮をヒラクチと云う。ある年の秋、西山に遊びに往って、唯有《とあ》る崖《がけ》を攀《よ》じて居ると、「ヒラクチが居ったぞゥ」と上から誰やら警戒を叫んだ。其時の魂も消入る様な心細さを今も時々憶い出す。

       三

 村住居をする様になって、隣は雑木林だし、墓地は近し、是非なく蛇とは近付になった。蝮はまだ一度も見かけぬが、青大将、山かゞし、地もぐりの類は沢山居る。最初は生類御憐みで、虫も殺さぬことにして居たが、此頃では其時の気分次第、殺しもすれば見※[#「しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《みのが》しもする。殺しても尽きはせぬが、打ちゃって置くと殖《ふ》えて仕様がないのである。書院の前に大きな百日紅《さるすべり》がある。もと墓地にあったもので、百年以上の老木だ。村の人々が五円で植木屋に売ったのを、すでに家の下まで引出した時、彼が無理に譲ってもらったのである。中は悉皆《すっかり》空洞《うろ》になって、枝の或ものは連理《れんり》になって居る。其れを植えた時、墓地の東隣に住んで居た唖の子が、其幹を指して、何かにょろ/\と上って行く状《さま》をして見せたが、墓地にあった時から此百日紅は蛇の棲家《すみか》であったのだ。彼の家に移って後も、梅雨《つゆ》前《まえ》になると蛇が来て空洞《うろ》の孔《あな》から頭を出したり、幹《みき》に絡《から》んだり、枝の上にトグロをまいて日なたぼこりしたりする。三疋も四疋も出て居ることがある。百日紅の枝其ものが滑《すべ》っこく蛇の膚《はだ》に似通うて居るので、蛇も居心地がよいのであろう。其下を通ると、あまり好い気もちはせぬ。時々は百日紅から家の中へ来ることもある。ある時書院の雨戸をしめて居た妻がきゃっと叫《さけ》んだ。南の戸袋に蛇が居たのである。雀が巣くう頃で、雀の臭《におい》を追うて戸袋へ来て居たのであろう。其翌晩、妻が雨戸をしめに行くと、今度は北の戸袋に居た。妻がまたけたゝましく呼んだ。往って繰り残しの雨戸で窃《そっ》と当って見ると、確に軟《やわ》らかなものゝ手答《てごたえ》がする。釣糸に響く魚の手答は好いが、蛇の手応《てごた》えは下《くだ》さらぬ。雨戸をしめれば蛇の逃所がなし、しめねばならず、ランプを呼ぶやら、青竹を吟味《ぎんみ》するやら、小半時《こはんとき》かゝって雨戸をしめ、隅に小さくなって居るのを手早くたゝき殺した。其れが雌《めす》でゞもあったか、翌日他の一疋がのろ/\と其《その》侶《とも》を探がしに来た。一つ撲《う》って、ふりかえる処をつゞけざまに五六つたゝいて打殺した。殺してしもうて、つまらぬ殺生をしたと思うた。
 彼が家のはなれの物置兼客間の天井《てんじょう》には、ぬけ殻《がら》から測《はか》って六尺以上の青大将が居る。其家が隣村にあった頃からの蛇で、家を引移《ひきうつ》すと何時の間にか大将も引越して、吾家貌《わがいえがお》に住んで居る。所謂ヌシだ。隣村の千里眼に見てもらったら、旧家主《もとやぬし》の先代のおかみの後身《こうしん》だと云うた。夥しい糞尿をしたり、夜は天井をぞろ/\重い物|曳《ひ》きずる様な音をさせてあるく。梅雨《つゆ》の頃、ある日物置に居ると、パリ/\と音がした。見ると、其処《そこ》に卵の殻《から》を沢山入れた目籠に、彼ぬしでは無いが可なり大きな他の青大将が来て、盛に卵の殻を食うて居るのである。見て居る内に、長持の背《うしろ》からまた一疋のろ/\這い出して来て、先のと絡《から》み合いながら、これもパリ/\卵の殻を喰いはじめた。青黒い滑々《ぬめぬめ》したあの長細い体《からだ》が、生《い》き縄《なわ》の様に眼の前に伸びたり縮んだりするのは、見て居て気もちの好いものではない。不図見ると、呀《あっ》此処《ここ》にも、梁《はり》の上に頭は見えぬが、大きなものが胴《どう》から下《した》波うって居る。人間が居ないので、蛇君等が処得貌に我家と住みなして居るのである。天井裏まで上ったら、右の三疋に止まらなかったであろう。彼は其日一日頭が痛かった。
 ある時栗買いに隣村の農家に往った。上塗《うわぬり》をせぬ土蔵《どぞう》の腰部《ようぶ》に幾個《いくつ》の孔《あな》があって、孔から一々縄が下って居る。其縄の一つが動く様なので、眼をとめて見ると、其縄は蛇だった。見て居る内にずうと引込んだが、またのろ/\と頭を出して、丁度他の縄の下って居ると同じ程《ほど》にだらりと下がった。何をするのか、何の為に縄の真似をするのか。鏡花君の縄張に入る可き蛇の挙動と、彼は薄気味悪くなった。
 勇将の下に弱卒なし。彼が蛇を恐れる如く、彼が郎党《ろうとう》の犬のデカも獰猛《どうもう》な武者振をしながら頗る蛇を恐れる。蛇を見ると無闇《むやみ》に吠《ほ》えるが、中々傍へは寄らぬ。主人《あるじ》が勇気を出して蛇を殺すと、デカは死骸の周囲《まわり》をぐる/\廻って、一足寄ってはワンと吠《ほ》え、二足寄っては遽《あわ》てゝ飛びのいてワンと吠え、ワンと吠え、ワンと吠え、廻り廻って、中々傍へは寄らぬ。ある時、麦畑に三尺ばかりの山かゞしが居た。山かゞしは、やゝ精悍《せいかん》なやつである。主人が声援《せいえん》したので、デカは思切ってワンと噛みにかゝったら、口か舌かを螫《さ》されたと見え、一声《いっせい》悲鳴《ひめい》をあげて飛びのき、それから限なく口から白泡《しらあわ》を吐いて、一時は如何《どう》なる事かと危ぶんだ。此様な記憶があるので、デカは蛇を恐るゝのであろう。多くの猫は蛇を捕る。彼が家のトラはよく寝鳥《ねとり》を捕《と》ってはむしゃ/\喰うが、蛇をまだ一度もとらぬ。ある時、トラが何ものかと相対《あいたい》し貌《がお》に、芝生に座《すわ》って居るので、覗《のぞ》いて見たら、トグロを巻いた地もぐりが頭をちゞめて寄らば撃《う》たんと眼を怒らして居る。トラが居ずまいを直すたびに、蛇は其頭をトラの方へ向け直す。トラは相関せざるものゝ様に、キチンと前足を揃《そろ》えて、何か他の事を案じ顔である。彼が打殺す可く竿《さお》をとりに往った間に、トラも蛇も物別《ものわか》れになって何処かへ往ってしもうた。

       四

 斯く蛇に近くなっても、まだ嫌悪の情は除《と》れぬ。百花の園にも、一疋の蛇が居れば、最早《もう》園其ものが嫌になる。ある時、書斎の縁の柱の下に、一疋の蛇がにょろ/\頭を擡《もた》げて、上ろうか、と思う様子をして居た。遽《あわ》てゝ蛇打捧を取りに往った間に、蛇が見えなくなった。びく/\もので、戸袋の中や、室内のデスクの下、ソファの下、はては額《がく》の裏まで探がした。居ない。居ないが、何処かに隠れて居る様で、安心が出来ぬ。枕を高くして昼寝《ひるね》も出来ぬ。其日一日は終に不安の中に暮らした。蛇を見ると、彼が生活の愉快がすうと泡《あわ》の様に消える。彼は何より菓物が好きで、南洋に住みたいが、唯蛇が多いので其気にもなれぬ。ボア、パイゾンの長大なものでなく、食匙蛇《はぶ》、響尾蛇《ラッツルスネーキ》、蝮蛇《まむし》の毒あるでもなく、小さい、無害な、臆病な、人を見れば直ぐ逃げる、二つ三つ打てば直ぐ死ぬ、眼の敵《かたき》に殺さるゝ云わば気の毒な蛇までも、何故《なぜ》斯様《こんな》に彼は恐れ嫌がるのであろう? 田舎の人達は、子供に到るまで、あまり蛇を恐れぬ。卵でも呑みに来たり、余程わるさをしなければ滅多に殺さぬ。自然に生活する自然の人なる農の仕方は、おのずから深い智慧《ちえ》に適《かな》う事が多い。
 奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽《このめ》を食われ、わざ/\蛇を取寄せて山野に放ったこともあるそうだ。食うものが無くて、蛇を食う処さえある。好きとあっては、ポッケットに入れてあるく人さえある。
 悪戯《いたずら》に蛇を投げかけようとした者を已に打果《うちはた》すとて刀《かたな》の柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇の巣《す》と云わるゝ竹生島《ちくふじま》に庵《いおり》を結び、蛇の中で修行した話は、西鶴《さいかく》の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちた襷《たすき》と間違《まちが》えて何より嫌いな蛇を握《にぎ》り、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿《ふんにょう》にも道あり、蛇も菩提《ぼだい》に導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入《はいり》かねてや蛇の穴」とは古人の句。醜《みにく》い姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地《いんち》にのたくり、弱きを窘《いじ》めて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫に化《な》って居る彼自身ではあるまいか。己《わ》が醜《みに》くさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
 生命は共通である。生存は相殺《そうさつ》である。自然は偏倚《へんい》を容《ゆる》さぬ。愛憎《あいぞう》は我等が宇宙に縋《すが》る二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
 好きなものが毒になり、嫌いなものが薬《くすり》になる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命《いのち》は斯くして有《たも》たるゝのである。
 好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕《われら》の理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
 本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。
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     露の祈

 今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅《いちぐう》に走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩《かれはぎ》の枝にものが光る。玉だ! 誰が何時《いつ》撒《ま》いたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆《さたん》してやゝしばし見とれた。近寄って一の枝に触《さわ》ると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々《こうこう》と輝く朝日を見た。
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あゝ朝日!
爾《なんじ》の無限大を以てして一滴《いってき》の露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾《しゅゆ》の命《いのち》を小枝《さえだ》に托するはかない水の一雫《ひとしずく》、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾の栄《さかえ》を現わさん為に、爾の子の栄を顕《あら》わし玉え」
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の祈は彼の口を衝いて出た。
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天つ日の光に玉とかがやかば
    などか惜まん露の此の身を
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     草とり

       一

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的|脆弱《ぜいじゃく》な五穀蔬菜は、野草《やそう》に杜《ふさ》がれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導《さいせいほどう》は人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるゝのである。
 老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗《じゅうのう》でも使いたい程、畑の草田の草は猛烈《もうれつ》に攻め寄する。飯焚《めした》く時間を惜んで餅《もち》を食い、茶もおち/\は飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治《たいじ》せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
 唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋は烈《はげ》しく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕蔭《ゆうかげ》にとる。取りきれないで、日中《にっちゅう》にもとる。やっと奇麗になったかと思うと、最早一方では生えて居る。草と虫さえ無かったら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴《ぐち》をこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草《くさとり》器械《きかい》にならねばならぬか。除草は愚だ、うっちゃって草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残っただけを此方に貰《もら》えば済む。というても、実際眼前に草の跋扈《ばっこ》を見れば、除《と》らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種《たね》を隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思わねばならぬ。
 そこでまた勇気を振起《ふりおこ》して草をとる。一本また一本。一本除れば一本|減《へ》るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田《しんでん》の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕《われら》の心も草だらけである。四囲《あたり》の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうっちゃって置けば、我儕は草に埋《う》もれて了う。そこで草を除る。己《わ》が為に草を除るのだ。生命《いのち》の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落《だらく》して了う。
「爾《なんじ》我言に背いて禁菓《きんか》を食《く》いたれば、土は爾の為に咀《のろ》わる。土は爾の為に荊棘《いばら》と薊《あざみ》を生《しょう》ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食《くら》わん」
 斯く旧約聖書《きゅうやくせいしょ》は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。

       二

 美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除《と》るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云う。草をとって生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いずれにしても土の肥料《こやし》にしてしまう。馴付《なつ》けた敵は、味方である。「年々や桜を肥《こや》す花の塵」美しい花が落ちて親木《おやき》の肥料になるのみならず、邪魔の醜草《しこぐさ》がまた死んで土の肥料になる。清水却て魚棲まず、草一本もない土は見るに気もちがよくとも、或は生命なき瘠土《せきど》になるかも知れぬ。本能は滅す可からず、不良青年は殺さずして導く可きであることを忘れてはならぬ。誰か其|懐《ふところ》に多少の草の種を有って居らぬ者があろうぞ?
 畑の草にも色々ある。つまんでぬけばすぽっとぬけて、しかも一種の芳《かんば》しい香《か》を放つ草もある。此辺で鹹草《しょっぱぐさ》と云う、丈《たけ》矮《ひく》く茎《くき》紅《あか》ぶとりして、頑固らしく※[#「足へん+番」、第4水準2-89-49]《わだかま》って居ても、根は案外浅くして、一挙手に亡ぼさるゝ草もある。葉も無く花も無く、地下一尺の闇を一丈も二丈も這いまわり、人知れず穀菜に仇なす無名草《ななしぐさ》もある。厄介なのは、地縛《じしば》り。単弁《たんべん》の黄なる小菊の様に可憐な花をしながら、蔓延又蔓延、糸の様な蔓は引けば直ぐ切れて根を残し、一寸の根でも残れば十日とたゝずまた一面の草になる。土深く鍬を入れて掘り返えし、丁寧に根を拾う外に滅《ほろぼ》す道は無い。我儕は世を渡りて往々此種の草に出会う。
 草を苅るには、朝露の晞《かわ》かぬ間《ま》。露にそぼぬれた寝ざめの草は、鎌の刃を迎えてさく/\切れて行く。一挙に草を征伐するには、夏の土用《どよう》の中、不精鎌《ぶしょうがま》と俗に云う柄《え》の長い大きなカマボコ形の鎌で、片端からがり/\掻《か》いて行く。梅雨中《つゆうち》には、掻く片端からついてしまう。土用中なら、一時間で枯れて了う。
 夏草は生長猛烈でも、気をつけるから案外制し易い。恐ろしいのは秋草である。行末短い秋草は、種がこぼれて、生えて、小さなまゝで花が咲いて、直ぐ実になる。其|遽《あわただ》しさ、草から見れば涙である。然し油断してうっかり種をこぼされたら、事である。一度落した草の種は中々急に除《と》り切れぬ。田舎を歩いて、奇麗に鍬目《くわめ》の入った作物のよく出来た畑の中に、草が茂って作物の幅《はば》がきかぬ畑を見ることがある。昨年の秋、病災《びょうさい》不幸《ふこう》などでつい手が廻らずに秋草をとらなかった家の畑である。
 草を除《と》ろうよ。草を除ろうよ。
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     不浄

       上

 此辺の若者は皆東京行をする。此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取《ふじょうと》り」を意味する。
 東京を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除《そうじ》」を取る。荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。ずッと昔は、細長い肥桶《こえおけ》で、馬に四桶附け、人も二桶|担《にな》って持って来たが、後、輪の大きい大八車で引く様になり、今は簡易な荷車になった。彼の村では方角上大抵四谷、赤坂が重《おも》で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の四つは引く。少し力がある若者は、六つ、甚しいのは七つも八つも挽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も挽けば百貫からの重荷《おもに》だ。あまり重荷を挽くので、若者の内には眼を悪くする者もある。
 股引草鞋、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底《かまぞこ》の帽《ぼう》を阿弥陀《あみだ》にかぶり、焦茶《こげちゃ》毛糸の襟巻、中には樺色の麁《あら》い毛糸の手袋をして、雨天には簑笠姿《みのかさすがた》で、車の心棒に油を入れた竹筒《たけづつ》をぶらさげ、空の肥桶の上に、馬鈴薯《じゃがいも》、甘薯《さつまいも》の二籠三籠、焚付《たきつけ》疎朶《そだ》の五把六束、季節によっては菖蒲《あやめ》や南天小菊の束なぞ上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。午後になると帰って来る。両腕に力を入れ、前俛《まえかが》みになって、揉《も》みあげに汗《あせ》の珠《たま》をたらして、重そうに挽いて帰って来る。上荷には、屋根の修繕に入用のはりがねの二巻三巻、棕櫚縄《しゅろなわ》の十束二十束、風呂敷かけた遠路籠の中には、子供へみやげの煎餅の袋も入って居よう。かみさんの頼んだメリンスの前掛も入って居よう。或は娘の晴着の銘仙も入って居よう。此辺の女は大抵留守ばかりして居て、唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。娘の婚礼着すら男親が買うことになって居る。「阿爺《おとッつぁん》、儂《おら》ァ此《この》縞《しま》ァ嫌《やァ》だ」と、毎々|阿娘《おむす》の苦情が出る。其等の車が陸続として帰って来る。東京場末の飯屋《めしや》に寄る者もあるが、多くは車を街道に片寄せて置いて、木蔭《こかげ》で麦や稗《ひえ》の弁当をつかう。夏の日ざかりには、飯を食うたあとで、杉の木蔭に※[#「鼻+句」、第4水準2-94-72]々《ぐうぐう》焉と寝て居る。荷が重いか、路が悪い時は、弟や妹が中途まで出迎えて、後押して来る。里道にきれ込むと、砂利も入って居らぬ路はひどくぬかるが、路が悪い悪いとこぼしつゝ、格別路をよくしようともせぬ。其様な暇も金も無いのである。
 甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、馬、車の往来が多いので、時々肥料車が怪我《けが》をする。帰りでも晩《おそ》いと、気が気でなく、無事な顔見るまでは心配でならぬと、村の婆さんが云うた。水の上を憂うる漁師の妻ばかりではない。平和な農村にも斯様な行路難《こうろだん》がある。
 東京|界隈《かいわい》の農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、東京は如何様《どんな》に困るだろう。彼が東京住居をして居た時、ある日|隣家《となり》の御隠居《ごいんきょ》婆《ばあ》さんが、「一ぱいになってこぼるゝ様になってるものを、せっせと来てくれンじゃ困るじゃないか」と疳癪声《かんしゃくごえ》で百姓を叱る声を聞いた。其《それ》は権高《けんだか》な御後室様の怒声よりも、焦《じ》れた子供の頼無《たよりな》げな恨めしげな苦情声《くじょうごえ》であった。大君の御膝下《おひざもと》、日本の中枢《ちゅうすう》と威張る東京人も、子供の様に尿屎《ししばば》のあと始末をしてもらうので、田舎の保姆《ばあや》の来ようが遅いと、斯様に困ってじれ給うのである。叱られた百姓は黙って其|糞尿《ふんにょう》を掃除《そうじ》して、それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る。「吾父は農夫なり」と神の愛子は云ったが、実際神は一大農夫で、百姓は其|型《かた》を無意識にやって居るのである。
 衆議院議員の選挙権位は有って居る家の息子や主人《あるじ》が掃除に行く。東京を笠に被て、二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみさんなど、掃除人《そうじにん》の家に往ったら、土蔵の二戸前もあって、喫驚《びっくり》する様な立派な住居に魂消《たまげ》ることであろう。斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時《ひるめしどき》に掃除に来たと云っては叱り、門前に肥桶《こえおけ》を並べたと云っては怒鳴《どな》ったりしたものだ。園芸を好んだので、糞尿《ふんにょう》を格別忌むでも賤《いやし》むでもなかったが、不浄取りの人達を糞尿をとってもらう以外没交渉の輩《やから》として居た。来て其人達の中に住めば、此処《ここ》も嬉《うれ》し哀《かな》しい人生である。息子を兵役にとられ、五十越した与右衛門さんが、甲州街道を汗水|滴《た》らして肥車を挽くのを見ると、仮令《たとい》其れが名高い吾儘者の与右衛門さんでも、心から気の毒にならずには居られぬ。而《そう》して此頃では、むッといきれの立つ堆肥《たいひ》の小山や、肥溜《こえだめ》一ぱいに堆《うずたか》く膨《ふく》れ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田《ちまちだ》の垂穂《たりほ》を眺むる心地して、快然と豊かな気もちになるのである。

       下

「新宿のねェよ、女郎屋《じょうろうや》でさァ、女郎屋に掃除《そうじ》を取りに行く時ねェよ、饂飩粉《うどんこ》なんか持ってってやると、そりゃ喜ぶよ」
 辰爺さんは斯《こ》う云うた。
 同じ糞《くそ》でも、病院の糞だの、女郎屋の糞だのと云うと、余計に汚ない様に思う。
 不潔を扱うと、不潔が次第に不潔でなくなる。葛西《かさい》の肥料屋《こやしや》では、肥桶《こえおけ》にぐっと腕《うで》を突込み、べたりと糞のつくとつかぬで下肥《しもごえ》の濃薄《こいうすい》従って良否を験するそうだ。此辺でも、基肥《もとごえ》を置く時は、下肥を堆肥に交ぜてぐちゃ/\したやつを盛《も》った肥桶を頸《くび》からつるし、後ざまに畝《うね》を歩みつゝ、一足毎に片手に掴《つか》み出してはやり、掴み出してはやりする。或は更に稀薄《きはく》にしたのを、剥椀《はげわん》で抄《すく》うてはざぶり/\水田にくれる。時々は眼鼻に糞汁《ふんじゅう》がかゝる。
「あっ、糞が眼《め》ン中《なけ》へ入《はい》っちゃった」と若いのが云う。
「其れが本当の眼糞《めくそ》だァ」爺《おやじ》は平然たるものだ。
 平然たる爺が、ある時三四歳の男の子を連れて遊びに来た。誰のかと云えば、お春のだと云う。お春さんは爺さんの娘分《むすめぶん》になって居る若い女だ。
「お春が拾って来たんでさァ」と爺《じい》さんがにや/\笑いながら曰うた。
「拾って来た? 何処《どこ》で?」
 野暮《やぼ》先生正に何処かで捨子を拾って来たのだと思うた。爺は唯にや/\笑って居た。其《それ》は私生児であった。お春さんの私生児であった。
 お春さん自身が東京芸者の私生児であった。里子からずる/\に爺さんの娘分になり、近所に奉公に出て居る内に、丁度母の芸者が彼女を生んだ十六の年に、彼女も私生児を生んだ。歴史は繰《く》り返えす。細胞の記憶も執拗《しつよう》なものである。十六の母は其私生児を負《おぶ》って、平気に人だかりの場所へ出た。無頓着な田舎でも、「ありゃ如何《どう》したンだんべ?」と眼を円《まる》くして笑った。然し女に廃物《すたり》は無い。お春さんは他の東京から貰《もら》われて来た里子の果《はて》の男と出来合うて、其私生児を残して嫁に往った。而して二人は今幸福に暮らして居る。
 ある爺さんのおかみは、昔若かった時一度亭主を捨てゝ情夫と逃げた。然し帰って来ると、爺さんは四の五の云わずに依然かみさんの座《ざ》に坐《すわ》らした。太公望《たいこうぼう》の如く意地悪ではなかった。夫婦に娘が出来て、年頃になった。其娘が出入の若い大工と物置の中に潜《ひそ》む日があった。昔男と道行の経験があるおかみは頻《しきり》と之を気にして、裏口から娘の名を呼び/\した。爺さんの曰く、うっちゃっておけやい、若ェ者だもの、些《ちった》ァ虫《むし》もつくべいや。此は此爺さんのズボラ哲学である。差別派からは感心は出来ぬが、中に大なる信仰と真理がある。
 甲吉が嬶《かか》をもらう。其は隣村の女で、奉公して居る内主人の子を生んだのだと云う。乙太郎の女が嫁に行く。其は乙の妻が東京から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆる下《お》り物を頂戴する。すべての意味に於ての不浄取りをするのだ。此辺の村でも、風儀は決して悪くない。甲州街道から十丁とは離れて居ぬが、街道筋の其れと比べては、村は堅いと云ってよい。男女の間も左程に紊《みだ》れては居らぬ。然し他の不始末に対しては概して大目である。だから疵物《きずもの》でもずん/\片づいて行く。尤も疵物は大抵貧しい者にやられる。潔癖は贅沢だ。貧しい者は、其様な素生調《すじょうしらべ》に頓着しては居られぬ。金の二三十両もつければ、懐胎《かいたい》の女でももらう。もと誰の畑であっても、自分のものになればさっさと種《たね》を蒔《ま》く。先《せん》の蒔き残りのものがあっても、仔細なしに自分のにして了う。種を蒔くに必しも Virgin Soil を要しない。要するに東京の尻を田舎が拭《ぬぐ》う。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい者が後尻《あとしり》を拭うにきまって居る。何処までも不浄取りが貧しい農の運命である。
 神は一大農夫である。彼は一切の汚穢《おかい》を捨てず、之を摂取し、之を利用する。神程|吝嗇爺《けちおやじ》は無い。而して神程|太腹《ふとっぱら》の爺も無い。彼に於ては、一切の不潔は、生命を造る原料である。所謂不垢不浄、「神の潔めたるものを爾|浄《きよ》からずとするなかれ」一切のものは土に入りて浄まる。自然は一大浄化場である。自《おのずか》ら神心に叶う農の不浄観について、我等は学ぶ所なくてはならぬ。
 生命は共通である。潔癖は吾儘者の鄙吝《けち》な高慢である。
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     美的百姓

 彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と云うてもよい。
 北米の大説教家ビーチアル[#「ビーチアル」に傍線]は、曾て数塊の馬鈴薯を人に饗《きょう》して曰くだ、此は吾輩の手作だ、而して一塊一|弗《ドル》はかゝって居るのだ、折角食ってくれ玉えと。美的百姓は憚りながらビーチアル[#「ビーチアル」に傍線]先生よりも上手だ。然し何事にも不熱心の彼には、到底|那須野《なすの》に稗《ひえ》を作った乃木さん程の上手な百姓は出来ぬ。川柳氏歌うて曰く、釣れますか、などと文王|傍《そば》へ寄り、と。美的百姓先生の百姓も、太公望の釣位なものだ。太公望は文王を釣り出した。美的百姓は趣味を掘り出さんとして手に豆をこさえる。
 百姓として彼は終に落第である。彼は三升の蕎麦《そば》を蒔《ま》いて、二升の蕎麦を穫《え》たことがある。彼が蒔く種子は、不思議に地に入って雪の如く消えて了う。彼が作る菜《な》は多く苦《にが》い。彼が水瓜は九月彼岸前にならなければ食われない。彼が大根は二股三股はまだしも、正月の注連飾《しめかざり》の様に螺旋状《らせんじょう》にひねくれ絡《から》み合うたのや、章魚《たこ》の様な不思議なものを造る。彼の文章は格に入らぬが、彼の作る大根は往々芸術の三昧に入って居る。
 彼は仕事着にはだし足袋、戦争《いくさ》にでも行く様な意気込みで、甲斐々々しく畑に出る。少し働いて、大に汗を流す。鍬柄《くわづか》ついて畑の中に突立《つった》った時は、天も見ろ、地も見ろ、人も見てくれ、吾れながら天晴見事の百姓振りだ。額の汗を拭きもあえずほうと一息《ひといき》入れる。曇った空から冷やりと来て風が額を撫でる。此処《ここ》が千両だ、と大きな眼を細くして彼は悦《えつ》に入る。向うの畑で、本物の百姓が長柄の鍬で、後退《あとしざ》りにサクを切るのを熟々《つくづく》眺めて、彼運動に現わるゝリズムが何とも云えぬ、と賞翫する。小雨ほと/\雲雀《ひばり》の歌まじり、眼もさむる緑の麦畑に紅帯《あかおび》の娘が白手拭を冠って静に働いて居るを見ては、歌か句にならぬものか、と色彩《いろ》故に苦労する。彼自身肥桶でも担《かつ》いで居る時、正銘の百姓が通りかゝれば、彼は得意である。農家のおかみに「お上手ですねえ」とお世辞《せじ》でも云われると、彼は頗る得意である。労働最中に美装《びそう》した都人士女の訪問でも受けると、彼はます/\得意である。
 稀に来る都人士には、彼の甲斐々々しい百姓姿を見て、一廉《いっかど》其道の巧者《こうしゃ》になったと思う者もあろう。村の者は最早《もう》彼の正体《しょうたい》を看破して居る。田圃向うのお琴婆さんの曰くだ、旦那は外にお職がおありなすって、お銭《あし》は土用干なさる程おありなさるから、と。一度百円札の土用干でもしたいものと思うが、兎に角外にお職がおあんなさる事は、彼自身|欺《あざむ》く事が出来ぬ。彼は一度だって農事講習会に出たことは無い。
 美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲《どん》も聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光《あかり》が紅《あか》く空に反射して見える。東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋《おもや》の座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居《すまい》の方向の如く、彼方《あっち》にも牽《ひ》かれ、此方にも牽かれる。
 彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。
 真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。
[#改丁]

   過去帳から

     墓守
     
       一

 彼は粕谷《かすや》の墓守《はかもり》である。
 彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。
 墓守と云って、別に墓掃除するでもない。然し家が近くて便利なので、春秋の彼岸に墓参に来る者が、線香の火を借りに寄ったり、水を汲みに寄ったりする。彼の庭園には多少の草花を栽培《さいばい》して置く。花の盛季《さかり》は、大抵農繁の季節に相当するので、悠々《ゆうゆう》と花見の案内する気にもなれず、無論見に来る者も無い。然し村内に不幸があった場合には、必庭園の花を折って弔儀《ちょうぎ》に行く。少し念を入れる場合には、花環《はなわ》などを拵《こさ》えて行く。
 墓守のついでに、墓場を奇麗にして、花でも植えて置こうかと思うが、それでは皆が墓参に自家の花を手折って来ても引立たなくなる。平生《ふだん》草を茂《しげ》らして、春秋の彼岸や盆に墓掃除に来るのも、農家らしくてよい。墓地があまりにキチンとして居るのも、好悪《よしあし》である。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程|周囲《まわり》の雑木を切り倒し、共有の小杉林を拓《ひら》いてしもうた。いまに※[#「木+要」、第4水準2-15-13]《かなめ》の生牆《いけがき》を遶《めぐ》らし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。

       二

 彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
 墓地は約一反余、東西に長く、背《うしろ》は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻-241-12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所《よそ》から持って来たのである。以前小さな閻魔堂《えんまどう》があったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖《ほおづえ》をついて居る幾基の静思菩薩《せいしぼさつ》、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵《ろくじぞう》や、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育《こそだて》地蔵、其等《それら》が「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字《ぼんじ》を書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也《ここについふくするものはだちゅうのれいぼだいをはっせんがためなり》」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、寂《さび》しい賑やかさを作って居る。植えた木には、樒《しきみ》や寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅《さるすべり》があったのは、村の飲代《のみしろ》に植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英《たんぽぽ》が何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊《しゅうめいぎく》が咲く。冬は南向きの日暖かに風も来ぬので、隣の墓守がよくやって来ては、乾いた落葉を踏んで、其処に日なたぼこりをしながら、取りとめもない空想に耽《ふけ》る。

       三

 田舎でも人が死ぬ。彼が村の人になってから六年間に、唯二十七戸の小村で、此墓場にばかり葬式の八つもした。多くは爺さん婆さんだが、中には二八の少女も、また傷《いた》い気の子供もあった。
 ある爺さんは八十余で、死ぬる二日前まで野ら仕事をして、ぽっくり往生した。羨《うらや》ましい死に様である。ある婆さんは、八十余で、もとは大分難義もしたものだが辛抱《しんぼう》しぬいて本家分家それ/″\繁昌《はんじょう》し、孫《まご》曾孫《ひこ》大勢持って居た。ある時分家に遊びに来て帰途《かえりみち》、墓守が縁側に腰かけて、納屋大小家幾棟か有って居ることを誇ったりしたが、杖《つえ》を忘れて帰って了うた。其杖は今カタミになって、墓守が家の浴室《ゆどの》の心張棒になって居る。ある爺さんは、困った事には手が長くなる癖があった。さまで貧でもないが、よく近所のものを盗んだ。野菜物を採る。甘藷を掘る。下肥を汲む。木の苗を盗む。近所の事ではあり、病気と皆が承知して居るので、表沙汰にはならなかったが、一同《みんな》困り者にして居た。杉苗《すぎなえ》でもとられると、見附次第黙って持戻《もちもど》ったりする者もあった。此れから汁の実なぞがなくならずにようござんしょう、と葬式の時ある律義な若者が笑った。さる爺さんは、齢《とし》は其様《そん》なでもなかったが、若い時の苦労で腰が悉皆|俛《かが》んで居た。きかぬ気の爺さんで、死ぬるまで※[#「人べん+爾」、第3水準1-14-45]《おまえ》に世話はかけぬと婆さんに云い云いしたが、果して何人の介抱《かいほう》も待たず立派に一人で往生した。其以前、墓守が家の瓜畑《うりばたけ》に誰やら入込んでごそ/\やって居るので、誰かと思うたら、此爺さんが親切に瓜の心《しん》をとめてくれて居たのであった。よく楢茸《ならたけ》の初物だの何だの採《と》っては、味噌漉《みそこ》しに入れて持って来てくれた。時には親切に困ることもあった。ある時畑の畔《くろ》の草を苅ってやると云って鎌《かま》を提《さ》げて来た。其畑の畔には萱《かや》薄《すすき》が面白く穂に出て、捨て難い風致《ふうち》の径《こみち》なので其処だけわざ/\草を苅らずに置いたのであった。其れを爺さんが苅ってやると云う。頭を掻いて断わると、親切を無にすると云わんばかり爺さんむっとして帰って往ったこともある。最早《もう》楢茸が出ても、味噌漉しかゝえて、「今日は」と来る腰の曲った人は無い。

       四

 燻炭《くんたん》肥料《ひりょう》と云う事が一時はやって、芥屑《ごみくず》を燻焼《くんしょう》する為に、大きな深い穴が此処其処に掘られた。其穴の傍で子を負った十歳の女児《むすめ》と六歳になる女児が遊んで居たが、誤って二人共穴に落ちた。出ることは出たが、六になる方は大火傷《おおやけど》をした。一家残らず遠くの野らへ出たあとなので、泣き声を聞きつける者もなく、十歳になる女児《むすめ》は叱《しか》られるが恐《こわ》さに、火傷した女児を窃《そっ》と自家《うち》へ連れて往って、火傷部に襤褸《ぼろ》を被《かぶ》せて、其まゝにして置いた。医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅《せんべい》の袋なぞ枕頭に置いて、アアン※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]|幽《かす》かな声でうめいて居た。二三日すると、其父なる人が眼に涙を浮めて、牛乳屋が来たら最早|牛乳《ちち》は不用《いらん》と云うてくれと頼みに来た。亡くなったのである。此辺では、墓守の家か、博徒の親分か、重病人でなければ牛乳など飲む者は無い。火傷した女児は、瀕死の怪我で貴い牛乳を飲まされたのである。父なる人は神酒《みき》に酔うて、赤い顔をして頭を掉《ふ》る癖《くせ》がある人である。妙に不幸な家で、先にも五六歳の女児が行方不明で大騒《おおさわ》ぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声と、其父の涙に霑《うる》んだ眼は、いつまでも耳に目にくっついて居る。
 牛乳と云えば、墓守の家から其家へとしばらく廻って居た配達が、最早其方へは往かなくなった。牛乳をのんで居た娘は、五月の初に亡くなったのである。墓守夫婦が村の人になった時、彼女は十一であった。体《からだ》を二ツ折にしてガックリお辞儀するしゃくんだ顔の娘を、墓守夫婦は何時となく可愛がった。九人の兄弟姉妹の真中《まんなか》で、あまり可愛がられる方ではなかった。可愛がられる其妹は、姉の事を云って、「おやすさんな叱られるクセがある」と云った。やゝ陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「久《ひい》ちゃん」「お安さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然《あんぜん》として云った。彼女は妙に不幸な子であった。ある時村の小学校の運動会で饌立《ぜんだて》競走《きょうそう》で一着になり、名を呼ばれて褒美《ほうび》を貰ったあとで、饌立の法が違って居ると女教員から苦情が出て、あらためて呼び出され、褒美を取り戻された。姉が嫁したので、小学校も高等を終えずに下り、母の手助《てだすけ》をした。間もなく彼女は肺が弱くなった。成る可く家の厄介になるまいと、医者にも見せず、熟蚕《しき》を拾ったり繭を掻いたり自身働いて溜めた巾着の銭で、売薬を買ったりして飲んだ。
 去る三月の事、ある午後墓守一家が門前にぶらついて居ると、墓地の方から娘が来る。彼女であった。「あゝお安さん」と声をかけつゝ、顔を見て喫驚《びっくり》した。其処の墓地の石の下から出て来たかと思わるゝ様な凄《すご》い黯《くら》い顔をして居る。「あゝ気分が悪いのですね、早く帰ってお休み」と妻が云うた。気分が悪くて裁縫《さいほう》の稽古から帰って来たのであった。彼女は其れっきり元気には復さなかった。彼女の家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りに肴《さかな》を買って来ては食わした。然し彼女は日々衰えた。遠慮勝の彼女は親兄弟にも遠慮した。死ぬる二三日前、彼女はぶらりと起きて来て、産後の弱った体で赤ん坊を見て居る母の背《うしろ》に立ち、わたしが赤ん坊を見て居るから阿母《おっかさん》は少しお休みと云うた。死ぬる前日は、父に負われて屋敷内を廻ってもらって喜んだ。其翌日も父は負って出た。父が唯一房咲いた藤の花を折ってやったら、彼女は枕頭《まくらもと》の土瓶に插して眺めて喜んだ。其夜彼女は父を揺《ゆ》り起し、「わたしが快《よ》くなったら如何でもして恩報じをするから、今夜は苦艱《くげん》だから、済まないが阿爺さん起きて居てお呉れ、阿母《おっかさん》は赤ん坊や何かでくたびれきって居るから」と云うた。而して翌朝到頭息を引取った。彼女は十六であった。彼女の家は、神道《しんどう》禊教《みそぎきょう》の信徒で、葬式も神道であった。兄の二人、弟の一人と、姉婿が棺側に附いて、最早墓守夫妻が其亡くなった姉をはじめて識った頃の年頃《としごろ》になった彼女の妹が、紫の袴をはいて位牌を持った。六十前後の老衰した神官が拍手《かしわで》を打って、「下田安子の命《みこと》が千代の住家と云々」と祭詞を読んだ。快くなったら姉の嫁した家へ遊びに行くと云って、彼女は晴衣を拵《こさ》えてもらって喜んで居たが、到頭其れを着る機会もなかった。棺の上には銘仙の袷《あわせ》が覆《おお》うてあった。其棺の小さゝを見た時、十六と云う彼女の本当にまだ小供であったことを思うた。赤土を盛った墓の前には、彼女が常用の膳の上に飯を盛った茶碗、清水を盈《み》たした湯呑なぞならべてあった。墓が近いので、彼女の家の者はよく墓参に来た。墓守の家の女児も時々園の花を折って往って墓に插《さ》した。三年前砲兵にとられた彼女の二番目の兄は、此の春肩から腹にかけて砲車に轢《ひ》かれ、已に危い一命を纔《わずか》にとりとめて先日めでたく除隊《じょたい》になって帰った。「お安さんは君の身代りに死んだのだ、懇《ねんごろ》に弔うて遣り玉え」墓守は斯く其の若者に云うた。

       五

 墓地が狭いので、新しい棺は大抵古い骨の上に葬る。先年村での旧家の老母を葬る日、墓守がぶらりと墓地に往って見たら、墓掘り役の野ら番の一人が掘り出した古い髑髏《されこうべ》を見せて、
「御覧なさい、頬の格好が斯《こ》う仁左衛門さんに肖てるじゃありませんか。先祖ってえものは、矢張り争われないもんですな」
と云うた。泥まみれの其の髑髏は、成程頬骨の張り方が、当主の仁左衛門さんそっくりであった。土から生れて土に働く土の精、土の化物《ばけもの》とも云うべき農家の人は、死んで土になる事を自然の約束として少しも怪むことを為《し》ない。ある婆さんを葬る時、村での豪家と立てられる伊三郎さんが、野ら番の一人でさっさと赤土を掘りながら、ホトケの息子《むすこ》の一人に向い、
「でも好い時だったな、来月になると本当に忙しくてやりきれンからナ」と極めて平気で云うて居た。息子も平気で頷《うなず》いて居た。死人の手でも借りたい程忙しい六七月に葬式があると、事である。村の迷惑になるので、小供の葬式は、成るべくこっそりする。ある夜、墓守が外から帰って来ると、墓地に一点の火光《あかり》が見える。やゝ紅《あか》い火である。立とまってじいと見て居た彼は、突《つ》と墓地に入った。其は提灯の火であった。黒い影が二つ立って居る。近づいて、村の甲乙であることを知った。側に墓穴が掘ってある。「誰か亡くなられたのですか」と墓守が問うた。「えゝ、小さいのが」と一人が答えた。彼等は夜陰《やいん》に墓を掘り終え、小さな棺が来るのを待って居たのである。

       六

 古家を買って建てた墓守が二つの書院は、宮の様だ、寺の様だ、と人が云う。外から眺めると、成程某院とか、某庵とか云いそうな風をして居る。墓地が近いので、ます/\寺らしい。演習《えんしゅう》に来た兵士の一人が、青山街道から望み見て、「あゝお寺が出来たな」と云った。居は気を移すで、寺の様な家に住めば、粕谷の墓守時には有髪《うはつ》の僧の気もちがせぬでも無い。
 然し此れが寺だとすれば、住持《じゅうじ》は恐ろしく悟の開けぬ、煩悩満腹、貪瞋痴《どんじんち》の三悪を立派に具足した腥坊主《なまぐさぼうず》である。彼は好んで人を喰《く》う。生きた人を喰う上に、亜剌比亜夜話にある「ゴウル」の様に墓を掘って死人《しびと》を喰う。彼は死人を喰うが大好きである。
 無論生命は共通である。生存は喰い合いである。犠牲なしでは生きては行かれぬ。犠牲には、毎《つね》に良いものがなる。耶蘇は「吾は天より降《くだ》れる活けるパンなり。吾肉は真の喰物、吾血は真の飲物」と云うたが、実際良いものゝ肉を喰い血を飲んで我等は育つのである。粕谷の墓守、睡眠山無為寺の住持も、想い来れば半生に数限りなき人を殺し、今も殺しつゝある。人を殺して、猶飽かず、其の死体まで掘り出して喰う彼は、畜生道に堕《だ》したのではあるまいか。墓守実は死人喰いの「ゴウル」なのではあるまいか。彼は曾て斯んな夢を見た。誰やら憤って切腹した。彼ではなかった様だ。無論去年の春の事だから、乃木さんでは無い。誰やら切腹すると、瞋恚《しんい》の焔とでも云うのか、剖《さ》いた腹から一団のとろ/\した紅《あか》い火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏の嘴《くちばし》をした異形《いぎょう》の人間に化《な》った。而して彼は其処に催うされて居る宴会の席に加わった。夢見る彼は、眼を挙げてずうと其席を見渡した。手足《てあし》胴体《どうたい》は人間だが、顔は一個として人間の顔は無い。狼の頭、豹の頭、鯊《さめ》の頭、蟒蛇《うわばみ》の頭、蜥蜴《とかげ》の頭、鷲の頭、梟《ふくろ》の頭、鰐《わに》の頭、――恐ろしい物の集会である。彼は上座の方を見た。其処には五分苅頭の色蒼ざめた乞食坊主が Preside して居る。其乞食坊主が手を挙げて相図をすると、一同前なる高脚《たかあし》の盃を挙げた。而して恐ろしい声を一斉にわッと揚げた。彼は冷汗に浸《ひた》って寤《さ》めた。惟うに彼は夢に畜生道に堕ちたのである。現《うつつ》の中で生きた人を喰ったり、死んだ死骸を喰ったりばかりして居る彼が夢としては、ふさわしいものであろう。
 彼は粕谷の墓守である。彼の住居は外から見てのお寺である。如何様《どん》なお寺にも過去帳がある。彼は彼の罪亡ぼしに、其の過去帳から彼の餌になった二三|亡者《もうじゃ》の名を写して見よう。
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     綱島梁川君

 明治四十年九月某の日、柄杓《ひしゃく》が井に落ちた。女中が錨を下ろして探がしたが、上らぬ。妻が代って小一時間も骨折ったが、水底深く沈んだ柄杓は中々上ろうともしない。最後に主人の彼が引受け、以前相模の海で鱚《きす》を釣った手心で、錨索《いかりなわ》をとった。偖熱心に錨を上げたり下げたりしたが、時々はコトリと手答はあっても、錨の四本の足の其何れにも柄杓はかゝらない。果ては肝癪《かんしゃく》を起して、井の底を引掻き廻すと、折角の清水を濁らすばかりで、肝腎《かんじん》の柄杓は一向上らぬ。上らぬとなるとます/\意地になって、片手は錨、片手は井筒《いづつ》の縁をつかみ、井の上に伸《の》しかゝって不可見水底の柄杓と闘《たたか》って居ると、
「郵便が参りました」
と云って、女中が一枚のはがきを持て来た。彼は舌打して錨を引上げ、其はがきを受取った。裏をかえすと黒枠《くろわく》。誰かと思えば、綱島梁川君の訃《ふ》であった。
 彼は其はがきを持ったまゝ、井戸傍《いどのはな》を去って母屋の縁に腰かけた。

           *

 程明道《ていめいどう》の句に「道通天地有形外」と云うのがある。梁川君の様な有象《うしょう》から無象に通う其「道」を不断に歩いて居る人は、過去現在未来と三生を貫通して常住して居るので、死は単に此生態から彼生態に移ったと云うに過ぎぬ。斯く思うものゝ、死は矢張|哀《かな》しい而して恐ろしい事実である。
 彼は梁川君と此生に於て唯一回相見た。其は此春の四月十六日であった。梁川君の名は久しく耳にして居た。其「見神の実験」及び病間録に収められた他の諸名篇を、彼は雑誌新人の紙上に愛読し、教えらるゝことが多かった。木下尚江君がある日粕谷に遊びに来た時、梁川君の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体に恐入った元気」と云うた。丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京のついでに梁川君を訪うことにしたのであった。
 肺患者には無惨な埃《ほこり》まじりの風が散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸《こうしど》をくゞった。梁川先生発熱の虞あり、来訪諸君は長談を用捨されたく云々、と主治医の書いた張札《はりふだ》が格子戸に貼《は》ってある。食事中との事で、しばらく薄暗い一室に待たされた。「自彊不息」と主人の嘱《しょく》によって清人か鮮人かの書いた額が掛って居た。やがて案内されて、硝子戸になって居る縁側《えんがわ》伝いに奥まった一室に入った。古い段通を敷いた六畳程の部屋、下を硝子戸の本棚にして金字の書巻のギッシリ詰まった押入を背にして、蒲団の上に座って居る浅黒い人が、丁寧に頭を下げて、吸い込む様なカスレ声で初対面の挨拶をした。処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子《ひとみ》の澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。最初其カスレた声を聞き苦しく思い、斯人に談話を強うるの不躾《ぶしつけ》を気にして居た彼は、何時の間にかつり込まれて、悠々と話込んだ。話半に家の人が来客を報ぜられた。綱島君は名刺を見て、「あゝ丁度よい処だった。御紹介しようと思って居ました」と云う。やがて労働者の風をした人が一青年を連れて入って来た。梁川君は、西田市太郎君と云うて紹介し、「実地の経験には、西田さんに学ぶ所が多い」と附け加えた。話は種々に渉った。彼は聖書に顕れた耶蘇基督について不満と思う所は、と梁川君に問うた。例《れい》せば実《み》なき無花果を咀《のろ》った様な、と彼は言を添えた。梁川君は「僕も丁度今其事を思うて居たが、不満と云う訳ではないが、耶蘇の一特色は其イラヒドイ所謂《いわゆる》 Vehement な点にある」と答えた。話は菜食の事に移って、彼は旅順閉塞に行く或船で、最後訣別の盃を挙ぐるに、生かして持って来た鶏を料理しようとしたが、誰云い出すともなく、鶏は生かして置こうじゃァないかと、到頭其まゝにして置いた、と云う逸話を話した。梁川君は首を傾《かし》げて聴いて居たが、「面白いな」と独語した。一座の話は多端に渉ったが、要するに随感随話で、まとまった事もなかった。唯愉快に話し込んで思わず時を移し、二時間あまりにして西田君列と前後に席を立った。
 其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏《ぶたいうら》で諸君のあとから彼もブース[#「ブース」に傍線]大将の手を握るの愉快を獲た。大将は肉体も見上ぐるばかりの清げな大男で、其手は昨年の夏握ったトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の手の様に大きく温《あたたか》であった。午後には梁川君と語り、夜はブース[#「ブース」に傍線]大将の手を握る。四月十六日は彼にとって喜ばしい一日であった。嬉しいあまりに、大将の演説終って喜捨金集めの帽が廻った時、彼は思わず乏しい財布を倒《さかさ》にして了うた。
 其後梁川君とははがきの往復をしたり、回光録を贈ってもらったりしたきり、彼も田園の生活多忙になって久しく打絶えて居た。そこで此訃は突然であった。精神的に不朽な人は、肉体も例令其れが病体であっても猶不死の様に思われてならなかったのである。梁川君が死ぬ、其様《そん》な事はあまり彼の考には入って居なかった。一枚の黒枠《くろわく》のはがきは警策の如く彼が頭上に落ちた。「死ぬぞ」と其はがきは彼の耳もとに叫んだ。

           *

 梁川君の葬式は、秋雨の瀟々《しとしと》と降る日であった。彼は高足駄をはいて、粕谷から本郷教会に往った。教会は一ぱいであった。やがて棺が舁き込まれた。草鞋ばきの西田君の姿も見えた。某嬢の独唱も、先輩及友人諸氏の履歴弔詞の朗読も、真摯なものであった。牧師が説教した。「美人の裸体《らたい》は好い、然しこれに彩衣《さいい》を被《き》せると尚美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章に述べた」などの語があった。梁川、梁川がやゝ耳障《みみざわ》りであった。
 彼は棺の後に跟《つ》いて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて綱島家に往った。梁川君に親しい人が集って居て、晩餐の饗があった。西田君、小田君、中桐君、水谷君等面識の人もあり、識らない方も多かった。
 新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路は田圃《たんぼ》の様だ。彼は提灯《ちょうちん》もつけず、更らに路を択《えら》ばず、ザブ/\泥水を渉《わた》って帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰《やぶかげ》で真黒な人影に行合うた。彼方はずうと寄って来て、顔をすりつける様にして彼を覗《のぞ》く。彼は肝を冷やした。
「君は誰《だれ》だ?」
 先方から声をかけた。彼は住所姓名を名乗った。而して「貴君《あなた》は?」ときいた。
「刑事です。大分晩く御帰りですな」
 八幡近くまで帰って来ると、提灯ともして二三人下りて来た。彼の影を見て、提灯はとまったが、透かして見て「福富さんだよ」と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだにごたごたして居るのだ。
 帰ると、一時過ぎて居た。

           *

 其後梁川君の遺文寸光録が出た。彼の名がちょい/\出て居る。彼の事を好く云うてある。総じて人は自己の影を他人に見るものだ。梁川君が彼にうつした己が影に見惚《みと》れたのも無理はない。
 梁川君が遺文の中、病中唯一度母君に対してやゝ苛※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]《かれい》の言を漏らしたと云って、痛恨して居る。若し其れをだに白璧の微瑕と見るなら、其白璧の醇美は如何であろう。彼の様な汚穢な心と獣的行の者は慙死《ざんし》しなければならぬ。

           *

 梁川君の訃《ふ》に接した其日井底に落ちた柄杓は、其の年の暮|井浚《いどさら》えの時上がって来た。
 然し彼は彼の生前に於て宇宙の那辺《なへん》にか落したものがある。彼は彼の生涯を献《ささ》げて、天の上、地の下、火の中、水の中、糞土の中まで潜《もぐ》っても探し出ださねばならぬ。梁川君は端的《たんてき》に其求むるものを探し当てゝ、堂々と凱旋し去った。鈍根《どんこん》の彼はしば/\捉《とら》え得たと思うては失い、攫《つか》んだと思うては失い、今以て七転八倒の笑止な歴史を繰り返えして居る。但一切のもの実は大能掌裡の筋斗翻《とんぼがえり》に過ぎぬので人々皆通天の路あることを信ずるの一念は、彼が迷宮の流浪《さすらい》に於ける一の慰めである。
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     梅一輪

       一

「お馨《けい》さんの梅が咲きましたよ」
 斯く妻が呼ぶ声に、彼は下駄を突っかけて、植木屋の庭の様に無暗《むやみ》に樹木を植え込んだ園内を歩いて、若木《わかき》の梅の下に立った。成程咲いた、咲いた。青軸《あおじく》また緑萼《りょくがく》と呼ばるゝ種類の梅で、花はまだ三四輪、染めた様に緑な萼《がく》から白く膨《ふく》らみ出た蕾《つぼみ》の幾箇を添えて、春まだ浅い此の二月の寒を物ともせず、ぱっちりと咲いて居る。極《きょく》の雪の様にいさゝか青味を帯びた純白の葩《はなびら》、芳烈《ほうれつ》な其香。今更の様だが、梅は凜々《りり》しい気もちの好い花だ。
 白っぽい竪縞《たてじま》の銘仙の羽織、紫紺《しこん》のカシミヤの袴、足駄を穿《は》いた娘が曾て此梅の下に立って、一輪の花を摘んで黒い庇髪《ひさし》の鬢《びん》に插した。お馨さん――其娘の名――は其年の夏亜米利加に渡って、翌年まだ此梅が咲かぬ内に米国で亡くなった。
 其れ以来、彼等は此梅を「お馨さんの梅」と呼ぶのである。

       二

 米国の画家ヂャルヂ、ヘンリー、バウトン[#「ヂャルヂ、ヘンリー、バウトン」に傍線]の描《か》いた「メェフラワァの帰り」と云う画がある。メェフラワァは、約三百年前、信仰、生活の自由を享《う》けん為に、欧洲からはる/″\大西洋を越えて、亜米利加の新大陸に渡った清教徒の一群《いちぐん》ピルグリム、ファザァスが乗った小さな帆前船《ほまえせん》である。画は此船が任務を果してまた東へ帰り去る光景を描《えが》いた。海原の果には、最早《もう》小さく小さくなった船が、陸から吹く追手風《おいて》に帆を張って船脚《ふなあし》軽く東へ走って居る。短い草が生えて、岩石の処々に起伏した浜にはピルグリムの男女の人々が、彼処に五六人、此処に二三人、往く船を遙に見送って居る。前景《ぜんけい》に立つ若い一対《いっつい》の男女は、伝説のジョン、アルデン[#「ジョン、アルデン」に傍線]とメーリー、チルトン[#「メーリー、チルトン」に傍線]ででもあろうか。二人共まだ二十代の立派な若い同士。男は白い幅濶《はばひろ》の襟をつけた服を着て、ステッキをついた左の手に鍔広《つばひろ》のピュリタン帽を持つ右の手を重ね、女は雪白《せっぱく》のエプロンをかけて、半頭巾《ボンネット》を冠り、右の手は男の腕に縋《すが》り、半巾《はんかち》を持った左の手をわが胸に当てゝ居る。二人の眼はじっと遠ざかり行くメェフラワァ号の最後の影に注《そそ》がれて居る。メェフラワァは故国との最後の連鎖《れんさ》である。メェフラワァの去ると共に故国の縁《えん》は切れるのである。なつかしい過去、旧世界、故国、歴史、一切の記念、其等との連鎖は、彼《かの》船脚《ふなあし》の一歩※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に切れて行くのである。彼等の胸は痛み、眼には涙が宿って居るに違いない。然しながら彼等は若い。彼等は新しい大陸に足を立てゝ居る。彼等の過去は、彼船と共に夢と消ゆる共、彼等の現在は荒寥《こうりょう》であるとも、彼等は洋々《ようよう》たる未来を代表して居る。彼等は新世界のアダム、イヴである。
 此の画を見る毎《たび》に、彼はお馨《けい》さんと其恋人|葛城《かつらぎ》勝郎《かつお》を憶《おも》い出さぬことは無い。

       三

 葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は外川先生に私淑《ししゅく》して基督を信じ、他の進級、出世、肉の快楽《けらく》にあこがるゝ同窓青年の中にありて、彼は祈祷《きとう》し、断食《だんじき》し、読書し、瞑想《めいそう》する青年であった。日露戦争に機関少尉として出陣した彼は、戦争が終ると共に海軍を見限って、哲学文学を以て身を立つる可く決心した。寡婦《かふ》として彼を育て上げた彼の母、彼の姉、彼の二兄、家族の者は皆彼が海軍を見捨つることに反対した。唯一人|満腔《まんこう》の同情を彼に寄せた人があった。其れは其頃彼の母の家に寄寓《きぐう》して居る女学生であった。女学生の名はお馨さんと云った。
 お馨さんは、上総《かずさ》の九十九里の海の音が暴風《しけ》の日には遠雷の様に聞ゆる或村の小山の懐《ふところ》にある家の娘であった。四人の兄、一人の姉、五人の妹を彼女は有《も》って居た。郷里の小学を終えて、出京して三輪田女学校を卒《お》え、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓《きぐう》して青山女学院に通って居た。彼女も又外川先生の門弟で、日曜毎に隅の方に黙って聖書の講義を聴いて居た。富裕な家の女に生れて、彼女は社会主義に同情を有って居た。葛城が軍艦から母の家に帰って来る毎に、彼は彼女と談話《だんわ》を交えた。信仰を同じくし、師を同じくし、同じ理想を趁《お》う二人は多くの点に於て一致を見出した。彼女は若い海軍士官が軍籍を脱することについて家族総反対の中に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思《そうし》の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧《かわら》の人無き所に跪《ひざまず》いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。

       四

 本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子《ずし》の父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命を閲《けみ》した時である。間もなく彼は上州の山に籠《こも》る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
 明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑《うすみどり》に煙る頃、葛城は渡米の暇乞《いとまごい》に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨《いかり》を抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もお馨《けい》さんもとくに去り、葛城独甲板の欄《らん》に倚《よ》って居た。時間が無いので匆々《そこそこ》に別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。而《そう》して今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
 其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立《かおだち》では無いが、色白の、微塵《みじん》色気も鄙気《いやしげ》も無いすっきりした娘で、服装《みなり》も質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方《こちら》へ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時も襷《たすき》を袂《たもと》に入れて来た。而して台所の事、拭掃除《ふきそうじ》、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
 葛城は新英州《ニューイングランド》の大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈|沸《に》えかえる様な思潮に心魂を震蕩《しんとう》された葛城は、非常の動揺と而して苦悶《くもん》を感じ、大服従のあと大自由に向ってあこがれた。彼が故国の情人に寄する手紙は、其心中の千波万波を漲《みなぎ》らして、一回は一回より激烈なるものとなった。彼はイブセンを読む可く彼女に書き送った。彼女を頭が固《かた》いと罵ったりした。而して彼女をも同じ波瀾に捲き込むべく努めた。斯等の手紙が初心《うぶ》な彼女を震駭《しんがい》憂悶《ゆうもん》せしめた状《さま》は、傍眼《わきめ》にも気の毒であった。彼女は従順にイブセンを読んだ。ツルゲーネフも読んだ。然し彼女は葛城が堕落に向いつゝあるものと考えた。何ともして葛城を救わねばならぬと身を藻掻《もが》いた。彼女は立っても居ても居られなくなった。而して自身亜米利加に渡って葛城を救わねばならぬと覚期《かくご》した。
 粕谷《かすや》の夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺は当《まさ》に来る可き醗酵《はっこう》で、少しも懸念す可きでないと諭《さと》した。然しお馨《けい》さんの渡米には、二念なく賛同した。彼葛城の為にも、彼女自身の鍛錬《たんれん》の為にも、至極好い思立《おもいたち》と看《み》たのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身を悶《もだ》えたが、父の反対によって是非なく思い止まったのであった。
 米国からは、あまり乗気でもないが、来るなら紐育《ニューヨーク》ブルックリンの看護婦学校に口があると知らして来た。彼女の師外川先生も、自身|新英蘭《ニューイングランド》で一時|白痴院《はくちいん》の看護手をしたことがあると云うて、彼女の渡米に賛同した。お馨さんは母の愛女であった。母は愛女の為に其望を遂げさすべく骨折る事を諾《だく》した。彼女の長兄は、其母を悦ばす可く陰に陽に骨折る事を妹に約した。残る所は彼女の父の承諾だけであった。彼女の父は田舎の平相国《へいしょうこく》清盛《きよもり》として、其小帝国内に猛威を振うている。彼女と葛城の縁談《えんだん》も、中に立って色々骨折る人があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産を慮《おもんぱか》ったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の勉強の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが出来なかった。それに、日本に愚図々々《ぐずぐず》して居れば、心に染《そ》まぬ結婚を父に強《し》いられる恐れがあった。
 斯様な事情と彼女の切なる心情を見聞する粕谷の夫妻は、打捨てゝ置く訳に行かなかった。葛城が家族の反対に関せず、何を措いても彼女の父の結婚及渡米の許諾を獲べく、単刀直入|桶狭間《おけはざま》の本陣に斬込まねばならぬと考えた。

       五

 朧月《おぼろづき》の夜、葛城家の使者と偽《いつわ》る彼は、房総線《ぼうそうせん》の一駅で下りて、車に乗ってお馨さんの家に往った。長い田舎町をぬけて、田圃《たんぼ》沿いの街道を小一里も行って、田中路を小山の中に入って、其山ふところの行止《ゆきどま》りが其家であった。大きな長屋門の傍の潜《くぐ》りを入って、勝手口から名刺を出した。色の褪《さ》めた黒紋付の羽織を着た素足《すあし》の大きな六十爺さんが出て来た。お馨さんの父者人《ててじゃひと》であった。
 其夜は烈しい風雨であった。十二畳の座敷に寝かされた彼は、夢を結び得なかった。明くる早々起きて雨戸をあけて見た。庭には大きな泉水を掘り、向うの小山を其まゝ庭にして、蘇鉄《そてつ》を植えたり、石段を甃《たた》んだり、石燈籠を据えたりしてある。下駄突かけて、裏の方に廻って見ると、小山の裾《すそ》を鬼の窟《いわや》の如く刳《く》りぬいた物置がある。家は茅葺《かやぶき》ながら岩畳《がんじょう》な構えで、一切の模様が岩倉《いわくら》と云う其姓にふさわしい。まだ可なり吹き降《ぶ》りの中を、お馨さんによく似《に》た十四五、十一二の少女が、片手に足駄を提《さ》げ、頭から肩掛《しょうる》をかぶり、跣足《はだし》で小学校に出かけて行く。座敷に帰って、昼の光であらためて主翁《しゅおう》と対面した。住居にふさわしい岩畳なかっぷくである。左の目が眇《すがめ》かと思うたら、其れは眼の皮がたるんでいるのであった。其れが一見人を馬鹿にした様に見える。芳野金陵の門人で、漢学の素養がある。其父なる人は、灌漑用の潴水池《ちょすいち》を設けて、四辺《あたり》に恩沢を施して居る。お馨さんの父者人は、十六にして父に死なれ、一代にして巨万の富をなした。六十爺の今日も、名ある博士の弁護士などを顧問に、万事自身で切って廻わして居る。此辺は数名の博士、数十名の学士を出して居る位で、此富豪翁も子女の教育には余程身を入れて居るのであった。
 障子に日がさして来た。障子を明けると、青空に映《うつ》る花ざかりの大きな白木蓮《はくもくれん》が、夜来の風雨に落花狼藉、満庭雪を舗《し》いて居る。推参の客は主翁に対して久しぶりに嘘《うそ》と云うものを吐《つ》いた。彼は葛城家の使者だと云うた。お馨さんを将来葛城勝郎の妻に呉れと云うた。旅費学資は一切葛城家から出すによって、お馨さんを米国へ遣ってくれと云うた。学校は師範学校見た様なもので、育児衛生を旨とすると云うた。主翁は逐一聞いた上で、煙管《きせる》をポンと灰吹《はいふき》にはたき、十二三の召使の男児《おのこ》を呼んで御寮様《ごりょうさま》に一寸御出と云え、と命じた。やがてお馨さんの母者人が出て来た。よくお馨さんに肖て居る。十一人の子供を育て、恐ろしい吾儘者《わがままもの》の良人に仕えて、しっかり家を圧《おさ》えて行く婦人の尋常の婦人であるまいと云う事は、葛城家の偽使者も久しく想う処であった。主翁は今一応先刻の御話をと云うた。似而非《えせ》使者《ししゃ》は、試験さるゝ学生の如く、真赤な嘘を真顔で繰り返えした。母者人は顔の筋一つ動かさず聴いて居た。主翁は兎も角|忰《せがれ》や親戚の者共とも相談の上追って御返事すると云うた。「|六ヶ敷《むつかし》いな」彼は斯く思いつゝ帰途に就いた。
 然しながら天はお馨さんに味方するかと思われた。彼女の父は意外にも承諾を与えた。旅券も手に入った。而《そう》して葛城が米国へ向け乗船した二年と三月目の明治四十二年の七月六日、横浜出帆の信濃丸で米国に向うた。葛城の姉、お馨さんの長兄夫婦、末の兄、お馨さんによく肖た妹達は、桟橋《さんばし》でお馨さんを見送った。粕谷の夫妻も見送り人の中にあった。妹達は涙を流して居た。水草の裾模様《すそもよう》をつけた空色《そらいろ》絽《ろ》のお馨さんは、同行の若い婦人と信濃丸の甲板から笑みて一同を見て居た。彼女は涙を堕《おと》し得なかった。其心はとく米国に飛んで居るのであった。船はやおら桟橋を離れた。空色《そらいろ》衣《ぎぬ》の笑貌《えがお》の花嫁は、白い手巾《はんかち》を振り/\視界の外に消えた。

       六

[#ここから2字下げ]
乗船いたしましてから五日目になりますが、幸に海は非常に静かで……友人と同室で御座いますから心配もなく、朝より夕まで笑いつゞけて居る次第にて、非常に幸福で愉快に暮して居ります。互に語り、読書し、議論し、歌を唱い、少しも淋しき事はなく暮して居ります。非常に元気なる故、隣室よりうらやましがられて居る程で御座います。……然し葛城は下等で荷物同様な取扱いをされて非常に苦しんで参りましたのに、私は上等室にて御客様扱いを受けて安楽に暮らして居りますから済《す》まぬような申訳なきような心地がいたして居ります。
     七月十日[#地から5字上げ]信濃丸にて
[#地から3字上げ]馨子
   愛する御姉君に参らす
         *
去廿一日午後無事シヤトルに上陸いたしましたから、御安心下さいませ、……明日朝九時発の汽車でニューヨークに参ります。
     七月廿四日夜[#地から5字上げ]シヤトルにて
[#地から3字上げ]馨子
   姉上様
         *
昨日ニューヨークに着いたし、漸く目的の地に達し得候まゝ誠にうれしく存じ居り候。……葛城よりもよろしく、非常によろこび居り候。
     七月卅一日[#地から5字上げ]ニューヨークにて
[#地から3字上げ]馨子
   姉上様
         *
身の平和、心の喜、筆にも言葉にも尽されず候。
[#地から3字上げ]勝郎
あまりのうれしさに、今の米国は天国に候。
     八月三日[#地から3字上げ]馨子
        ニューヨークにて
         *
前略、無事にニューヨークに着きました。ニューヨークの停車場から独りで学校へ行く積りで居りましたら、思いもかけず葛城が迎えに来て居りました。手紙では随分強い事を申してよこしましたが、来て見れば非常によろこんで、よく来たと申して居ります。
前月の十日に病院に参りまして、直ぐ其日から働きました。慣れぬ業《わざ》と言葉が始めは聞き取れぬので実に困りましたが、だん/\と慣れてよくなりました。実に病院の仕事はハードで御座います。
朝の七時から夜の七時までは腰も掛る事が出来ず、始終立って居りますから、足が痛くて/\実に初めは困りました。然し一日の内二時間は休めますから、一日の働時間は十時間で御座います。身体の工合のよき時はともかく、悪しき時は実にいやになります。慣れぬ仕事の上に一日立ちきりで御座いますから、身体の工合が妙になりまして、種々な変動を起しますが、慣れゝばよろしくなるとの事で御座います。
私は今は外科室の患者が四十人ばかり居る室で働いて居ります。随分ひどい重傷の人も居ります。脊骨《せぼね》を挫《くじ》いた人が三人程に、火傷《やけど》の人や、三階や二階から落ちた人や、盲腸炎《もうちょうえん》の人や、なか/\種々な種類の患者が居ります。
脊骨が折れても余病さえ起さねば大丈夫で御座います。一人は肺炎を起して死にましたが、後の二人は丈夫で居りますが、然し実に痛たそうで随分気の毒で御座います。初めは手術室から帰って来た患者の側《そば》に居って看護をいたします事が一番恐ろしく、殊に睡眠剤《すいみんざい》の臭《におい》が鼻について自分が心地が悪くなりましたが、近頃は慣れて平気になりました。それからどんないやな恐ろしい事でも、自分がせねばならぬと思いますれば、何でも出来ます。未だ初めで御座いまして、ベッドを作る事や、病人の敷布《しいつ》をかえる事や、器械を煮《に》て消毒する事や、床ずれの出来ぬように患者の脊《せなか》をアルコールで擦《こす》る事や、氷嚢やら湯嚢《ゆたんぽ》やらをあてゝやったり、呑物《のみもの》を作って与えましたり、何やかやと、一日を忙《せ》わしく、足は棒のようになりまして、七時に室に帰って参りましても、疲れて起きて居る事が出来ません程で御座います。
朝は六時に起きまして、六時半に食堂に参りますが、初めは慣れぬし、三十分間に顔を洗い髪を結い制服を着、また床をなおす事が出来ませんでしたが、今では出来得るようになりました。慣れゝば十五分位でも出来得るようになるそうで御座います。見ないで後《うしろ》のボタンを掛けるのがむずかしく、出来ないで始めはよわりましたが、いつの間にか慣れて来ました。昼は忙《せ》わしいのと、夜は疲れますので、つい/\気《き》不調法《ぶちょうほう》にもなりまして、皆様に御無沙汰を申上て居ります。然し夢はなつかしき千歳村の御宅の様子や、また私の母や妹の事など夢みます。いつも夢では日本に居ります。未だ此の地に参りましてから西洋の夢は見ません。年来聞き及びました理想を実際に行う事が出来まして、実に愉快《ゆかい》に思います。患者は米国人も居れば、独乙人《どいつじん》、伊太利人、ギリーク人、黒色人、実にあらゆる人を交えて居ります。初めは何だか異人のような気がして妙でしたが、今は平気になりまして、黒人でも誰でも自分の同胞の如く思われ、出来得るだけ親切に世話してやりたいと務めて居ります。初めは患者の方でも妙に思うたらしゅう御座いましたが、近頃ではよくなずいて、随分よくおとなしくして居てくれますし、病人の方から親切に語をかけてくれますようになりました。
校長もよろしい御方で、親切にして居て下さいます。私も日本に居りました時は、丈夫でいばりましたが、ニューヨークに参りましてから余り丈夫ではなく、風土やら食物やら万事が変った故で御座いましょう、昨日からも少し工合が悪しく寝て居りましたら、校長も度々見舞に来て呉れますし、なか/\手厚き看護して呉れますから、感謝いたして居ります。今日は午後から病院の働きに出ようと思いましたが、校長から許しが出ませんから、病院に参りませんで、床の上に座《すわ》って先日から書きかけました御手紙を書きつゞけました。
葛城は明年ユニオンを卒業いたしますから、出ましたら直ぐ独乙へ行って二年程居って、それから直ぐ日本へ帰りたいと申して居ります。私は身体《からだ》のつゞく限りは病院に居りたいと思うて居ります。出来るなら卒業をしたいと思いますが、卒業せぬでもかまいませんが、とにかく半年居ってもためになると思います。……葛城も本月の三日頃からとう/\働きに参りました。随分やはり骨が折れるそうで、気の毒に思いますが、少しは働いて見た方がよろしいと思います。……前には手紙を書いてから見るまでは一月もかゝりましたが、今は四時間程たてば手紙は参りますし一時間かゝればニューヨークにも行かれます、一週間に一度は多分逢えますから、幸福に思うて居ります。私は是非とも三四年は米国に居りたく思うて居ります、今の処では。
葛城は米国嫌いで、来年になったら直ぐ独乙へ行くと申して居ります。私も独乙行を勧めて居ります。是非行くようにと望んで居ります。
ニューヨークへ行きますには、地下の電車でも、亦エレベーターでもどちらでも取って参れます。私は近頃はニューヨークに独りで参れるようになりました。……御蔭様にて只今は満足して感謝して働いて居ります。少しも日本に未《ま》だ帰りたく思いません。永く米国に居りたく思います。米国に参りまして気が清々《せいせい》となりました。葛城が居りますから、何かと心強う御座います。然し手足まといにならぬよう世話にならぬようには充分致して居ります。末筆ながら鶴子様にはどんなに御可愛らしくいらっしゃいましょう。鶴子様位の御子様を見ます度に思い出されます。毎朝小児科の方に三つ四つの床を作りに参りますが、此の頃では子供も慣れて言葉をかけ、また私が帰ります時にはグードバイと皆口々に可愛いゝ声で叫《さけ》んでくれますから、可愛くて堪《たま》らなくなります。可愛いゝ子供も赤児《あかんぼ》も沢山居ります。どうか御姉上様にも御丈夫でいらっして下さいませ。
     九月八日[#地から5字上げ]ブルックリン病院にて
[#地から3字上げ]馨子
   御なつかしき
    御姉上様
        御まえに
身体の工合が悪いと申しましたが、大した事は御座いません。殊《こと》に病院で御座いますから、病気の心配は少しも御座いませんから、御安心下さいませ。
         *
もはや秋となりました。故郷《ふるさと》を思い出す時は、第一に粕谷の御家をなずかしく思い出します。去る八日、校長より学生として他の見習いの生徒と共に受け入れられ、今はキャプも貰《もら》い受け、真の看護婦になりました。無事に二ヶ月の苦しい見習いの時代は終りましたから、御安心下さいませ。
     十月十二日[#地から5字上げ]ブルックリン病院にて
[#地から3字上げ]馨子
   姉上様
         *
御はがきと御写真、夢ではないかとあやしむ程うれしく御なずかしく拝見いたしました。……相かわらず働きが激《はげ》しいので、私のような者には、身体《からだ》がとても続かぬと思いましたから止めようと思いましたが、然し倒れる迄は病院に居る積りで居ります。只信仰をもって神の助けによって日々の務をいたして居ります。
     十月廿四日[#地から5字上げ]ブルックリン病院にて
[#地から3字上げ]馨子
   姉上様
         *
十一月三日、今日は天長節で御座いますが、私に取っては何の変りもなく今日も一日働きました。然しなずかしき故郷《ふるさと》の事が今日は一しお恋しくなずかしく思われます。其後は如何御過し遊ばされますか。いつも御なずかしく、先日御送り下さいました御写真を眺めては自分の弱さを励まして居ります。私は其後変りもなく自分の天職と信じて従事いたして居りますから、御安心下さいませ。先ず御なずかしきまゝに一寸御伺いいたしました。
     十一月三日[#地から5字上げ]ブルックリンにて
[#地から3字上げ]馨子
   姉上様
         *
目出度きクリスマスを遙かに御祝い申上ます。
此のエハガキにある可愛い子供は誰で御座いましょうか。鶴《つる》ちゃんでは御座いませんでしょうか。あまりよく似て居りますもの。とにかく此の児はクリスマスを是非千歳村のなずかしい御家で迎えたいと申します。大急ぎで今出立いたさせますから、よろしく御願い申します。
     一千九百○九年|基督降誕《クリスマス》になりて[#地から5字上げ]ブルックリンにて
[#地から3字上げ]馨子
   御姉上様に
[#ここで字下げ終わり]

       七

 明治四十三年二月三日、粕谷草堂の一家が午餐《ごさん》の卓について居ると、一通の電報が来た。お馨《けい》さんの兄者人《あにじゃひと》からである。眼を通した主人は思わず吁《ああ》と叫んだ。
[#ここから2字下げ]
馨急病にて死せりと
[#ここで字下げ終わり]
 妻は声を立てゝ哭《な》いた。
 主人《あるじ》は直ちに葛城の母と長兄を訪《たず》ねた。彼は面目ない心地がした。若し死が人生の最大不幸なら、お馨さんの渡米を沮《はば》んだ彼人々は先見の明があったのである。彼は其足で更にお馨さんの父母を訪うことにした。銀座で手土産《てみやげ》の浅草海苔を買ったら、生憎《あいにく》「御結納《おんゆいのう》一式調進仕候」の札が眼につく。昨年の春頼まれもせぬ葛城家の使者としてお馨さんの実家に約婚の許諾を獲に往った彼は、一年もたゝぬに此様《こん》な用事で二たび其家を訪おうとは思わなかった。
 終列車は千葉までしか行かなかった。彼は千葉に泊《とま》って、翌朝房総線の一番に乗った。停車場に下りると、お馨さんの兄さんが待って居た。兄さんは赤い紙に書いた葛城から来た電文を見せた。
[#ここから2字下げ]
馨子急病昨夜世を去る
[#ここで字下げ終わり]
とある。兄さんはまた、父は非常に興奮《こうふん》して、終夜《よすがら》酒を飲み明かし、母や私に出て行けと申しますと云った。
 岩倉家の玄関で車を下りると、お馨さんの阿爺《おとうさん》が出て来た。座に請《しょう》ぜられて、一つ二つ淀みがちな挨拶をすると、阿爺さんが突然わァッと声を立てゝ哭《な》いた。少し話してまた声を放って哭いた。やがて阿母《おっかさん》が出て来た。沈着な阿母も、挨拶半に顔が劇しく痙攣《けいれん》して、涙と共に声を呑んだ。彼は人の子を殺した苛責《かしゃく》を劇しく身に受け、唯黙って辞儀ばかりした。
 やがて酒が出た。彼は平生一滴も飲まぬが、今日はせめてもの事に阿爺《おとうさん》阿母《おかあさん》と盃の取りやりをしるしばかりした。岩倉家では丁度十四になる末から三番目の女を、阿母の実家にやる約束をして、其祝いをして居る所にお馨さんの訃報《ふほう》が届いたのだそうだ。丁度お馨さんが米国で亡くなった其晩に、阿母さんが玄関の式台に靴の響《おと》を聞きつけ、はッとして出て見たら誰も居なかったそうである。魂《たましい》の彼女は其時早く太平洋を渡って帰って来たのであった。
 彼はお馨さんの兄さんと共に葛城家へ往ってあとの相談をすることにした。阿爺さんは是非新築中の別荘を見て呉れと云って、草履《ぞうり》をつッかけて案内に立った。酒ぶとりした六十翁の、溝《みぞ》を刎《は》ね越え、阪を駈《か》け上る元気は、心の苦から逃《のが》れようとする犠牲のもがきの様で、彼の心を傷《いた》ませた。やがて別荘に来た。其は街道の近くにある田圃の中の孤丘《こきゅう》を削《けず》って其上に建てられた別荘で、質素な然し堅牢《けんろう》なものであった。西には富士も望まれた。南には九十九里の海――太平洋の一片が浅黄《あさぎ》リボンの様に見える。お馨さんは去年此処の海を犬吠ヶ崎の方へ上って米国に渡ったのである。「如何です、海が見えましょう。馨が見えるかも知れん」と主翁《しゅおう》が云う。広々とした座敷を指して、「葛城さんが帰って来たら、此処《ここ》で祝言《しゅうげん》させようと思って居ました」と主翁がまた云う。
 彼は一々胸に釘うたるゝ思であった。

       八

 お馨さん死去の電報に接して二週間目の二月十六日、午餐《ごさん》の席に郵便が来た。彼此と撰《よ》り分けて居た妻は、「あらッ、お馨さんが」と情けない声を立てた。
 其はお馨さんが亡くなる二週間余り前のはがきであった。

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新年をことほぎ参《まい》らせ候。
御正月になりましたら、精《くわし》い御手紙を認《したた》めたいと思うて思うて居りましたが、御正月も元旦からいつもと同じに働いて休みなどは取れませんでしたから、つい/\御無沙汰いたしました。随分久しく御無沙汰申上ました。御許様《おんもとさま》御家内皆々様には御変りも御座いませんか。私はいつもながら達者で、毎日/\働いて居ります。其後は何の変りもなく無事に病院で勤めて居ります。知らぬ内に種々の事を覚えて行きます。
御正月にはホームシックにかゝりまして実に淋しく、毎日千歳村のなつかしい御家族の御写真のみ眺めて居りました。私は只神の御助けと御導きにより只神の御保護を信じて其日を暮して居ります。いずれ後より精《くわ》しく申上ます。御なずかしきまゝに一寸申上ました。
     一月十三日[#地から5字上げ]米国ブルックリンにて
[#地から3字上げ]岩倉馨子
   姉上様
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 彼世《あのよ》からのたよりが又一つ来た。其はお馨さんが臨終《りんじゅう》十一日前の手紙であった。

[#ここから2字下げ]
クリスマスと新年の祝いも、いつしか過ぎ去りまして、はや今日は二十日《はつか》正月となりました。昨年《さくねん》の御正月には、御なずかしき御家に上りまして、御雑煮《おぞうに》の御祝いに預りました。今でも実に何ともかとも申されぬなずかしきその時の光景《ありさま》を追懐《ついかい》いたします。実に月日の過ぎ行くのは早いもので御座いまして、もはや当地に参りましてから年の半分は立ちました。此様《こん》なですから、また御目にかゝる事の出来得る日は近きにある事と思います。
次に私事は相かわらず此病院で働いて居ります。三ヶ月程前から忙《せ》わしき婦人の病室の方へ参りましたもので、夜になって室に帰りましても、筆を取る勇気もなく過しましたが、二三日前から前に居《お》った病室に帰りましたので、非常に楽《らく》になりました。
三ヶ月間は実に苦しい思いをいたしました。然し実によい経験を得ました。私は日本の看護婦のトレーニングにつきましては、どんなか少しも知りませんが、米国のトレーニング、スクールは、たしかに日本よりは勝《まさ》って居ると思います。随分軍隊と同じような組織で、きびしゅう御座います。実にある点は高尚で完全ですが、またある点は劣《おと》って居る処もありますよう思われます。日本に居りました時とすっかり何から何まで変って居りまして、働いた事とて別に朝から夕までつゞけた事もありませんで、生活が全く異って居りますから、実に苦しく感じました。
近頃は朝から夕まで一度も腰もかけなくとも平気で働いて居ります。然し三ヶ月の間は、実に困りまして、幾度も止めようかと思いましたが、とう/\つゞけました。仕事が苦しいばかりでなく、上のヘッドの看護婦が余り人物の人でないもので、下の私共は実に辛《つら》く思いました。実に忙《せわ》しいと申しましたら、あのような思いは実に/\初めてゞ御座います。若し日本に居ってならば、とても私には勤まりません。此処ではいや応なしですから、とにかく務めて居ります。私は卒業はするかしないか、私はどうしてもいやになれば明日にも止める積りで居ります、たゞ葛城が米国に居ります間は、厄介をかけるのが気の毒ですから、どうか続けたく思います。
友人の中にも、なか/\よい家庭に育って性質のよい人もありますが、また意地の悪い人もあります。やはり面も性質も日本人と同じで御座います。人類ですから、やはり皆人情は同じで御座います。
私は自分のベストを尽して居ります。親切と正直とを旨《むね》として居ります。病人もよくなついて呉れますし、自分の受持の病人には満足を与える事が出来ましたから、此れは自分の第一の宝《たから》と思うてよろこんで居ります。家に帰る時は、皆よろこんで感謝して帰りますから、是れが私の楽しみで御座いました。
婦人の病室に居りました時は、何から何まで一切世話をせねばなりませんし、中には老人で不随の人もありますから、床ずれの出来ぬようにそれ/″\手あてもせねばなりませんし、何ともかとも申されぬ程忙わしゅう御座います。大抵十二人位の人の世話を一人でいたしますし、また他の病室の病人の事も世話をせねばなりませんから、実に苦しゅう御座います。
看護法の実例なぞは、校長が一々生徒を集めて教えて呉れます。また今は医師が解剖《かいぼう》と生理など講じて居ります。昨年はバクテリヤについて講義もきゝました。また校長が自ら看護法など学術的に教えて居ります。講義なども、学術の名は私は知りませんから、なか/\むずかしいですが、またこちらの人もあまりよくは知りませんから、共に勉強して居ります。むずかしいですが、少しは興味が御座います。看護婦は医学の事も知らねばなりませんから、余程勉強せねばなりません。一日一日と少しずつ何かと覚えて参りますから、有り難く思うて居ります。初めての米国にてのクリスマス、余り楽しくも御座いませんでしたが、然しクリスマスの時は、此処《ここ》でもなか/\にぎやかで御座いました。当日は四時間|暇《ひま》が取れました。クリスマスディナーも御座いまして、なか/\盛んで御座います。皆々上機嫌で、うれしそうで御座います。
学校でもクリスマスにはクリスマスダンスが御座いました。私は生れて初めて真の舞踏会と云うものを見ました。実に優美なもので御座います。夜の八時頃から翌朝の二時か三時まで踊《おど》って居ります。元気のよいのには、おどろきました。私は夜会服のかわりに日本服を久々で着ました。皆々非常によろこんでくれました。
御正月には休みもなく、元日から常と同じに働きました。御正月には何となく故郷《ふるさと》がなずかしく、さびしくって堪《たま》りませんでした。毎日/\忙わしく働いて居りますから、常にはホームシックも起りませんが、半日|暇《ひま》の時などは、実にさびしくて堪らぬ事があります。余り私は外出はいたしません。少なくも一週間に一度は出て、外の変った空気をすわねばならぬと知りつゝも、疲れるのがいやなので、つい/\出ません。当地の人は皆元気です。夜十二時に帰っても、翌日はやはり同じに務めます。学校では、一週に一度は十二時までの許しを貰えますし、三度は十一時までの許を貰えますし、常には十時までは何処に行ってもかまわぬようになって居ります。此処は感心で御座います。此の様に自由でも少しも乱れません。日本の女学校などには、見ようと思うても見られぬ処で御座いましょう。
私は今は自分で働いて自分で生活して居りますから、日本に居った時よりも、苦しみながらも、或一種の愉快が御座います。
葛城はユニオンの方も卒業に近づきました。早いもので、三年も束《つか》の間に過ぎ去りました。いつも私共は御なずかしき御両人様《おふたりさま》の御噂のみいたして居ります。千歳村、実になずかしく思います。
大抵二週間に一度は、逢います。前から私はニューヨークには独りで参れますから、半日暇を取れる時は、二週に一度は参ります。
当地は実に寒さはきびしゅう御座いまして、雪は度々降りますが、家の中の寒防《かんぼう》はよく備わって居りますから、家の中の温度は、春のような気候で御座います。私はシモヤケは毎年出来ましたが、今年は冷《つめた》い思いなどは少しもいたしませんから、手はきれいで、少しも出来ませんから御安心下さいませ。日本に居りました時は、シモヤケには困りました。外は随分寒く、身を切らるゝ様で御座います。雪が降りますと、なか/\溶《と》けませんで、幾日も/\つもって居ります。
今日も雪模様ですから、午後から降るかもわかりません。
書きたい事は山々御座いますが、また次の便りの時にいたします。
乱筆を御許し下さいませ。日本語を此の頃は話しませんし、只葛城と日本語で話すものですから、乱暴な語ばかり習いまして、いつも余り無礼の語をつかって驚く事が御座います。
何卒《どうぞ》乱筆乱文御許し下さいませ。
先は御無沙汰御詫びかた/″\御機嫌御伺いまで。
     一月廿日[#地から3字上げ]岩倉けい
   御なつかしき
    御姉上様
        御まえに
[#ここで字下げ終わり]

 此れがお馨さんの粕谷に寄せた最後の心の波であった。此手紙を書いて十一日目に、彼女は其最後の戦場なる米国ブルックリン病院看護婦学校の病室に二十四年の生涯を終えたのである。
 お馨さんは死んだ。
 新生涯の新夫婦、メェフラワァを目送するピュリタンの若い男女の一対《いっつい》の其一人は欠《か》けた。残る一人は如何《いかが》であろう?

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一月卅一日午後七時半、最愛の我が馨子高貴なる人生の戦に戦い死す。忠信なりし彼の女は、死に至る迄忠信なりき。病は敗血症と腸炎《ちょうえん》の併発、事極めて意外、病勢は急転直下、僅かに二十時間にして彼女は去る。
盛大なりし葬式(ユニオン神学校に於ける)は、彼女と予とを永《とこ》しえに結ばん為めの結婚の式なりき。多く言わず、唯察し玉え。
     二月三日[#地から3字上げ]勝郎
         *
「日蓮は泣かねど、涙隙無し」と。涙隙無きに止まらず、声を挙げて泣ける事も幾たびぞ。怨み、嘆き、悲しみ、悔い、悩み、如何にして此《この》幽闇《ゆうあん》の力破らんと、空しくあたり見廻わせるも幾度び。……幾度我れ死せば此の苦しみあらざりしものをと思い候。
されど若し弟《てい》先んぜば、馨子の悲痛は弟にも勝《まさ》りて激しかりしならんか。弟をして此の憂闇《ゆうあん》の力を破り得しむるものは、唯一つ馨子生きて之れが為に戦い、死に及んで止まざりし我等の理想也。彼女の短かき生涯は、その一切の瑕瑾《かきん》と不完全を以てして、遂に人生最高の理想を追い、之れが為めに戦い、戦い半ばならずして斃《たお》れし英雄の生涯也。遂に蜉蝣《ふゆう》の如き人生は、生きて甲斐なけん。昔者《むかし》プラトー、ソクラテスの口をして曰わしめて曰く、“It is not mere life, but a good life that we court”と。仮令《たとい》馨子凱歌の中に光栄の桂冠《けいかん》戴《いただ》くを得ざりしにせよ、彼女の生はその畢生《ひっせい》の高貴なる焔《ほのお》のあらん限を尽して戦い、戦の途上戦い死せる光栄ある戦死者の生也。此の事、弟をして敬虔《けいけん》馨子の死の前にぬかずき、無限のインスピレーションを茲《ここ》に汲《く》ましむ。
     二月十八日[#地から3字上げ]勝郎

       九

 五月の初、お馨さんが髪と骨になって日本に帰って来た。お馨さんのカタミを連れ帰ったのは、日本に帰化した米国の女《おんな》宣教師《せんきょうし》で、彼女は横須賀に永住して海軍々人の間に伝道し、葛城も久しく世話になって「母《マザー》」と呼んで居た人で、お馨さんの病死の時は折よく紐育《ニューヨーク》に居合わせ、始終万事の世話をしたのであった。
 五月の四日、粕谷草堂の夫妻は鶴子を連れて、お馨さんの郷里《きょうり》に於ける葬式に列《つら》なるべく出かけた。両国の停車場で、彼等は古びた中折帽を阿弥陀《あみだ》にかぶった、咽喉《のど》に汚《よご》れた絹ハンカチを巻いた、金歯の光って眼の鋭《するど》い、癇癪持《かんしゃくもち》らしい顔をした外川先生と、強情《ごうじょう》できかぬ気らしい、日本人の彼等よりも却てヨリ好き日本語をつかうF女史に会《あ》った。
 いつもの停車場で下りて、一同は車をつらねて彼《かの》丘《おか》の上の別荘に往って憩《いこ》い、それから本宅に往った。お馨さんの父者人、母者人と三度目の対面をした。十二畳|二間《ふたま》を打ぬいて、正面の床に遺髪と骨を納めた箱を安置し、昨日から来て葛城の姉さんが亡き義妹の為に作った花環《はなわ》をかざり、また藤なぞ生けてあった。お馨さんは自身の写真と云う写真を残らず破り棄てたそうで、目に見るべき其姿は残って居なかった。然しお馨さんによく肖《に》た妹達が五人まで居て、其幼な立から二十歳前後を眼の前に見る様であった。外川先生が司会し、お馨さんの学友がオルガンを弾いて、一同讃美歌の「やゝにうつり行く夕日かげの、残るわがいのち、いまか消ゆらん。御使《みつかい》よ、つばさをのべ、とこしえのふるさとに、つれゆきてよ、……」と云うのを歌うた。
 粕谷の彼は起《た》ってお馨さんと彼等の干繋《かんけい》を簡単に述べ、父者人に対して卑怯なる虚言の罪を謝し、終に臨み、お馨さんの早世《そうせい》はまことに残念だが、自身の妹か娘があるならば、十人は十人矢張お馨さんの様に戦場に送りたいと思うと言った。
 次ぎにF女史が立って、お馨さんの臨終前後の事を述べた。お馨さんは、ブルックリン病院の生徒となって以来、忠実に職分を尽して、校長はじめ先輩、同僚、患者、すべての人の信愛を贏《か》ち得た。発病以来苦痛も中々あったであろうが、一言も不平《ふへい》憂悶《ゆうもん》の語なく、何をしてもらっても「有難《ありがと》う/\」と心から感謝し、信仰と感謝を以て此世を去った。真に見上げた臨終で、校長はじめ一人として其美しい勇ましい臨終に感激せぬ者は無かった。F女史は斯く事細かに語り来って「私も斯様に米国から御国《おくに》に伝道に参って居りますが、馨子さんの働きを見れば、其働きの間は実に暫《しばらく》の間でございましたが、私は恥入る様に思います。馨子さんは実にやさしい方で、其上男も及ばぬ凜々《りり》しい魂《たましい》を持ってお出でした。春の初に咲く梅の花の様な方でした」と云うた。
 言下《ごんか》に、粕谷の彼は、彼の園内の梅の下に立ち白い花を折って黒髪に插《さ》すお馨さんの姿をまざまざと眼の前に見た。本当に彼女は人になった梅の花であった。だから其花を折って簪《かんざし》にしたのだ。彼女にして初めて梅の花を簪にすることが出来る。彼は重ねて思うた。米国からF女史が帰化《きか》して、日本に伝道に来る。日本からお馨さんが米国に往って米国の人達に敬愛されて死ぬる。斯うして日米の間は自然に繋《つな》がれる。お馨さんは常に日米感情の齟齬《そご》を憂えて居る女であった。日米の親和を熱心に祈って居た女であった。其祈は聴かれて、彼女は米国に死んだ。米国の灰《はい》になり米国の土になった彼女は、真《しん》に日本が米国に遣《つか》わした無位無官の本当の平和の使者《つかい》の一人であったと。蓋《けだし》「宝《たから》の在る所心もまた在る」道理で、お馨さんを愛する程の人は、お馨さんの死んだ米国を懐《おも》わずには居られないのである。
 最後に外川先生が師弟の関係を述べ、「彼女は強い女であったが、体《からだ》は強健だし、貧乏はしないし、思いやりと云うものが或は欠《か》ける恐れがあった。だから自分は米国渡航を賛成したのであった。自分は考えた、彼女が二三年も米国に揉《も》まれると、実にエライ女になって来る。然るに今Fさんの言を聞けば、彼女は短かい期間であったが立派に其人格を完成することが出来た。だから死んだのである」と云うた。
 外川先生の祈祷《きとう》で式は終えた。一同記念の撮影をして、それから遺髪と遺骨を岩倉家の菩提寺《ぼだいじ》の妙楽寺に送った。寺は小山の中腹にある。本堂の背後《うしろ》、一段高い墓地の大きな海棠《かいどう》の下に、
[#ここから5字下げ]
岩倉馨子之墓
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と云う小さな墓標《ぼひょう》が立てられた。
           *
 葛城は其後間もなく独逸に渡った。

[#ここから2字下げ]
  千九百十年 六月十八日
             ニューヨーク
本日午後三時当地出帆。
三年苦戦健闘のアメリカを去らんとして感慨強し。闘争は一個微弱なる一少年を化して、兎も角も男を作り候。
馨子を煙とせし北米の空、ふり仰いで涙煙の如く胸を襲《おそ》う。
[#地から3字上げ]勝郎

       十

 生きて居る者は、苦まねばならぬ。死んだお馨さんは、霊になって猶働きつゝあるのだ。
「お馨さんの梅」は、木の生くる限り春毎に咲くであろう。短く此生に生きたお馨さんは、永久に霊に活きて働くであろう。
[#改ページ]

     関寛翁

       一

 明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺《じい》さんが訪《たず》ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺《じじい》と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顋《あご》に些《ちと》の疎髯《そぜん》をヒラ/\させ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我《が》を折った。
 兎も角も上に請《しょう》じ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごり/\した無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
 其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作《ぞうさ》もないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官と反《そ》りが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々《しし》として仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼《おうおん》共《とも》に健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるを嫌《きら》った。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及び老《お》いの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、型《かた》の如く突然たるものであった。
 爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙《けいし》に蠅頭《じょうとう》の細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端《ちゅうとはんぱ》な彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざ/\来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇《ほしわらび》、萩のステッキ、鶉豆《うずらまめ》なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南《しょうなん》の老父に此爺さんの噂《うわさ》をしたら父は少し考えて、待てよ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、松本良順など手古摺《てこず》って居た、と云った。爺さんに聞いたら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊の砌《みぎり》老父が許《もと》に立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師と互に白鬚を撫して五十年前崎陽の昔を語ると云う一幕があった。所謂縁は異なものである。
 北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、爺さん頻りに促《うなが》す。彼も一度は爺さんの生活ぶりを見たいと思いながら、何や角と延ばして居る内に、到頭爺さんの住む山中まで汽車が開通して了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。
 左に掲《かか》ぐるは、訪問記の数節である。

       二

「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川《としべつがわ》の谷を北へ北へまた北へ北へと駛《はし》って、夕の四時|※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-289-15]別《りくんべつ》駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走《あばしり》線が※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-289-15]別まで開通した開通式の翌々日である。
 今にはじめぬ鉄道の幻術《げんじゅつ》、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-290-1]別に、最早《もう》人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。開通即下のごったかえす※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-290-2]別館の片隅で、祝《いわい》の赤飯で夕飯を済まし、人夫の一人に当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、余等夫婦洋傘を翳《さ》してあとにつき、斗満《とまむ》の関牧場さして出かける。
 新開町《しんかいまち》の雑沓を後にして、道は直ぐ西に蒼《あお》い黄昏《たそがれ》の煙《けむり》に入った。やがて橋を渡る。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-290-5]別橋である。開通を当に入り込んだ人間が多く仕事が無くて困ると云う人夫の話《はなし》を聞きながら、滑りがちな爪先上りの路を、懐中電燈の光に照らして行く。雨は止《や》んで、日はとっぷり暮れた。不図耳に入るものがある。颯々《さあさあ》――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風《まつかぜ》か。否《いや》、松風でない。峰の嵐でもない。水声《すいせい》である。余は耳を澄ました。何と云う爽《さわやか》な音か。此世の声で無い。確に別天地から通《かよ》うて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしい音《ね》である。人夫にきくと、果して斗満川《とまむがわ》であった。やがて道は山側《やまばた》をめぐってだら/\下りになった。水声の方からぱっと火光《あかり》がさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声《はなしごえ》がして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側の矮《ひく》い草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声に架《か》す橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤ/\戸口から入ると、眩《まぶ》しい洋燈《らんぷ》の光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払《せきばら》いと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」

           *

 九月二十五日。雨。
 爺さんでは長過ぎる。不躾《ぶしつけ》でもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓《えきてい》で、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建て離《はな》しの納屋、浴室、窖室《あなぐら》もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸《ほりいど》、山から引いたのと二通りもあって、贅沢《ぜいたく》はないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功《ろうこう》片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向《かわむかい》にあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢《くさむら》を拓《ひら》いて牛馬舎一棟、人の住む矮《ひく》い草舎《くさや》が一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨《あきさめ》を滴《た》らして居る。
 駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓《がらすまど》から形ばかり埒《らち》を結った自然のまゝの小庭《こにわ》や甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉《こすぎ》榲邨《おんそん》の「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼《た》いて神明に祈り、机の前に端座《たんざ》して老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記《ヨブき》なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族《ゆうぼくぞく》の老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己《わ》が境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
 落《おち》つけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さま/″\の話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲《ふぎゅういん》と云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によく利《き》くそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指の尖《さき》が左の方に向って鉤形《かぎなり》に曲って居る。打診《だしん》に精神がこもる証拠だ。乃公《わし》の打診は何処をたゝいても患者の心臓《しんぞう》にピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものを抱《かか》えて来た。関家の定紋九曜を刳《く》りぬいた白木の龕《がん》で、あなたが死ぬ時一処に牧場《ぼくじょう》に埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮《こくちょう》と云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道|足寄《あしょろ》郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの名も余には遠いものであった。処があとで関翁の話を聞けば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎《ぼうしゃ》を訪われたのも、実は五郎君の勧《すすめ》であった。要するに余等は五郎君の霊に引張られて今此処に来て翁と対座して居るのである。
 翁は一冊の稿本を取り出して来て示される。題して関牧場創業記事と云う。披《ひら》いて見ると色々面白い事がある。牧場も創業以来已に十年、汽車も開通して、万事がこゝに第二期に入らんとして居る。既往を思えば翁も一夢の感があろう。翁はまた此様なものを作ったと云って見せる。場内の農家に頒《わか》つ刷物《すりもの》である。
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    日々の心得の事
一 一家|和合《なかよく》して先祖を祭り老人《としより》を敬うべし
一 朝は早く起き家業に就き夜は早く寝《ね》につくべし
一 諸上納《しょじょうのう》は早く納むべし
一 金銭取引の勘定《かんじょう》は時々致すべし
一 他人と寄合《よりあい》の時或は時間《とき》の定ある時は必ず守るべし
一 何事にても約束ある上は必ず実行すべし
一 偽言《うそ》は一切いうべからず
一 火の要心を怠るべからず
一 掃除《そうじ》に成丈注意すべし
一 流し元と掃溜《はきだめ》とは気をつけて衛生に害なきよう且|肥料《こやし》にすべき事
一 家具の傷みと障子の切張とに心付くべし
一 喰物《くいもの》はむだにならぬ様に心を用い別して味噌と漬物とは用いたる跡にも猶心を用うべし
一 他人より物をもらいたる時は返礼を忘るべからず
一 買物は前以て価《ねだん》を聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
一 常着《つねぎ》は木綿筒袖たるべし
一 種物は成るべく精撰して取るべし
一 農具は錆《さび》ぬ様に心懸くべし
一 貯金は少しずつにても怠るべからず
一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
一 他人《ひと》の子をも我子にくらべて愛すべし
一 他人より諸品《しなもの》を借りたる時は早く返すことに心がくべし
一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
    明治四十三年
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 翁はもと/\我利《がり》から広大の牧場地を願下げたと思わるゝを心《しん》から嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
 午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯《こくぜん》蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療《せりょう》を受けに利別《としべつ》から来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故《なぜ》もっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけの膚《はだ》を見せろ、と翁が云う。体《からだ》が臭《くさ》いからとモジ/\するのを無理やりに帯解かせる。上半身が露《あら》われた。正に熊だ。腹毛《はらげ》胸毛《むなげ》はものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃ/\渦《うず》まいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々《つくづく》感嘆して見惚《みと》れる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶《やくびん》が並んだ次の間に調剤《ちょうざい》に入った。
 河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗《きれい》な縞栗鼠《しまりす》が来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだ/\山の中だ。
 四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時に粥《かゆ》二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水《かんすい》して床に入るのが、翁の常例だそうな。
 夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後|哈爾賓《ハルピン》で開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕《あばた》ある鳳眼にして長面の片山君は、銭函《ぜにばこ》の海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞《あぐら》かき、関翁が婆ァ婆ァと呼ぶ頬《ほお》の殺《そ》げたきかぬ気らしい細君は、モンペ袴《はかま》をはいて甲斐※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-296-11]別《りくんべつ》は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄《わな》にかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。鮭《さけ》、鱒《ます》、※[#「魚+完」、第4水準2-93-48]《やまべ》なぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝ例《ためし》にもなる山鳥の塩焼にも※[#「厭/食」、第4水準2-92-73]《あ》いて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人を避《さ》くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先《はさき》にはさまった豆粒《まめつぶ》を噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠を提《さ》げると重たい開墾《かいこん》鍬《ぐわ》がぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人《おっと》の留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡|本別村《ほんべつむら》の役場までの十余里はまだ可《いい》として、釧路の白糠《しらぬか》村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙《さしがみ》が来てものこ/\出かけて行かねばならなかった話。珍《ちん》な話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒《せきれい》が鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦が妬《ねた》ましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
 九月廿六日。霽《はれ》。
 翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人|※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-297-11]別《りくんべつ》の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺《こっぱぶき》の此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯《きびめし》を食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪《わりまき》が山のように積んである。此辺は蕨《わらび》を下草にした楢《なら》の小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐ傍《そば》を流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角《やまはな》をめぐって少し往くと、山際《やまぎわ》に草葺のあばら舎《や》がある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側《かわはた》に移ったそうな。何時の間にか※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-3]別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓《えきてい》から十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-4]別川クンボベツ川斗満川の相会する※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-5]別谷《りくんべつだに》を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川《としべつがわ》の谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大《いちだい》鎌状《かまなり》をなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-7]別停車場及※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-7]別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-8]別駅《りくんべつえき》となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅《かわはば》六七間もあろうか。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-10]別橋から瞰《なが》むる※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-10]別川の川床荒れて水の濁れるに引易《ひきか》え、斗満川の水の清さ。一個々玉を欺《あざむ》く礫《こいし》の上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影《ひかげ》紊《みだ》して駛《はし》り行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満《とまむ》の水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-14]別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。然《さ》もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水《しみず》が山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣《ゆかた》一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、斧《おの》で氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
 駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場《こまば》出《で》の壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕《てんまく》を張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
 昨夕来泊した若年《じゃくねん》の測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめ/\しく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だと賞《ほ》める。
 午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内《らちない》に入る。東向きの山腹、三囲《みかかえ》四囲《よかかえ》もある楢《なら》の大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水が湧《わ》いたりして居る。馬牛の群の中を牛糞を避《よ》け、馬糞を跨《また》ぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠《くろぬか》の様にたかる。関翁が牧場記事の一節も頷《うなず》かれる。左程大くはないと云っても長《たけ》六尺はある蕗《ふき》や、三尺も伸びた蓬《よもぎ》、自然生の松葉独活《アスパラガス》、馬の尾について殖《ふ》えると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いの径《こみち》を通って、斗満橋の袂《たもと》に出た。一坪程の小さな草舎《くさや》がある。屋後《うしろ》には熊の髑髏《あたま》の白くなったのや、まだ比較的|生《なま》しいのを突き刺《さ》した棹《さお》、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩《くまがり》に雇《やと》って置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。覗《のぞい》て見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
 駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸《おおのこ》や嚢を背負い薬鑵を提《さ》げた男女が、幾組も/\西へ通る。三井の伐木隊《ばつぼくたい》である。富源の開発も結構だが、楢《なら》の木《き》はオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃《くるみ》は銃床に、ドロはマッチの軸木《じくぎ》になり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種|猜忌《さいき》の眼を以て彼等を見送った。
 夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋《ほうかいや》の家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴《げっきん》を弾いて盛《さかん》に踊《おど》った。
 夕食に鮪《まぐろ》の刺身《さしみ》がつく。十年ぶりに海魚《うみざかな》の刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
 要するに斗満も開けたのである。
 九月二十七日。美晴。
 今日は斗満の上流ニオトマムに林学士《りんがくし》の天幕《てんと》を訪《と》う日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君が負《おぶ》ってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜《とうなす》、真桑瓜《まくわうり》、玉蜀黍《とうもろこし》、甘藍《きゃべつ》なぞを駄馬《だば》に積み、其上に打乗って先発する。仔馬《こうま》がヒョコ/\ついて行く。又一君も馬匹《ばひつ》を見がてら阪の上まで送って来た。
 阪を上り果てゝ、囲《かこ》いのトゲ付《つき》鉄線《はりがね》を潜《くぐ》り、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、群《む》れ離れ寝たり起きたり自在《じざい》に遊んで居る。此処《ここ》はアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦《へいたん》な高原《こうげん》の意。やゝ黄ばんだ楢《なら》、※[#「木+解」、第3水準1-86-22]《かしわ》の大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方《あち》此方《こち》に矮《ひく》い叢《むら》をなす萩《はぎ》はすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとから/\音《おと》を立てる。此萩の花ざかりに駒《こま》の悠遊する画趣《がしゅ》が想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬に劣《おと》らじと鼻孔《びこう》を開いて初秋高原清爽の気を存分《ぞんぶん》に吸《す》いつゝ、或は関翁と打語らい、或は黙《もく》して四辺《あたり》の景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬《ぐんば》補充部《ほじゅうぶ》の山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋を染《そ》めて居る。ふりかえって東を見れば、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-301-6]別谷《りくんべつだに》を劃《しき》るヱンベツの山々を踏《ふ》まえて、釧路《くしろ》の雄阿寒《おあかん》、雌阿寒《めあかん》が、一は筍《たけのこ》のよう、他は菅笠《すげがさ》のような容《なり》をして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休《ひとやすみ》してまた行く。高原漸く蹙《せま》って、北の片岨《かたそば》には雑木にまじって山桜《やまざくら》の紅葉したのが見える。桜花《さくら》見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
 やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下《めした》に白樺《しらかば》の簇立《ぞくりつ》する谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹《しんようじゅ》を語る印度藍色《インジゴーいろ》の山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色《すみれいろ》の微笑《えみ》を浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚《こうこつ》として眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、彼《あの》奥にあるのだ。而《しか》して関翁の夢魂《むこん》常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南《カナン》は其処《そこ》にある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-301-16]別なんぞは最早《もう》久恋《きゅうれん》の地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心《ゆうしん》はとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢《かいびゃく》以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服に駛《は》せて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中《きょうちゅう》の秘《ひ》をほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満《とまむ》上流の山谷《さんこく》を望んだ時、余は翁が心絃《しんげん》の震《ふる》えを切《せつ》ないほど吾|心《むね》に感じた。
 鉄線《はりがね》を潜《くぐ》って放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児《むすこ》と各|裸馬《はだかうま》に乗って来た。関翁が声をかける。路作りかた/″\※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-302-7]別《りくんべつ》まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼《すみやき》をする人そうな。やがて小さな流れに沿《そ》う熊笹葺《くまざさぶ》きの家に来た。炭焼君の家である。白樺《しらかば》の皮を壁《かべ》にした殖民地式の小屋だが、内は可なり濶《ひろ》くて、畳《たたみ》を敷き、奥に箪笥《たんす》柳行李《やなぎごうり》など列《なら》べてある。妻君《かみさん》も善《よ》い顔をして居る。囲炉裏側《いろりばた》に腰かけて渋茶《しぶちゃ》の馳走《ちそう》になって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
 茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙《はりがみ》に、彼岸会《ひがんえ》説教《せっきょう》、斗満寺《とまむじ》と書いてある。斗満寺! 此処《ここ》に其様《そん》なお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本を抱《かか》えて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂《いわゆる》お寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造《そぞう》な熊笹葺き、手際悪《てぎわわる》く張った壁の白樺|赤樺《あかかば》の皮は反《そ》っくりかえって居る。関翁を先頭《せんとう》にどや/\入ると、形《かた》ばかりの床《ゆか》に荒莚《あらむしろ》を敷いて、汚《よご》れた莫大小《めりやす》のシャツ一つ着《き》た二十四五の毬栗頭《いがぐりあたま》の坊さんが、ちょこなんと座《すわ》って居る。後《うしろ》に、細君であろ、十八九の引《ひっ》つめに結《ゆ》って筒袖《つつそで》の娘々《むすめむすめ》した婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形《ふくべがた》南瓜《かぼちゃ》や、馬鈴薯《じゃがいも》を堆《うずたか》く積んである。奥の壁つきには六字|名号《みょうごう》の幅《ふく》をかけ、御燈明《おとうみょう》の光ちら/\、真鍮《しんちゅう》の金具《かなぐ》がほのかに光って居る。妙《みょう》に胸《むね》が迫《せま》って来た。紙片《しへん》と鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係|世並《よなみ》信常《しんじょう》、と書いてくれた。朝露の間《ま》は子供に書《ほん》を教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱《ごしんぼう》なさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云って別《わかれ》を告げる。戸外《そと》に紫の蝦夷菊《えぞぎく》が咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者《えちごもの》なる炭焼小屋の主人《あるじ》が招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家《だんか》一軒のお寺もゆかしいものである。
 樺林《かばばやし》を拓《ひら》いて、また一軒、熊笹と玉蜀黍《とうもろこし》の稈《から》で葺《ふ》いた小舎《こや》がある。あたりには樺《かば》を伐《き》ったり焼いたりして、黍《きび》など作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何《どう》したかい、何故《なぜ》薬取りに来ない?」と怒鳴《どな》る。爺《じい》さんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児《むすこ》が出て来る。翁は其肩をたゝき顔を覗《のぞ》き込むようにして「如何《どう》だ、関《せき》の爺《じい》を識《し》ってるか。ウム、識ってるか」子供がにこ/\笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生《やせい》松葉独活《アスパラガス》の実《み》が紅玉を鏤《ちりば》めて居る。不図白木の鳥居《とりい》が眼についた。見れば、子供が抱《かか》えて行って了《しま》いそうな小さな荒削《あらけず》りの祠《ほこら》が枯草の中に立って居る。誰が何時《いつ》来て建てたのか。誰が何時来て拝《おが》むのか。西行《さいぎょう》ならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、崖《がけ》の下、小さな流《ながれ》に沿《そ》うてまた一つ小屋がある。これが斗満|最奥《さいおく》の人家《じんか》で、駅逓《えきてい》から此処《ここ》まで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹《ろうじゅ》が一株、大分|紅葉《もみじ》した枝を、振《ふり》面白くさし伸《の》べて居る小高い丘《おか》に来た。少し早いが此処で昼食《ちゅうじき》とする。人夫が蕗《ふき》の葉や蓬《よもぎ》、熊笹《くまざさ》引かゞってイタヤの蔭《かげ》に敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君の背《せなか》から下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干《うめぼし》菜《さい》で握飯《にぎりめし》を食う。流れは見えぬが、斗満《とまむ》の川音《かわおと》は耳|爽《さわやか》に、川向うに当る牧場内《ぼくじょうない》の雑木山は、午《ご》の日をうけて、黄に紅に緑に燃《も》えて居る。やがてこゝを立って小さな渓流《けいりゅう》を渡る時、一同石に跪《ひざまず》いて清水《しみず》をむすぶ。
 最早《もう》人気《ひとけ》は全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。鷹《たか》の羽《は》なぞ落ちて居る。径《みち》は稀《まれ》に渓流を横ぎり、多く雑木林《ぞうきばやし》を穿《うが》ち、時にじめ/\した湿地《ヤチ》を渉る。先日来の雨で、処々に水溜《みずたまり》が出来て居るが、天幕《てんと》の人達が熊笹を敷き、丸木《まるき》を渡《わた》しなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終《しじゅう》一行《いっこう》の殿《しんがり》として、股引《ももひき》草鞋《わらじ》尻《しり》引《ひき》からげて杖《つえ》をお伴《とも》にてく/\やって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、後《あと》見るな/\と手をふって、一本橋にも人手を仮《か》らず、堅固《けんご》に歩いて来る。斯くて四里を歩《あゆ》んで、午後の一時|渓声《けいせい》響く処に鼠色《ねずみいろ》の天幕《てんまく》が見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
 斗満川辺の少しばかりの平地を拓《ひら》いて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。林《はやし》林学士を統領《とうりょう》として、属員《ぞくいん》人夫《にんぷ》アイヌ約二十人、此春以来|此処《ここ》を本陣《ほんじん》として、北見界《きたみざかい》かけ官有|針葉樹林《しんようじゅりん》の調査をやって居るのである。別天地の小生涯《しょうせいがい》、川辺《かわべ》に風呂《ふろ》、炊事場《すいじば》を設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄《あさなわ》を張って洗濯物を乾《ほ》し、少しの空地《あきち》には青菜《あおな》まで出来て居る。
 茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態《せいたい》を見に行く。濶《はば》五|間《けん》程の急流に、楢《なら》の大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、梢《こずえ》を踏み、終に枝を踏む軽業《かるわざ》、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際《みぎわ》の雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐《とうばつ》をやったな」と林学士が云う。胡桃《くるみ》が伐《き》ってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身を包《つつ》む。蝦夷松《えぞまつ》や椴松《とどまつ》、昔此辺の帝王《ていおう》であったろうと思わるゝ大木|倒《たお》れて朽ち、朽ちた其木の屍《かばね》から実生《みしょう》の若木《わかぎ》が矗々《すくすく》と伸びて、若木其ものが径《けい》一尺に余《あま》るのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄《やまぶどう》が絡《から》んだり、其《それ》自身《じしん》針葉樹林の小模型《しょうもけい》とも見らるゝ、緑《りょく》、褐《かつ》、紫《し》、黄《おう》、さま/″\の蘚苔《こけ》をふわりと纏《まと》うて居るのもある。其間をトマムの剰水《あまり》が盆景《ぼんけい》の千松島《ちまつしま》と云った様な緑苔《こけ》の塊《かたまり》を※[#「さんずい+回」、第3水準1-86-65]《めぐ》って、流るゝとはなく唯|硝子《がらす》を張った様に光って居る。やがて麓《ふもと》に来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松|峯《みね》へ峰《みね》へと弥《いや》が上に立ち重なって、日の目も漏《も》れぬ。此辺はもう関《せき》牧場《ぼくじょう》の西端になっていて、林《りん》は直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明《うすあかり》の一端に佇《たたず》んで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝に跨《またが》る針葉樹の処女林《しょじょりん》には、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方《とほう》に暮るゝことがある、其様《そん》な時には峰を攀《よ》じ、峰に秀《ひい》ずる蝦夷松椴松の百尺もある梢に猿《ましら》の如く攀じ上《のぼ》り、展望して方向をきめるのです、と。突然|銃声《じゅうせい》が響いた。唯一発――あとはまた森《しん》となる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖など伐《き》ってもらって、天幕に帰る。
 勝手元《かってもと》は御馳走《ごちそう》の仕度《したく》だ。人夫が採《と》って来た茶盆大《ちゃぼんだい》の舞茸《まいたけ》は、小山の如く莚《むしろ》に積《つ》まれて居る。やがて銃を負《お》うてアイヌが帰って来た。腰には山鳥《やまどり》を五羽ぶら下げて居る。また一人|川下《かわしも》の方から釣棹《つりざお》肩に帰って来た。※[#「魚+完」、第4水準2-93-48]《やまべ》釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、唯《たった》一羽か」と云う。此も山鳥。先刻《さっき》聞いた銃声《じゅうせい》の果《はて》なのであろう。火を焚《た》く、味噌《みそ》を摺《す》る、魚鳥《ぎょちょう》を料理する、男世帯《おとこじょたい》の目つらを抓《つか》む勝手元の忙しさを傍目《よそめ》に、関翁はじめ余等一同、かわる/″\川畔《かわばた》に往って風呂の馳走《ちそう》になる。荒削《あらけず》りの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客《おんなきゃく》の為め、天幕《てんまく》のきれを屏風《びょうぶ》がわりに垂《た》れてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外は樺《かば》の篝火《かがり》が真昼《まひる》の様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかん/\炭火《すみび》を熾《おこ》して、ブツ/\切りにした山鳥や、尾頭《おかしら》つきの※[#「魚+完」、第4水準2-93-48]《やまべ》を醤油《したじ》に浸《ひた》しジュウ/\炙《あぶ》っては持て来《き》、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸《まいたけ》の味噌汁《みそしる》が来る。焚き立ての熱飯《あつめし》に、此山水の珍味《ちんみ》を添《そ》えて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖《けんたん》思わず数碗《すうわん》を重《かさ》ねる。
 日はもうとっぷり暮れて、斗満《とまむ》の川音が高くなった。幕外《そと》は耳もきれそうな霜夜《しもよ》だが、帳内《ちょうない》は火があるので汗ばむ程の温気《おんき》。天幕の諸君は尚《なお》も馳走に薩摩《さつま》琵琶《びわ》を持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、思いかけぬ豪興《ごうきょう》である。弾手《ひきて》は林学士《りんがくし》が部下の塩田君《しおだくん》、鹿児島《かごしま》の壮士《そうし》。何をと問われて、取りあえず「城山《しろやま》」を所望《しょもう》する。今日《きょう》は九月二十七日、城山|没落《ぼつらく》は三十三年前の再昨日《さいさくじつ》であった。塩田君はやおら琵琶を抱《かか》え、眼を半眼《はんがん》に開いて、咳《がい》一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「夫《そ》れ――達人《たつじん》は――」声はいさゝか震《ふる》えて響きはじめた。余は瞑目《めいもく》して耳をすます。「大隅山《おおすみやま》の狩《かり》くらにィ――真如《しんにょ》の月《つき》の――」弾手は蕭々《しょうしょう》と歌いすゝむ。「何を怒《いか》るや怒《いか》り猪《い》の――俄《にわか》に激《げき》する数千|騎《き》」突如《とつじょ》として山|崩《くず》れ落つ鵯越《ひよどりごえ》の逆落《さかおと》し、四絃《しげん》を奔《はし》る撥音《ばちおと》急雨《きゅうう》の如く、呀《あっ》と思う間もなく身は悲壮《ひそう》渦中《かちゅう》に捲《ま》きこまれた。時は涼秋《りょうしゅう》九|月《げつ》、処は北海山中の無人境、篝火《かがりび》を焚く霜夜の天幕、幕《まく》の外《そと》には立聴くアイヌ、幕の内には隼人《はやと》の薩摩《さつま》壮士《おのこ》が神来《しんらい》の興《きょう》まさに旺《おう》して、歌|断《た》ゆる時四絃続き、絃黙《げんもく》す時|声《こえ》謡《うた》い、果ては声音《せいおん》一斉《いっせい》に軒昂《けんこう》嗚咽《おえつ》して、加之《しかも》始終《しじゅう》斗満川《とまむがわ》の伴奏《ばんそう》。手を膝《ひざ》に眼を閉《と》じて聴く八十一の翁《おきな》をはじめ、皆我を忘れて、「戎衣《よろい》の袖《そで》をぬらし添《そ》うらん」と結びの一句|低《ひく》く咽《むせ》んで、四絃一|撥《ばつ》蕭然《しょうぜん》として曲《きょく》終るまで、息もつかなかった。讃辞《さんじ》謝辞《しゃじ》口を衝《つ》いて出る。天幕の外もさゞめいた。興《きょう》未だ尽きぬので、今一つ「墨絵《すみえ》」の曲を所望する。終って此|興趣《きょうしゅ》多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
 それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召《おめし》につれて髭顔《ひげがお》二つランプの光に現《あら》われ、天幕の入口に蹲踞《そんこ》した。若い方は、先刻《さっき》山鳥五羽うって来た白手《しらで》留吉《とめきち》、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯《ごましおひげ》胸に垂《た》るゝ魁偉《おおき》なアイヌ、名は小川《おがわ》ヤイコク、これはあまり口が利《き》けぬ。アイヌの信仰《しんこう》、葬式《そうしき》の事、二三|風習《ふうしゅう》の質問などして、最後に、日本人《シャモ》に不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人《シャモ》のゴロツクがイヤだ」と吐《は》き出す様に云った。ゴロツクは脅迫《きょうはく》の意味そうな。乳呑子《ちのみご》連れた女《メノコ》が来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味《すごみ》があるばかり、例《れい》の刺青《いれずみ》もして居らず、毛繻子《けじゅす》の襟《えり》がかゝった滝縞《たきじま》の綿入《わたいれ》なぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語を交《まじ》えて、何もないので紫《むらさき》メレンスの風呂敷《ふろしき》をやった。
 惜しい夜も更《ふ》けた。手を浄《きよ》めに出て見ると、樺の焚火《たきび》は燃《も》え下《さが》って、ほの白い煙《けむり》を※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あ》げ、真黒な立木《たちき》の上には霜夜の星|爛々《らんらん》と光って居る。何処《どこ》かの天幕でぱっと火光《あかり》がさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入って了《しま》った。川音が颯々《さあさあ》と嵐の様に響《ひび》く。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き/\趣《おもむき》深い天幕の夢を結んだ。
 九月二十八日。微雨。
 関翁は起きぬけに川に灌水《かんすい》に行《ゆ》かれた。
 朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路に就《つ》く。成程《なるほど》ニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満《とまむ》を去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚|遺憾《のこり》多かった。
 帰路《きろ》余は少し一行に後《おく》れて、林中《りんちゅう》にサビタのステッキを伐《き》った。足音がするのでふっと見ると、向《むこ》うの径《こみち》をアイヌが三人歩いて来る。真先《まっさき》が彼《かの》留吉《とめきち》、中にお花さんが甲斐※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《かいかい》しく子を負《お》って、最後に彼ヤイコクがアツシを着《き》、藤蔓《ふじづる》で編《あ》んだ沓《くつ》を穿《は》き、マキリを佩《は》いて、大股《おおまた》に歩いて来る。余は木蔭から瞬《またた》きもせず其|行進《マアチ》を眺めた。秋|寂《さ》びた深林《しんりん》の背景《はいけい》に、何と云う好調和《こうちょうわ》であろう。彼等アイヌは亡《ほろ》び行く種族《しゅぞく》と看做《みな》されて居る。然し此|森林《しんりん》に於て、彼等は正《まさ》に主《あるじ》である。眼鏡《めがね》やリボンの我等は畢竟《ひっきょう》新参《しんざん》の侵入者《しんにゅうしゃ》に過ぎぬ。余は殊《こと》に彼ヤイコクが五束《いつつか》もある鬚髯《しゅぜん》蓬々《ぼうぼう》として胸《むね》に垂《た》れ、素盞雄尊《すさのおのみこと》を見る様な六尺ゆたかな堂々《どうどう》雄偉《ゆうい》の骨格《こっかく》と悲壮《ひそう》沈欝《ちんうつ》な其|眼光《まなざし》を熟視《じゅくし》した時、優勝者と名のある掠奪者《りゃくだつしゃ》が大なる敗者《はいしゃ》に対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄《やまぶどう》などちぎると猿《さる》に対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワを採《と》っては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊|一変《いっぺん》せばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人《シャモ》に到らん、日本人《シャモ》一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
 天幕を出る時ぽと/\落ちて居た雨は止《や》み、傘《かさ》を翳《さ》す程にもなかった。炭焼君《すみやきくん》の家で昼の握飯《にぎりめし》を食って、放牧場《ほうぼくじょう》の端《はし》から二たび斗満|上流《じょうりゅう》の山谷《さんこく》を回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子を抱《だ》いて駄馬《だば》に乗った。貢君《みつぎくん》が口綱《くちづな》をとって行く。後から仔馬《こうま》がひょこ/\跟《つ》いて行く。時々道草を食って後《おく》れては、遽《あわ》てゝ駈《か》け出し追《おっ》ついて母馬《はは》の横腹《よこはら》に頭《あたま》をすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時|駅逓《えきてい》に帰った。
 関翁は過日来|足痛《そくつう》で頗《すこぶる》行歩《ぎょうぶ》に悩《なや》んで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子《ようす》も見せず、若い者|並《なみ》に四里の往復は全く恐れ入った。
 此夕|台所《だいどこ》で大きな甘藍《きゃべつ》を秤《はかり》にかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植《いしょく》もせぬのだから驚く。関翁が家の馳走《ちそう》で、甘藍の漬物《つけもの》に五升藷《ごしょういも》(馬鈴薯《じゃがいも》)の味噌汁《みそしる》は特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆《えだまめ》、玉蜀黍《とうもろこし》、馬鈴薯、南瓜《とうなす》、蕎麦《そば》、大根《だいこ》、黍《きび》の餅《もち》、何れも中々味が好い。唯|真桑瓜《まくわうり》は甘味が足らぬ。
 九月二十九日。晴。
 今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外《らちそと》を南へ下り、ニタトロマップの細流《さいりゅう》を渡り、斗満殖民地入口と筆太《ふでぶと》に書いた棒杭《ぼうぐい》を右に見て、上利別《かみとしべつ》原野《げんや》に来た。野中《のなか》、丘《おか》の根《ね》に、ぽつり/\小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭《ふしここたん》の教授所を見る。代用小学校である。型《かた》の如き草葺《くさぶき》の小屋、子供は最早帰って、田村《たむら》恰人《まさと》と云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別《としべつ》川辺《かわべ》に模範《もはん》農夫《のうふ》の宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となく潤《うるお》うて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中|蔬菜《そさい》を囲《かこ》う窖《あなぐら》を設け、農具《のうぐ》漁具《ぎょぐ》雪中用具《せっちゅうようぐ》それ/″\掛《か》け列《なら》べて、横手《よこて》の馬小屋には馬が高く嘶《いなな》いて居る。苦《にが》い茶《ちゃ》を点《い》れて、森永《もりなが》のドロップスなど出してくれた。余等は注文《ちゅうもん》してもぎ立ての玉蜀黍を炉《ろ》の火で焼いてもらう。主《あるじ》は岡山県人、四十余の細作《ほそづく》りな男、余作君に過日《こないだ》の薬《くすり》は強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無《いちもんな》しで渡道《とどう》し、関家に奉公中|貯蓄《ちょちく》した四十円を資本とし、拓《ひら》き分《わ》けの約束で数年前此原野を開墾《かいこん》しはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入《みいり》があろうと云うことであった。細君の阿爺《ちゃん》が遙々《はるばる》讃岐《さぬき》から遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜《まくわうり》が蔓《つる》の上に沢山ころがり、段落《だんお》ちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆《だいず》は畝《うね》から畝に莢《さや》をつらねて、試《こころみ》に其一個を剖《さ》いて見ると、豆粒《つぶ》の肥大《ひだい》実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰《く》い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘《うま》い。先年皇太子殿下(今上《きんじょう》陛下《へいか》)が釧路《くしろ》で玉蜀黍を召《め》してそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたも尤《もっとも》である。
 午後は又一君の案内で、アイヌの古城址《こじょうし》なるチャシコツを見る。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-310-15]別川《りくんべつがわ》に臨んだちょっとした要害《ようがい》の地、川の方は断崖《だんがい》になり、後《うしろ》はザッとしたものながら、塹濠《ざんごう》をめぐらしてある。此処から見ると※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-310-17]別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠《しょうし》を建《た》てゝ斃死《へいし》した牛馬の霊《れい》を祭《まつ》るつもりで居る。
 夕方三人で又一君宅の風呂《ふろ》をもらいに行く。実は過日来|往返《おうへん》の毎《たび》に斗満橋《とまむばし》の上から見て羨《うらや》ましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端《かわばた》で、露天《ろてん》に据《す》えてある。水に強いと云う桂《かつら》の径《わたり》二尺余の刳《く》りぬき、鉄板《てっぱん》を底《そこ》に鋪《し》き、其上に踏板《ふみいた》を渡したもので、こんな簡易《かんい》な贅沢《ぜいたく》な風呂には、北海道でなければ滅多《めった》に入られぬ。秋の日落ち谷|蒼々《そうそう》と暮るゝ夕《ゆうべ》、玉の様な川水を沸《わか》した湯に頸《くび》まで浸《ひた》って、直ぐ傍《そば》を流るる川音を聴いて居ると、陶然《とうぜん》として即身成仏《そくしんじょうぶつ》の妙境《みょうきょう》に入《い》って了う。
 夜|上利別《かみとしべつ》のマッチ製軸所《せいじくしょ》支配人|久禰田《くねだ》孫兵衛《まごべえ》君に面会。もと小学教師をした淡路《あわじ》の人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終《しじゅう》関翁の話を聞きに来るそうだ。
 九月三十日。晴。雪のような朝霜。
 最早斗満を去らねばならぬ日となった。
 早朝関翁以下|駅逓《えきてい》の人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷を罩《こ》むる碧《あお》い朝霧《あさぎり》の中に、関翁は此方に向い、杖《つえ》の頭《かしら》に両手を組《く》んで其上に額《ひたい》を押付《おしつ》けて居られた。
 ※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-311-12]別で余作君に別れ、足寄駅《あしょろえき》で五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅《たかしまえき》で又一君に別れ、池田駅で旭川行《あさひかわゆき》の汽車に乗換え、帯広《おびひろ》で貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮《ゆうぐれ》に十勝《とかち》国境《こっきょう》の白茅《はくぼう》の山を石狩《いしかり》の方へと上《のぼ》った。此処の眺望《ながめ》は全国の線路に殆《ほと》んど無比である。越し方《かた》を顧《かえり》みれば、眼下《がんか》に展開する十勝の大平野《だいへいや》は、蒼茫《そうぼう》として唯|雲《くも》の如くまた海の如く、却《かえっ》て北東の方を望めば、黛色《たいしょく》の連山《れんざん》波濤《はとう》の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁《しょうへき》の如く取囲《とりかこ》む山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓に凭《よ》って久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯《いっぽう》特立《とくりつ》頗《すこぶる》異彩《いさい》ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川《とまむがわ》の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢《ろうれい》已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西《モーゼ》の如く、遙《はるか》に迦南《カナン》を望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者の体《からだ》を仮《か》って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓《ひら》くであろう。汽車はます/\国境の山を上る。尾花に残る日影《ひかげ》は消え、蒼々《そうそう》と暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余は猶《なお》窓に凭って眺める。突然白いものが目の前に閃《ひら》めく。はっと思って見れば、老木《ろうぼく》の梢《こずえ》である。年久しく風霜《ふうそう》と闘うて皮《かわ》は大部分|剥《は》げ、葉も落ちて、老骨《ろうこつ》稜々《りょうりょう》たる大蝦夷松《おおえぞまつ》が唯一つ峰に突立《つった》って居るのであった。
 余の胸は一ぱいになった。
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君に別れ十勝の国の国境《くにざかひ》
    今|越《こ》ゆるとてふりかへり見し
かへり見《み》れば十勝は雲になりにけり
    心に響く斗満《とま》の川音《かはおと》
雲か山か夕霧《ゆふぎり》遠く隔《へだ》てにし
    翁《おきな》が上《うへ》を神《かみ》護《まも》りませ
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 斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩《いしかり》の鹿越駅《しかごええき》で関翁|宛《あて》に投函《とうかん》した。」

       三

 武蔵野の彼等が斗満を訪《と》うた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度|粕谷《かすや》の茅廬《ぼうろ》に遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人《あるじ》は甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るから構《かま》わず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用を達《た》して戻《もど》りかけると、馬車はすれ違《ちが》いに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽《なかおれぼう》をかぶって、例《れい》の癖《くせ》で下顋《したあご》を少し突出し、濡《ぬ》れ手拭を入れた護謨《ごむ》の袋《ふくろ》をぶら提《さ》げながら、例の足駄《あしだ》でぽッくり/\刻足《きざみあし》に翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼|無地《むじ》の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉《ふ》る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意《こんい》の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
 翁は斗満に帰ってから、実桜《チェリー》の苗《なえ》二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済《す》んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其|翌日《よくじつ》も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
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去年《こぞ》の今日《けふ》も斯《か》くは降《ふ》りきと秋《あき》の雨
    眺めて独君をしぞおもふ
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 程なく翁から其|雑著《ざっちょ》出版《しゅっぱん》の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁《かり》がまた武蔵野の空に来《き》鳴《な》く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期《かくご》をした様であったが、年と共に玉《たま》の緒《お》新《あらた》に元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水《かんすい》をはじめ、例の細字《さいじ》の手紙、著書の巻首《かんしゅ》に入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布《はいふ》す可き二百幾名の住所姓名を一々|明細《めいさい》に書いて来た。翁にとりては此が形見《かたみ》のつもりであったのである。
「命《いのち》の洗濯《せんたく》」「命《いのち》の鍛錬《たんれん》」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満《とまむ》漫吟《まんぎん》」をまとめて一|冊《さつ》とした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京|警醒社書店《けいせいしゃしょてん》から発行された。翁は其出版を見て聊《いささか》喜《よろこび》の言を漏《も》らしたが、五月初旬には愈《いよいよ》死を決したと見えて、逗子《ずし》なる老父の許《もと》と粕谷《かすや》の其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十の祝《いわい》に出来た関牧場の画模様《えもよう》の服紗《ふくさ》と、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々|歌《うた》及《および》俳句《はいく》を自署《じしょ》したものであった。両家族の者残らずに宛《あ》てゝ、各別《かくべつ》に名前を書いてあった。「人並《ひとなみ》の道は通《とお》らぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊《たんざく》には、
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辞世 一 諸《もろ》ともに契《ちぎ》りし事は半《なかば》にて
         斗満《とまむ》の露と消えしこの身は[#地から10字上げ]八十三老白里
辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
         永く祈らん斗満《とま》の賑《にぎはひ》[#地から10字上げ]八十三老白里
死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
         落れば土と飛んでそらまで[#地から10字上げ]八十三老白里
死後希望 死出《しで》の山越えて後にぞ楽まん
         富士の高根《たかね》を目の下に見て[#地から10字上げ]八十三老白里
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と書いてあった。

           *

 七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末《しょまつ》に左の三首の歌があった。
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  寄川恋
我恋は斗満《とまむ》の川の水の音
    夜ひるともにやむひまぞなき
  病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三《やそみ》とせ
    尽きざる罪になほ悩《なや》みつゝ
  死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
    十勝石狩両たけのかひ
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翁の絶筆《ぜっぴつ》であった。

       四

 翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流《にのみやりゅう》に与えんと欲し、子は米国風《べいこくふう》に富まんことを欲した。其《その》為《ため》関家の諍《あらそい》は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起《ひきおこ》した。翁は其為に心身の精力を消磨《しょうま》した。然し翁は自《みずか》ら信ずること篤《あつ》く、子を愛すること深く、神明《しんめい》に祈り、死を決して其子を度《ど》す可く努めた。
 最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満《とまむ》を訪《おとず》れた其二周年が来た。雁《かり》は二たび武蔵野の空に来《き》鳴《な》いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御《ほうぎょ》、乃木翁《のぎおう》の自刃《じじん》、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁《びょうおう》に如何に響《ひび》いたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移《おしうつ》って居る内に、突然翁の訃報《ふほう》が来た。
 翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終《りんじゅう》には、形《かたち》に於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而して何《いず》れにもない苦しみがあった。然し今は詳《つまびらか》に説く可き場合でない。
 翁の歌に、
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遠く見て雲か山かと思ひしに
    帰ればおのが住居《すまひ》なりけり
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 遮莫《さもあらばあれ》永い年月《としつき》の行路難《こうろだん》、遮莫《さもあらばあれ》末期《まつご》十字架の苦《くるしみ》、翁は一切《いっさい》を終えて故郷《ふるさと》に帰ったのである。
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     次郎桜

 朝、珍らしく角田《つのだ》の新五郎さんが来た。何事か知らぬが、もうこゝでと云うのを無理やりに座敷《ざしき》に請《しょう》じた。新五郎さんは耶蘇《やそ》信者《しんじゃ》で、まことに善良な人であるが、至って口の重い人で、疎遠《そえん》の挨拶《あいさつ》にややしばし時間を移《うつ》した。それから新五郎さんは重い口を開いて、
「実は――隣《となり》の勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さん処《とこ》の次郎さんが亡くなられまして――」
「エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか」
 青山《あおやま》学院《がくいん》で最早《もう》試験前の忙《せわ》しくして居るであろうと思った次郎少年が死んだとは、嘘《うそ》の様な話だ。
 新五郎さんは、持て来た医師の診断書を見せた。急性肺炎とある。急報に接して飛んで往った次郎さんの阿爺《おとっさん》も、間《ま》に合わなかったそうである。夜にかけて釣台《つりだい》にのせて連れて来て、組合中《くみあいじゅう》の都合《つごう》で今日《きょう》葬式《そうしき》をすると云うのである。
 新五郎さんは直ぐ帰り、夫婦も直ぐあとから出かけた。
 次郎さんは、千歳村《ちとせむら》で唯五軒の耶蘇信者の其一軒に生れて、名の如く次男であった。粕谷《かすや》の夫妻が千歳村に移住《いじゅう》した其春、好成績《こうせいせき》で小学校を卒業し、阿爺は師範《しはん》学校《がっこう》にでも入れようかと云って居たのを、勧《すす》めて青山学院に入れた。学資不足なので、彼は牛乳を配達《はいだつ》したり、学校食堂の給仕をしたりして勉強して居た。斯《こ》うして約一年過ぎ、最初の学年試験も今日|明日《あす》と云う際《きわ》になって、突然病死したのである。彼は父の愛子であった。
 連日《れんじつ》の雪や雨にさながら沼《ぬま》になった悪路に足駄《あしだ》を踏み込み/\、彼等夫妻は鉛《なまり》の様に重い心で次郎さんの家に往った。
 禾場《うちば》には村の人達が寄って、板を削《けず》り寝棺《ねがん》を拵《こさ》えて居る。以前《もと》は耶蘇教信者と嫌われて、次郎さんのお祖父《じい》さんの葬式の時なぞは誰も来て手伝《てつど》うてくれる者もなかったそうだ。土間には大勢《おおぜい》女の人達が立ち働いて煮焚《にた》きをして居る。彼等夫妻は上《あが》って勘五郎さんに苦しい挨拶した。恵比須《えびす》さまの様な顔をしたかみさんも出て来た。勧めて無理な勉強をさして、此様《こん》な事になってしまって、まことに済《す》みません、と詫《わ》ぶる外に彼等は慰《なぐさ》めの言を知らなかった。
 奥座敷《おくざしき》に入ると、次郎さんは蒲団《ふとん》の上に寝て居る。昨日雨中を舁《か》いて来たまゝなので、蒲団が濡《ぬ》れて居る。筒袖《つつそで》の綿入《わたいれ》羽織《ばおり》を着て、次郎さんは寝入った様に死んで居る。額《ひたい》を撫《な》でると氷《こおり》の様に冷《つめ》たいが、地蔵眉の顔は如何にも柔和で清く、心の美しさも偲《しの》ばれる。次郎さんをはじめ此家の子女《むすこむすめ》は、皆|小柄《こがら》の色白で、可愛げな、而《そう》して品《ひん》の良《よ》い顔をして居る。阿爺《おとっさん》は、亡児《なきこ》の枕辺《まくらべ》に座《すわ》って、次郎さんの幼《おさ》な立《だち》の事から臨終前後の事何くれと細《こま》かに物語った。勘五郎さんはもと気負肌《きおいはだ》で、烈《はげ》しい人、不平の人であったが、子の次郎さんは非常に柔和な愛の塊《かたまり》の様な児《こ》であった。次郎さんの小さな時、縁《えん》の上から下に居る弟を飛び越し/\しては遊んで居ると、偶《たまたま》飛び損《そこ》ねて弟を倒し、自分も倒れてしたゝか鼻血《はなぢ》を出した。次郎さんは鼻血を滴《た》らしつゝ、弟の泣く方《かた》へ走せ寄って吾を忘《わす》れて介抱《かいほう》した。父は次郎さんを愛してよく背《せなか》に負《おぶ》ったが、次郎さんは成丈《なるたけ》父の背《せな》を弟に譲《ゆず》って自身は歩いた。次郎さんは到る処で可愛がられた。学課の出来も好かった。両三日前の大雪に、次郎さんは外套《がいとう》もなく濡《ぬ》れて牛乳を配達したので、感冒《かぜ》から肺炎《はいえん》となったのである。彼は気分の悪いを我慢《がまん》して、死ぬる前日迄働いた。死ぬる其朝も、ふら/\する足を踏みしめて、苦学仲間の某《なにがし》の室《へや》に往って、其日の牛乳の配達を頼んだりした。病気は早急《さっきゅう》であった。医師が手を尽した甲斐もなかった。次郎さんは終に死んだ。屍《しかばね》を踏み越えて進む乱軍《らんぐん》の世の中である。学校は丁度試験中で、彼の父が急報《きゅうほう》に接して駈《か》けつけた時、死骸《しがい》の側《そば》には誰も居なかった。次郎さんは十六であった。
 やがて納棺《のうかん》して、葬式が始まった。調子はずれの讃美歌《さんびか》があって、牧師《ぼくし》の祈祷《きとう》説教《せっきょう》があった。牧羊者《ひつじかい》が羊の群《むれ》を導《みちび》いて川を渡るに、先ず小羊《こひつじ》を抱《だ》いて渡ると親羊《おやひつじ》が跟《つ》いて渡ると云う例をひいて、次郎少年の死は神が其父母|生存者《せいぞんしゃ》を導《みちび》かん為の死である、と牧師は云うた。
 日が短《みじか》い頃で、葬式が家を出たのは日のくれ/″\であった。青山《あおやま》街道《かいどう》に出て、鼻欠《はなかけ》地蔵《じぞう》の道しるべから畑中を一丁ばかり入り込んで、薄暗《うすぐら》い墓地に入った。大きな松が枝を広げて居る下に、次郎さんの祖母《ばば》さんや伯母《おば》さんの墓がある。其の祖母さんの墓と向き合いに、次郎さんの棺は埋《う》められた。
「祖母さんと話《はなし》してる様だァね」
と墓掘《はかほり》の人が云う。
「祖母さんが可愛がって居たからナ」
と次郎さんの阿爺《おとっさん》が云う。
 自身《じしん》子が無くて他人《ひと》の子ばかり殺して居る夫妻は、荒《すさ》んだ心になって、黙って夜道を帰った。

           *

 一月《ひとつき》あまり過ぎた。
 梅から桜、八重桜と、園内《えんない》の春は次第に深くなった。ある朝庭を漫歩《そぞろある》きして居た彼は、
「吁《ああ》、咲《さ》いた、咲いた」
と叫んだ。其は庭の片隅《かたすみ》に、坊主《ぼうず》になる程|伐《き》られた若木《わかぎ》の塩竈桜《しおがまざくら》であった。昨年次郎さんが出京入学して程なく、次郎さんの阿爺が持って来てくれたのである。其時は満開であった。惜しい事をしたものだ、此花ざかりを移し植えて、無事につくであろうか、枯れはしまいか、と其時は危《あや》ぶんだ。果して枯枝《かれえだ》が大分出来たが、肝腎《かんじん》の命《いのち》は取りとめて、剪《き》り残されの枝にホンの十二三|輪《りん》だが、美しい花をつけたのである。彼はあらためてつく/″\と其花を眺めた。晩桜《おそざくら》と云っても、普賢《ふげん》の豊麗《ほうれい》でなく、墨染《すみぞめ》欝金《うこん》の奇を衒《てら》うでもなく、若々《わかわか》しく清々《すがすが》しい美しい一重《ひとえ》の桜である。次郎さんの魂《たましい》が花に咲いたら、取りも直さず此花が其れなのであろう。
 清い、単純な、温《あたた》かな其花を見つめて居ると、次郎さんのニコ/\した地蔵顔《じぞうがお》が花心《かしん》から彼を覗《のぞ》いた様であった。
[#地から3字上げ](明治四十一年)
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     きぬや

 明治四十三年十二月二十六日。
 書院前《しょいんまえ》の野梅《やばい》に三輪の花を見つけた。年内に梅花を見るは珍《めず》らしい。霜《しも》に葉を紫《むらさき》に染《そ》めなされた黄寒菊《きかんぎく》と共に、折って小さな銅瓶《どうへい》に插《さ》す。
 例年《れいねん》隣家《となり》を頼んだ餅《もち》を今年《ことし》は自家《うち》で舂《つ》くので、懇意《こんい》な車屋夫妻が臼《うす》、杵《きね》、蒸籠《せいろう》、釜《かま》まで荷車《にぐるま》に積んで来て、悉皆《すっかり》舂いてくれた。隣《となり》二軒に大威張《おおいばり》で牡丹餅《ぼたもち》をくばる。肥後流《ひごりゅう》の丸餅《まるもち》を造る。碁石《ごいし》程のおかさねは自分で拵《こさ》えて、鶴子《つるこ》女史《じょし》大得意である。
 逗子《ずし》の父母から歳暮《せいぼ》に相模《さがみ》の海の鯛《たい》を薄塩《うすじお》にして送って来た。
 同便《どうびん》で来た手紙はがきの中に、思いがけない報知が一つあった。二十二日にとめやのきぬやが面疔《めんちょう》で死んだ、と云う知《しら》せである。
 彼女は粕谷草堂夫妻の新生涯に絡《から》んで忘れ難い恩人の一人《ひとり》である。
 明治三十九年美的百姓が露西亜《ろしあ》から帰って、青山《あおやま》高樹町《たかぎちょう》に居《きょ》を定むると間《ま》もなく、ある日|銀杏返《いちょうがえ》しに白い薔薇《ばら》の花簪《はなかんざし》を插した頬《ほお》と瞼《まぶた》のぽうと紅《あか》らんだ二十前後の娘が、突然唯一人でやって来て、女中《じょちゅう》になると云う。名はとめと云って江州《ごうしゅう》彦根在《ひこねざい》の者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中、逗子で懇意になった老人夫婦の家の女中から高樹町の家の事を聞き込み、自《みずか》ら推薦《すいせん》して案内もなく女中に来たのであった。使《つか》って見ると、少し愚《おろ》かしい点《とこ》もあるが、如何にも親切な女で、毎《いつ》も莞爾々々《にこにこ》して居る。一度泥棒が入って後、彼女は離れて独女中部屋に寝るを恐れたが、部屋に戸締《とじま》りをつけてやると、安心して寝た。その兄はシャツ、ズボン下《した》など莫大小物《めりやすもの》の卸売《おろしうり》をして居るので、彼女も少しミシンを稽古《けいこ》して置きたいと云う。承知したら、彼女は喜んで日々|弁当持参《べんとうじさん》で高樹町から有楽町《ゆうらくちょう》のミシン教場《きょうじょう》へ通ったが、教場があまり騒々《そうぞう》しくて頭がのぼせるし、加上《そのうえ》ミシン台《だい》の数が少ないので、生徒間に競争が劇《はげ》しく、ズウズウしい女達《おんなたち》が順番《じゅんばん》になった彼女を押のけてミシンを占領したりするので、彼様《あん》な処へは最早《もう》行くのは嫌《いや》でござりますと云って、到頭《とうとう》女中専門になった。
 彼女が奉仕《ほうし》の天使の如く突然高樹町の家《うち》に現《あら》われてから六月目《むつきめ》に、主人夫婦は東京を引払うて田舎に移った。如何に貧乏な書生生活でも、東京で二十円の借家から六畳|二室《ふたま》の田舎《いなか》のあばら家への引越しは、人目《ひとめ》には可なりの零落《れいらく》であった。奉公人にはよい見切時《みきりどき》である。然しとめやは馴染《なじみ》もまだそれ程深くない主人夫婦を見捨てなかった。彼女は東京に居らねばならぬ身体《からだ》であったが、当分御手伝をすると云うて、風呂敷に包んだランプをかゝえて彼等に跟《つ》いて来た。
 東京から引越《ひっこし》当座《とうざ》の彼等が態《ざま》は、笑止《しょうし》なものであった。昨今の知り合いの石山さんを除《のぞ》く外|知人《しりびと》とては素《もと》よりなく、何が何処にあるやら、何《ど》れを如何《どう》するものやら、何角《なにか》の様子は一切|分《わ》からず。狭《せま》いと汚穢《きたなさ》とは我慢するとしても、一《ひと》つ家《や》の寒さは猛烈《もうれつ》に彼等に肉迫《にくはく》した。二百万の人いきれで寄り合うて住む東京人は、人烟《じんえん》稀薄《きはく》な武蔵野の露骨《ろこつ》な寒さを想い見ることが出来ぬ。二月の末、三月の始、雲雀《ひばり》は鳴いて居たが、初めて田舎のあばら家《や》住居《ずまい》をする彼等は、大穴のあいた荒壁《あらかべ》、吹通しの床下《ゆかした》、建具《たてぐ》は不足し、ある建具は破《やぶ》れた此の野中の一つ家と云った様な小さな草葺《くさぶき》を目がけて日暮れ方《がた》から鉄桶《てっとう》の如く包囲《ほうい》しつゝずうと押寄《おしよ》せて来る武蔵野の寒《さむさ》を骨身《ほねみ》にしみて味《あじ》わった。風吹き通す台所《だいどこ》に切ってある小さな炉《ろ》に、木片《こっぱ》枯枝《かれえだ》何くれと燃《も》される限りをくべてあたっても、顔は火攻《ひぜめ》、背《せな》は氷攻《こおりぜ》めであった。とめやが独で甲斐々々しく駈《か》け廻った。煮焚《にたき》勿論《もちろん》、水ももろうてあるき、五丁もはなれた足場の悪い品川堀《しながわぼり》まで盥《たらい》をかゝえて洗濯に往っては腰を痛くし、それでも帰途《かえり》には蕗《ふき》の薹《とう》なぞ見つけて、摘《つ》んで来ることを忘れなかった。襷《たすき》がけのまゝ人に聞き/\近在《きんざい》を買物《かいもの》に駈け歩いて、今日《きょう》は斯様《こん》な処を歩きました、妙《みょう》な処に店《みせ》は出してない呉服屋《ごふくや》がありましたと一々報告した。彼女は忽ち近隣《きんりん》の人々と懇意《こんい》になった。墓地向うの家《うち》の久さんの子女《こども》が久さんを馬鹿にするのを見かねて、余《あんま》りでございますねと訴《うった》えた。唖の子の巳代吉《みよきち》とは殊《こと》に懇意になって、手真似《てまね》で始終《しじゅう》話して居た。唖との交渉はとめやに限ると主人夫婦は云うた。馬鈴薯《じゃがいも》を買《こ》うて来ることを巳代公《みよこう》に頼むと云って、とめやが鍬《くわ》で地を掘《ほ》る真似をして、指《ゆび》で円《まる》いものを拵《こさ》えて見せて、口にあてゝ食うさまをして、東を指し北を指し、巳代公が頷《うなず》いたと云って納《おさ》まって居ると、巳代公は一時間|経《た》っても二時間経ってもやって来ぬので、往って見ると自分の事をして居たので、始めてとめやの早合点《はやがてん》、巳代公が分《わ》からずに居た事が分かって、一同大笑いしたことがある。兎に角彼女の無我にして骨身《ほねみ》を惜まぬ快活の奉仕は、主人夫婦の急激な境遇変化に伴う寂寥《せきりょう》と不安とを如何ばかり慰めたか知れぬ。移転《いてん》の騒《さわ》ぎも一型《ひとかた》ついて、日々の生活もほゞ軌道に入ったので、彼女は泣く/\東京に帰った。妻も後影《うしろかげ》を見送って泣いた。
 三月の末東京に帰って、五月中また苺《いちご》など持って訪《たず》ねて来た。翌年丁度引越しの一周年に、彼女はまた手土産《てみやげ》を持って訪ねてくれた。去年帰西して、昨日《きのう》江州《ごうしゅう》から上京したばかりだと云った。四日程|逗留《とうりゅう》して、台所《だいどこ》をしたり、裁縫《しごと》を手伝《てつだ》ったり、折から不元気で居た妻を一方ならず助けて往った。其翌年の春、彼女は同郷《どうきょう》の者で姓も同じく商売も兄のと似寄《によ》った男に縁づいたことを知らして来た。秋十月の末、ある日|丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った血色《けっしょく》の好い若いおかみさんが尋ねて来た。とめやであった。名も絹《きぬ》とあらためて、立派なおかみさんになって居た。夫妻|共稼《ともかせ》ぎで中々|忙《せわ》しいと云った。其れから東京では正直な人を得難いことをかこって、誰か好い子僧《こぞう》はあるまいかなぞ折から居合わした懇意の大工に聞いて居た。彼女の話の中に一つ面白い事があった。ある時|両国橋《りょうごくばし》の上で彼女は四十あまりの如何にも汚ない風をした立《たち》ン坊《ぼう》に会うた。つく/″\其顔を見て居た彼女は、立ン坊に向い、好い仕事があるかと聞いた。立ン坊は無いと答えた。橋の上に立って居るよりわたしの家に来て商売の手伝《てつだい》をしないかと云うた。立ン坊も彼女の顔を見て居たが、手伝しましょうと云うた。とめやのきぬやは早速立ン坊を連れて良人《おっと》に引合わせ、翌日から車を挽《ひ》かせて行商《こうしょう》に出したが、立ン坊君正直に働いて双方喜んで居る云々。此話は非常に旧主人夫婦を悦ばした。あの温順《おとな》しい女にも、中々|濶達《かったつ》な所がある、所謂近江商人の血が流れて居る、とあとで彼等は語り合った。
 彼女は其時已に六月《むつき》の身重《みおも》であった。今年の春男子を挙げたと云うたよりがあった。今日の其《その》訃《ふ》は実に突然である。
 彼女の臨終は如何であったろうか。当歳の子と夫を残して逝《ゆ》く彼女は嘸《さぞ》残念であったであろう。然し彼女自身は朝《あした》に生《うま》れて夕《ゆうべ》に死すとも憾《うら》みは無い善良の生涯を送って居たので、生の目的は果した。彼女の実家は仏教の篤信者《とくしんじゃ》で、彼女の伯母《おば》なぞは南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》を唱《とな》えつゝ安らかな大往生《だいおうじょう》を遂《と》げた。彼女にも其血が流れて居る。
 謙遜な奉仕の天使、彼等が我等と共に在るの日、高慢な我等は微笑を以て其|弱点《じゃくてん》を見つゝ十分に尊敬を払《はら》わず、当然の事の如く座《い》ながらにして其|心尽《こころづく》しの奉仕を受け易《やす》い。彼等が去るの日に於て、我等は今更の如く其人と其働の意味を知り得て、あらためて感謝と慚愧《ざんき》を感ずるのである。
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     命がけ

 昨夜は烈《はげ》しく犬が騒《さわ》いだ。
 今朝《けさ》起きて見ると、裏庭《うらにわ》の梧桐《あおぎり》の下に犬が一|疋《ぴき》横になって居る。寝たのかと思うと、死んで居るのであった。以前《もと》時々内のピンに通って来た狐《きつね》見た様な小柄《こがら》の犬だ。デカが噛《か》み殺したと見える。
 裏のはなれに泊って居るA君の話によれば、昨夜ピンを張りに来た此犬を、デカがはなれの縁の下に追い込んで、足を啣《くわ》えて引きずり出し、而《そう》して睾丸《こうがん》を啣えて体をドシ/\と大地に投げつけた。A君が余程引きはなそうと骨折ったが、デカが如何しても放さなかったと云う事である。
 此辺には牝犬《めいぬ》が少ないので、春秋の交尾期《こうびき》になると、猫程しかないピンを目がけて、来《く》るわ/\、白君、斑君《ぶちくん》、黒君、虎君、ポインタァ君、スパニール君、美君、醜君……婿《むこ》八人どころの騒ぎではない。デカも昨春までは、其一人であったが、抜群の強猛《きょうもう》故に競走者を追払《おっぱら》って、押入婿《おしいりむこ》になり済《す》ましたのである。今は正規の夫婿顔《ふせいがお》して、凡そ眼の届《とど》かん限り、耳の聞かん限り、一切の雄犬《おいぬ》を屋敷の内へは入れぬ。其目一たび雄犬の影を見ようものなら、血相変えて追払う。宛ながら足の四本に止まるを憾《うら》むが如く、一口《ひとくち》に他の犬を喰《く》うてしまうことが出来ぬを悲しむ如く、醜《しこ》の壮夫《ますらお》デカ君が悲鳴をあげつゝ追駈《おっか》ける。其時はピンもさながらデカに義理を立てるかの如く、横合《よこあい》からワン/\吠《ほ》えて走って行く。
 最初飼った「白《しろ》」は弱虫だったので、交尾期には他の強い犬に噛まれて、毎《つね》に血だらけになった。デカは強いので、滅多に敗《ひけ》は取らぬ。然し其悲鳴して他の雄犬を追かける声は、世にも情無《なさけな》げな、苦痛其ものゝ声である。弱い者素より苦み、強い者がまた苦む。生物《せいぶつ》は皆苦む。思うに惨《いた》ましく、見るに浅ましい。然し此れが自然の約束である。即ち命を捨てゝも命は自己を伝えずには措《お》かぬ。
 都々逸《どどいつ》氏《し》歌うて曰く、
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色のいの字と命《いのち》のいの字
    そこで色事《いろごと》命がけ
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 生殖は命がけ。嫉妬は必死。遊戯で無い。
 命がけで入り込んで、生殖の為に一命を果した彼|無名犬《ななしいぬ》の死骸を、欅《けやき》の根もとに葬《ほうむ》った。向うの方には、二本投げ出した前足《まえあし》に頭《あたま》をのせて、頬杖《ほおづえ》つくと云う見得《みえ》でデカがけろりとして眺めて居た。

           *

 二時間の後、用達《ようたし》に上高井戸に出かけた。八幡《はちまん》の阪で、誰やら脹脛《ふくらはぎ》を後から窃《そ》と押す者がある。ふっと見ると、烏山《からすやま》の天狗犬《てんぐいぬ》が、前足を挙《あ》げて彼の脛《はぎ》を窃と撫《な》でて彼の注意を牽《ひ》いたのである。此犬はあまり大きくもないが、金壺眼《かなつぼまなこ》の意地悪い悪相《あくそう》をした犬で、滅多《めった》に恐怖と云うものを知らぬ鶴子すら初めて見た時は魘《おび》えて泣いた。「白《しろ》」が居た頃、此犬は毎《つね》に善良な「白」を窘《いじ》め、「白」を誘惑して共に隣家《となり》の猫を噛《か》み殺し、到頭《とうとう》「白」を遠方《えんぽう》にやるべく余儀なくした、云わば白の敵《かたき》である。白の主人の彼は此犬を憎《にく》んで、打殺そうとしば/\思った。デカが来《こ》ぬ間《うち》は、此犬もピンに通うて来た犬の一つであった。其犬すら雌犬《めいぬ》のピン故に、ピンの主人の彼に斯く媚《こ》びるのである。甚あわれになった。天狗犬は訴うる様な眼付《めつき》をしてしば/\彼を見上げ、上高井戸に往《い》って復《かえ》るまで、始終彼にくっついて歩《ある》いた。
 帰って家近くなると、天狗犬はデカを恐れて、最早《もう》跟《つ》いて来なかった。ピンの主人を見送って、悄然《しょうぜん》と櫟《くぬぎ》の下の径《こみち》に立て居った。

           *

 先日|行衛《ゆくえ》不明で、若《もし》来たら留めて置いてくれと照会があった角谷《すみや》の消息《しょうそく》が分かった。彼は十八日の夜、大森停車場附近で鉄道自殺を遂げたのである。
 彼《あの》オトナしい角谷、今年《ことし》十九の彼|律義《りちぎ》な若者が――然し此驚きは、我|迂濶《うかつ》と浅薄《せんぱく》を証拠《しょうこ》立《だ》てるに過ぎぬ。
 角谷は十三四の年地方から出京して、其主人は親類筋《しんるいすじ》に当る某書店に奉公した。美的百姓が「寄生木《やどりぎ》」を出す時、角谷は其《その》校正《こうせい》を持って銀座と粕谷の間を自転車で数十回往復した。著者が校正を見る間に、彼は四歳の女児《じょじ》の遊び相手になったり、根が農家の出身だけに、時には鍬取《くわと》りもしてくれた。ルビ振りを手伝えと云うたら、頭を掻《か》いて尻ごみした。眉の濃い、眼の可愛い、倔強《くっきょう》な田舎者らしい骨格をしながら色の少し蒼《あお》い、真面目《まじめ》な様で頓興《とんきょう》な此十七の青年と、著者の家族は大分懇意になった。角谷は自分の巾着から女児に鼠《ねずみ》の画本《えほん》など買って来た。一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺《しるべ》の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士《ふじ》山頂《さんちょう》から画はがきをよこしたりした。
 来たら留めて置いてくれとのはがきに接した時、いさゝか不審に思いは思いながら、まさか彼が生《せい》を見捨《みす》てようとは思わなかった。
 角谷は十二日から三日間、例によって夏休をもろうた。十一日に貯金の全部百二十円を銀行から引出し、同店員で従兄《いとこ》に当る若者|宛《あて》の遺書《いしょ》を認《したた》め、己がデスクの抽斗《ひきだし》に入れた。其の遺書には、自分は十九歳を一期《いちご》として父の許《もと》へ行く――父は前年郷里で死んだ――主人には申訳《もうしわけ》が無いから君から宜しく云うてくれ、荷物は北海道に居る母の許に送ってくれ、運賃として金五円|封入《ふうにゅう》して置く、不足したら店員某に七十二銭の貸しがあるから、其れで払ってくれ、と書いてあった。
 十二日には、主人の出社を待って、暇乞《いとまごい》して店を出で、麻布の伯父の家を訪《と》うて二階に上り、一時間半程|眠《ねむ》った。それから日比谷《ひびや》で写真を撮《と》って、主人、伯父、郷里の兄、北海道の母に届《とど》く可く郵税《ゆうぜい》一切《いっさい》払《はら》って置いた。日比谷から角谷は浅草《あさくさ》に往った。浅草公園の銘酒屋《めいしゅや》に遊んで、田舎出の酌婦《しゃくふ》に貯蓄債券《ちょちくさいけん》をやろうかなどゝ戯談《じょうだん》を云った。彼は製本屋《せいほんや》の職工から浅草、吉原の消息を聞いて居たのである。
 角谷の踪跡《そうせき》は此処《ここ》ではたと絶えた。其れから一週間彼は何処《どこ》を如何《どう》迷うて歩いたか、一切分からぬ。
 十八日の夜八時過ぎ、神戸発新橋行の急行列車が、角谷の主人の居に近い大森で一人の男子を轢《ひ》いた。足は切れ、顔もメチャ/\になって居たが、濃い眉で角谷と分かった。店を出る時白がすりを着て出たが、死骸は紺飛白《こんがすり》を着て居た。百二十円の貯金全部を引出した角谷の蟇口《がまぐち》には、唯一銭五厘しか残って居なかった。死骸は護謨《ごむ》草履《ぞうり》を穿《は》いて居た。護謨草履が欲しい/\と角谷は云って居たのであった。
 彼は久しく死ぬ/\と云って居た。死ぬ/\と云って死ぬ者はないものだ、貯金なぞ精出して死ぬ者があるか、と他の店員が笑うと、死ぬ前には奇麗に使って仕舞《しま》うと角谷は戯談の様に云って居た。角谷は手が器用《きよう》で、書籍の箱造り荷拵《にごしら》えなどがうまかった。職人になればよかった、と自身もしばしばこぼして居た。
 角谷は十九であった。店《みせ》は耶蘇教主義であるが、角谷は夜毎の家庭《かてい》祈祷会《きとうかい》などに出るのを厭《いや》がって居た。彼の本箱には、梅暦《うめごよみ》や日本訳のマウパッサン短篇集《たんぺんしゅう》が入って居た。
 謎《なぞ》は自《おの》ずから解ける。
 ヱデキンドが「春の目ざめ」のモリッツを想わずに居られぬ。

           *

 夜、外の闇から火光《あかり》を眼がけて猛烈にカナブンが飛んで来る。ばたンばたンと障子《しょうじ》にぶつかる音が、礫《つぶて》の様だ。掴《つか》んでは入れ、掴んでは入れして、サイダァの空瓶《あきびん》が忽一ぱいになった。
[#地から3字上げ](明治四十四年 八月二十二日)
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     暁斎画譜

 重田《しげた》さんが立寄《たちよ》った。重田さんは隣字《となりあざ》の人で、気が少し変なのである。躁暴狂《そうぼうきょう》でもなく、憂欝狂《ゆううつきょう》と云う訳でもなく、唯家業の農を抛擲《ほうてき》してぶらぶら歩いて居る。美的百姓が遊び人であるためか、時々音ずれる。
 今日《きょう》も立寄った。挨拶《あいさつ》が斯《こ》うだ。
「えゝ私は、晩寝郡《おそねごおり》、早起村《はやおきむら》、濡垂《ぬれたら》拭兵衛《ふくべえ》と申しますが、その、私の弟《おとうと》が発狂《はっきょう》致《いた》しまして……」
 くど/\二言《ふたこと》三言《みこと》云うかと思うと、「それじゃまた」とお辞儀《じぎ》をして往ってしまった。「弟が発狂した」が彼の口癖《くちぐせ》である。弟とは蓋《けだし》夫子《ふうし》自《みずから》道《い》うのであろう。
 重田さんの影が消《き》ゆると、安達君《あだちくん》の顔が歴々《ありあり》と主人《あるじ》の頭に現われた。
 安達君は医学士で、紀州《きしゅう》の人であった。
 紀州は蜜柑《みかん》と謀叛人《むほんにん》の本場《ほんば》である。紀州灘《きしゅうなだ》の荒濤《あらなみ》が鬼《おに》が城《じょう》の巉巌《ざんがん》にぶつかって微塵《みじん》に砕けて散る処、欝々《うつうつ》とした熊野《くまの》の山が胸に一物《いちもつ》を蔵《かく》して黙《もく》して居る処、秦始皇《しんのしこう》に体《てい》のよい謀叛した徐福《じょふく》が移住《いじゅう》して来た処、謀叛僧|文覚《もんがく》が荒行《あらぎょう》をやった那智《なち》の大瀑《おおだき》が永久《えいきゅう》に漲《みなぎ》り落つ処、雄才《ゆうさい》覇気《はき》まかり違えば宗家《そうか》の天下を一《ひと》もぎにしかねまじい南竜公《なんりゅうこう》紀州《きしゅう》頼宣《よりのぶ》が虫を抑えて居た処、此国には昔から一種|熬々《いらいら》した不穏《ふおん》の気が漂《ただよ》うて居る。明治になっても、陸奥《むつ》宗光《むねみつ》を出し、大逆《だいぎゃく》事件《じけん》にも此処から犠牲《ぎせい》の一人《ひとり》を出した。安達君は此不穏の気の漂う国に生れたのである。
 余が始めて君を識った時、君はまだ医科大学に居た。小説「黒潮《こくちょう》」の巻頭辞《かんとうじ》を見て、苟《いやし》くも兄たる者に対して、甚|無礼《ぶれい》と詰問《きつもん》の手紙をよこした。君自身兄であった。間もなく相見た時は、君もやゝ心解けて居たが、茶色の眼鋭く眉《まゆ》嶮《けわ》しく、熬々《いらいら》した其顔は、一見不安の念を余に起《おこ》さした。君は医学を専門にして居たが、文芸を好み高山《たかやま》樗牛《ちょぎゅう》の崇拝者で、兄弟打連れて駿州《すんしゅう》竜華寺《りゅうげじ》に樗牛の墓を弔うたりした。君の親戚が当時余の僑居《きょうきょ》と同じく原宿《はらじゅく》にあったので、君はよく親戚に来るついでに遊びに来た。親戚の家の飼犬《かいいぬ》に噛まれて、用心の為数週間芝の血清《けっせい》注射《ちゅうしゃ》に通うたなぞ云って居た。君はまた余に惺々《しょうじょう》暁斎《ぎょうさい》の画譜《がふ》二巻を呉れた。惺々暁斎は平素|猫《ねこ》の様につゝましい風をしながら、一旦酒をあおると欝憤《うっぷん》ばらしに狂態《きょうたい》百出当る可からざるものがあった。画帖《がちょう》の画も、狸が亀を押しころがしてジッと前足で押さえて居たり、蛇が羽《はば》たく雀をわんぐりと啣《くわ》えて居たり、大きな猫が寝そべりながら凄《すご》い眼をしてまだ眼の明かぬ子鼠の群を睨《にら》んで居たり、要するに熬々した頭の状態が紙の一枚毎にまざ/\と出て居た。安達君の贈物だけに、一種の興味を感じた。
 君は其年医学士になって郷里紀州に帰り、妻を迎え子をもうけ、開業医の生活をして居た。
 余が千歳村に引越した其夏、遊びに来た一学生をちと没義道《もぎどう》に追払ったら、学生は立腹して一《ひと》はがき五拾銭の通信料をもらわるゝ万朝報《よろずちょうほう》の文界《ぶんかい》短信《たんしん》欄《らん》に福富《ふくとみ》源次郎《げんじろう》は発狂したと投書した。自分は可なり正気の積りで居たが、新聞なるものゝ平気に譌《うそ》をつく事をまだよく知らぬ人達の間には大分|影響《えいきょう》したと見え、見舞やら問合せの手紙はがきなどいくらか来て、余は自身で自身の正気を保証《ほしょう》す可く余儀なくされた。ある日、庭で覚束《おぼつか》ない手つきをして小麦を扱《こ》いて居ると、入口で車を下りて洋装の紳士が入って来た。余は眼を挙げて安達君を見た。安達君は彼万朝報の記事を見て、余を見舞にわざ/\東京から来てくれたのであった。君は余の不相変《あいかわらず》ぼんやりして麦扱《むぎこ》きをして居るのを見て、正気だと鑑定《かんてい》をつけたと見え、来て見て安心したと云った。而《そう》して此れから北海道の増毛《ましげ》病院長となって赴任する所だと云った。妻子は? ときいたら、はっきりした返事をしなかった。
 北海道から林檎《りんご》やら歌《うた》やら送って来た。病院長の生活は淋しいものらしかった。家庭の模様《もよう》を聞いてやっても、其れだけは何時《いつ》もお茶を濁して来た。余は
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北の国|五百重《いほへ》につもる白雪も
    埋《うづ》みは果てじ胸の焔を
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 訳《わけ》の分からぬ歌など消息の端《はし》にかきつけた。
 間もなく君はまた郷里紀州に帰った。而して相変らず医を業としつゝ、其|熬々《いらいら》を漏《もら》す為に「浜《はま》ゆふ」なぞ云う文学雑誌を出したり、俳句に凝ったりして居た。曾て夏密柑を贈ってくれた。余は
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紀の国のたより来る日や風|薫《かを》る
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 斯様《こん》な悪句《あくく》を書いて酬《むく》うた。或時君の令弟が遊びに来た。聞けば、細君は別居して、家庭はあまり面白くもなさそうだが、遠隔《えんかく》の地突込んで聞きもならず、其まゝに打過ぎた。
 梅雨《ばいう》季《き》は誰しも発狂しそうな時節だ。安達君から、
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梅霖欝々、憂愁如水
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などはがきに書いて来た。
 翌年の春、突然他の紀州の人から安達君が発狂して自殺したと知らして来た。驚いて令弟《れいてい》宛《あて》に弔状《ちょうじょう》を出したら、其れと行き違いに先の人から、安達君は短刀で自殺しかけたが、負傷したまゝで人に止《と》められたと云って、紀州の新聞を一枚送って来た。其れには安達君の直話《じきわ》として、苟《いやしく》も書を読み理義《りぎ》を解する者が、此様な事を仕出来《しでか》して、と恥じて話して居た。
 余は慰問状を出した。其れが紀州に届いたと思う頃、令弟から安達君は到頭《とうとう》先度の傷の為に亡くなった、と知らして来た。
 安達君は余の発狂を見舞に来てくれたが、余は安達君の病原《びょうげん》に触《ふ》るゝことが出来なかった。
 記念の暁斎《ぎょうさい》画譜《がふ》は大切《だいじ》に蔵《しま》って居る。
[#改丁]
[#ここで上巻終わり]

   落穂の掻き寄せ

     デデン

 一月一日
 七時|起床《きしょう》。戸を開けば、霜如雪《しもゆきのごとし》。裏の井戸側《いどばた》に行って、素裸《すっぱだか》になり、釣瓶《つるべ》で三ばい頭から水を浴びる。不精者《ぶしょうもの》の癖《くせ》で、毎日の冷水浴をせぬかわり、一年分を元朝《がんちょう》に済《す》まそうと謂うのである。
 戸、窓《まど》の限りを明《あ》け、それから鶏小屋《とりごや》の開闢《かいびゃく》。
 畑《はたけ》に出て紅《あか》い実付《みつき》の野茨《のばら》一枝《ひとえだ》を剪《き》って廊下の釣花瓶《つりはないけ》に活《い》け、蕾付《つぼみつき》の白菜《はくさい》一株《ひとかぶ》を採《と》って、旅順《りょじゅん》の記念にもらった砲弾《ほうだん》信管《しんかん》のカラを内筒《ないとう》にした竹の花立《はなたて》に插《さ》し、食堂の六畳に飾《かざ》る。旧臘《きゅうろう》珍らしく暖《あたたか》だったので、霜よけもせぬ白菜に蕾がついたのである。
 十時過ぎ、右の食堂で家族打寄り、梅干茶《うめぼしちゃ》一|碗《わん》、枯露柿《ころがき》一|個《こ》。今日《きょう》此家《ここ》で正月を迎えた者は、主人夫妻、養女、旧臘から逗留中《とうりゅうちゅう》の秋田の小娘《こむすめ》、毎日仕事に来る片眼のかみさん。猫のトラ、犬のデカ、ピン、小犬のチョン、クマ、鶏が十五羽。
 十一時|雑煮《ぞうに》。東京仕入の種物《たねもの》沢山で、頗《すこぶる》うまい。長者気《ちょうじゃき》どりで三碗|代《か》える。尤も餅《もち》は唯三個。

           *

 朝は晴、やがて薄曇《うすぐも》って寒かったが、正午頃《しょうごころ》からまた日が出て暖《あたたか》になった。
 自家《うち》は正月元日でも、四囲《あたり》が十二月一日なので、一向正月らしい気もちがせぬ。年賀に往く所もなく、来る者も無い。
 デデンがぶらりと遊びに来た。デデンは唖の巳代吉《みよきち》が事である。唖で口が利けぬが、挨拶《あいさつ》をする場合には、デデンと云う声を出す。彼は姦淫《かんいん》の子である。戸籍面《こせきめん》の父は痴《おろか》で、母は莫連者《ばくれんもの》、実父は父の義弟《ぎてい》で実は此村の櫟林《くぬぎばやし》で拾《ひろ》われた捨子《すてご》である。捨てた父母は何者か知らぬが、巳代吉が唖ながら心霊《しんれい》手巧《しゅこう》職人風のイナセな容子を見れば、祖父母の何者かが想像されぬでもない。巳代吉は三歳《みっつ》までは口をきいた。ある日「おっかあ、お湯が呑みてえ」と呼んだきり唖となった。何ものが彼の舌を縛《しば》ったか。同じ胤《たね》と云う彼の弟も盲であるのを見れば、梅毒《ばいどく》の遺伝もあろう。父母の心の咎《とがめ》も与《あずか》って力あるかも知れぬ。兎に角彼は唖になった。
「イエス行く時、生来《うまれつき》なる瞽《めくら》を見しが、其弟子彼に問ふて曰ひけるは、ラビ、此人の瞽に生れしは誰の罪なるや、己に由るか、又二親に由るか。イエス答へけるは、此人の罪に非ず、亦其二親の罪にもあらず、彼に由て神の作為《わざ》の顕はれん為也。此事を言ひて地に唾《つば》きし、唾にて土を和《と》き、其泥を瞽者《めしひ》の目に塗《ぬ》り、彼に曰ひけるは、シロアム[#「シロアム」に二重傍線]の池に往きて洗《あら》へ。彼則ち往きて洗ひ、目見ることを得て帰れり。」
 耶蘇《やそ》程《ほど》の霊力《れいりょく》があるなら、巳代吉の唖は屹度《きっと》癒《なお》る。年来《ねんらい》眼の前に日々此巳代吉に現《あら》わるゝ謎《なぞ》を見ながら、哀《かな》しいかな不信《ふしん》軽薄《けいはく》の余には、其謎を解《と》き其舌の縛《しばり》を解く能力《ちから》が無い。彼がデデンと呼んで来れば、デデンと応ずるまでゝある。

           *

 淋《さび》しい元日であった。
 あまり淋しいので、夜《よる》隣家《となり》の人々を案内にやったら、皆|浪花節《なにわぶし》に出かけて留守だった。
[#地から3字上げ](明治四十四年)
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     芝生の上

 正月に入って、連日《れんじつ》美晴《びせい》。
 庭を歩くと、吹くともない風が冷やり/\顔を撫《な》でる。日はほか/\と暖かい。杉《すぎ》は鳶色《とびいろ》になり、松は微黄《びこう》を帯《お》び、裸《はだか》になった楓《かえで》の枝《えだ》には、四十雀《しじゅうから》が五六|羽《ぱ》、白頬《しろほ》の黒頭《くろあたま》を傾《かし》げて見たり、ヒョイ/\と枝から枝に飛んだりして居る。地蔵様《じぞうさま》の影が薄《うっ》すら地に落ちて居る。
 デカとピンとチョンが、白茶《しらちゃ》のフラシ天《てん》の敷物《しきもの》を敷きつめた様な枯れて乾《かわ》いた芝生《しばふ》に悠々《ゆうゆう》と寝《ね》そべり、満身に日を浴《あ》びながら、遊んで居る。過去は知らず、将来は知らず、現在の彼等は幸福《こうふく》である。幸福な彼等を眺《なが》めて楽《たのし》む主人《あるじ》も、不幸な者とは云われない。
 勝手の方で、飯《めし》をやる合図《あいず》の口笛《くちぶえ》が鳴ったので、犬の家族は刎《は》ね起きて先を争うて走って往った。主人はやおら下駄《げた》をぬいで、芝生の真中《まんなか》に大の字に仰臥《ぎょうが》した。而して一鳥|過《よ》ぎらず片雲《へんうん》駐《とど》まらぬ浅碧《あさみどり》の空《そら》を、何時までも何時までも眺めた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 一月十日)
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     小鳥

 芝生を焼く。
 水島生《みずしませい》が来た。社会主義《しゃかいしゅぎ》神髄《しんずい》を返えし、大英遊記《だいえいゆうき》を借りて往った。林の中で拾《ひろ》ったと云って、弾痕《だんこん》ある鶇《つぐみ》を一|羽《わ》持て来た。食う気になれぬので、楓の下に埋葬《まいそう》。
 銃猟《じゅうりょう》は面白いものであろう。小鳥はうまいものである。此村にはあまり銃猟に来る都人士もないので、小鳥は可なり多い。ある日庭を歩いて居ると、突然東の方から嵐《あらし》の様な羽音《はおと》を立てゝ、夥《おびただ》しい小鳥の群《むれ》が悲鳴《ひめい》をあげつゝ裏の雑木林《ぞうきばやし》に飛んで来た。と思うと、やがて銃声がした。小鳥はうまいものである。銃猟は面白いものであろう。然しあの遽《あわただ》しい羽音と、小さな心臓《しんぞう》も破裂《はれつ》せんばかり驚きおびえた悲鳴を聞いては……
 午後|鳥打《とりうち》帽子《ぼうし》をかぶった丁稚風《でっちふう》の少年が、やゝ久しく門口に立って居たが、思切ったと云う風で土間に入って来た。年は十六、弟子にして呉れと云う。縁《えん》の方へ廻れと云うたら、障子をあけてずンずン入って来たから、縁から突落して馬鹿と叱った。もと谷中村《やなかむら》の者で、父は今|深川《ふかがわ》で石工《いしく》、自身はボール箱造って、向う賄《まかない》で月《つき》六円とるそうだ。小説家なぞになるものでない、と云って聞かして、干柿《ほしがき》を三つくれて帰えす。
[#地から3字上げ](明治四十二年 一月十七日)
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     炬燵

 雪がまだ融《と》けぬ。
 夜、二畳の炬燵《こたつ》に入って、架上《かじょう》の一冊を抽《ぬ》いたら、「多情多恨《たじょうたこん》」であった。器械的《きかいてき》に頁《ページ》を翻《ひるがえ》して居ると、ついつり込まれて読み入った。ふっと眼を上げると、向うには鶴子が櫓《やぐら》に突伏《つっぷ》して好い気もちにスヤ/\寝て居る。炬燵の上には、猫が咽《のど》も鳴《な》らさず巴形《ともえなり》に眠って居る。九時近い時計がカチ/\鳴る。台所では細君が皿《さら》の音をさして居る。
 茫々《ぼうぼう》たる過去と、漠々《ばくばく》たる未来の間に、斯《この》一瞬《いっしゅん》の現今は楽しい実在《じつざい》であろう。
 またさら/\と雪になった。
 余は多情多恨を読みつゞける。何と云うても名筆である。柳之助《りゅうのすけ》が亡妻《ぼうさい》の墓に雨がしょぼ/\降って居たと葉山《はやま》に語る条《くだり》を読むと、青山《あおやま》墓地《ぼち》にある春日《かすが》燈籠《とうろう》の立った紅葉山人《こうようさんじん》の墓が、突《つ》と眼の前に現《あら》われた。忽ち其墓の前に名刺《めいし》を置いて落涙《らくるい》する一|青年《せいねん》士官《しかん》の姿《すがた》が現われる。それは寄生木《やどりぎ》の原著者《げんちょしゃ》である。あゝ其青年士官――彼自身|最早《もう》故山の墓になって居るのだ。
 皆さっさと過ぎて行く。
「御徐《おしずか》に!」
 斯く云いたい。
 何故《なぜ》人生は斯《こ》うさっさと過ぎて往って了《しま》うのであろう?
[#地から3字上げ](明治四十二年 一月二十二日)
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     蓄音器

 あまり淋《さび》しいので、昔は嫌いなものゝ一にして居た蓄音器《ちくおんき》を買った。無喇叺《むらっぱ》の小さなもので、肉声《にくせい》をよく明瞭《めいりょう》に伝える。呂昇《ろしょう》、大隈《おおすみ》、加賀《かが》、宝生《ほうじょう》、哥沢《うたざわ》、追分《おいわけ》、磯節《いそぶし》、雑多《ざった》なものが時々余等の耳に刹那《せつな》の妙音《みょうおん》を伝える。
 あたりが静《しずか》なので、戸をしめきっても、四方に余音《よいん》が伝《つた》わる。蓄音器があると云う事を皆知って了うた。そこで正月には村の若者四十余名を招待《しょうだい》して、蓄音器を興行《こうぎょう》した。次ぎには平生世話になる耶蘇教《やそきょう》信者《しんじゃ》の家族を招待した。次ぎには畑仕事で始終|厄介《やっかい》になる隣字《となりあざ》の若者等を案内した。今夜は村の婦人連を招《まね》いた。生憎《あいにく》前日来の雨で、到底|来者《きて》はあるまいと思うて居ると、それでも傘《かさ》をさして夕刻《ゆうこく》から十数人の来客《らいきゃく》。
 妻と鶴子と逗留中《とうりゅうちゅう》の娘とが席に出て取持つ。
 余は母屋《おもや》の炉《ろ》を擁《よう》して、書《ほん》を見ながら時々書院のさゞめきに耳傾ける。一曲終る毎に、入り乱れたほめ言葉が聞こえる。曲中ながら笑声が起る。二時間ばかりも過ぎた。茶菓が運ばれた。やがて誰やらクド/\言う様子であったが、音譜《おんぷ》の中には聞き覚えのない肉声が高々と響き出した。
 余は窃《そ》と廊下《ろうか》伝《づた》いに書院に往って、障子の外に停《たたず》んだ。蓄音器が歌うのではない。田圃向《たんぼむこ》うのお琴婆さんが歌うのである。
 田圃向うの浜田の源《げん》さんの母者《ははじゃ》は、余の字《あざ》で特色ある人物の一人である。彼女は神道《しんどう》大成教《たいせいきょう》の熱心な信者で、あまり大きくもない屋敷の隅には小さな祠《ほこら》が祭ってあって、今でも水垢離《みずごり》とって、天下泰平《てんかたいへい》、国土安穏《こくどあんのん》、五穀成就《ごこくじょうじゅ》、息災延命《そくさいえんめい》を朝々祈るのである。彼女は村の生れでなく、噂《うわさ》によればさる士《さむらい》の芸妓《げいしゃ》に生ませた女らしい。其信心は何時から始まったか知らぬが、其夫が激烈《げきれつ》な脚気《かっけ》にかゝって已に衝心《しょうしん》した時、彼女は身命《しんめい》を擲《なげう》って祈ったれば、神のお告に九年|余命《よめい》を授《さず》くるとあった。果然《はたして》夫の病気は畳《たたみ》の目一つずつ漸々快方に向って、九年の後死んだ。顔の蒼白い、頬骨《ほおぼね》の高い、眼の凄《すご》い、義太夫語りの様な錆声《さびごえ》をした婆さんである。「折目高《おりめだか》なる武家《ぶけ》挨拶《あいさつ》」と云う様な切口上で挨拶をするのが癖である。今日も朝方《あさがた》蓄音器招待の礼《れい》に、季節には珍らしい筍《たけのこ》二本持て来てくれた。
 琴婆さんは蓄音器の返礼《へんれい》にと云って、文句《もんく》は自作の寿《ことぶき》を唄うて居る。
「福富サンが、皆を集めて遊ばせて下さるゥ……(如何《どう》も声が出ないものですから、エヘン、エヘン――ウーイ、ウーイ、ウーイ)……御親切な福富さんの(ウーイ、ウーイ)ます/\御繁昌《ごはんじょう》で(ウーイ、ウーイ)表《おもて》の方から千両箱、右の方から宝船《たからぶね》(ウーイ、ウーイ)……
 障子の外に立聞く主人は、冷汗が流れた。彼は窃《そっ》とぬき足して母屋に帰った。唄《うた》はまだつゞいて、(ウーイ、ウーイ)が Refrain の様に響いて来る。
[#地から3字上げ](明治四十五年 二月六日)
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     春七日

       (一)雛節句

 三月三日。別に買った雛も無いから、細君が鶴子を相手に紙雛を折ったり、色紙《いろがみ》の鶴、香箱《こうばこ》、三方《さんぼう》、四方《しほう》を折ったり、あらん限りの可愛いものを集めて、雛壇《ひなだん》を飾《かざ》った。
 草餅《くさもち》が出来た。蓬《よもぎ》は昨日鶴子が夏やと田圃《たんぼ》に往って摘《つ》んだのである。東京の草餅は、染料《せんりょう》を使うから、色は美しいが、肝腎《かんじん》の香が薄《うす》い。
 今朝は非常の霜だった。午《ひる》の前後はまた無闇《むやみ》と暖《あたたか》で、急に梅が咲き、雪柳《ゆきやなぎ》が青く芽をふいた。山茱萸《さんしい》は黄色の花ざかり。赤い蕾《つぼみ》の沈丁花《ちんちょうげ》も一つ白い口を切《き》った。春蘭《しゅんらん》、水仙《すいせん》の蕾が出て来た。
 雲雀《ひばり》が頻《しきり》に鳴く。麦畑《むぎばた》に陽炎《かげろう》が立つ。
 唖の巳代吉が裸馬《はだかうま》に乗って来た。女子供がキャッ/\騒《さわ》ぎながら麦畑の向うを通る。若い者が大勢《おおぜい》大師様の参詣《さんけい》に出かける。
 春だ。
 恋猫《こいねこ》、恋犬《こいいぬ》、鶏《にわとり》は出しても/\巣《す》につき、雀《すずめ》は夫婦で無暗《むやみ》に人の家《うち》の家根《やね》に穴をつくり、木々は芽を吐き、花をさかす。犬のピンの腹《はら》ははりきれそうである。
 夜は松の心芽《しんめ》程《ほど》の小さな蝋燭《ろうそく》をともして、雛壇が美《うつく》しかった。

       (二)春雨

 三月六日。
 尽日《じんじつ》雨、山陽《さんよう》の所謂《いわゆる》「春雨《はるさめ》さびしく候」と云う日。
 書窓《しょそう》から眺めると、灰色《はいいろ》をした小雨《こさめ》が、噴霧器《ふんむき》で噴《ふ》く様に、弗《ふっ》――弗《ふっ》と北から中《なか》ッ原《ぱら》の杉の森を掠《かす》めて斜《はす》に幾《いく》しきりもしぶいて通る。
 つく/″\見て居る内に、英国の発狂《はっきょう》詩人《しじん》ワットソン[#「ワットソン」に傍線]の God comes down in the rain 神は雨にて降《くだ》り玉う、と云う句を不図《ふと》憶《おも》い出した。其れは「田舎《いなか》の信心《しんじん》」と云う短詩の一句である。全詩《ぜんし》は忘れたが、右の句と、「此処《ここ》田舎の村にては、神を信頼《しんらい》の一念今も尚存し」と云う句と、結句の「此れぞ田舎の信心なる、此れに越すものあらめやも」と云う句を覚えて居る。
 農村《のうそん》に天道様《てんとうさま》の信心が無くなったら、農村の破滅《はめつ》である。然るに此信心は日に/\消亡《しょうもう》して、人智人巧唯我唯利の風が日々農村人心の分解《ぶんかい》を促《うなが》しつゝあるのだ。少しでも農村の実情を見知る者は、前途を懸念《けねん》せずには居られぬ。

       (三)雨後

 三月七日。
 近来よく降る。降らなければ曇《くも》る。所謂|養花《ようか》の天。
 今日は日が出た。朝から暖《あたたか》だ。鶏の声が殊に長閑《のどか》に聞こえる。昨日終日終夜の雨で、畑も土も真黒に潤うた。麦の緑が目立って濃《こ》うなった。緑の麦は、見る眼の驩喜《よろこび》である。其れが嫩《やわ》らかな日光に笑《え》み、若くは面を吹いて寒からぬ程の微風《びふう》にソヨぐ時、或は夕雲《ゆうぐも》の翳《かげ》に青黒く黙《もだ》す時、花何ものぞと云いたい程美しい。
 隣家では最早《もう》馬鈴薯《じゃがいも》を植えた。
 午後少し高井戸の方を歩く。米俵を積んだ荷馬車が来る。行きすりに不図目にとまった馬子《まご》の風流《ふうりゅう》、俵《たわら》に白い梅の枝が插《さ》してある。白い蝶が一つ、黒に青紋《あおもん》のある蝶が一つ、花にもつれて何処までもひら/\飛んで跟《つ》いて行く。馬子は知らずに好い声を張り上げて、
「飲めよ、ネェ、騒げェよ、三十がァ止《と》ゥめェよゥ。三十|過《す》ぎればァ、たゞの人《ひいと》ゥ。コラ/\」
 朝の模様で、今日は美晴と思われたが、矢張気の定まらぬ日であった。時々ざあと時雨《しぐれ》の様に降っては止み、東に虹《にじ》が出たり、西に日が現《あら》われて遠方の屋根が白く光ったり、北風が来て田圃《たんぼ》の小川の縁《ふち》とる女竹《めたけ》の藪《やぶ》をざわ/\鳴らしてはきら/\日光を跳《おど》らせたりした。空《そら》の一部は印度藍色《いんどあいいろ》に濃《こ》く片曇《かたくも》りし、村と緑の麦の一部は眩《まぶ》しい片明《かたあか》りして、ミレーの「春」を活かして見る様であった。

       (四)摘草

 三月八日。
 今日も雲雀《ひばり》が頻に鳴く。
 午食前《ひるめしまえ》に、夫妻鶴子ピンを連れて田圃に摘草《つみくさ》に出た。田の畔《くろ》の猫柳が絹毛《きぬげ》の被《かつぎ》を脱いで黄《きい》ろい花になった。路傍《みちばた》の草木瓜《くさぼけ》の蕾《つぼみ》が朱《あけ》にふくれた。花は兎に角、吾儕《われら》の附近《あたり》は自然の食物には極めて貧しい処である。芹《せり》少々、嫁菜《よめな》少々、蒲公英《たんぽぽ》少々、野蒜《のびる》少々、蕗《ふき》の薹《とう》が唯三つ四つ、穫物《えもの》は此れっきりであった。
 午後|本《ほん》を読んで居ると、空中《くうちゅう》に大きな物の唸《うな》り声が響く。縁から見上げると、夏に見る様な白銅色の巻雲《けんうん》を背《うしろ》にして、南の空《そら》に赤い大紙鳶《おおだこ》が一つ※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あが》って居る。ブラ下げた長い長い二本の縄《なわ》の脚《あし》を軟《やわ》らかに空中に波うたして、紙鳶《たこ》は心《こころ》長閑《のどか》に虚空《こくう》の海に立泳《たちおよ》ぎをして居る。ブーンと云うウナリが、武蔵野一ぱいに響き渡る。
 春だ。
 晩食に摘草の馳走。野蒜の酢味噌《すみそ》は可《か》、ひたし物の嫁菜は苦《にが》かった。

       (五)彼岸入り

 三月十八日。彼岸の入り。
 風はまだ冷《つめ》たいが、雲雀の歌にも心なしか力《ちから》がついて、富士も鉛色《なまりいろ》に淡《あわ》く霞《かす》む。
 庭には沈丁花《ちんちょうげ》の甘《あま》い香《か》が日も夜も溢《あふ》れる。梅は赤い萼《がく》になって、晩咲《おそざき》紅梅《こうばい》の蕾がふくれた。犬が母子《おやこ》で芝生《しばふ》にトチ狂《くる》う。猫が小犬の様に駈《か》け廻《まわ》る。
 春だ。
 彼岸入りで、団子《だんご》が出来た。
 墓参が多い。
 夕方、静《しずか》になった墓地に往って見る。沈丁花《ちんちょうげ》、赤椿《あかつばき》の枝が墓前《ぼぜん》の竹筒《たけつつ》や土に插《さ》してある。線香《せんこう》の烟《けむり》が徐《しず》かに※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あが》って居る。不図見ると、地蔵様の一人《ひとり》が紅木綿《べにもめん》の着物を被《き》て居られる。先月|幼《おさ》な娘を亡《な》くした松さんとこで被《き》せ申したのであろう。

       (六)蛇出穴

 三月二十八日。
 近来の美晴。朝飯後高井戸に行って、石を買う。武蔵野に石は無い。砂利《じゃり》や玉石《たまいし》は玉川|最寄《もより》から来るが、沢庵《たくあん》の重石《おもし》以上は上流|青梅《あおめ》方角から来る。一貫目一銭五厘の相場《そうば》だ。択《えら》んだ石を衡《はかり》にかけさせて居たら、土方体《どかたてい》の男が通りかゝって眼を※[#「目+登」、第3水準1-88-91]《みは》り、
「石を衡にかける――驚いたな」
と云った。
 午後は田圃《たんぼ》伝いに船橋《ふなばし》の方に出かける。門を出ると、墓地で蛇を見た。田圃の小川の※[#「木+威」、第4水準2-15-16]《いび》の下では、子供が鮒《ふな》を釣《つ》って居る。十丁そこら往って見かえると、吾家も香爐《こうろ》の家《いえ》程に小さく霞《かす》んで居る。
 今日は夕日の富士が、画にかいた「理想《りそう》」の様に遠くて美しかった。

       (七)仲春

 四月十七日。
 戸を開《あ》けて、海――かと思うた。家を繞《めぐ》って鉛色《なまりいろ》の朝霞《あさがすみ》。村々の森の梢《こずえ》が、幽霊《ゆうれい》の様に空《そら》に浮いて居る。雨かと舌鼓《したつづみ》をうったら、霞《かすみ》の中からぼんやりと日輪《にちりん》が出て来た。見る/\日の威力は加わって、光は白く霞に咽《むせ》ぶ。
 庭の桜の真盛りである。落葉松《らくようしょう》、海棠《かいどう》は十五六の少年と十四五の少女を見る様。紫の箱根つゝじ、雪柳《ゆきやなぎ》、紅白の椿、皆真盛り。一重山吹も咲き出した。セイゲン、ヤシオなど云う血紅色《けっこうしょく》、紅褐色《こうかっしょく》の春モミジはもとより、槭《もみじ》、楓《かえで》、楢《なら》、欅《けやき》、ソロなどの新芽《しんめ》は、とり/″\に花より美しい。
 畑に出て見る。唯《ただ》一叢《ひとむら》の黄なる菜花《なのはな》に、白い蝶が面白そうに飛んで居る。南の方を見ると、中っ原、廻沢《めぐりさわ》のあたり、桃の紅《くれない》は淡く、李は白く、北を見ると仁左衛門の大欅《おおけやき》が春の空を摩《な》でつゝ褐色《かっしょく》に煙《けぶ》って居る。
 春の日も午近くなれば、大分青んで来た芝生に新楓《しんふう》の影|繁《しげ》く、遊びくたびれて二《ふた》つ巴《ともえ》に寝て居る小さな母子《おやこ》の犬の黒光《くろびか》りする膚《はだ》の上に、桜《さくら》の花片《はなびら》が二つ三つほろ/\とこぼれる。風が吹く。木影《こかげ》が揺《うご》く。蛙が鳴く。一寸《ちょっと》耳をびちっと動かした母犬《おやいぬ》は、またスヤ/\と夢をつゞける。
 夕方は、まんまるな紅《あか》い日が、まんじりともせず悠々《ゆうゆう》と西に落ちて行く。横雲《よこぐも》が一寸|一刷毛《ひとはけ》日の真中を横に抹《なす》って、画にして見せる。最早《もう》穂《ほ》を孕《はら》んだ青麦《あおむぎ》が夕風にそよぐ。
 夜は蛙の声の白い月夜。
[#地から3字上げ](明治四十三年)
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     ある夜

 梅に晩《おそ》く桜に早い四月一日の事。
 余は三時過ぎから、ある事の為にある若い婦人を伴うて、粕谷から高輪《たかなわ》に往った。午後の六時から十一時過ぎまで、ある家の主人を訪うてある事を弁じつゞけ、要領を得ずして其家を辞した時は、最早十二時近かった。それでも終電車に乗るを得て、婦人は三宅坂《みやけざか》で下りて所縁《しょえん》の家へ、余は青山で下りて兄の家に往った。
 寝入り端《ばな》と見えて、門を敲《たた》けど呼べど叫べど醒めてくれぬ。つい近所に姪《めい》の家があるが、臨月近い彼女を驚かすのも面白くない。余は青山の通を御所《ごしょ》の方へあるいて、交番に巡査を見出し、其指図で北町裏の宿屋を一二軒敲き起した。寤めは寤たが、満員と体の好い嘘《うそ》を云って謝絶された。
 電車はとくに寝に往って了った。夜が明けたら築地の病院に腫物《しゅもつ》を病《や》んで入院して居る父を見舞うつもりで、其れ迄新橋停車場の待合室にでも往って寝ようと、月明りと電燈瓦斯の光を踏んで、ぶら/\溜池の通を歩いて新橋に往った。往って見ると此は不覚《ふかく》、扉《と》がしまって居る。駅夫《えきふ》に聞くと、睡むそうな声して、四時半まではあけぬと云う。まだ二時前である。
 電燈ばかり明るくてポンペイの廃墟《はいきょ》の様に寂《さび》しい銀座の通りを歩いて東へ折れ、歌舞伎座前を築地の方へ往った。万年橋の袂《たもと》に黙阿弥の芝居に出て来そうな夜啼《よなき》饂飩《うどん》が居る。夜は丑満《うしみつ》頃《ごろ》で、薄寒くもあり、腹も減《へ》った。
「おい、饂飩を一つくれんか」
「へえ」
 灯《ひ》の蔭から六十近い爺《おやじ》が顔を出して一寸余を見たが、直ぐ団扇《うちわ》でばたばたやりはじめた。後の方には車が二台居る。車夫の一人は鼾《いびき》をかいて居る。一人は蹴込《けこみ》に腰を据《す》えて、膝かけを頭からかぶって黙って居る。
「へえ、出来ました」
 割箸《わりばし》を添えて爺が手渡す丼《どんぶり》を受取って、一口《ひとくち》啜《すす》ると、腥《なまぐさ》いダシでむかッと来たが、それでも二杯食った。
「おい、もう二つこさえて呉れ」
 余は代を払い、「ドウモ御馳走様! おい、旦那が下さるとよ」と車夫が他の一人を呼びさます声を聞きすてゝ万年橋を渡った。つい其処の歌舞伎座の書割《かきわり》にある様な紅味《あかみ》を帯びた十一日の月が電線《でんせん》にぶら下って居る。
 築地外科病院の鉄扉《てっぴ》は勿論しまって居た。父のと思わるゝ二階の一室に、ひいた窓帷《まどかけ》越《ご》しに樺色《かばいろ》の光がさして居る。余は耳を澄ました。人のうめき声がしたかと思うたが、其は僻耳《ひがみみ》であったかも知れぬ。父は熟睡《じゅくすい》して居るのであろう。其子の一人が今病室の光《あかり》を眺《なが》めて、此《この》深夜《よふけ》に窓の下を徘徊して居るとは夢にも知らぬであろう。
 睡《ねむ》くなった。頭がしびれて来た。何処でもよい、此重い頭を横たえたくなった。余はうつら/\と夢心地に本願寺の近辺をぶらついた。体で余は歩かなかった。幽霊のようにふら/\とさまようた。不図墓地に入った。此処は余も知って居る。曾て一葉《いちよう》女史《じょし》の墓を見に来た時歩き廻った墓地である。余は月あかりに墓と墓の間を縫《ぬ》うて歩いた。誰やらの墓の台石《だいいし》に腰かけて見た。然し此処は永く眠るべき場所である。一夜の死を享《う》く可き場所ではない。余は墓地から追い出されて、また本願寺前の広場に出た。
 不図本願寺の門があいて居るのを見つけた。門口には巡査か門番かの小屋《こや》があって、あかりがついて居る。然し誰|咎《とが》むる者も無いので、突々《つつ》と入って、本堂の縁《えん》に上った。大分西に傾いた月の光は地を這《は》うて、本堂の縁は闇《くら》い蔭《かげ》になって居る。やっと安息の場所を獲《え》て、広縁《ひろえん》に風呂敷を敷き、手枕《たまくら》をして横になった。少しウト/\するかと思うと、直ぐ頭の上で何やらばさ/\と云う響がした。余は眼を開《あ》いて頭上《ずじょう》の闇《やみ》を見た。同時に闇の中に「ク※[#二の字点、1-2-22]ク※[#二の字点、1-2-22]」と云う囁《ささ》やきを聞いた。
「あ、鳩《はと》だ」
 余はまたウト/\となった。
 月は次第に落ちて行く。
[#地から3字上げ](明治四十二年 四月一日)
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     与右衛門さん

 村の三月節句で、皆が遊んであるく。家は潰《つぶ》され、法律上の妻には出て往かれ、今は実家の厄介《やっかい》になって居る久《ひさ》さんが、何《なに》発心《ほっしん》してか今日はまる/\の青坊主《あおぼうず》に剃《そ》って、手拭肩に独ぶら/\歩いて居る。
 甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負《せお》って来た。「ドウもねえあなた、天道様《てんとうさま》に可愛がられまして、此通り真黒でございます」と頬《ほお》を撫《な》でる。気の利いた口のきゝぶり、前半生に面白い話を持て居そうな女だ。負ってあるく荷は十貫目からあると云う。細君が鬢櫛《びんぐし》と鶴子の花簪《はなかんざし》を買うた。
 小間物屋のおかみが帰ると、与右衛門《よえもん》さんが地所を買わぬかと云うて来た。少しばかりの地面を買って古い家を建てたりしたので、やれ地面を買わぬかの、古い天水桶用《てんすいおけよう》の釜《かま》を買わぬかの、植木の売物があるのと、蟻《あり》の砂糖《さとう》につく如くたかってくる。金が無いと云っても、中々|本当《ほんと》にしてくれぬ。与右衛門さんも其一人である。
 与右衛門さんは、村内《そんない》切《き》っての吾儘者《わがままもの》剛慾者《ごうよくもの》としてのけものにさるゝ男である。村内でも工面《くめん》のよい方で、齢《とし》もまだ五十|左右《さう》、がっしりした岩畳《がんじょう》の体格、濃い眉の下に開《あ》いた蛇《じゃ》の目の様な二つの眼は鋭く見つめて容易に動かず、頭の頂辺《てっぺん》から足の爪先《つまさき》まで慾気《よくけ》満々《まんまん》として寸分のタルミも無い。岩畳な彼を容《い》るゝその家は、基礎《どだい》を切石《きりいし》にし、柱《はしら》の数を多くし、屋根をトタンで包《つつ》み、縁《えん》を欅《けやき》で張り、木造の鬼《おに》の窟《いわや》の如く岩畳である。彼に属する一切のものは、其|堅牢《けんろう》な意志の発現《はつげん》である。彼が家の子女は何処の子女よりも岩畳である。彼の家の黒猫は、小さな犬より大きく、村内の如何なる猫も其|威《い》に恐れぬものは無い。彼が家の麦からの束《たば》は、他家《よそ》の二倍もある。彼が家の夜具《よるのもの》は、宇都宮《うつのみや》の釣天井《つりてんじょう》程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十過ぎて元気おさ/\若者を凌《しの》ぐ婆さんである。婆さんの曰く、私《わたし》の家《うち》は信心なんざしませんや。正に其通り、与右衛門さんは神仏《かみほとけ》なんか信ずる様な事はせぬ、徹頭徹尾|自力宗《じりきしゅう》の信者である。遠い神仏《しんぶつ》を信心するでもなければ、近所隣の思惑《おもわく》や評判を気にするでもなく、流行《はやり》とか外聞《がいぶん》とかつき合《あい》とか云うことは、一切禁物で、恃《たの》む所は自家の頭と腕、目ざすものは金である。与右衛門さんには道楽《どうらく》と云うものが無いが、金と酒は生命《いのち》にかけて好きである。家《うち》で晩酌《ばんしゃく》に飲み、村の集会で飲み、有権者だけに衆議院議員の選挙《せんきょ》振舞《ぶるまい》で飲み、どうやらすると昼日中《ひるひなか》おかず媼《ばあ》さんの小店《こみせ》で一人で飲んで真赤《まっか》な上機嫌《じょうきげん》になって、笑って無暗《むやみ》にお辞義をしたり、管《くだ》を巻いたり、気焔《きえん》を吐《は》いたりして居ることがある。皆が店を覗《のぞ》いて、与右衛門さんのお株《かぶ》梅ヶ谷の独相撲《ひとりずもう》がはじまりだ、と笑う。与右衛門さんは何処までも自己中心である。人が与右衛門さんの地所を世話すれば、世話人は差措《さしお》いて必|直談《じきだん》に来る。自身の世話しかけた地所を人が直談にすれば、一盃機嫌で怒鳴《どな》り込んで来る。
 然し与右衛門さんは強慾《ごうよく》であるかわり、彼は詐《うそ》を云わぬ。詐は貨幣《かね》同様《どうよう》天下の通《とお》り物である。都でも、田舎でも、皆それ/″\に詐をつく。多くの商売は詐に築《つ》かれた蜃気楼《しんきろう》と云ってもよい。此辺の田舎でも、些《ちっ》とまとまった買物を頼めば、売主は頼まれた人に、受取《うけとり》は幾何金《いくら》と書きましょうか、ときく。コムミッションの天引《てんびき》は殆《ほとんど》不文律になって居る。人を見て値《ね》を云う位は、世にも自然な事共である。東京から越して来た人に薪《まき》を売った者がある。他の村人が、あまり値段《ねだん》が高いじゃないかと注意したら、売り主の曰く、そりゃ些《ちった》ア高いかも知《し》んねえが、何某《なにがし》さんは金持《かねもち》だもの、此様な時にでも些《ちった》ア儲《も》うけさして貰《もら》わにゃ、と。而《そう》して薪の売主は、衆議院議員選挙権を有って居る、新聞位は読んで居る男である。売る葺萱《ふきがや》の中に屑《くず》をつめ込んで束《たば》を多くする位は何でも無い。
 誰も平気に詐《うそ》をつく。然し看板《かんばん》を出した慾張り屋の与右衛門さんは、詐を云わぬ、いかさまをせぬ。それから彼は作代《さくだい》に妻をもたせて一家を立てゝやったり、義弟が脚部に負傷《ふしょう》したりすると、荷車にのせて自身|挽《ひ》いて一里余の道を何十度も医者へ通ったり、よく縁者の面倒《めんどう》を見る。与右衛門さんに自慢話《じまんばなし》がある。東京者が杉山か何か買って木を伐《き》らした時、其木が倒れて誤《あやま》って隣合《となりあ》って居る彼与右衛門が所有林《しょゆうりん》の雑木《ぞうき》の一本を折った。最初|無断《むだん》で杉を伐りはじめたのであった。与右衛門さんは例《れい》の毛虫眉《けむしまゆ》をぴりりとさせて苦情《くじょう》を持込んだ。御自分に御買いになった木を御伐《おき》りになるに申分は無いが、何故《なぜ》此方の山の木まで御折りになったか、金が欲しくて苦情を申すでは無い、金は入りません、折れた木を元《もと》の様にして戴《いただ》きたい。思いがけない剛敵《ごうてき》に出会《でっくわ》して、東京者も弱った。与右衛門さんは散々並べて先方《せんぽう》を困《こま》らせぬいた揚句《あげく》、多分の賠償金《ばいしょうきん》と詫言《わびごと》をせしめて、やっと不承《ふしょう》した。右は東京者に打勝った与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京者に此手で行くばかりでなく、近所隣までも此の筆法で行く。そこで与右衛門さんを憚《はばか》って、其の地所の隣地に一寸した事をするにも、屹度《きっと》わたりをつける。
 与右衛門さんは評判の長話家《ながばなしや》である。鍬を肩にして野ら仕事の出がけに鉢巻とって「今日《こんにち》は」の挨拶《あいさつ》からはじめて、三十分一時間の立話《たちばなし》は、珍らしくもない。今日も煙管《きせる》をしまっては出し、しまっては出し、到頭二時間と云うものぶっ通しに話された。与右衛門さんは中々の精力家である。「どうもダイ産《さん》としては地所程好いダイ産はありませんからナ」の百万|遍《べん》を聞かされた。
「でも斯様《こん》な時代もあったですよ」
と云って、与右衛門さんは九度目《ここのたびめ》に抽《ぬ》き出した煙管《きせる》に煙草をつめながら、斯様《こん》な話をした。
 此辺はもと徳川様の天領《てんりょう》で、納《おさ》め物の米や何かは八王子《はちおうじ》の代官所《だいかんしょ》まで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里、余り面倒なので、田はうっちゃってしまえと云う気になり、粕谷では田を一切|烏山《からすやま》にやるから貰《もら》ってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾでは貰えぬ、と言う。到頭馬弐駄に酒樽《さかだる》をつけて、やっと厄介な田を譲った。
「嘘《うそ》の様な話でさ。惜しい事さね、今ならば……」
と云って、与右衛門さんは煙管《きせる》の雁管《がんくび》をポンと火鉢にはたいて、今にも水が垂《た》りそうな口もとをした。
[#地から3字上げ](明治四十四年 四月三日)
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     五月五日

 五月五日。日曜。節句。余等が結婚十九年の記念日。例によって赤の飯、若芽《わかめ》の味噌汁《みそしる》。
 朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂《おおくにたま》神社《じんしゃ》の祭礼があるので、甲州街道も東へ往ったり西へ来たり人通りが賑《にぎ》やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻《まわ》って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪くない。西日《にしび》に光る若葉の村々には、赭《あか》い鯉が緑の中からふわりと浮いて居る。麦の穂は一面|白金色《はくきんしょく》に光り、蛙《かわず》鳴く田は紫雲英《れんげそう》の紅《くれない》を敷き、短冊形《たんざくがた》の苗代《なわしろ》には最早|嫩緑《どんりょく》の針《はり》がぽつ/\芽ぐんで居る。夕雲雀《ゆうひばり》が鳴く。日の入る甲州の山の方から塵《ちり》のまじらぬ風がソヨ/\顔を吹く。府中の方から大国魂神社の大太鼓《おおたいこ》がドン/\と遙《はるか》に響《ひび》いて来る。
 帰宅したのが六時過ぎ。正面《まとも》に見て眩《まぶ》しくない大きな黄銅色《しんちゅういろ》の日輪《にちりん》が、今しも橋場《はしば》の杉木立《すぎこだち》に沈みかけた所である。
 本当に日が永い。
 留守に隣から今年《ことし》も※[#「木+解」、第3水準1-86-22]餅《かしわもち》をもらった。
 留守に今一つの出来事があった。橋本のいさちゃんが、浜田の婆《ばあ》さんに連れられ、高島田《たかしまだ》、紋付《もんつき》、真白に塗《ぬ》って、婚礼《こんれい》の挨拶《あいさつ》に来たそうだ。美《うつく》しゅうござんした、と婢《おんな》が云う。
 いさちゃんは此辺でのハイカラ娘である。東京のさる身分ある人の女で、里子に来て、貰《もら》われて橋本の女になった。橋本の嗣子《あととり》が亡くなったので、実弟の谷さんを順養子《じゅんようし》にして、いさちゃんを妻《めあ》わしたのである。余等が千歳村に越《こ》して程なく、時々遊びに来る村の娘の中に、垢《あか》ぬけした娘が居た。それがいさちゃんであった。彼女は高等小学を卒《お》え、裁縫《さいほう》の稽古《けいこ》に通った。正月なんか、庇髪《ひさし》に結《ゆ》ってリボンをかけて着物を更《か》えた所は、争われぬ都の娘であったが、それでも平生《ふだん》は平気に村の娘同様の仕事をして、路の悪い時は肥車《こやしぐるま》の後押《あとお》しもし、目籠《めかご》背負《せお》って茄子《なす》隠元《いんげん》の収穫《しゅうかく》にも往った。実家の母やマアガレットに結って居る姉妹等が遊びに来ても、いさちゃんはさして恥じらう風情《ふぜい》も無かった。
 田舎は淋《さび》しい。人が殖《ふ》え家が殖えるのは、田舎の歓喜《よろこび》である。人が喰合《くいあ》う都会では、人口の増加は苦痛《くつう》の問題だが、自然を相手に人間の戦《たたか》う田舎の村では、味方の人数が多い事は何よりも力で強味《つよみ》である。小人数《こにんず》の家は、田舎では惨《みじめ》なものだ。何《ど》の家でも、五人六人子供の無い家《うち》は無い。この部落《ぶらく》でも、鴫田《しぎだ》や寺本の様に屈強《くっきょう》な男子《おとこのこ》の五人三人持て居る家《うち》は、家《いえ》も栄《さかえ》るし、何かにつけて威勢《いせい》がよい。養蚕《ようさん》が重《おも》な副業《ふくぎょう》の此地方では、女の子も大切《だいじ》にされる。貧しい家《うち》が扶持《ふち》とりに里子をとるばかりでなく、有福《ゆうふく》な家《うち》でも里子をとり、それなりに貰ってしまうのが少なくない。其まゝに大きくして、内の※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《よめ》にするのが多い。所謂《いわゆる》「蕾《つぼみ》からとる花嫁御《はなよめご》」である。一家総労働の農家では、主僕の間に隔《へだて》がない様に、実の娘と養女の間に格別《かくべつ》の差等《さとう》はない。養われた子女が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。
 都会に近い田舎の事で、何《ど》の家《うち》も多少の親類を東京に有《も》って居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑《のうかん》の季節には、田舎からも東京に遊びに行く。辰《たつ》爺《じい》さんは浅草に親類がある。時々遊びに行くが、帰ると溜息《ためいき》ついて曰く、全く田舎が好《え》えナ、浅草なンか裏が狭くて、雪隠《せっちん》に往っても鼻《はな》ア突《つっ》つく、田舎に帰《けえ》ると爽々《せいせい》するだ、親類のやつが百姓は一日《いちにち》にいくら儲《もう》かるってきくから、こちとらは帳面なンかつけやしねえ、年の暮になりゃ足りた時は足りた、剰《あま》らねえ時は剰らねえンだ、って左様《そう》云ってやりましたよ、と。
 東京に往けば、人間に負《ま》けます、と皆が云う。麦《むぎ》の穂《ほ》程人間の顔がある東京では、人間の顔見るばかりでも田舎者はくたびれて了《しま》う。其処《そこ》に電話《でんわ》の鈴《りん》が鳴る。電車が通《とお》る。自動車が走る。号外《ごうがい》が飛ぶ。何かは知らず滅多《めった》無性《むしょう》に忙《せわ》しそうだ。斯様《こん》な渦《うず》の中に捲《ま》き込《こ》まれると、杢兵衛《もくべえ》太五作《たごさく》も足の下が妙にこそばゆくなって、宛無《あてな》しの電話でもかけ、要もないに電車に飛び乗りでもせねば済《す》まぬ気になる。ゆっくりした田舎の時間《じかん》空間《くうかん》の中に住み慣《な》れては、東京好しといえど、久恋《きゅうれん》の住家《すみか》では無い。だから皆帰りには欣々として帰って来る。
 田舎では、豊《ゆた》かな生計《くらし》の家《うち》でも、女《むすめ》を東京に奉公に出す。女の奉公と、男の兵役とは、村の両遊学《りょうゆうがく》である。勿論弊害もあるが、軍隊に出た男は概《がい》して話せる男になって帰って来る。いさちゃんのお婿《むこ》さんなども、日露戦争にも出て、何処《どこ》やら垢《あか》ぬけのした在郷《ざいごう》軍人《ぐんじん》である。奉公に出た女にも、東京に嫁入《よめい》る者もあるが、田舎に帰って嫁《とつ》ぐ者が多い。何を云うても田舎は豊かである。田舎に生れた者が田舎を恋《こ》うばかりでなく、都に生れた者でも田舎に育てば矢張田舎が恋しくなる。
 いさちゃんも好い生涯《しょうがい》を与えられた。
[#地から3字上げ](明治四十五年)
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     紫雲英

 午後の散歩に一家|打連《うちつ》れて八幡山《はちまんやま》、北沢間《きたざわかん》の田圃《たんぼ》に往った。紫雲英《れんげそう》の花盛りである。
 此処は西|欝々《うつうつ》とした杉山《すぎやま》と、東|若々《わかわか》とした雑木山《ぞうきやま》の緑《みどり》に囲《かこ》まれた田圃で、遙《はるか》北手《きたて》に甲州街道が見えるが、豆人《とうじん》寸馬《すんば》遠く人生行路《じんせいこうろ》の図《ず》を見る様で、却《かえっ》てあたりの静《しず》けさを添《そ》える。主人と妻と女児《むすめ》と、田の畔《くろ》の鬼芝《おにしば》に腰を下ろして、持参《じさん》の林檎《りんご》を噛《かじ》った。背後《うしろ》には生温《なまぬる》い田川《たがわ》の水がちょろ/\流れて居る。前は畝《うね》から畝へ花毛氈《はなもうせん》を敷いた紫雲英の上に、春もやゝ暮近《くれちか》い五月の午後の日がゆたかに匂《にお》うて居る。ソヨ/\と西から風が来る。見るかぎり桃色《ももいろ》の漣《さざなみ》が立つ。白い蝶が二つもつれ合うてヒラ/\と舞うて居る。跟《つ》いて来た大きな犬のデカと小さなピンが、蛙《かえる》を追ったり、何かフッ/\嗅《か》いだりして、面白そうに花の海を踏《ふ》み分けて、淡紅《とき》の中に凹《なかくぼ》い緑の線《すじ》をつける。熟々《つくづく》と見て居ると、紅《くれない》の歓楽《かんらく》の世に独《ひとり》聖者《せいじゃ》の寂《さび》しげな白い紫雲英が、彼所《かしこ》に一本、此処《ここ》に一|株《かぶ》、眼に立って見える。主人はやおら立って、野に置くべきを我庭に移《うつ》さんと白きを掘る。白い胸掛《むねかけ》をした鶴子は、寧《むしろ》其美しきを撰《えら》んで摘《つ》み且摘み、小さな手に持ち切れぬ程になったのを母の手に預《あず》けて、また盛に摘んで居る。
 主人は田川の生温《なまぬる》い水で泥手《どろて》を洗って、鬼芝の畔に腰かけつゝ、紫雲英を摘む女児を眺めて居る。ぽか/\した暮春《ぼしゅん》の日光《ひざし》と、目に映《うつ》る紫雲英の温《あたた》かい色は、何時しか彼をうっとりと三十余年の昔に連れ帰るのであった。
 時は明治十年である。彼は十歳の子供である。彼の郷里は西郷戦争の中心になった。父は祖父を護《ご》して遠方に避難《ひなん》し、兄は京都の英学校に居り、家族の中で唯一人《ただひとり》の男の彼は、母と三人の姉と熊本を東南に距《さ》る四里の山中の伯父《おじ》の家に避難した。山桜《やまざくら》も散って筍《たけのこ》が出る四月の末、熊本城の囲《かこみ》が解《と》けたので、避難の一家は急いで帰途に就いた。伯父の家から川に添《そ》うて一里下れば木山町、二里下ると沼山津《ぬやまづ》村。今夜は沼山津|泊《とまり》の予定であった。皆|徒歩《かち》だった。木山まで下ると、山から野に出る。彼等は川堤《かわつつみ》を水と共に下って往った。堤の北は藻隠《もがく》れに鮒《ふな》の住む川で、堤の南は一面の田、紫雲英が花毛氈《はなもうせん》を敷き、其の絶間《たえま》※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《たえま》には水銹《みずさび》が茜色《あかねいろ》の水蓋《みずぶた》をして居た。行く程に馬上の士官が来た。母が日傘《ひがさ》を横にして会釈《えしゃく》し、最早《もう》熊本に帰っても宜しゅうございましょうかと云うた。宜《よ》いとも/\、皆《みんな》ひどい目に会《あ》った喃《なあ》。と士官が馬上から挨拶《あいさつ》した。其処《そこ》に土俵《どひょう》で築《きず》いた台場《だいば》――堡塁《ほるい》があった。木山の本営《ほんえい》を引揚《ひきあ》げる前、薩軍《さつぐん》が拠《よ》って官軍を拒《ふせ》いだ処である。今は附《つ》け剣《けん》の兵士が番して居た。会釈して一同其処を通りかゝると、蛇が一疋のたくって居る。蛇嫌《へびぎら》いの彼は、色を変えて立どまった。兵士が笑って、銃剣《じゅうけん》の先《さき》で蛇をつっかけて、堤外《ていがい》に抛《ほう》り出した。無事に此《この》関所《せきしょ》も越して、彼は母と姉と※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]々《きき》として堤を歩んだ。春の日はぽかり/\春の水はのたり/\、堤外は一面の紫雲英で、空には雲雀《ひばり》、田には蛙《かわず》が鳴いて居る。明日《あす》家《うち》に帰る前に今夜|泊《とま》る沼山津の村は、一里向うに霞んで居る。……
「阿父《おとうさん》、ほら此様《こんな》に摘んでよ」
 吾に復《か》えった彼の眼の前に、両手《りょうて》につまんで立った鶴子の白《しろ》胸掛《むねかけ》から、花の臙脂《えんじ》がこぼれそうになって居る。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月八日)
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     印度洋

 夜、新聞で見ると、長谷川《はせがわ》二葉亭《ふたばてい》氏が肺病で露西亜から帰国の船中、コロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]と新嘉坡《シンガポール》の間で死んだとある。去十日の事。
 馬琴物《ばきんもの》から雪中梅型《せっちゅうばいがた》のガラクタ小説に耽溺《たんでき》して居た余に、「浮雲《うきぐも》」は何たる驚駭《おどろき》であったろう。余ははじめて人間の解剖室《かいぼうしつ》に引ずり込まれたかの如く、メスの様な其|筆尖《ふでさき》が唯恐ろしかった。それからツルゲーネフの翻訳「あひゞき」を国民の友で、「めぐりあひ」を都の花で見た時、余は世にも斯様《こん》な美しい世界があるかと嘆息した。繰《く》り返えし読んで足らず、手ずから写《うつ》したものだ。其後「血笑記《けっしょうき》」を除く外、翻訳物は大抵見た。「其《その》面影《おもかげ》」はあまり面白いとも思わなかった。「平凡《へいぼん》」は新聞で半分から先きを見た。浮雲の筆は枯《か》れきって、ぱっちり眼を開いた五十男の皮肉《ひにく》と鋭利《えいり》と、醒《さ》めきった人のさびしさが犇々《ひしひし》と胸に迫《せま》るものがあった。朝日から露西亜へ派遣《はけん》された時、余は其通信の一|行《ぎょう》も見落さなかった。通信の筆は数回ではたと絶えた。而《そう》して帰朝中途の死!
 印度洋はよく人の死ぬ所である。昔から船艦《せんかん》の中で死んで印度洋の水底に葬《ほうむ》られた人は数知れぬ。印度洋で死んだ日本人も一人や二人では無い。知人《ちじん》柳房生《りゅうぼうせい》の親戚|某神学士《ぼうしんがくし》も、病を得て英国から帰途印度洋で死んで、新嘉坡《シンガポール》に葬られた。二葉亭氏も印度洋で死んで新嘉坡で火葬され、骨になって日本に帰るのである。
 高山《こうざん》の麓《ふもと》の谷は深い。世界第一の高峻《こうしゅん》雪山《せつさん》を有《も》つ印度の洋《うみ》は、幾干《いくばく》の人の死体を埋めても埋めても埋めきれぬ。其|陸《りく》の菩提樹《ぼだいじゅ》の蔭に「死の宗教」の花が咲いた印度の洋《うみ》は、餌《え》を求めて※[#「厭/食」、第4水準2-92-73]《あ》くことを知らぬ死の海である。烈しい暑《あつ》さのせいもあろうが、印度洋は人の気を変にする。日本郵船のある水夫は、コロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]で気が変になり、春画《しゅんが》など水夫部屋に飾《かざ》って拝《おが》んだりして居たが、到頭印度洋の波を分けて水底深く沈《しず》んで了うた、と其船の人が余に語り聞かせた。印度洋の彼《かの》不可思議《ふかしぎ》な色をして千劫《せんごう》万劫《まんごう》已《や》む時もなくゆらめく謎《なぞ》の様な水面《すいめん》を熟々《つくづく》と見て居れば、引き入れられる様で、吾れ知らず飛び込みたくなる。
 三年前余は印度洋を東から西へと渡った。日々海を眺《なが》めて暮らした。海の魔力《まりょく》が次第に及ぶを感じた。三等船客の中に、眼が悪《わる》いので欧洲《おうしゅう》廻《まわ》りで渡米する一青年があって「思出《おもいで》の記《き》」を持て居た。ペナン[#「ペナン」に二重傍線]からコロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]の中間《ちゅうかん》で、余は其思出の記を甲板《かんぱん》から印度洋へ抛《ほう》り込んだ。思出の記は一瞬《いっしゅん》の水煙《みずけむり》を立てゝ印度洋の底深《そこふか》く沈んで往ったようであったが、彼小人菊池慎太郎が果して往生《おうじょう》したや否は疑問である。印度洋は妙に人を死に誘《さそ》う処だ。
[#地から3字上げ](明治四十二年 五月十二日)
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     自動車

 九十一歳の父と、八十四歳の母と逗留《とうりゅう》に来ると云う。青山から人力車では、一時間半はかゝる。去年までは車にしたが、今年《ことし》は今少し楽《らく》なものをと考えて、到頭以前|睥睨《へいげい》して居た自動車をとることにした。実は自身乗って見たかったのである。
 自動車は余の嫌いなものゝ一《ひとつ》である。曾て溜池《ためいけ》の演伎座前《えんぎざまえ》で、微速力《びそくりょく》で駈《か》けて来た自動車を避《さ》けおくれて、田舎者の婆さんが洋傘《こうもり》を引かけられて転《ころ》んだ。幸に大した怪我《けが》はなかったが、其時自動車の内から若い西洋人がやおら立上り、小雨《こさめ》を厭《いと》うて悠々《ゆうゆう》と洋傘《こうもり》をひらいて下り立った容子のあまりに落つき払ったのを、眼前に見た余は、其西洋人を合せて自動車に対する憎悪《ぞうお》を抑《おさ》えかねた。自動車は其後余の嫌いなものゝ一《ひとつ》であった。
 然るに自身乗って見れば、案外乗心地が好い。青山から余の村まで三十分で来た。父が「一家鶏犬一車上、器機妙用瞬間行」なぞ悪詩《あくし》を作った。工合《ぐあい》が好いので、帰りも自動車にした。今度のは些《ちと》大きく、宅の傍《そば》までは来ぬと云う。五丁程歩んで、乗った。栗梅色《くりうめいろ》に塗《ぬ》った真新《まあたら》しい箱馬車式《はこばしゃしき》の立派なものだ。米国から一昨日着いたばかり、全速《ぜんそく》五十|哩《まいる》、六千円出たそうだ。父、母、姉、妻、女は硝子戸《がらすど》の内に、余は運転手《うんてんしゅ》と並んで運転手台に腰かけた。
 運転手の手にハンドルが一寸|捩《ねじ》られると、物珍らしさにたかる村の子供の群《むれ》を離《はな》れて、自動車はふわりと滑《すべ》り出した。村路《そんろ》を出ぬけて青山街道に出る。識《し》る顔の右から左から見る中を、余は少しは得意に、多くは羞明《まぶ》しそうに、眼を開けたりつぶったりして馳《は》せて行く。坂を下って、田圃《たんぼ》を通って、坂を上って、車は次第に速力を出した。荷車が驚いて道側《みちばた》の草中《くさなか》に避《よ》ける。鶏《にわとり》が刮々《くわっくわっ》叫んで忙《あわ》てゝ遁《に》げる。小児《こども》の肩《かた》を捉《とら》え、女が眼を円《まる》くして見送る。囂々《ごうごう》、機関《きかん》が鳴《な》る。弗々々《ふっふっふっ》、屁《へ》の如く放《ひ》り散《ち》らすガソリンの余煙《よえん》。後《あと》には塵も雲と立とうが、車上の者には何でもない。あたり構わず突進する現代精神を具象《ぐしょう》した車である。但人通りが少ないので、此街道は自動車には理想的な道路と云ってよい。
 豪徳寺《ごうとくじ》附近に来ると、自動車は一《ひと》かく入れた馬の如く、決勝点《けっしょうてん》を眼の前に見る走者《そうしゃ》の如く、宛《さ》ながら眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》り、※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》と口を結んで、疾風の如く駛《は》せ出した。余は帽子に手を添《そ》えた。麦畑や、地蔵や、眼と口を一緒《いっしょ》にあけた女の顔や、人の声や、眼《め》まぐろしく駈《か》けて来ては後《うしろ》へ飛ぶ。機関の響は心臓の乱拍子《らんぴょうし》、車は一の砲弾《ほうだん》の如く飄《ひゅう》、倏《しゅっ》と唸《うな》って飛ぶ。
「今三十五|哩《まいる》の速力です」
と運転手が云う。
 余は痛快であった。自動車の意志は、さながら余に乗り移《うつ》って、臆病者《おくびょうもの》も一種の恍惚《エクスタシー》に入った。余は次第に大胆《だいたん》になった。自動車が余を載せて駈けるではなく、余自身が自動車を駆って斯《か》く駛《は》せて居るのだ。余は興《きょう》に乗《じょう》じた。運転手台に前途を睥睨《へいげい》して傲然《ごうぜん》として腰かけた。道があろうと、無かろうと、斯速力で世界の果まで驀地《まっしぐら》に駈けて見たくなった。山となく、野となく、人でも獣《けもの》でもあらゆるものを乗り越え踏みつけ、唯真直に一文字に存分に駈けて駈けて駈けぬいて見たくなった。硝子戸《がらすど》の内を見かえれば、母は眼を閉じ、父は口を開き、姉と妻児《さいじ》は愉快そうに笑って話して居る。
「何《ど》の位でとめられるですかね」またそろ/\臆病風《おくびょうかぜ》が吹いて来た余は、右手にかけて居る運転手に問うた。
「三|間前《げんまえ》ならトメます。運転手は中々頭がなければ出来ません」
「随分神経を使うですね」
「エ、然し愉快です――力《ちから》ですから」
 忽《たちまち》世田ヶ谷村役場の十字路に来た。南に折れて、狭い路を田圃に下り、坂を上って世田ヶ谷街道に出るまで、荷車が来はせぬか、荷馬車が来はせぬか、と余はびく/\ものであった。
 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧《りこう》な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。
 余は老人子供を扶《たす》け下ろして、ホット一息ついた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 五月十八日)
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     デカの死

 昨日|隣字《となりあざ》に知辺《しるべ》の結婚があった。余は「みゝずのたはこと」の校正を差措《さしお》いて、鶴子を連れて其席に連《つら》なり、日暮れて帰ると、提灯《ちょうちん》ともして迎えに来た女中は、デカが先刻《せんこく》甲州街道で自動車に轢《ひ》かれたことを告げた。今朝も奥の雨戸を開《あ》けると、芝生《しばふ》に腹這《はらば》いながら、主人の顔を見て尻尾《しっぽ》振《ふ》り/\した。書院の雨戸を開けると、起きて来て縁《えん》に両手をつき、主人に頭《あたま》撫《な》でられて嬉《うれ》しそうに尾を振って居た。正午の頃までは、裏の櫟林《くぬぎばやし》で吠《ほ》えたりして居た。何時の間に甲州街道に遊びに往って無惨《むざん》の最後《さいご》を遂《と》げたのか。
 尤も彼は此頃ひどく弱って居た。彼は年来ピンの押入婿《おしいりむこ》であったが、昨秋新に村人の家に飼われた勇猛《ゆうもう》の白犬の為に一度噛み伏せられてピンをとられて以来、俄に弱って著《いちじる》しく老衰して見えた。彼は其の腹慰《はらい》せであるかの如く、何処からかまだ子供々々した牝犬《めいぬ》を主人の家に連れ込んだ。如何に犬好きの家でも、牝犬二匹は厄介である。主人は度々牝犬を捨てたが、直ぐ舞戻《まいもど》って来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其後デカが夜毎に帰っては来たが、昼《ひる》は其牝犬を探《さ》がしあるいて居るらしかった。探がし探がして探がし得ず、がっかりした容子《ようす》は、主人の眼にも笑止《しょうし》に見えた。其様《そん》な事で弱って居る矢先《やさき》、自動車に轢《ひ》かるゝ様なことになったのだろう。春秋《しんじゅう》の筆法《ひっぽう》を以てすれば、取りも直さず牝犬を捨てた主人の余の手にかゝって死んだのである。
 彼は幡《はた》ヶ谷《や》の阪川牛乳店に生れて、其処《そこ》此処《ここ》に飼われた。名もポチと云い、マルと云い、色々の名をもって居た。ある大家では、籍まで入れて飼って居たが、交尾期《こうびき》にあまり家をあけるので、到頭|離籍《りせき》して了うた。其様《そん》な事で彼は甲州街道の浮浪犬《ふろういぬ》になり、可愛がられもし窘《いじ》められもした。最後に主従の縁を結んだのが、粕谷の犬好きの家だった。デカは粕谷の犬になって二年|経《へ》た。渡り者のくせで、子飼《こがい》から育てたピンの如くはあり得なかった。主人に跟《つ》いて出ても、中途から気が変って道草を喰《く》ったりしては、水臭《みずくさ》いやつだと主人に怒《おこ》られた。雄犬の癖《くせ》でもあるが、よく家をあけた。先《せん》の主《ぬし》、先々の主、其外|一飯《いっぱん》の恩《おん》ある家《うち》をも必|訪《たず》ねた。悪戯《いたずら》でもして叱られると、直ぐ甲州街道に逃げて往った。然し彼はよく主人をはじめ一家の者になずいて、仮令余が彼を撲《ぶ》ちたゝくことがあっても、彼は手足をちゞめて横になり、神妙《しんみょう》に頭をのべて鞭《むち》を受けた。其為め余が鞭の手は自然に鈍《にぶ》るのであった。彼は長い間浮浪犬として飢《ひも》じい目をした故《せい》であろ、食物を見ると意地汚《いじきた》なく涎《よだれ》を流した。文豪《ぶんごう》ジョンソン[#「ジョンソン」に傍線]が若い時非常の貧苦を経た結果、位置が出来ても、物を食えば額《ひたい》に太《ふと》い筋《すじ》現《あら》われ、汗《あせ》を流し、犬の如くむしゃ/\喰うた、と云う逸話を思い浮《うか》べて、甚|可哀想《かあいそう》になった。其れから彼は餅《もち》でもやると容易《ようい》に食わず、熟《じっ》と主人の顔を見て、其れ切りですか、まだありますかと云う貌《かお》をした。三つも投げて、両手を開《ひら》いて見せると、彼は納得《なっとく》して、三個ながら口に啣《くわ》えて、芝生に行ってゆる/\食うのが癖であった。彼は浮浪の癖が中々|脱《ぬ》けなかった。先《せん》の白も彼に色々の厄介をかけたが、デカも近所の鶏《とり》を捕ったりして一再《いっさい》ならず迷惑《めいわく》をかけた。去年の秋の頃は、あまりに家をあけるので、煩悩《ぼんのう》も消え失せ、既に離籍《りせき》しようかとした程であった。其れがまた以前の如く居付《いつ》く様になり、到頭余が家のデカで死んだ。
 今朝|懇意《こんい》の車屋がデカの死骸《しがい》を連れて来た。死骸は冷たくなって、少し眼をあいて居たが、一点の血痕《けっこん》もなく、唯|鼻先《はなさき》に土がついて居た。其死を目撃《もくげき》した人の話に、デカは昨日甲州街道の給田《きゅうでん》に遊びに往って、夕方玉川から帰る自動車目がけて吠《ほ》え付いた。と思うたら、自動車のタイヤに鼻づらを衝《つ》かれたのであろう、ひょろ/\と二度ばかり顛《ころ》んだ。自動車は見かえりもせず東京の方に奔って往って了うた。其容子を見て居た人は、デカを可愛がる人であったので、デカを連れ込んで、水天宮《すいてんぐう》の御符《おふだ》など飲ましたが、駄目であった。
 余は鶏柵内《けいさくない》のミズクサの木の根を深く掘って、薦《こも》に包《つつ》んだまゝ眠った様なデカの死骸を葬《ほうむ》った。
[#地から3字上げ](大正二年 二月十七日)
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     ハムレット

 帝国劇場で文芸協会のハムレットがある。芝居と云うものを久しく見ず、評判の帝国座もまだ覗《のぞ》いたことが無いので、見物に出かける。
 劇場の外観は白っぽく冷《つめ》たく、あまり好い感じがせぬ。内は流石に綺羅《きら》びやかなものであった。二階の正面に陣取《じんど》って、舞台や天井《てんじょう》、土間、貴顕《きけん》のボックスと、ずっと見渡した時、吾着物の中で土臭《つちくさ》い体《からだ》が萎縮《いしゅく》するように感じた。
 幕が上った。十五六世紀の西洋の甲冑《かっちゅう》着《つ》けた士卒が出て、鎌倉武士《かまくらぶし》の白《せりふ》を使う。亡霊《ぼうれい》の出になる。やがて丁抹《でんまるく》王城《おうじょう》の場になる。道具立《どうぐだて》は淋《さび》しいが、国王は眼がぎろりとして、如何にも悪党《あくとう》らしい。ガァツルード妃《ひ》は血色が好過ぎ若過ぎ強過ぎた。緑の上衣の若者を一寸ハムレットかと思うたら、そうではなくて、少し傍見《わきみ》をして居た内に、黒い喪服《もふく》のハムレットが出て来て、低い腰掛《こしかけ》にかけて居た。余は熟々《つくづく》とハムレットの顔を見た。成程違わぬ。舞台のハムレットには、幼《おさ》な顔の土肥《どい》君が残って居る。
 土肥君は余の同郷、小学校の同窓《どうそう》である。色の浅黒い、顋《あご》の四角な、鼠《ねずみ》の様な可愛いゝ黒い眼をした温厚《おんこう》な子供であった。阿父《おとっさん》が書家《しょか》樵石《しょうせき》先生だけに、土肥君も子供の時から手跡《しゅせき》見事に、よく学校の先生に褒《ほ》められるのと、阿父が使いふるしの払子《ほっす》の毛先を剪《はさ》み切った様な大文字筆を持って居たのを、余は内々ひどく羨《うらや》んだものだ。其れは西郷戦争前であった。余等の仲間《なかま》では、仲の好い同志遊びに往ったり来たり泊《とま》ったりしたものだ。ある時余は学校の帰りに土肥君と他の二三人を「遊びに来《こ》らし」と引張って、学校から小一里もある余の家に伴《とも》のうた。遊んで居る内日が暮れたので、皆泊ることにした。土肥君は彼《あの》鼠《ねずみ》の様な眼を見据《みす》えて、やゝ不安な寂《さび》しそうな面地をして居たが、皆に説破されて到頭泊った。枕を並べて一寝入《ひとねい》りしたと思うと、余等は起された。土肥君の宅から迎えの使者が来たと云うのである。土肥君はいそ/\起きて一人帰って往った。為めに余等は甚《はなはだ》興を失ったが、子供の事だ、其まゝ寝ついた。翌日はみやげにすると云うて父が秘蔵《ひぞう》のシャボテンの芽《め》をかいで、一同土肥君の宅に押しかける途中、小川で水泳して、枯れてはいけぬと云うて砂の中にシャボテンの芽を仮植《かりう》えしたりしたことがある。其頃の土肥君は、色は黒いが少女《おとめ》の様なつゝましい子であった。余は西郷戦争の翌年京都に往った。其れからかけ違《ちが》って君に逢わざること三十三年。三十四年目に帝国座の舞台で丁抹《でんまるく》の王子として君を見るのである。
 興味は一幕毎に加わって行く。オフィリャは可憐《かれん》であった。劇中劇の幕の終、ハムレットの狂喜《きょうき》が殊《こと》に好かった。諫言の場もハムレットの出来は好かった。矢張|王妃《おうひ》が強過ぎた。ポロニアスは手に入ったもの。ホラシオは間《ま》がぬけた。オフィリャの狂態《きょうたい》になっての出は凄《すご》く好かった。墓場《はかば》で墓掘《はかほり》の歌う声が実に好く、仕ぐさも軽妙であった。
 要するに帝国劇場は荘麗なもの、沙翁劇《さおうげき》は真面目《まじめ》で案外面白いものであった。
 大詰《おおづめ》の幕がひかれたのが、九時過ぎ。新宿から車で帰る。提灯《ちょうちん》の火が映《うつ》る程、街道《かいどう》は水が溜《たま》って居る。
「降ったね」
「えゝ/\。ひどい降りでした。上《かみ》では雹《ひょう》が降ったてます」
 余等が帝劇のハムレットに喜憂《きゆう》を注《そそ》いで居る間に、北多摩《きたたま》では地が真白になる程雹が降った。余が畑の小麦《こむぎ》も大分こぼれた。隣字《となりあざ》では、麦は種《たね》がなくなり、桑《くわ》も蔬菜《そさい》も青い物|全滅《ぜんめつ》の惨状《さんじょう》に会《あ》うた。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月二十四日)
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     春の暮

 庭石菖《にわせきしょう》、またの名は草あやめの真盛りである。茜《あかね》がかった紫と白と、一本二本はさしてめでたい花でもないが、午《ご》の日を受けて何万となく庭一面に咲く時は、緑の地《じ》に紫と白の浮き模様《もよう》、花毛氈《はなもうせん》を敷いた様に美しい。見てくれる人がないから、日傭《ひよう》のおかみを引張って来て見せる。
 草あやめの外には、芍薬《しゃくやく》、紫と白と黄の渓※[#「くさかんむり/孫」、第3水準1-91-17]《あやめ》、薔薇《ばら》、石竹《せきちく》、矍麦《とこなつ》、虞美人草《ぐびじんそう》、花芥子《はなげし》、紅白《こうはく》除虫菊《じょちゅうぎく》、皆存分に咲いて、庭も園も色々に明《あか》るくなった。
 畑では麦が日に/\照って、周囲《あたり》の黯《くら》い緑に競《きそ》う。春蝉《はるぜみ》が鳴《な》く。剖葦《よしきり》が鳴く。蛙《かわず》が鳴く。青い風が吹く。夕方は月見草《つきみそう》が庭一ぱいに咲いて香《かお》る。
 今日《きょう》は雨が欲しく、風が恋《こい》しく、蔭《かげ》がなつかしい五月下旬の日であった。蝉《せみ》の音《ね》、色づいた麦、耳にも眼にもじり/\と暑《あつ》く、光《ひか》る緑に眼は痛《いた》い様であった。果然《かぜん》寒暖計《かんだんけい》は途方《とほう》もない八十度を指《さ》した。
 落葉木《らくようぼく》が悉皆《すっかり》若葉から青葉になった処で、樫《かし》、松《まつ》、杉《すぎ》、樅《もみ》、椎《しい》等の常緑樹《ときわぎ》や竹《たけ》の類《るい》が、日に/\古葉《ふるは》を落しては若々しい若葉をつけ出した。此頃は毎日|掃《は》いても掃いても樫の古葉が落ちる。
 気軽《きがる》な落葉木の若葉も美しいが、重々しい常緑樹の柄《がら》にない嫩《やわら》かな若葉をつけた処も中々好い。ゆさ/\と嫩《やわ》らかな食《く》えそうな若葉をかぶった白樫《しらかし》の瑞枝《みずえ》、杉は灰緑《かいりょく》の海藻《かいそう》めいた新芽《しんめ》を簇立《むらだ》て、赤松《あかまつ》は赭《あか》く黒松《くろまつ》は白っぽい小蝋燭《ころうそく》の様な心芽《しんめ》をつい/\と枝の梢毎《うらごと》に立て、竹はまた「暮春には春服已に成る」と云った様に譬《たと》え様もない鮮《あざ》やかな明るい緑の簑《みの》をふっさりとかぶって、何れを見ても眼の喜《よろこび》である。
 今夜はじめて蚊《か》が一つぶゥんと唸《うな》った。
「蚊一つに寝《ね》られぬ宵《よひ》や春の暮」
 春は最早《もう》暮るゝのである。
[#地から3字上げ](明治四十五年 五月二十六日)
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     首夏

 先日七の家《うち》から茄子苗《なすなえ》を買ったら、今朝七の母者《ははじゃ》がわざ/\茄子の安否《あんぴ》を見に来た。
 此頃の馳走《ちそう》は豌豆《えんどう》めしだ。だが、豌豆にたかる黒虫、青虫の数は、実に際限がない。今日も夫婦で二時間ばかり虫征伐《むしせいばつ》をやった。虫と食を争《あらそ》い、蠅《はえ》と住居《すまい》を争い、人の子もこゝさん/″\の体《てい》たらくだ。
 午後|筍買《たけのこか》いに隣村まで出かける。筍も末だ。其筈である、新竹《しんちく》伸《の》びて親竹《おやだけ》より早一丈も高くなって居る。往復に田圃《たんぼ》を通った。萌黄《もえぎ》に萌《も》え出した苗代《なわしろ》が、最早《もう》悉皆《すっかり》緑《みどり》になった。南風《みなみ》がソヨ/\吹く。苗代の水に映《うつ》る青空《あおぞら》に漣《さざなみ》が立ち、二寸ばかりの緑秧《なえ》が一本一本|涼《すず》しく靡《なび》いて居る。
 両三日来夜になると雷様《かみなりさま》が太鼓《たいこ》をたゝき、夕雲《ゆうぐも》の間から稲妻《いなずま》がパッと射《さ》したりして居たが、五時過ぎ到頭|大雷雨《だいらいう》になり、一時間ばかりして霽《は》れた。
 袷《あわせ》では少し冷《ひや》つくので、羅紗《らしゃ》の道行《みちゆき》を引かけて、出て見る。門外の路には水溜《みずたま》りが出来、熟《う》れた麦は俯《うつむ》き、櫟《くぬぎ》や楢《なら》はまだ緑の雫《しずく》を滴《た》らして居る。西は明るいが、東京の空は紺色《こんいろ》に曇って、まだごろ/\遠雷《えんらい》が鳴って居る。武太《ぶた》さんと伊太《いた》さんが、胡瓜《きゅうり》の苗を入れた大きな塵取《ごみとり》をかゝえて、跣足《はだし》でやって来る。
 最早夏に移るのだ。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月二十七日)
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     憎むと枯れる

 戸を開《あ》けると、露一白《つゆいっぱく》。芝生《しばふ》には吉野紙《よしのがみ》を広げた様な蜘網《くものあみ》が張って居る。小さな露の玉を瓔珞《ようらく》と貫《つらぬ》いた蜘《くも》の糸が、枝から枝にだらりと下《さが》って居る。
 門の入口に甘《あま》い香《かおり》がすると思うたら、籬根《かきね》にすいかずらの花が何時の間にか咲いて居る。
 生々《せいせい》又生々。営々《えいえい》且《かつ》営々。何処《どこ》を向いても凄《すさま》じい自然の活気《かっき》に威圧《いあつ》される。田圃《たんぼ》には泥声《だみごえ》あげて蛙《かわず》が「生《う》めよ殖《ふ》えん」とわめく。雀や燕《つばめ》は出産《しゅっさん》を気がまえて、新巣《しんす》の経営《けいえい》に忙《せわ》しく、昨日も今日も書院《しょいん》の戸袋《とぶくろ》に巣《す》をつくるとて、チュッ/\チュッ/\喧《やかま》しく囀《さえず》りながら、さま/″\の芥《あくた》をくわえ込む。蠅《はえ》がうるさい。蚊《か》がうるさい。薔薇《ばら》にも豌豆《えんどう》にも数限りもなく虫が涌く。地は限りなく草を生《は》やす。四囲《あたり》の自然に攻め立てられて、万物《ばんぶつ》の霊殿《れいどの》も小さくなって了《しま》いそうだ。
 隣の金《かね》さんが苗をくれた南瓜《とうなす》の成長を見に来たついでに、斯様《こん》な話をした。金さんの家に、もと非常によく実《な》る葡萄《ぶどう》があった。一年《あるとし》家の新ちゃんが葡萄をちぎると棚《たな》から落ち、大分の怪我をした。それからと云うものは、家の者一同深く其葡萄の木を憎んだ。すると、葡萄は何時となく枯れて了うた。憎むと枯れる。面白い話。新約聖書に、耶蘇《やそ》が実《みの》らぬ無花果《いちじく》を通りかゝりに咀《のろ》うたら、夕方帰る時最早枯れて居たと云う記事がある。耶蘇程の心力の強い人には出来そうな事だ。
 夕方|真紅《まっか》な提灯《ちょうちん》の様な月が上った。雨になるかと思うたら、水の様な月夜になった。此の頃は宵毎《よいごと》に月が好い。夜もすがら蛙が鳴く。剖葦《よしきり》が鳴く。月に浸《ひた》されて生活する我儕《われら》も、さながら深い静かな水の底《そこ》に住んで居る心地がする。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月一日)
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     麦愁

 机に向うて、終日|兀座《こつざ》。
 外は今にも降りそうな空の下に、一村《ひとむら》総出の麦収納《むぎしゅうのう》。此方《こち》では鎌の音|※[#「竹/(束+欠)」、下巻-60-3]々《さくさく》。彼方《あち》では昨日苅ったのを山の様に荷車に積んで行く。時々|賑《にぎ》やかな笑声が響《ひび》く。皆欣々として居る。労働の報酬《むくい》が今来るのだ。嬉《うれ》しい筈。
 例年麦秋になると、美的百姓先生の煩悶《はんもん》がはじまる。余は之を自家の麦愁《ばくしゅう》と名づける。先生の家《うち》にも、大麦小麦を合わせて一反そこらの麦の収納をするが、其れは人を傭《やと》うたりして直ぐ片づいてしまう。慰《なぐさ》みにくるり棒を取った処で、大した事も無い。買った米を食う先生には、大麦の二俵三俵取れたところで、何でもないのだ。単純な充実《じゅうじつ》した生活をする農家が今|勝誇《かちほこ》る麦秋の賑合《にぎわい》の中に、気の多い美的百姓は肩身狭く、憊《つか》れた心と焦々《いらいら》した気分で自ら己を咀《のろ》うて居る。さっぱりと身を捨てゝ真実の農にはなれず。さりとて思う様に書けもせず。彼方《あち》を羨《うらや》んで見たり、自ら憐んで見たり。中途|半端《はんぱ》な吾儘《わがまま》生活をする罰《ばち》だ。致方は無い。もとより見物人も役者の一人ではある。然し離《はな》れて独り見物は矢張|寂《さび》しい。
 終日|懊悩《おうのう》。夕方庭をぶら/\歩いた後、今にも降り出しそうな空の下に縁台《えんだい》に腰かけて、庭一ぱいに寂寥《さびしさ》を咲《さ》く月見草の冷たい黄色の花をやゝ久しく見入った。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月五日)
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     堀川

       一

 新聞を見たら、今夜本郷中央会堂で呂昇の堀川がある。蓄音器では、耳にタコの出来る程|鳥辺山《とりべやま》も聞いて居る。生《しょう》の声で呂昇の堀川は未だ聞かぬ。咽喉《のど》が悪いとて療治をして居ると云うが如何だろう、と好奇心も手伝うて、午後|独歩《どっぽ》荻窪《おぎくぼ》停車場《すてえしょん》さして出かける。
 デカが跟《つ》いて来る。ピンは一昨夜子を生んだので、隣家《となり》の前まで見送って、御免を蒙《こうむ》った。朝来の雨は止んで、日が出たが、田圃はまだ路が悪い。田植時《たうえどき》も近いので、何《ど》の田も生温《なまぬる》い水満々と湛《たた》え、短冊形《たんざくがた》の苗代は緑の嫩葉《わかば》の勢揃《せいぞろ》い美しく、一寸其上にころげて見たい様だ。泥《どろ》の楽人《がくじん》蛙の歌が両耳に溢《あふ》れる。甲州街道を北へ突切《つっき》って行く。大麦は苅られ、小麦は少し色づき、馬鈴薯や甘藷《さつまいも》、草箒《くさほうき》などが黒い土を彩《いろ》どって居る。其間を太《ふと》いはりがねを背負って二本ずつ並んで西から北東へ無作法《ぶさほう》に走って居るのが、東京電燈の電柱である。一部を赤く塗《ぬ》って、大きな黒文字で危険と書き、注意と書いてある。其様《そん》な危険なものなら、百姓の頭の上を引張《ひっぱ》らずと、地下でも通したらよさそうなものだ。
 よく身投《みなげ》があるので其|袂《たもと》に供養《くよう》の卒塔婆《そとば》が立って居る玉川上水の橋を渡って、田圃に下り、また坂を上って松友《しょうゆう》の杉林の間を行く。此処の杉林は見ものである。檣《ほばしら》、電柱、五月鯉《さつきのこい》の棹《さお》などになるのが、奇麗に下枝を下《お》ろされ、殆んど本末の太さの差もなく、矗々《すくすく》と天を刺して居る。電燈会社は、此杉林を横断《おうだん》して更に電線を引きたがって居るが、松友の財産家が一万円出すと云う会社の提議《ていぎ》を刎《は》ねつけて応ぜぬので、手古摺《てこず》って居るそうである。
 雨がはら/\と来た。ステッキ一本の余は、降ったり止んだりする危《あぶな》げな空を眺め※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]行く。田無街道を突切って、荻窪停車場に来た。
 中野まで汽車。中野から電車。お茶の水で下りて、本郷中央会堂に往った。

       二

 何の為の慈善演芸会か知らぬが、中央会堂はほゞ一ぱいになって居た。演壇では、筒袖《つつそで》の少年が薩摩《さつま》琵琶《びわ》を弾《ひ》いて居た。凜々《りり》しくて好い。次ぎは呂昇の弟子の朝顔日記浜松小屋。まだ根から子供だ。其れから三曲《さんきょく》合奏《がっそう》の熊野《ゆや》。椅子にかけての琴、三絃《さみせん》は、見るにあぶなく、弾きにくゝはあるまいかと思われた。三曲|済《す》んで休憩《きゅうけい》になった。
 九時二十分頃、呂昇が出て来て金屏風《きんびょうぶ》の前の見台《けんだい》に低頭《ていとう》した。連《つ》れ弾《びき》は弟子の昇華《しょうか》。二人共時候にふさわしい白地に太い黒横縞《くろよこしま》段だらの肩衣《かたぎぬ》を着て居る。有楽座で初めて中将姫を聞いた時よりヨリ若く今宵《こよい》は見えた。場内は一ぱいになった。頭の禿《は》げた相場師らしいのや、瀟洒《しょうしゃ》とした服装《なり》の若い紳士や、涼《すず》しく装うた庇髪《ひさしがみ》、皆呂昇の聴者《ききて》である。場所柄に頓着《とんじゃく》なく、しっかり頼みますぞ、など声をかける者がある。それを笑う声も起った。
 呂昇は無頓着に三絃取って斜《しゃ》に構え、さっさと語り出した。咽喉《のど》をいためて療治《りょうじ》中だと云うに、相変らず美しい声である。少しは加減して居る様だが、調子に乗ると吾を忘れて声帯《せいたい》が震《ふる》うらしい。語り出しは、今少しだ。鳥辺山《とりべやま》は矢張好かった。灯影《ほかげ》明るい祇園町の夜、線香の煙《けぶり》絶々《たえだえ》の鳥辺山、二十一と十七、黒と紫とに包まれた美しい若い男女が、美しい呂昇の声に乗ってさながら眼の前に踊《おど》った。お俊《しゅん》のさわりはます/\好い。呂昇が堀川のお俊や、酒屋のお園や、壺坂《つぼさか》のお里を語るは、自己を其人に托《たく》するのだ。同じ様な上方女《かみがたおんな》、同じ様な気質《きだて》の女、芸と人とがピッタリ合うて居るのだ。悪かろう筈がない。呂昇が彼美しい声で語り出す美しい女性《にょしょう》の魂《たましい》は、舞台のノラ[#「ノラ」に傍線]を見たり机の上の青鞜《せいとう》を読んだりする娘達に、如何様《どん》な印象《いんしょう》を与うるであろうか。余は見廻わした。直ぐ隣の腰かけに、水際立《みずぎわた》ってすっきりとした装《なり》をした十八九の庇髪《ひさしがみ》が三人並んで居る。二人は心を空《そら》にして呂昇の方を見入って居る。一人の金縁眼鏡には露が光って居る。日の若い単純《たんじゅん》な代《よ》も、複雑な今日も、根本《こんぽん》の人情に差違はない。唯真故新《ただしんゆえにしん》、古い芸術も新しい耳によく解せられるのである。
 猿廻《さるまわ》しに来た。此は呂昇の柄《がら》にも無いし、連れ弾もまずいし、大隈《おおすみ》を聞いた耳には、無論物足らぬ。と思いつゝ、十数年前の歌舞伎座《かぶきざ》が不図眼の前に浮んだ。ぽっと鬘《かつら》をかぶった故人菊五郎の与次郎が、本物の猿を廻わしあぐんで、長い杖《つえ》で、それ立つのだ、それ辞義《じぎ》だと、己《わ》が物好きから舞台面の大切《たいせつ》な情味を散々に打壊《ぶちこわ》して居る。今の梅幸の栄三郎のお俊が、美しい顔に涙はなくて今にも吹き出しそうにして居る。故人片市の婆《ばあ》さんと、故人菊之助の伝兵衛が独《ひとり》神妙《しんみょう》にお婆さんになり伝兵衛になって舞台を締《し》めて居る。余は菊之助が好きだった。彼が真面目《まじめ》な努力の芸術は、若いながらも立派なものであった。彼は自身がする程の役には、何様《どん》な役でも身を入れて勤めた。養父《ようふ》も義弟も菊五郎や栄三郎|寧《いっそ》寺島父子になって了《しも》うた堀川の芝居の此猿廻わしの切《きり》にも、菊之助のみは立派《りっぱ》な伝兵衛であった。最早彼は此世に居ない。片市も、菊五郎も居ない。
 夥《おびただ》しい拍手が起った。吾に復《かえ》ると呂昇と昇華が演壇の上に平伏《ひれふ》して居た。

       三

 堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ちて居る。雨傘《あまがさ》と、懐中電燈の電池《でんち》を買って、電車で新宿に往った。追分《おいわけ》で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った。若い車夫はさっさと挽《ひ》き出す。新町を出はなれると、甲州街道は真暗で、四辺《あたり》はひっそりして居た。余程降ったと見えて、道が大分悪い。
「旦那は重うございますね。二十|貫《かん》から御ありでしょう」
「なまけるからね」
「エ、如何《どう》しても体を烈《はげ》しく使《つか》うと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません」
 車夫は市川の者、両親は果て、郷里の家は兄がもち、自身は今|十二社《じゅうにそう》に住んで、十三の男児《むすこ》を頭に子供が四人、六畳と二畳を三円五十銭で借り、かみさんは麻《あさ》つなぎの内職をして居る。
「だから中々遊んで居られませんや」
 烏山《からすやま》の口《くち》で下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。
 雨は止んで居る。懐中電燈の光を便《たよ》りに、真黒い藪蔭《やぶかげ》の路を通って、田圃《たんぼ》に下りた。夜目にも白い田の水。蛙《かわず》の声が雨の様だ。不図東の空《そら》を見ると、大火事の様に空が焼けて居る。空に映《うつ》る東京の火光《あかり》である。見る/\すうと縮《ちぢ》み、またふっと伸びる。二百万の生霊《せいれい》が吐《つ》く息《いき》ひく息が焔《ほのお》になるのかと物凄《ものすご》い。田圃の行き止まりに小さな流れがある。其処《そこ》に一つ碧《あお》い光が居る。はっと思うと、ついと流れた。螢《ほたる》であった。田圃を上りきると、今度は南の空の根方《ねかた》が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光《あかり》であろう。村々は死んだ様に真黒《まっくろ》に寝て居る。都は魘《おそ》われた様に深夜《しんや》に火の息を吐いて居る。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月十日)
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     ムロのおかみ

 目籠《めかご》を背負《せお》って、ムロのおかみが自然薯《じねんじょ》を売りに来た。一本三銭宛で六本買う。十五銭に負《ま》けろと云うたら、それではこれが飲《の》めぬと、左の手で猪口《ちょこ》をこさえ、口にあてがって見せた。
 ムロのおかみは酒が好きである。
 ムロのおかみは近村《きんそん》の者である。夫婦はもと兄の家のムロに住んで居たので、今も「ムロ」さん/\と呼ばれて居る。夫婦して一《ひと》つコップから好きな酒を飲み合い、暫時《しばし》も離れぬので、一名|鴛鴦《おし》の称がある。夫婦は農家の出だが、別に耕《たがや》す可き田畑も有《も》たぬ。自然薯でも、田螺《たにし》でも、鰌《どじょう》でも、終始|他人《ひと》の山林田畑からとって来ては金に換《か》え、飯《めし》に換え、酒に換える。門松すら剪《き》って売ると云う評判がある。村に行わるゝ自然《しぜん》の不文律《ふぶんりつ》で、相応な家計《くらし》を立てゝ居る者が他人の櫟《くぬぎ》の枝一つ折っても由々敷《ゆゆしい》咎《とが》になるが、貧しい者は些《ちっと》やそとのものをとっても、大目に見られる。ムロの鴛鴦夫婦は、此《この》寛典《かんてん》の中に其理想的|享楽生活《きょうらくせいかつ》を楽しんで居るのである。
 午後到頭雨になった。蛙《かわず》の声が劣《おと》らじと雨に競《きそ》うてわめく。
 夜皆寝て了うたあとで、母屋《おもや》の段落《だんおち》で二葉亭訳「うき草」を読んだ。此処《ここ》は引越した年の秋、無理に北側《きたがわ》につぎ足した長五畳の板張《いたばり》で、一尺程段落になって居る。勾配《こうばい》がつかぬので、屋根は海鼠板《なまこいた》のトタンにし、爪立《つまだ》てば頭が閊《つか》える天井《てんじょう》を張った。先には食堂にして居たので、此狭い船房《カビン》の様な棺の中の様な室《しつ》で、色々の人が余等と食を共にした。今は世に亡《な》き人々の記憶が、少なからず此処《ここ》に籠《こも》って居る。
 夜は更《ふ》けた。余は「うき草」の巻を開《あ》けたまゝ、読むともなく、想うともなく、テェブルに凭《もた》れて居る。雨がぼと/\頭上《ずじょう》のトタンをたゝく。ランプが※[#「虫+慈」、下巻-68-4]々ともえる。
 うき草の訳者二葉亭は印度洋で死んだ。原著者のツルゲーネフは夙《とう》に死んだ。然しルヂンは生きて居る。ナタリーも生きて居る。アレキサンドラも、ビカソーフも、バンタレフスキーもワルインツオフも生きて居る。
 人生短、芸術千古。
[#地から3字上げ](明治四十二年 六月十五日)
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     田圃の簑笠

 朝から驟雨性《しゅううせい》の雨がざあと降って来たり、繊《ほそ》い雨が煙ったり、蛞蝓《なめくじ》が縁に上り、井戸|縁《ぶち》に黄な菌《きのこ》が生《は》えて、畳の上に居ても腹の底まで滲《し》み通りそうな湿《しめ》っぽい日。
 今日も庭の百日紅《さるすべり》の梢に蛇が居る。何処かの杉の森で梟《ふくろ》がごろ/\咽《のど》を鳴らして居る。麦が収められて、緑暗い村々に、微《すこ》しの明るさを見せるのは卵色の栗の花である。
 蛙の声の間々《あいあい》に、たぶ/\、じゃぶ/\田圃に響《おと》がする。見れば簑笠《みのかさ》がいくつも田に働いて居る。遠く見れば水戸様の饌《ぜん》にのりそうな農人形が、膝まで泥に踏み込んで、柄の長い馬鍬《まんが》を泥に打込んでは曳《えい》やっと捏《こ》ね、また打込んでは曳やっとひく。他所では馬に引かす犁《すき》を重そうに人間が引張って、牛か馬の様に泥水《どろみず》の中を踏み込み/\ひいて行く。労力《ろうりょく》其ものゝ画姿を見る様で、気の毒すぎて馬鹿※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しく、腹が立つ。労働は好いが、何故《なぜ》牛馬の働《はたらき》までせねばならぬ乎。
 然し千歳村は約千町歩の面積《めんせき》の内、田はやっと六十町歩に過ぎぬ。田の労《ろう》は多くない。馬を使う程でもない、と皆が云う。此れでも昔は馬も居たそうだが、今は馬を飼《か》うも不経済《ふけいざい》で、馬を使うより人力がまだ/\ましと皆が云う。共同して馬を飼うたらと云ったこともあるが共同が中々行われぬ。
 馬も一利一害である。余の字《あざ》には、二三年来二十七戸の内で馬を飼う家が三軒出来た。内二軒は男の子が不足なので、東京からの下肥《しもごえ》ひきに馬を飼う事を思い立ったのである。然し石山の馬は、口綱をとって行く主人と調子が合わなかった為、一寸した阪路を下る車に主人は脾腹《ひばら》と太腿《ふともも》をうたせ、二月も寝る程の怪我をした。寺本の馬は、新宿で電車に驚いて、盲目の按摩《あんま》を二人|轢《ひ》き倒し、大分の面倒を惹起《ひきおこ》した。其隣の馬は、節句の遊びに乗った親類の村蔵と云う男を刎《は》ね落して、肩骨《かたぼね》を挫《くじ》き、接骨医《せっこつい》に二月も通わねばならぬ様の怪我をさせ、其為一家の予算に狂いが来て、予定の結婚が半歳も延ばされた。
 だから馬も考えものだ、と皆が言う。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月十七日)
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     つゆ霽れ

 梅雨中とは云いながら、此十日余思わしい日の目も見ず、畳《たたみ》を拭くと新しい雑巾《ぞうきん》が黴《かび》で真黒になった。今日はからりと霽れて、歓《よろこ》ばしい日光の代《よ》になった。待ちかねた様に蝉《せみ》が高音《たかね》をあげる。ほやり/\水蒸気立つ土には樹影《こかげ》黒々と落ち、処女《おとめ》の袖《そで》の様に青々と晴れた空には、夏雲が白く光る。戸、障子、窓の限りを開放《あけはな》して存分に日光と風とを容《い》れる。
 今日の晴を待ちつけた農家は、小踊《こおど》りして、麦うちをはじめた。東でもばた/\、西でもばったばた。東の辰さんの家では、形《なり》は小さいが気前の好い男振りの好い岩公が音頭とりで、「人里《ひとざと》はなれた三軒屋でも、ソレ、住めば都の風が吹《ふ》ゥくゥ、ドッコイ」歌声《うたごえ》賑《にぎ》やかにばったばた。北の金《かね》さん宅《とこ》は口の重い人達ばかり、家族中で歌の一つも歌おうと云う稲公《いねこう》は砲兵に、春っ子は小学校に往って居るので、爺《おやじ》、長男長女、三男の四人《よったり》、歌は歌わぬかわり長男の音公が時々「ヨウ」と懸声に勢《いきおい》をつけて、規則正しくばったばた。西も東も南も北も勇ましい歓喜の勝鬨《かちどき》。聞くからに心《むね》が躍《おど》る。
[#ここから3字下げ]
つゆ霽《は》れやたう/\/\と麦《むぎ》を撲《う》つ
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ](明治四十三年 六月二十九日)
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     有たぬ者

 新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方《どかた》が入り込み、村は連日《れんじつ》戒厳令の下《もと》にでも住む様に兢々《きょうきょう》として居る。
 天下無敵の強者と云えば、土方人足は其一であろう。彼等は頂天《ちょうてん》立地《りっち》何の恐るゝ処もない赤裸《あかはだか》の英雄である、原人《げんじん》である。彼等は元来裸である。何ものも有《も》たない。有たないから失うことが出来ない。失うものがないから、彼等は恐るゝことを知らぬ。生存競争の戦闘《たたかい》に於て、彼等は常に寄手《よせて》である。唯進んで撃《う》ち而して取ればよいのである。守ると云うは、有つ者の事である。守ると云うは、已に其第一歩に於て敗北《はいぼく》である。
 世には有たぬ程強い事はない。有たぬ者は、すべてのものを有つのである。彼等には明日は無い。昨日も無い。唯今日がある、刹那《せつな》がある。彼等は神を恐れない。王者《おうしゃ》を恐れない。名聞《みょうもん》を思わない。彼等は失うべき富もない。愛《おし》む可き家族も無い。彼等は其れより以下に落つ可き何等の位置も有たない。国家か、何ものぞ。法律か、何の関係ぞ。習慣《しゅうかん》、何の束縛《そくばく》ぞ。彼等は胃の命令と、腸《ちょう》の法律と、皮膚《ひふ》の要求と、舌頭の指揮と、生殖器の催促《さいそく》の外、何の縛《しば》らるゝ処がない。彼等は自然力其ものである。一触《いっしょく》してタイタニックを沈めた氷山である。華麗《かれい》な羅馬の文明を鉄蹄《てってい》に蹂躙《じゅうりん》した北狄《ほくてき》蛮人である。一切の作為《さくい》文明《ぶんめい》は、彼等の前に灰の如く消えて了う。
 土を穿ち、土を移し、土を平《な》らし、土を積む。彼等は工兵の蟻《あり》である。同じ土に仕事する者でも、農は蚯蚓《みみず》である。蚯蚓は蟻を恐れる。
 有つ者にとっては、有たぬ者程恐ろしい者は無い。土方人足の村で恐れられるも尤《もっとも》である。然しながら何ものも有たぬ彼等も、まだ生命《いのち》と云うものを有って居る。彼等は生命を惜《おし》む。此れが彼等の弱点である。有たずに強い彼等も、有てば弱くなる虞《おそれ》がある。世にも恐ろしい者は、其生命さえも惜まぬのみか、如何なる条件をもって往っても妥協《だきょう》の望がない人々である。彼等は何ものを有っても満足せぬ。彼等は全宇宙《ぜんうちゅう》を吾有《わがもの》にしなければ満足せぬ。寧《むしろ》吾を全宇宙に与えなければ満足せぬ。其一切を獲ん為には、有てる一切を捨《す》てゝ了う位は何でもない。耶蘇も仏陀《ぶつだ》も斯恐ろしい人達である。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月十三日)
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     食われるもの

 奥の座敷で日課を書いて居ると、縁に蹲《うずくま》って居た猫のトラがひらりと地に飛び下りた。またひらり縁に飛び上ったのを見ると、蜥蜴《とかげ》を啣《くわ》えて居る。窃《そ》と下ろした。蜥蜴は死んだのか、気絶したのか、少しも動かぬ。トラはわんぐりと喰《く》いはじめた。まだ生きて居ると見えて、蜥蜴の尾《お》が右左に揺《うご》いた。トラは遽《あわ》てず、眼を閉《と》じ、頭を傾《かし》げて、悠々《ゆうゆう》と味わい/\食って居る。小さな豹《ひょう》か虎かを見て居る様で、凄《すご》い。蜥蜴の体は最早トラの胃の中にあるに、切れて落ちた鋼鉄色《こうてついろ》の尾の一片は、小さな一疋の虫かなんぞの様にぐるっと巻《ま》いたりほどけたりして居る。トラめは其れも鵜呑《うのみ》にして了うた。蜥蜴のカタミは何も無い。日は相変らず昭々《しょうしょう》と照らして居る。地球は平気で駛《はし》って居る。木の葉一つソヨがぬ。トラは蜥蜴を食ってしまって、世にも無邪気《むじゃき》な顔をして、眼を閉じて眠って了うた。
 昨日は庭で青白い螟蛉《あおむし》を褐色《かちいろ》のフウ虫二疋で螫《さ》し殺して吸うて居るのを見た。
 一昨日《おととい》は畑を歩いて、苦しい蛙《かわず》の鳴き声を聞いた。ドウしても蛇《へび》にかゝった蛙の鳴き声と思って見まわすと、果然《はたして》二尺ばかりの山かゞしが小さな蛙の足を啣《くわ》えて居る。余は土塊《つちくれ》を投げつけた。山かゞしは蛇の中でも精悍《せいかん》なやつである。蛙の腿《もも》を啣えながら鎌首《かまくび》をたてゝ逃げて行く。竹ぎれを取って戻《もど》ると、玉蜀黍《とうもろこし》の畑に見えなくなった了うた。

 優勝《ゆうしょう》劣敗《れっぱい》は天理である。弱肉強食は自然である。宇宙は生命《いのち》のとりやりである。然し強いものゝ上に尚強いものがあり、弱いものゝ下に尚弱いものがある。而して一番弱いものが一番強いものに勝つ場合もある。顕微鏡下《けんびきょうか》に辛《かろ》うじて見得る一|細菌《さいきん》が、神の子だイヤ神だと傲《おご》る人間を容易に殺して了うではないか。畢竟《ひっきょう》宇宙は大円《だいえん》。生命は共通。強い者も弱い。弱い者も強い。死ぬるものが生き、生きるものが死に、勝つ者が負け、負ける者が勝ち、食う者が食われ、食われるものも却て食う。般若心経《はんにゃしんきょう》に所謂、不増不減不生不滅不垢不浄、宇宙の本体は正に此である。
 然し我等は人間である。差別界《しゃべつかい》に住んで居る。煩悩《ぼんのう》もある。愚痴《ぐち》もある。我等は精神的に生きんと欲する如く、肉体の命も惜しい。吾情を以て他を推す時、犠牲《ぎせい》の叫《さけ》びは聞きづらい。
 ダァヰン[#「ダァヰン」に傍線]の兄弟分ワレース[#「ワレース」に傍線]博士は、蛇にのまるゝ蛙《かわず》は苦しい処ではない、一種の温味《おんみ》にうっとりとなって快感《かいかん》を以て蛇の喉《のど》を下るのだ、と云うた。大役《たいえき》小志《しょうし》の志賀氏は、旅順戦役を描《か》いて、決死の兵士は精神的《せいしんてき》高調《こうちょう》に入って、所謂苦痛なるものを大《たい》して感じない、と云って居る。如何にも道理で、また事実さもあろうと思わるゝ。
 然し我々は人間である。犠牲の声は聞きづらい。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月二十日)
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     蜩

 今年の自家《うち》の麦は、大麦も小麦も言語道断の不作だ。仔細は斯様《こう》である。昨秋の麦蒔《むぎまき》に馬糞《ばふん》を基肥《もとごえ》に使った。其れが世田ヶ谷騎兵聯隊から持って来た新しい馬糞で、官馬の事だから馬が食ってまだよく消化《しょうか》しない燕麦《えんばく》が多量に雑《まじ》って居た。総じて新しい肥料はよくないものだが、自家《うち》には堆肥《たいひ》の用意がない為に、拠所《よんどころ》なく新しい馬糞に過燐酸《かりんさん》を混じて使った。麦が生《は》えると同時に、馬糞の中の燕麦が生えた。麦が伸《の》びると、燕麦も伸びた。燕麦は麦より強い。麦に追肥《おいごえ》をやると、燕麦が勝手に吸《す》ってしまってドン/\生長する。麦畑《むぎばた》が一面燕麦の畑の様になった。非常な手数をかけて一々燕麦をぬいたが、最早《もう》肝腎《かんじん》の麦は燕麦に負けて其《その》穂《ほ》は痩《や》せこけたものになって居た。肥料が肥料を食ってしまったのである。世には斯様《こん》な事が沢山ある。
 トルストイの遺著《いちょ》の中、英訳になった劇「生《い》ける屍《しかばね》」を読む。トルストイ化した「イナック、アヽデン」と云う様なものだ。「暗黒《あんこく》の力《ちから》」程の力は無いが、捨てられぬ作である。
 縁の籐椅子《とういす》に腰かけて右のドラマを読んで居ると、トルストイ翁の顔やら家族の人々の顔やらが眼の前に浮ぶ。今日《きょう》は七月一日、丁度六年前ヤスナヤ、ポリヤナに居た頃である。曇《くも》ったり晴《は》れたりする空《そら》、上《のぼ》ったり下ったりする丘《おか》、緑が茂って、小麦が熟《う》れて、余の今の周囲も其時に似《に》て居る。
 最早はっきりとは文字の見えぬ本を膝《ひざ》にのせて、先刻《さっき》から音もなく降って居た繊《ほそ》い雨の其まゝ融《と》けた蒼《あお》い夕靄《ゆうもや》を眺めて居ると、忽ち向うの蒼い杉の森から、
「リン、――リン、リン」
 白銀《はくぎん》の鈴《りん》を振る様な鋭い蜩《ひぐらし》の音が響いた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月一日)
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     夏の一日

 眼をさますと、真裸《まっぱだか》で寝て居る。外では最早|蜩《ひぐらし》が鳴いて居る。蚊帳外《かやそと》の暗い隅では、蚊が※[#「口+云」、第3水準1-14-87]々《うんうん》唸《うな》って居る。刎《は》ね起きて時計を見れば、五時に十分前。戸をくると、櫟林《くぬぎばやし》から朝日の金光線が射《さ》して居る。
 顔を洗うと、真裸で芝生に飛び下り、磨《と》ぎ立ての鎌《かま》で芝を苅りはじめる。雨の様な露だ。草苅《くさかり》は露の間《ま》の事。ざくり、ざくり、ザク、ザク。面白い様に苅れる。
 足を洗《あら》って、体《からだ》を拭いて、上ると八時。近来朝飯ぬきで、十時に牛乳《ちち》一合。
 今日は少し日課を書いた。
 朝餐《あさめし》の午餐は赤の飯だ。今日は細君の誕生日《たんじょうび》である。昨日何か手に隠して持って来たのを、開けて見たら白髪《しらが》が三本だった。彼女にも白髪が生《は》えたのだ。余は十四五から五本や十本の白髪はあった。兎に角部分的には最早《もう》偕白髪《ともしらが》と云う域《いき》に達した訳である。
 主婦《しゅふ》の誕生日だが、赤の飯に豆腐汁で、鰯《いわし》の一尾も無い。午前に果樹園《かじゅえん》を歩いて居たら、水蜜の早生《わせ》が五つばかり熟《じゅく》して居るのを見つけた。取りあえず午餐の食卓に上《のぼ》す。時にとっての好いお祝。
 今日は夏になって以来の暑《あつ》い日だ。午後は到頭室内九十度に上った。千歳村の生活をはじめて六年、九十度は今日が初である。戸と云う戸、障子と云う障子、窓と云う窓を残らず開放《あけはな》し、母屋《おもや》は仕切の唐紙《からかみ》障子《しょうじ》を一切取払うて、六畳二室板の間ぶっ通しの一間《ひとま》にした。飲むと汗《あせ》になると知りつゝ、たまりかねて冷《つめ》たい麦湯を飲む、サイダアを飲む。飲む片端《かたはし》からぼろ/\汗になって流れる。犬のデカもピンも、猫のトラも、樫の木蔭《こかげ》にぐったり寝て居た。
 あまり暑いから髪《かみ》でも苅ろうかと、座敷の縁に胡踞《あぐら》かく。バリカンが駄目なので、剪《はさみ》で細君が三分に苅ってくれた。今朝苅った芝が、最早枯れて白く乾《かわ》いて居る。北海道の牧場の様ですね、と細君が曰う。主人《あるじ》は芝を苅り、妻は主人の髪を苅る。芝の心は知らぬが主人は好い心地になった。
 建具《たてぐ》取払って食堂が濶《ひろ》くなった上に、風が立ったので、晩餐の卓《たく》は涼《すず》しかった。飯を食いながら、唯《と》見《み》ると、夕日の残る葭簀《よしず》の二枚屏風に南天の黒い影が躍《おど》って居る。而《そう》して其葭簀を透《す》かして大きな芭蕉の緑の葉がはた/\揺《うご》いて居る。
 自動車の響《おと》が青山街道にしたかと思うと、東京のN君外三名が甲斐《かい》の山の写真を撮《と》りに来たのだ。時刻が晩《おそ》くて駄目だったが、無理に二枚程撮って帰った。
 日が傾《かたむ》くとソヨ吹きそめた南風《みなみ》が、夜に入ると共に水の流るゝ如く吹き入るので、ランプをつけて置くのが骨だった。母屋の縁に胡座《あぐら》かいて、身も魂も空虚《から》にして涼風《すずかぜ》に浸《ひた》る。ランプの光射《あかりさ》す程は、樫《かし》、ふさもじ、小さな孟宗竹《もうそうちく》の葉が一々緑玉に光って、ヒラ/\キラ/\躍って居る。光の及ばぬあたりは、墨画《すみえ》にかいた様な黒い葉が、千も万も躍って居る。木立《こだち》の間には白けた夏の夜の空《そら》が流れ、其処《そこ》にはまた数限も無い星がチラ/\瞬《またた》いて居る。庭の暗の方から、甘《あま》い香や強い刺戟性《しげきせい》の香が弗々《ふつふつ》と流れて来る。山梔子《くちなし》、山百合の香である。「夏の夜や蚊を疵《きず》にして五百両」これで蚊さえ居なかったら。
 今日誤ってもいだ烏瓜《からすうり》を刳《く》って細君が鶴子の為に瓜燈籠《うりどうろう》をつくり、帆かけ舟を彫《ほ》って縁につり下げ、しば/\風に吹き消《け》されながら、小さな蝋燭をともした。緑色に透《す》き徹《とお》った小天地、白い帆かけ舟が一つ中にともした生命《いのち》の火のつゞく限りいつまでもと其|表《おもて》を駛《はし》って居る。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月十八日)
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     明治天皇崩御の前後

       一

 明治四十五年七月二十一日。
 日曜だが、起きぬけに二時間の芝苅《しばかり》。
 天皇陛下|御不例《ごふれい》の発表があった。わざ/\発表がある程だ。御重態《ごじゅうたい》の程も察せられる。
 真黒い雲が今我等の頭上《ずじょう》を覆《おお》うて居る。

           *

 午後二時過ぎ、雷鳴、電光、沛然《はいぜん》と降雨があった。少し雹《ひょう》が雑《まじ》って居た。
 月番から回章《かいしょう》で、二十七日から二十九日まで、「総郷|上《あが》り正月」のふれが来た。中日が総出で道路の草苅りだ。回章の月番の名に、見馴《みな》れた寺本の七蔵の名はなくて、息子《むすこ》の喜三郎の名が見える。七蔵さんは此六日に亡《な》くなったのである。変った月番の名を見て、一寸《ちょっと》哀愁《あいしゅう》を覚えた。

       二

 七月二十二日。
 土用三郎と云うに、昨日の夕立以来、今日も曇《くも》って涼しいことである。
 白桔梗《しろききょう》、桔梗の花が五つ六つ。白っぽけた撫子《なでしこ》の花が二つ三つ。芝生《しばふ》の何処かで、※[#「虫+慈」、下巻-68-4]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《じじじ》と虫が鳴いて居る。
 寂《さび》しい。
 見る/\小さな雨がほと/\落ちて来た。
 寂しい。
[#ここから3字下げ]
夏さびし桔梗《きちかう》の花五つ六つ小雨《こさめ》まじりに虫の声して
[#ここで字下げ終わり]

       三

 七月三十日。
 例《れい》によって芝苅り。終って、桃の木の下で水蜜桃《すいみつとう》の立喰《たちぐい》。
 大きなプリマウス種の雄鶏《おんどり》が、鶏舎の外で死んで居た。羽毛が其処《そこ》此処《ここ》にちらかって居る。昨夜鶏舎の戸をしめる時|誤《あやま》って雄鶏をしめ出したので、夜中|鼬《いたち》に襲《おそ》われたのである。随分死の苦しみをしたであろうに、家の者はぐっすり寝込《ねこ》んで些《ちっと》も知らなかった。昨秋以来鼬の難《なん》にかゝることこゝに五たびだ。前度に懲《こ》りて、鶏舎の締《しま》りを厳重にしたが、外にしめ出しては詮方《しかた》が無い。梨《なし》の木の下に埋葬。
 午後東京から来た学生の一人が、天皇陛下|今暁《こんぎょう》一時四十三分|崩御《ほうぎょ》あらせられたと云う事を告げた。
 陛下崩御――其れは御重態《ごじゅうたい》の報伝わって以来|万更《まんざら》思い掛けぬ事ではなかったが。
 園内《えんない》を歩いて陛下の御一生を思うた。
 東の方を見ると、空も喪装《もそう》をしたのかと思われて、墨色《すみいろ》の雲が東京の空をうち覆《おお》うて居る。暮れ方になって降り出した。

       四

 七月三十一日。
 欝陶《うっとう》しく、物悲しい日。
 新聞は皆|黒縁《くろぶち》だ。不図新聞の一面に「睦仁《むつひと》」の二字を見つけた。下に「先帝御手跡」とある。孝明天皇の御筆かと思うたのは一瞬時《いっしゅんじ》、陛下は已に先帝とならせられたのであった。新帝陛下の御践祚《ごせんそ》があった。明治と云う年号《ねんごう》は、昨日限り「大正《たいしょう》」と改められる、と云う事である。
 陛下が崩御になれば年号も更《かわ》る。其れを知らぬではないが、余は明治と云う年号は永久につゞくものであるかの様に感じて居た。余は明治元年十月の生れである。即ち明治天皇陛下が即位式《そくいしき》を挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸《みゆき》あった其月東京を西南に距《さ》る三百里、薩摩に近い肥後|葦北《あしきた》の水俣《みなまた》と云う村に生れたのである。余は明治の齢《よわい》を吾齢と思い馴《な》れ、明治と同年だと誇《ほこ》りもし、恥じもして居た。
 陛下の崩御《ほうぎょ》は明治史の巻を閉《と》じた。明治が大正となって、余は吾生涯が中断《ちゅうだん》されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生《はんせい》を持って往っておしまいになったかの様に感じた。
 物哀《ものかな》しい日。田圃向うに飴屋《あめや》が吹く笛の一声《ひとこえ》長く響いて、腸《はらわた》にしみ入る様だ。

       五

 八月一日。
 月の朔《ついたち》で、八幡様に神官が来て、お神酒《みき》が上《あが》る。諒闇《りょうあん》中の御遠慮で、今日は太鼓《たいこ》も鳴らなかった。
 今日から五日間お経《きょう》をたてる、と云う言いつぎが来た。先帝の御冥福《ごめいふく》の為。
 鶏小屋《とりごや》に大きな青大将が入って、模型卵《もけいらん》をのんだ、と日傭《ひよう》のおかみが知らして来た。往って見ると、五尺もある青大将が喉元《のどもと》を膨《ふく》らして、そこらをのたうち廻《まわ》って居る。卵の積りで陶物《やきもの》の模型卵を呑んで、苦しがって居るのだ。折から来合わして居たT君が、尻尾《しっぽ》をつまんで鶏小屋から引ずり出すと、余が竹竿《たけざお》でたゝき殺した。竹で死体を扱《こ》いたら、ペロリと血だらけの模型卵を吐《は》いた。此頃一向卵が出来ぬと思ったら、此先生が毎日|召上《めしあが》ってお出でたのだ。青大将の死骸《しがい》は芥溜《ごみため》に捨てた。少し経《た》って見たら、如何《どう》したのか見えなかった。復活《ふっかつ》して逃げたのかも知れぬ。

       六

 八月二日。
 紅蜀葵《こうしょくき》の花が咲いた。
 甲州|玉蜀黍《とうもろこし》をもぎ、煮《に》たり焼いたりして食う。世の中に斯様《こん》なうまいものがあるかと思う。田園生活も此では中々やめられぬ。
 今日は土用中ながら薄寒《うすさむ》い日であった。朝は六十二三度しかなかった。尽日《じんじつ》北の風が吹いて、時々|冷《つめ》たい繊《ほそ》い雨がほと/\落ちて、見ゆる限りの青葉が白い裏《うら》をかえして南に靡《なび》き、寂《さび》しいうら哀《かな》しい日であった。
 今日は鶏小屋にほゞ鼬《いたち》と見まごうばかりの大鼠が居た。

       七

 八月八日。
 八月に入って四五日、フランネルを着《き》る様な日が続いた。小雨《こさめ》が降る。雲がかぶさる。北から冷たい風が吹く。例年九月に鳴く百舌鳥《もず》が無暗に鳴いたりした。薄い掻巻《かいまき》一つでは足らず、毛布を出す夜もあった。
 今日は久し振《ぶ》りに晴れた。空には一片の雲なく、日は晶々《あかあか》として美しく照りながら、寒暖計は八十二三度を越《こ》えず、涼しい南風《みなみ》が朝から晩まで水の流るゝ様に小止《おやみ》なく吹いた。颯々《さっさつ》と鳴る庭の松。かさ/\と鳴る畑の玉蜀黍《とうもろこし》。ざわ/\と鳴る田川の畔《くろ》の青萱《あおかや》。見れば、眼に入る緑は皆動いて居る。庭の桔梗《ききょう》の紫|揺《うご》き、雁来紅《けいとう》の葉の紅|戦《そよ》ぎ、撫子《なでしこ》の淡紅|靡《なび》き、向日葵《ひまわり》の黄|頷《うなず》き、夏萩の臙脂《えんじ》乱れ、蝉の声、虫の音《ね》も風につれて震《ふる》えた。夕日傾く頃となれば、風はます/\涼しく、樹影《こかげ》は黒く芝生に跳《おど》った。
「秋来ぬと眼にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」。風の音に驚くばかりかは、さやかに眼に見えて立つ秋の姿《すがた》である。
 昨夜は雁声《がんせい》を聞いた。
 今朝向うの杉の森に「ツクツクウシ、ツクツクウシ」と云うほのかな秋蝉の声を聞いた。
 暦《こよみ》を見たら、今日が立秋である。

       八

 八月十五日。
 此頃のくせで、起き出る頃は、毎《いつ》も満目《まんもく》の霧《きり》。雨だなと思うと、朝飯食ってしまう頃からからりと霽《は》れて、申分なき秋暑《しゅうしょ》になる。
 隣の大豆畑に群《むら》がったカナブンの大軍が、大豆の葉をば食い尽《つく》して、今度は自家《うち》の畑に侵入《しんにゅう》した。起きぬけに、夫婦して莚《むしろ》を畑にひろげ、枝豆や苺《いちご》や果樹に群がるカナブンを其上に振《ふる》い落して、石油の空鑵《あきかん》にぶちあけ、五時から八時過ぎまでかゝって、カナブンの約五升を擒《とりこ》にし、熱湯を浴《あび》せて殺した。でもまだ十分の一もとれない。
 あまり美事《みごと》の出来だからと云うて、廻沢《めぐりさわ》から大きな水瓜《すいか》唯一個かついで売りに来た。緑地に黒縞《くろしま》のある洋種の丸水瓜《まるすいか》である。重量三貫五百目、三十五銭は高くない。井戸に冷《ひ》やして、午後切って食う。味も好かった。
 一月おくれの盆で、墓地が賑《にぎ》やかである。細君が鶴子の為に母屋《おもや》の小さな床に茄子馬《なすうま》をかざり、黒い喪章《もしょう》をつけたおもちゃの国旗をかざり、ほおずきやら烏瓜《からすうり》やら小さな栗やら色々|供物《くもつ》をならべて、于蘭盆《うらぼん》の遊びをさせた。
 風鈴《ふうりん》の短冊《たんざく》が先日の風に飛ばされたので、先帝の「星のとぶ影のみ見えて夏の夜も更け行く空はさびしかりけり」の歌を書いて下げた。西行《さいぎょう》でも詠《よ》みそうな歌だ。

       九

 八月十六日。
 隣の家鴨《あひる》が二羽迷い込んだ。雌《めす》は捕えて渡したが、雄が床《ゆか》の下深く逃げ込んで、ドウしてもつかまらない。隣の息子《むすこ》が雌を連れて来て、刮々《くゎくくゎく》云わしたら、雄はひとりでに床の下から出て来て、難なく捉《つか》まった。今更の様だが女の力。
 夕方|縁《えん》の籐椅子《とういす》に腰かけて、静に夕景色を味う。苅《かり》あと青い芝生も、庭中の花と云う花も蔭《かげ》に入り、月下香の香が高く一庭に薫《くん》ずる。金の鎌の様な月が、時々雲に入ったり出たり。南方に淡《あわ》い銀河が流れる。星もちらほら出て居る。村々は最早《もう》黒う暮れて、時々|眩《まぶ》しい火光《あかり》がぱっと射す。船橋の方には、先帝《せんてい》の御為に上げるのか、哀々《あいあい》とした念仏の声が長く曳《ひ》いて聞こえる。庭ではスイッチョが鳴く。蟋蟀《きりぎりす》が鳴く。夜と云うに、蝉の一種が鳴く。隣の林にはガチャ/\が鳴く。
 寂《さび》しい涼しい初秋の夜。
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     御大葬の夜

 明治天皇|大葬《たいそう》の夜である。
 七時五十分、母屋《おもや》の六畳を掃《は》いて、清《きよ》い白布をかけた長方形の大きな低い卓子《つくえ》を東向きに直した。上には、秋草の花を活《い》けた小花瓶を右左に置き、正面には橢円形《だえんけい》の小さな鏡を立て、其前に火を入れた青磁《せいじ》の香炉、紫の香包を傍《そば》に置いた。いさゝかランプの心を捻《ねじ》ると、卓子の上の物皆明るく、心も自《おの》ずからあらたまる。家族一同手を膝《ひざ》に、息をのんで控《ひか》えた。
 柱時計の短針《たんしん》が八時を指《さ》すか指さぬに、
 ドオ………ン!
 待ち設《もう》けても今更人の心魂を駭《おどろ》かす大砲の音が、家をも我等の全身をも揺《ゆ》り撼《うご》かして響いた。
 今|霊轜《れいじゅ》宮城を出でさせられるのだ。
 主人《あるじ》は東に向い一拝して香を焚《た》き、再拝して退《さが》った。妻がつゞいて再拝して香を焚き、三拝して退いた。七歳《ななつ》の鶴子も焼香《しょうこう》した。最後に婢《おんな》も香を焚いて、東を拝した。
 余が家の奉送《ほうそう》は終った。

           *

 余は提灯《ちょうちん》ともして、妻と唯二人門を出た。
 曇った暗《くら》い夜である。
 八幡下の田圃まで往って東を見る。田圃向うの黒い村を鮮《あざ》やかに劃《しき》って、東の空は月の出の様に明るい。何千何万の電燈《でんとう》、瓦斯《がす》、松明《たいまつ》が、彼夜の中の昼を作《な》して居るのであろう。見て居ると、其|夥《おびただ》しい明光《あかり》が、さす息引く息であるかの様に伸《の》びたり縮んだりする。其明りの中から時々|電《いなずま》の様な光《ひかり》がぴかりと騰《あが》る。
「何の光だろう?」
「写真を撮《と》るマグネシウムの光でしょうか」
「否《いや》、弔砲の閃光《ひかり》かも知れん」
 先程から引つゞいて、大きな心臓《しんぞう》の鼓動の如く、正《ただ》しい時を隔《へだ》てゝ弔砲が響《ひび》いて居る。――あゝ鐘が鳴って居る。南のは東覚院《とうがくいん》、宝性寺《ほうしょうじ》、安穏寺《あんのんじ》、北のは――寺、――寺、東にも、西にも、おのがじし然も申合わせた様に、我君|眠《ねむ》りませ、永久《とこしえ》に眠りませ、と哀音長く鳴り連れて居る。二つの響はあたかも余等の胸《むね》の響に通うた、砲声の雄叫《おたけ》び、鐘声の悲泣《ひきゅう》。
 都も鄙《ひな》も押並《おしな》べて黒きを被《き》る斯大なる哀《かなしみ》の夜に、余等は茫然《ぼうぜん》と東の方を眺めて立った。生温《なまあたた》かい夜風がそよぐ。稲の香《か》がする。
「行《い》きなさるかね」半丁ばかり北の方で突然|人声《ひとごえ》がした。
「エ、些《ちっと》ンべ行って見べいと思《も》って」
 田圃道《たんぼみち》を東の方へ人の足音がした。やがてパチ/\と拍手《かしわで》の音が闇《やみ》に響く。
 轜車《じゅしゃ》は今|何《ど》の辺を過ぎさせられるのであろう?
[#地から3字上げ](大正元年 九月十三日)
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     東の京西の京
       (明治天皇の御始終)

 西なる京《きやう》に君は生《あ》れましき。
 西なる京に生れ玉へる君はしも、東に覇府《はふ》ありてより幾百年、唯東へ東へと代々《よよ》の帝《みかど》父祖《ふそ》の帝の念じ玉ひし東征の矢竹心《やたけごころ》を心として、白羽二重に緋《ひ》の袴《はかま》、五歳《いつつ》六歳《むつつ》の御遊《ぎよいう》にも、侍女《つかへをみな》を馬にして、東下《あづまくだ》りと宣《の》らしつゝ、御所の廊下を駆《か》り玉ひき。
 御父祖の夢《ゆめ》は、君が代《よ》に現《うつつ》となりつ。君は維新のおん帝、御十七の若帝《わかみかど》、御束帯に御冠《みかんむり》、御板輿《おんいたごし》に打乗らせ、天下取ったる公卿《くげ》将卒に前後左右を護《まも》らして、錦の御旗を五十三|駅《つぐ》の雄風に翻《ひるが》へし、東下りを果《はた》し玉ひぬ。
 西の京より移り来て、東の京に君はしも四十五年住み玉ひぬ。東の京に住む君は、西なる京なつかしと思《おぼ》さぬにてはあらざりき。父の帝の眠ります西の京、其処《そこ》に生《あ》れまし十六まで育《そだ》ち玉ひし西の京、君に忘られぬ西の京。せめて暑中《しよちう》は西の京へでも、侍臣斯く申せば、御気色《みけしき》かはり、宣《のたま》ひけらく「朕《ちん》西京を嫌《きら》ふと思ふか。否《いな》、朕は西の京が大好きなり。さりながら、朕、東の京を去らば、誰か日本の政《まつりごと》を見むものぞ?」
 大政《おほまつりごと》しげくして、西なる京へ君はしも、御夢《みゆめ》ならでは御幸《みゆき》なく、比叡《ひえい》の朝は霞《かす》む共、鴨《かも》の夕風涼しくも、禁苑《きんゑん》の月|冴《さ》ゆとても、鞍馬の山に雪降るも、御所の猿辻《さるつじ》猿の頬《ほ》に朝日は照れど、烏《からす》啼《な》く椋《むく》の梢《こずゑ》に日は入れど、君は来まさず。君が御名《みな》得《え》し祐《さち》の井の、井《ゐど》のほとりの常磐木《ときはぎ》や、落葉木《らくえふぼく》の若葉《わかば》して、青葉《あをば》となりて、落葉《おちば》して、年《とし》また年と空宮《くうきう》に年は遷《うつ》りぬ四十五《しじふいつ》。
 四十五年の御代《みよ》長く、事|稠《しげ》き代の御安息《みやす》無く、六十路《むそぢ》あまり一年《ひととせ》の御顔《みかお》に寄する年の波、御魂《みたま》は慕《した》ふ西の京、吾事終へつと嘘《うそむ》きて、君|逝《ゆ》きましぬ東京に。
 東下り、京上り、往来《ゆきき》に果つるおん旅や、御跡《おんあと》印《しる》す駅路《うまやぢ》の繰りひろげたる絵巻物《ゑまきもの》、今巻きかへす時は来ぬ。時こそ来つれ、生涯の御戦闘《みいくさ》終《を》へて凱旋《がいせん》の。時こそ来つれ、生涯の御勤労《みつとめ》果てゝ御安息《おんやす》の。
 曩昔《そのかみ》の東下りの御板輿《おんいたごし》を白き柩車《きうしや》に乗り換へて、今こそ君は浄土《きよつち》の西の京へと還《かへ》り玉はめ。
[#地から3字上げ](大正元年 九月十三日)
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     乃木大将夫妻自刃

 九月十五日、御大葬《ごたいそう》の記事を見るべく新聞を披《ひら》くと、忽《たちまち》初号活字が眼を射た。
[#ここから7字下げ]
乃木大将夫妻の自殺
[#ここで字下げ終わり]
 余は息《いき》を飲んで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
 斯く※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《つぶや》きつゝ、余は新聞を顔に打掩《うちおお》うた。

           *

 日清戦争中、山地中将が分捕《ぶんどり》の高価の毛皮の外套を乃木少将に贈ったら、少将は、傷病兵《しょうびょうへい》にやってしまった。此事を新聞で読んだのが、乃木《のぎ》希典《まれすけ》に余のインテレストを持つ様になった最初であった。其れから明治廿九年乃木中将が台湾《たいわん》総督《そうとく》となる時、母堂が渡台の御暇乞に参内《さんだい》して、皇后陛下の御問に対し、姥《ばば》は台湾の土にならん為、忰《せがれ》の先途《せんど》を見届けん為に台湾に参《まい》ります、と御答え申上げたと云う記事は、また深く余の心に滲《し》みた。余は此母子が好《す》きになった。明治三十四年中、ゴルドン将軍伝を書く時、余はゴルドンを描《えが》く其原稿紙上に乃木将軍の面影《おもかげ》がちらり/\と徂《い》ったり徠《き》たりするを禁じ得なかった。
 縁は異《い》なもので、ゴルドン伝を書いた翌々年「寄生木《やどりぎ》」の主人公から突然「寄生木」著作の事を委托《いたく》された。恩人たる乃木将軍の為めにと云う彼の辞《じ》であった。余は例に無く乗地《のりじ》になって引受けた。結果が小説寄生木である。
 小説寄生木は、該書《がいしょ》の巻頭にも断《ことわ》って置いた通り、主人公にして原著者なる「篠原良平」の小笠原善平が「寄生木」で、厳密《げんみつ》なる意味に於て余の「寄生木」では無い。寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木大将夫妻では無い。余は厳に原文に拠《よ》って、如何なる場合にも寸毫《すんごう》も余の粉飾《ふんしょく》塗抹《とまつ》を加えなかった。そこで、寄生木は、南部《なんぶ》の山中から駈《か》け出した十六歳の少年が仙台で将軍の応接間《おうせつま》の椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝《だいかつ》されてから、二十八歳の休職士官が失意失恋故山に悶死《もんし》するまで、其単純な眼に映《えい》じた第一印象の実録である。固より将軍夫妻は良平の恩人である為に、温かい感謝の膜《まく》を隔《へだ》てゝ見たところもある。然し彼は徹頭徹尾《てっとうてつび》単純にして偽《いつわ》ることを得為《えせ》ぬ男で、且如何なる場合にも見且感ずるを得る自然の芸術家であったことを忘れてはならぬ。余は寄生木によって、乃木大将夫妻をヨリ近く識り得た。
 篠原良平は「寄生木」の原稿を余に托し置いて、明治四十一年の秋悶死した。而して、恩人乃木将軍が其名を書いてくれた墓碣《ぼかつ》が故山に建てられた明治四十二年十二月小説寄生木が世に出た。即ち将軍は幕下《ばくか》の彼が為め死後の名を石に書き、彼は恩人の為に生前《せいぜん》の断片的記伝を紙の上に立てた訳《わけ》である。
 余は寄生木を乃木大将に贈呈《そうてい》しなかった。然し伝聞《でんぶん》する処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。将軍は巻中にある某の学資金《がくしきん》は某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったに、よくも斯く精確《せいかく》に書かれた、と云われた事、を聞いた。精確な筈《はず》だ、記憶の好《い》い本人良平が命《いのち》がけで書いたのである。余は将軍夫妻の感想を聞く機会を有《も》たなかった。然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前《せいぜん》顔を合わすれば棒立《ぼうだち》に立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気《むほんぎ》を見せて、恩義を弁《わきま》えたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂《れいこん》であったことを今更の様に発見したであろう。兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、寂《さび》しい将軍の晩年に於てまた一の慰藉《いしゃ》となったことは、察《さっ》するに難からぬ。篠原良平が「寄生木」を遺《のこ》した目的の一は達せられたのである。
 余は篠原良平の晩年に於て、剣を抛《なげう》つ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍から奪《うば》う可く多少の努力をして、彼が悶死の一因を作ったのと、学習院に於て余の為可《すべ》かりし演説が某の注意に因《よ》り院長たる将軍の言によって差止《さしと》められたことを聞いた外、乃木将軍とは一回の対面もせず、一通の書信の往復も為《し》なかった。茫々《ぼうぼう》たる宇宙に於て、大将夫妻と余をいさゝか繋《つな》ぐものがあるならば、其は「寄生木」である。
 然しながら寄生木は、篠原良平の寄生木で、余の寄生木では無い。唯将軍と余の間に一の縁《えん》を作ったに過ぎぬ。乃木将軍夫妻程|死花《しにばな》が咲《さ》いた人々は近来《きんらい》絶無《ぜつむ》と云ってよい。大将夫妻は実に日本全国民の崇拝《すうはい》愛慕《あいぼ》の的《まと》となった。乃木文学は一時に山をなして出た。斯上《このうえ》蛇足《だそく》を加うる要はないかも知れぬ。然し寄生木によりて一種の縁を将軍夫妻に作った余には、また余|相応《そうおう》の義務が感ぜられる。此義務は余にとって不快な義務では無い。余は如何《いか》なる形《かたち》に於てかこの義務を果したいと思うて居る。
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     コスモス

 今日は夏を憶《おも》い出す様な日だった。午後寒暖計が六十八度に上った。白い蝶《ちょう》が出て舞う。蠅《はえ》が活動する。蝉《せみ》さえ一しきり鳴いた。
 今はコスモスの真盛《まさかり》である。濃紅、紅、淡紅、白、庭にも、園にも、畑にも、掃溜《はきだめ》の傍《はた》にも、惜気もなく心《しん》を見せて思いのまゝに咲き盛《さか》って居る。誰か見に来ればよいと思うが、終日誰も来《こ》ぬ。唯主人のみ黄金《こがね》の雨と降る暖かい秋の日を浴《あ》びて、存分に色彩の饗応に預かる。
 たま/\屋敷下《やしきした》を荷車挽いて通りかゝった辰《たつ》爺《じい》さんが、
「花車《だし》の様だね」
とほめて通った。
 庭内も、芙蓉、萩、蓮華《れんげ》つゝじは下葉《したば》から色づき、梅桜は大抵落葉し、ドウダン先ず紅に照り初め、落霜紅《うめもどき》は赤く、木瓜《ぼけ》の実《み》は黄に、松はます/\緑に、山茶花《さざんか》は香を、コスモスは色を庭に満たして、実に何とも云えぬ好い時候だ。
 夕方屋敷の南端にある欅《けやき》の切株《きりかぶ》に上って眺める。日は何時《いつ》しか甲州の山に落ちて、山は紫に匂《にお》うて居る。白茶色になって来た田圃《たんぼ》にも、白くなった小川の堤《つつみ》の尾花《おばな》にも夕日が光って、眼には見る南村北落の夕けぶり。烏啼き、小鳥鳴き、秋《あき》静《しずか》に今日も過ぎて行く。東京の方を見ると、臙脂色《えんじいろ》の空《そら》に煙が幾条《いくすじ》も真直に上って居る。一番南のが、一昨日火薬が爆発《ばくはつ》して二十余名を殺傷《さっしょう》した目黒の火薬庫の煙だ。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十月二十三日)
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     秋さびし

 今日《きょう》はさびしい日である。
 ダリヤの園を通ると、二尺あまりの茶色《ちゃいろ》の紐《ひも》が動いて居る、と見たは蛇だった。蜥蜴《とかげ》の様な細《ほそ》い頭をあげて、黒い針《はり》の様な舌《した》をペラ/\さして居る。殺そうか殺すまいかと躊躇《ちゅうちょ》して見て居る内に、彼は直ぐ其処《そこ》にある径《けい》一寸ばかりの穴《あな》に這入《はい》りかけた。見る中に吸わるゝ様にズル/\と辷《すべ》り込んで了うた。
 園内を歩くと、蝉《せみ》のヌケ殻《がら》が幾個《いくつ》も落ちて居る。昨夜は室内で、小さなものゝ臨終《りんじゅう》の呻吟《うめき》の様なかすかな鳴声《なきごえ》を聞いたが、今朝《けさ》見ればオルガンの上に弱《よわ》りはてたスイッチョが居た。彼は未だ死に得ない。而《そう》して死に得る迄《まで》は鳴かねばならぬのである。
 自然は老いて行く。座敷《ざしき》の前を蜂《はち》が一疋歩いて行く。両羽《りょうはね》をつまんでも、螫《さ》そうともせぬ。何に弱ってか、彼は飛《と》ぶ力ももたぬのである。そっと地に下ろしたら、また芝生の方へそろ/\歩いて行く。
 今日はさびしい日である。
 午後は曇《くも》って泣き出しそうな日であった。
 午後になって、いやに蒸暑《むしあつ》い空気《くうき》が湛《たた》えた。懶《ものう》い自然の気を感じて、眼ざとい鶴子が昼寝《ひるね》した。掃き溜には、犬のデカがぐたりと寝て居る。芝生には、猫《ねこ》のトラが眠《ねむ》って居る。
 南から風が吹く。暖かい事は六月の風の様で、目を瞑《つぶ》って聞くと、冬も深い凩《こがらし》の響《おと》がする。
 今日はさびしい日である。
 今は午後四時である。雲を漏《も》れて、西日《にしび》の光がぱっと射《さ》して来た。散りかゝった満庭《まんてい》のコスモスや、咲きかゝった菊や、残る紅の葉鶏頭《はげいとう》や、蜂虻《はちあぶ》の群がる金剛纂《やつで》の白い大きな花や、ぼうっと黄を含んだ芝生や、下葉《したは》の褐色《かっしょく》に凋《しお》れて乾《かわ》いた萩や白樺や落葉松や、皆斯夕日に寂《さび》しく栄《は》えて居る。鮮やかであるが、泣いて居る。美《うる》わしいが、寂しい。
 今日はさびしい日である。
[#地から3字上げ](大正元年 十月二十八日)
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     展望台に上りて

       上

 余の書窓《しょそう》から西に眺《なが》むる甲斐《かい》の山脈《さんみゃく》を破《は》して緑色|濃《こ》き近村《きんそん》の松の梢《こずえ》に、何時の程からか紅白|染分《そめわけ》の旗が翻《ひるがえ》った。機動演習《きどうえんしゅう》の目標《もくひょう》かと思うたら、其れは京王電鉄《けいおうでんてつ》が沿線繁栄策の一として、ゆく/\東京市の寺院墓地を移す為めに買収《ばいしゅう》しはじめた敷地《しきち》二十万坪を劃《しき》る目標の一つであった。
 京王電鉄調布上高井戸間の線路《せんろ》工事《こうじ》がはじまって、土方《どかた》人夫《にんぷ》が大勢《おおぜい》入り込み、鏡花君の風流線にある様な騒ぎが起ったのは、夏もまだ浅い程の事だった。娘が二人|辱《はずか》しめられ、村中の若い女は震え上り、年頃《としごろ》の娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方が真昼中甲州街道をまだ禁菓《きんか》を喰《く》わぬアダム同様|無褌《むふんどし》の真裸《まっぱだか》で横行濶歩、夜は何《ど》の様な家へでも入込むので、未だ曾て戸じまりをしたことがない片眼《かため》婆《ばあ》さんのあばら家まで、遽《あわ》てゝかけ金《がね》よ釘《くぎ》よと騒いだりした。其れも工程の捗取《はかど》ると共に、何時《いつ》しか他所《よそ》に流れて往って了うた。やがて起ったのが、東京の寺院墓地移転用敷地廿万坪買収の一件である。
 京王電鉄も金が無い。東京の寺や墓地でも引張《ひっぱ》って来て少しは電鉄沿線の景気をつけると共に、買った敷地を売りつけて一儲《ひともう》けする、此は京王の考としてさもありそうな話である。田舎はもとより金が無い。比較的小作料の低廉な此辺の大地主は、地所を荷厄介《にやっかい》にして居る。また大きな地主で些《ちと》派手《はで》にやって居る者に借金が無い者は殆《ほと》んどない。二十万坪買収は、金に渇《かわ》き切った其或人々にとって、旱田《ひでりだ》に夕立《ゆうだち》の福音《ふくいん》であった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた某々の有力者は、電鉄の先棒となって、盛《さかん》に仲間《なかま》を造りはじめた。金は無論|欲《ほ》しい。脅嚇《おどかし》も勿論|利《き》く。二十万坪の内八万坪、五十三名の地主の内十九名は、売渡《うりわたし》承諾《しょうだく》の契約書《けいやくしょ》に調印してしまった。踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちちゅう》する者もあった。余はある人に斯《こ》う云うた、不用の地所があるなら兎も角、恰好《かっこう》の代地があったら格別、でなければ農が土を手放《てばな》すは魚《うお》の水に離《はな》れるようなものだ、金なんか直ぐ泡《あわ》の様に消えて了う、今更農をやめて転業するなぞは十が十|堕落《だらく》の原《もと》だ。
 売らぬと云う側《がわ》は、人数《にんず》で関係地主の総数《そうすう》五十三人中の三十名、坪数で二十万坪の十二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様《こう》だ。東京が段々《だんだん》西へ寄って来て、豊多摩《とよたま》荏原《えばら》の諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前|専《もっぱ》ら穀作《こくさく》と養蚕《ようさん》でやって居た北多摩郡が豊多摩荏原に代《かわ》って蔬菜《そさい》や園芸品《えんげいひん》を作る様になり、土地の価《あたい》は年々上って来て居る。然るに北多摩郡でも最《もっと》も東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地《はたち》の中、地味《ちみ》も便利も屈指《くっし》の六十余町歩、即ち畑地の一割強を不毛《ふもう》の寺院墓地にして了うのは、惜しいものだ。殊に寺院墓地の如き陰気なものに来られては、陽気な人間は来なくなり、多くなるものは農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏鬮《びんぼうくじ》を引当《ひきあ》てた者は、祖先伝来の家屋敷や畑をすてゝ、代地《だいち》と云えば近くて十丁以内にはなく、他郷に出るか、地所が不足では農をよして他に転業しなければならぬ者もあろう。千歳村五百五十戸の中、小作が六割にも上って居る。大面積《だいめんせき》の寺院墓地が出来て耕地減少の結果、小作料は自然|騰貴《とうき》する。小作料の騰貴はまだ可《よ》いが、中には小作地が不足して住み馴《な》れた村にも住めなくなり、東京に流れ込んだり、悪くすると法律の罪人《ざいにん》が出来たりする。それから寺院墓地は免租地《めんそち》だから、結局村税の負担が増加する。何も千歳村の活気ある耕地を潰《つぶ》さず共、電車で五分間乃至十分も西に走れば、適当の山林地などが沢山あって、其《その》辺《へん》の者は墓地を歓迎して居る。其方《そち》へ行《い》けばよいじゃないか。反対の理由は、ざっと右の通りだ。尤も中に多少の魂胆《こんたん》もあろうが、大部分は本当に土に生き土に死ぬ自作農の土に対する愛着からである。変化を喜び刺戟《しげき》に生きる都会人には、土に対する本当の農の執着の意味は中々|解《げ》せない。真《しん》の農にとって、土はたゞの財産ではない、生命《いのち》其のものである。祖先伝来一切の生命の蓄積して居る土は、其|一塊《いっかい》も肉の一片|血《ち》の一滴《いってき》である。農から土を奪《うば》うは、霊魂から肉体を奪うのである。換言すれば死ねと云うのである。農を斯《この》土から彼《かの》土に移すのは、霊魂の宿換《やどがえ》を命ずるのである。其多くは死ぬるのである。農も死なゝければならぬ場合はある。然し其《それ》は軽々《かるがる》しく断ずべき事ではない。一は田中正造翁に面識《めんしき》なく谷中村《やなかむら》を見ないからでもあろうが、余は従来《じゅうらい》谷中村民のあまり執念深いのを寧ろ気障《きざ》に思うて居た。六年の田舎住居、多少は百姓の真似《まね》もして見て、土に対する農の心理の幾分を解《げ》しはじめて見ると、余は否《いや》でも曩昔《むかし》の非《ひ》を認《みと》めずには居られぬ。即ち千歳村の墓地問題の如きも、京王電鉄会社や大地主等にとっては利益問題だが、純農者にとっては取りも直さぬ死活問題であるのだ。
 然るに京王電鉄は、一方|先棒《さきぼう》の村内有力者某々等をして頗る猛烈に運動せしむると共に、一方田夫野人何事をか仕出来《しでか》さんと高《たか》を括《くく》って高圧的《こうあつてき》手段《しゅだん》に出た。即ち関係地主の過半数は反対であるにも関せず、会社は村長の奥印《おくいん》をもって東京府庁に宛《あ》てゝ墓地新設予定地御臨検願を出して了う。霊場敷地展望台を畑の真中《まんなか》に持て来て建てる。果ては、云う事を聴かねば土地収用法を適用するまでの事だ、電鉄の手で買えば一反五百七十円から五百五十円までゞ買うが、土地収用法がものを云えば一反三百円か高くても三百五十円は越《こ》さない、其《それ》でも好《よ》いか、好ければ今に見ろ。斯様《こん》な調子でのしかゝって来た。
 売る者は売れ、俺等《おいら》は売らぬ、と澄《す》まして居た反対|側《がわ》の人達も、流石《さすが》に怒《おこ》り出した。腰弁当、提灯持参、草鞋《わらじ》がけの運動がはじまった。村会に向って、墓地《ぼち》排斥《はいせき》の決議を促す申請書を出す。村会に於てはまた、大多数を以て墓地排斥の建議案を通過するぞと意気込《いきご》む。それから連判《れんぱん》の陳情書を東京府庁へ出すとて余にも村民の一人として賛成を求めて来た。昨朝の事である。

       下

 今日《きょう》余は女児と三疋の犬とを連れて、柿を給田《きゅうでん》に買うべく出かけた。薄曇りした晩秋の寂しい午後である。
 品川堀に沿うて北へ歩《あゆ》む。昨日連判状を持って来た仲間《なかま》の一人が、かみさんと甘藷《さつま》を掘って居る。
「此処《ここ》らも予定地《よていち》の内ですか」
「え、彼《あの》道路からずっとなんですよ。彼処《あすこ》に旗《はた》が立ってますだ」
 成程余が書窓《しょそう》から此頃常に見る旗と同じ紅白染分の旗が、路傍の松の梢《こずえ》にヒラヒラして居る。東北の方にも見える。彼《あの》旗が敗北の白旗《しろはた》に変らなかったなら、此夫婦は来年此処で甘藷を掘ることは出来ぬのである。
 余は麦畑に踏込む犬を叱《しか》り、道草《みちくさ》摘《つ》む女児を促《うなが》し、品川堀に沿うて北へ行く。路傍《みちばた》の尾花は霜枯れて、かさ/\鳴って居る。丁度《ちょうど》七年前の此月である。余は妻と此《この》世《よ》の住家《すみか》を探《さ》がして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、疲《つか》れた足を曳《ひ》きずって、正に此路を通って甲州街道に出たのであった。夕日の残る枯尾花《かれおばな》、何処《どこ》やらに鳴く夕鴉《ゆうがらす》の声も、いとどさすらえ人の感を深くし、余も妻も唯|黙《だま》って歩いた。我儕《われら》の行衛は何処《どこ》に落ちつくのであろう? 余等は各自《てんで》に斯く案じた。余は一個の浮浪《ふろう》書生《しょせい》、筆一本あれば、住居は天幕《てんまく》でも済《す》む自由の身である。それでさえ塒《ねぐら》はなれた小鳥の悲哀《かなしみ》は、其時ヒシと身に浸《し》みた。土から生れて土を食《く》い土を耕《たがや》して終に土になる土の獣《けもの》の農が、土を奪われ土から追われた時の心は如何《どう》であろう!
 品川堀が西へ曲る点《とこ》に来た。丸太を組んだ高櫓《たかやぐら》が畑中に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓《たいこやぐら》を見るようだ。北表面《きたおもて》へ廻《まわ》ると、墨黒々と筆太《ふでぶと》に
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霊場敷地展望台
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と洋紙《ようし》に書いて張ったのが、少し破れて風にばた/\して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻《はちまき》をした禿頭《はげ》の爺《じい》さんが堆肥《つくて》の桶《おけ》を担《かつ》いで、※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《よめ》か娘か一人の女と若い男と三人して麦蒔《むぎまき》をして居る。爺さんは桶を下《お》ろし、鉢巻をとって、目礼《もくれい》した。此は昨夕村会議員の一人と訪ねて来た爺さんである。其宅地も畑も所有地全部|買収地《ばいしゅうち》の真中《まんなか》に取こめられ、仮令《たとい》収用法《しゅうようほう》の適用が出来ぬとしても、もし唯一人売らぬとなれば袋《ふくろ》の鼠《ねずみ》の如く出口をふさがれるし、売るとなれば一寸の土も残らず渡して去らねばならぬので、最初から非常に憂惧《ゆうぐ》し、殆《ほとん》ど仕事も手につかず、昨日|訪《た》ずねて来た時もオド/\した斯老人の容子は余の心《むね》を傷《いた》ましめた。今其畑に来て見れば、直ぐ隣の畑には爺さんを追い払う云わば敵の展望台があたりを睥睨《へいげい》して立って居る。爺さんは昼は其望台の蔭で畑打ち、夜は望台の夢に魘《おそ》わるゝことであろう。爺さんの寿命を日々《にちにち》夜々《やや》に縮《ちぢ》めつゝあるものは、斯展望台である。余は爺さんに目礼して、展望台の立つ隣の畑に往った。茶《ちゃ》と桑《くわ》と二方を劃《しき》った畑の一部を無遠慮に踏み固めて、棕櫚縄《しゅろなわ》素縄《すなわ》で丸太《まるた》をからげ組み立てた十数間の高櫓《たかやぐら》に人は居なかった。余は上ろうか上るまいかと踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちちゅう》したが、終《つい》に女児《じょじ》と犬を下に残して片手|欄《てすり》を握りつゝ酒樽の薦《こも》を敷いた楷梯《はしご》を上った。北へ、折れて西へ、折れて南へ、三|重《じゅう》の楷梯を上って漸く頂上に達した。中々高い。頂《いただき》は八分板を並べ、丈夫に床《ゆか》をかいてある。
 余は思わず嗟嘆《さたん》して見廻《みま》わした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心としてほゞ大円形《だいえんけい》をなした畑地は、一寸程になった麦の緑縞《みどりじま》、甘藷《さつま》を掘ったあとの紫がかった黒土、べったり緑青《ろくしょう》をなすった大根畑、明るい緑色の白菜畑《はくさいばたけ》、白っぽい黄色の晩陸稲《おくおかぼ》、入乱れて八方に展開し、其周囲には霜《しも》に染《そ》みた雑木林、人家を包む樫《かし》木立《こだち》、丈高い宮の赤松などが遠くなり近くなりくるり取巻《とりま》いて居る。北を見ると、最早《もう》鉄軌《れえる》を敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方《こなた》のまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六人|鶴嘴《つるはし》を振《ふ》り上げて居る。西を見れば、茶褐色に焦《こが》れた雑木山の向うに、濃い黛色《たいしょく》の低い山が横長く出没して居る。多摩川《たまがわ》の西岸を縁《ふち》どる所謂多摩の横山で、川は見えぬが流れの筋《すじ》は分明《ぶんみょう》に指さゝれる。少し西北には、青梅《あおめ》から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜《ひそ》んで見えない。唯|藍色《あいいろ》の雲の間から、弱い弱い日脚《ひあし》が唯一筋|斜《はす》に落ちて居る。
 やゝ久しく吾を忘れて眺《なが》め入った余は、今京王電鉄が建てた墓地敷地展望台の上に立って居ることに気がついた。余は更に目をあげてあたりを見廻わした。此望台を中心として、二十万坪六十余町歩の耕地宅地を包囲して、南に東に北に西に規則正しく間隔《かんかく》を置いて高く樹梢に翻って居る十数流の紅白旗は、戦わずして已に勝を宣する占領旗《せんりょうき》かと疑われ、中央に突立ってあたり見下《みお》ろす展望台は、蠢爾《しゅんじ》としてこゝに耕す人と其|住家《すみか》とを呑《の》んでかゝって威嚇《いかく》して居る様で、余は此展望台に立つのが恥かしくなった。
 雪空の様に曇りつゝ日は早や暮《くる》るに間《ま》もなくなった。何処《どこ》かに鴉《からす》が鳴く。余はさながら不測の運命に魘《おそ》われて悄然《しょうぜん》として農夫の顔其まゝに言《ものい》わぬ哀愁に満ちた自然の面影にやるせなき哀感《あいかん》を誘《さそ》われて、独|望台《ぼうだい》にさま/″\の事を想うた。都会と田舎の此争は、如何に解決せらるゝであろう乎。京王は終に勝つであろうか。村は負けるであろうか。資本の吾儘《わがまま》が通るであろう乎。労力の嘆《なげ》きが聴かるゝであろう乎。一年両度|緑《みどり》になり黄《き》になり命《いのち》を与うる斯二十万坪の活《い》きた土は、終古《しゅうこ》死の国とならねばならぬのであろうか。今|憂《うれい》の重荷《おもに》を負《お》うて直下《すぐした》に働いて居る彼爺さん達、彼処《あち》此処《こち》に鳶色に焦《こが》れた欅《けやき》の下|樫《かし》の木蔭に平和を夢みて居る幾個《いくつ》の茅舎《ぼうしゃ》、其等《それら》は所謂文明の手に蠅《はえ》の如く簑虫《みのむし》の宿《やど》の如く払いのけられねばならぬのであろうか。数で云うたら唯《たった》二十万坪の土地、喜憂《きゆう》を繋《か》くる人と戸数と、都の場末の一町内にも足らぬが、大なる人情の眼は唯|統計《とうけい》を見るであろうか。東京は帝都《ていと》、寸土《すんど》寸金《すんきん》、生が盛《さか》れば死は退《の》かねばならぬ。寺も移らねばなるまい。墓地も移らずばなるまい。然しながら死にたる骨《ほね》は、死にたる地《ち》に安《やす》んずべきではあるまい乎。寺と墓地とは縁もゆかりもない千歳村の此耕さるべき部分の外に行き得る場所はないのであろう乎。都会が頭なら、田舎は臓腑《ぞうふ》ではあるまい乎。頭が臓腑を食ったなら、終《つい》には頭の最後ではあるまい乎。田舎はもとより都会の恩《おん》を被《き》る。然しながら都会を養い、都会のあらゆる不浄を運《はこ》び去り、新しい生命《いのち》と元気を都会に注《そそ》ぐ大自然の役目を勤むる田舎は、都会に貢献する所がないであろう乎。都会が田舎の意志と感情を無視して吾儘《わがまま》を通すなら、其れこそ本当の無理である。無理は分離である。分離は死である。都会と田舎は一体《いったい》である。農が濫《みだり》に土を離るゝの日は農の死である。都《みやこ》が田舎を潰《つぶ》す日は、都自身の滅亡《めつぼう》である。
 彼旗を撤《てっ》し、此望台を毀《こぼ》ち、今自然も愁《うれ》うる秋暮の物悲しきが上に憂愁不安の気雲の如く覆《おお》うて居る斯千歳村に、雲霽れてうら/\と日の光《ひかり》射《さ》す復活の春を齎《もた》らすを得ば、其時こそ京王の電鉄も都と田舎を繋《つな》ぐ愛の連鎖、温《あたた》かい血の通《かよ》う脈管《みゃくかん》となるを得るであろう。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月八日)
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     暮秋の日

 竜田姫《たつたひめ》のうっとりと眼を細《ほそ》くし、またぱっと目を※[#「目+登」、第3水準1-88-91]《みひ》らく様な、曇りつ照りつ寂しい暮秋の日。
 暦《こよみ》の冬は五六日前に立った。霜はまだ二朝《ふたあさ》三朝《みあさ》、しかも軽いのしか降《ふ》らない。但先月の嵐が累《るい》をなしたのか、庭園の百日紅、桜、梅、沙羅双樹《さらそうじゅ》、桃、李、白樺、欅、厚朴《ほう》、木蓮の類の落葉樹は、大抵葉を振うて裸になり、柿やトキワカエデの木の下には、美しい濶《ひろ》い落葉《おちば》が落葉の上に重《かさ》なって厚い茵《しとね》を敷いて居る。菊はまだ褪《うつろ》わずして狂うものは狂いそめ、小菊、紺菊の類は、園の此処彼処にさま/″\な色を見せ、紅白の茶山花《さざんか》は枝上地上に咲きこぼれて居る。ドウダン、ヤマモミジ、一行寺、大盃、イタヤ、ハツシモ、など云う類《たぐい》の楓《かえで》や銀杏《いちょう》は、深く浅く鮮やかにまた渋《しぶ》く、紅、黄、褐《かち》、茜《あかね》、紫さま/″\の色に出で、気の重い常緑木《ときわぎ》や気軽な裸木《はだかぎ》の間を彩《いろ》どる。常緑木の中でも、松や杉は青々とした葉の下に黄ばんだ古葉《ふるは》を簇々《むらむら》と垂《た》れて、自ら新にす可く一吹《いっすい》の風を待って居る。菊、茶山花の香を含んで酒の様に濃い空気を吸いつゝ、余はさながら虻《あぶ》の様に、庭から園、園から畑と徘徊《はいかい》する。庭を歩く時、足下に落葉がかさと鳴る。梅の小枝に妙な物がと目をとめて見ると、蛙《かわず》の干物《ひもの》が突刺してある。此はイタズラ小僧の百舌鳥《もず》めが食料に干《ほ》して置《お》いて其まゝ置き忘れたのである。園を歩く時、大半は種になったコスモスの梢《こずえ》に咲き残った紅白の花が三つ四つ淋《さび》しく迎える。畑には最早大麦小麦が寸余に生えて居る。大根漬菜が青々とまだ盛んな生気《せいき》を見せて居る。籬《かき》の外の畑では、まだ晩蒔《おそまき》の麦を蒔いて居る。向うの田圃では、ザクリ/\鎌の音をさして晩稲《おくて》を苅《か》って居る。
 今は午後の四時である。先程からぱっと射《さ》して色と云う色を栄《は》えさして居た日は、雲の瞼《まぶた》の下に隠れて、眼に見る限りの物は沈欝《ちんうつ》な相《そう》をとった。松の下の大分黄ばんだ芝生に立って、墓地の銀杏《いちょう》を見る。さまで大きくもあらぬ径《けい》六寸程の比較的|若木《わかぎ》であるが、魚の背骨《せぼね》の一方を削った様に枝は皆北方へ出て、南へは唯一本しか出て居ない。南の枝にも梢にも、残る葉はなくて、黄葉《こうよう》は唯北方に密集して居る。其裸になった梢に、嘴《はし》の大きな痩鴉《やせがらす》が一羽とまって居る。永く永くとまって居たが、尾羽で一つ梢をうって唖々《ああ》と鳴きさまに飛び立った。黄いろい蝶の舞う様に銀杏の葉がはら/\と飄《ひるが》える。
 廻沢の杉森《すぎもり》のあなたを、葬式が通ると見えて、「南無阿弥陀ァ仏、南無阿弥陀ァ仏」単調な念仏《ねんぶつ》が泣く様に響いて来る。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月十日)
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     二つの幻影

 北風が寒く、冬らしい日。
 然し東京附近で冬を云々するのは烏滸《おこ》がましい。如何に寒いと云っても、大地が始終|真白《まっしろ》になって居るではなし、少し日あたりのよい風よけのある所では、寒中《かんちゅう》にも小松菜《こまつな》が青々《あおあお》して、崖《がけ》の蔭では菫《すみれ》や蒲公英《たんぽぽ》が二月に咲いたりするのを見るのは、珍らしくない。
 北へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太《かばふと》、乃至《ないし》大陸の露西亜《ろしあ》とか西比利亜とかでなければ、本当の冬の趣味は分からぬ。秋|日々《ひび》に老いて近づく冬の気息が一刻々々に身に響く頃の一種の恐怖《おそれ》、死に先だつ深い絶望と悲哀は、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、せい/″\半死半生である。冬が本当の死である国土でなければ、秋の暮の淋し味も、また春の復活の喜も十分には分からぬ。
「おゝ神よ、吾をしてこの春に会うを得せしめ給うを感謝す」と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。
 否《いや》でも応《おう》でも境遇に我等は支配される。我々の邦《くに》では一切の事が兎角徹底せぬわけである。

           *

 午後散歩、田圃《たんぼ》では皆欣々喜々として晩稲《おくて》を苅って居る。
 甲斐《かい》の山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋《ふなばし》の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪《ごむわ》の奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡《そうがんきょう》を翳《かざ》した。前なる透《す》かし幌《ほろ》の内は、丸髷に結って真白《まっしろ》に塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母《うば》らしいのが友禅《ゆうぜん》の美しい着物に包まれた女の児を抱《だ》いて居る。玩具など幌の扇骨《ほね》に結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣《みやもう》でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪《ごむわ》が威勢の好い白法被《しろはっぴ》の車夫に挽《ひ》かれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨《がいこつ》が来るのかと思うた。其は一人の婆《ばば》であった。両の眼の下瞼《したまぶた》が悉《ことごと》く朱《あけ》に反《そ》りかえって、椎《しい》の実程の小さな鼻が右へ歪《ゆが》みなりにくっついて居る。小さな風呂敷包を頸《くび》にかけて、草履《ぞうり》の様になった下駄《げた》を突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄って婆《ばあ》さんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼の朱《あか》く反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余の傍《わき》を通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。
 余は今しがた眼の前を過ぎた二つの幻《まぼろし》の意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月十五日)
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     入営

 辰《たつ》爺《じい》さん宅《とこ》の岩公《いわこう》が麻布聯隊に入営する。
 寸志の一包と、吾れながら見事《みごと》に出来た聖護院《しょうごいん》大根《だいこ》を三本|提《さ》げて、挨拶に行く。禾場《うちば》には祝入営の旗が五本も威勢《いせい》よく立って、広くもあらぬ家には人影《ひとかげ》と人声《ひとごえ》が一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺《ちゃん》の辰さんがせっせと饂飩粉《うどんこ》を捏《こ》ねて居る。是非《ぜひ》上《あが》れと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。
 午後万歳の声を聞いて、遽《あわ》てゝ八幡《はちまん》に往って見る。最早《もう》楽隊《がくたい》を先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、茶《ちゃ》の中折帽《なかおれぼう》と云う装《なり》で、神酒《みき》の所為《せい》もあろう桜色になって居る。岩公の阿爺《ちゃん》は体格《なり》は小さい人の好い爺《じい》さんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。
 余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先《まっさ》きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛《ぎんてき》、太鼓《たいこ》、手風琴《てふうきん》なぞピー/\ドン/\賑《にぎ》やかに囃《はや》し立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間《なかま》である。次ぎに送入営の幟《のぼり》が五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中《よいよなか》小使銭《こづかい》貸せの破落戸漢《ならずもの》に踏み込まれたり、苦労に齢《とし》よりも老《ふ》けた岩公の阿母《おふくろ》が、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服《すいへいふく》の丈高《たけたか》い男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日|母者《ははじゃ》の葬式《そうしき》をして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路《こみち》から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲《きょく》が次第に東へ進んで行く。
 今日は何処《どこ》も入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空に※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あが》って居た。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十一月三十日)

           *

 辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家《うち》は組内だから昨日も何角《なにか》の手伝《てつだい》に行かねばならなかったのであった。
 爺さんは泣声《なきごえ》して、
「岩もね、二週間すると来ますだよ」と云う。「兵隊に出すのが嫌だなンか云うことァ出来ねえだ。何でも大きくなる時節で、天子様《てんしさま》も国《くに》を広くなさるだから」と云う。
 誰が教えたのかしら。
[#地から3字上げ](同 十二月一日)
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     生死

 霜無く、風無く、雲無く、静かな寂《しず》かな小春の日。
 昨夜、台所の竈台《へっついだい》の下の空籠《からかご》の中で、犬のピンがうめいたり叫《さけ》んだりして居たが、到頭四疋子を生んだ。茶色《ちゃいろ》が二疋、黒《くろ》が二疋、あの小さな母胎《ぼたい》からよく四疋も生れたものだ。つい今しがた母胎を出たばかりなのに、小猫《こねこ》の様な啼声《なきごえ》を出して、勢《いきおい》猛《もう》に母の乳にむしゃぶりつく。
 子犬の生れた騒ぎに、猫のミイやが居ないことを午過《ひるす》ぎまで気付《きづ》かなかった。「おや、ミイは?」と細君《さいくん》が不安な顔をして見廻《みま》わした時は、午後の一時近かった。総《そう》がかりで家中探がす。居ない。屋敷中探がす。居ない。舌《した》が痛くなる程呼んでも、答が無い。民やをやって、近所を遍《あま》ねく探がさしたが、何処にも居ず、誰も知らぬ、と云う。まだ遠出《とおで》をする猫ではなし、何時《いつ》居なくなったろうと評議する。細君が暫らく考えて「朝は居ましたよ、葱《ねぎ》とりに往く時私に跟《つ》いて畑なぞ歩いて居ました」と云う。如何《どう》なったのだろう? 烏山の天狗犬《てんぐいぬ》に噛《か》まれたのかも知れぬ。三毛《みけ》は美しい小猫だったから、或は人に抱《だ》いて往かれたかも知れぬ。可愛い、剽軽《ひょうきん》な、怜悧《りこう》な小猫だったに、行方不明とは残念な事をして了うた。ひょっとしたら、仲好《なかよ》くして居たピンに子犬が生れたから、ミイが嫉妬して身を隠したのではあるまいか、などあられもない事まで思う。
 夕食の席で、民やが斯様《こん》な話をした。今日《きょう》午後猫を捜《さが》して居ると、八幡下で鴫田《しぎた》の婆さんと辰さん家《とこ》の婆さんと話して居た。先刻|田圃《たんぼ》向うの雑木山の中で、印半纏《しるしばんてん》を着た廿歳許の男と、小ざっぱりした服装《なり》をした二十《はたち》前後の女が居た。男はせっせと手で土を掘《ほ》って居た。女は世にも蒼ざめた顔をして居た。自然薯《じねんじょ》でも掘るのですかい、と通りかゝりの婆さんがきいたら、何とも返事しなかった。程経てまた通ると、先の男女はまだ其処《そこ》に居た。其前|八幡山《はちまんやま》の畑の辺をまご/\して居たそうである。多分|闇《やみ》から闇にと堕《お》りた胎児《たいじ》を埋めたのであろう。鴫田の婆さんは、自家《うち》の山に其様《そん》な事でもしられちゃ大変だ、と云うて畑の草の中なぞ杖《つえ》のさきでせゝって居たそうだ。
 其若い男女が、ひょっとしたらまた其処《そこ》へ来て居るかも知れぬ。あるいは無分別をせぬとも限らぬ。
 箸《はし》を措《お》くと、外套《がいとう》引かけて出た。体《からだ》も魂《たましい》も倔強《くっきょう》な民が、私お供《とも》致しましょう、と提灯《ちょうちん》ともして先きに立つ。
 八幡下の田圃を突切《つっき》って、雑木林の西側を這《は》う径《こみち》に入った。立どまって良《やや》久《ひさ》しく耳を澄《す》ました。人らしいものゝ気《け》もない。
「何処《どこ》に居るかね、不了簡《ふりょうけん》をしちゃいかんぞ。俺《わし》に相談をして呉れんか」
 声をかけて置いて、熟《じっ》と聞き耳を立てたが、吾声《わがこえ》の攪乱《かきみだ》した雑木山の静寂《せいじゃく》はもとに復《か》えって、落葉《おちば》一つがさとも云わぬ。霜を含んだ夜気《やき》は池の水の様に凝《こ》って、上半部を蝕《く》い欠《か》いた様な片破《かたわ》れ月が、裸《はだか》になった雑木の梢《こずえ》に蒼白く光って居る。
 立とまっては耳を傾《かたむ》け、答《こたえ》なき声を空林《くうりん》にかけたりして、到頭甲州街道に出た。一廻りして、今度は雑木山の東側の径《こみち》を取って返した。提灯は径を歩かして、余は月の光《あかり》を便りに今一度疑問の林に分け入った。株立になった雑木は皆|落葉《おちば》して、林の中は月明《つきあかり》でほの白い。櫟《くぬぎ》から楢《なら》と眼をつけ、がさ/\と吾が踏《ふ》み分くる足下《あしもと》の落葉にも気をつけ、木を掘ったあとの窪《くぼみ》を注視し、時々立止って耳を澄ました。
 居《い》ない。終に何者も居ない。土の下も黙《だま》って居る。
[#地から3字上げ](明治四十二年 十二月二日)
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     天理教の祭

 おかず媼《ばあ》さんが、天理教会|秋祭《あきまつり》の案内に来た。
 紙の上の天理教《てんりきょう》は見て居るが、教会を覗《のぞ》いた事は未《ま》だ無い。好い機《おり》だ。往って見る。
 下足札《げそくふだ》を出して、百畳敷一ぱいの人である。正面には御簾《みす》を捲いて、鏡が飾ってある。太鼓《たいこ》、笙《しょう》、篳篥《ひちりき》、琴《こと》、琵琶《びわ》なんぞを擁したり、あるいは何ものをも持たぬ手を膝《ひざ》に組んだ白衣《びゃくい》の男女が、両辺に居流れて居る。其白衣の女の中には、おかず媼《ばあ》さんも見えた。米俵が十数|俵《ひょう》も神前に積《つ》まれて、奉納者《ほうのうしゃ》の名を書いた奉書紙《ほうしょがみ》が下げてある。
 やがて鳴物《なりもの》が鳴り出した。
 太鼓の白衣氏が撥《ばち》を握《にぎ》って単調な拍子《ひょうし》をとりつゝ
「ちょっとはなし、神の云うこと聞いてくれ」
と唱《とな》え出した。琴が鳴る。篳篥《ひちりき》が叫ぶ。琵琶が和《わ》する。
 黒紋付木綿の綿入に袴《はかま》を穿《は》いた倔強《くっきょう》な若い男が六人、歌につれて神前に踊りはじめた。一進一退、裏《うら》むき表《おもて》むき、立ったり蹲《しゃが》んだり、黒紋付の袖からぬっと出た逞《たく》ましい両の手を合掌《がっしょう》したりほどいたり、真面目に踊って居る。無骨《ぶこつ》で中々|愛嬌《あいきょう》がある。「畚《もっこ》かついでひのきしん」と云う歌のところでは、六人ながら新しい畚を担《にな》って踊った。
 鳴物は単調に鳴る。歌は単調につゞく。踊は相も変らぬ手振がつゞく。余は多少あき気味であたりを眺《なが》める。皆近辺の人達で、多少の識った顔もある。皆|嬉々《きき》として眺めて聴いて居る。

           *

 天理教祖は実に偉い婆さんであった。其広大な慈悲心は生きて働き、死んでます/\働き、老骨《ろうこつ》地に入ってこゝに数十年、其流れを汲《く》む人の数は実に夥《おびただ》しい数を以て数えられる。仮令《たとい》大和の本教会《ほんきょうかい》は立派な建築を興し、中学などを建て、小むずかしい天理教聖書を作り、已に組織病に罹《かか》ったとしても、婆さんから流れ出た活ける力はまだ/\盛に本当の信徒の間に働いて居る。信ずる者は幸福である。仮令《たとい》其信仰の為に財産をなくして人の物笑《ものわらい》となり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰を有《も》つ者でない。信ずる彼等は確《たしか》に其信仰に生きて居るのである。
 信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多《ざった》な信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾《いかん》なく実現したら、世界は夙《とう》に無事に苦んで居る筈《はず》だ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様に捧《ささ》げてしまって、嬉々《きき》として労役者《ろうえきしゃ》の生活をして居る者もある。天理教で財産を耗《す》って、其|報償《むくい》を手あたり次第に徴集《ちょうしゅう》し、助けなき婆さんを窘《いじ》めて店賃《たなちん》をはたる者もある。病気の為に信心して幸に痊《い》ゆれば平気で暴利を貪《むさぼ》って居る者もある。信徒の労力を吸って肥《こ》えて居る教師もある。然し斯《この》せち鹹《から》い世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処《ずいしょ》にある。此春妻が三軒茶屋《さんげんぢゃや》から帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物を提《さ》げて歩《ある》いて居ると、畑に働《はたら》いて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。
 人が平気に踏《ふ》みしだく道辺《みちべ》の無名草《ななしぐさ》の其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村|山郭《さんかく》の此処其処に人知れず生れて居るのである。

           *

 斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌《おかぐらうた》一巻を唱《とな》え囃《はや》し踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面に据《す》えられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取《ぞうりとり》となって草履を懐《ふところ》に入れて温《あたた》めた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰《おりづめ》一個をもらい、正宗《まさむね》一|合瓶《ごうびん》は辞して、参拾銭|寄進《きしん》して帰った。
 耶蘇教は我《が》強《つよ》く、仏教は陰気《いんき》くさく、神道に湿《しめ》りが無い。彼《かの》大なる母教祖《ははきょうそ》の胎内《たいない》から生れ出た、陽気で簡明|切実《せつじつ》な平和の天理教が、土《つち》の人なる農家に多くの信徒を有《も》つは尤である。
[#地から3字上げ](明治四十二年 十二月四日)
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     渦巻

 小春日がつゞく。
 十二月は余の大好《だいす》きな月である。絢爛《けんらん》の秋が過ぎて、落つるものは落ち尽《つく》し、枯《か》るゝものは枯れ尽し、見るもの皆|乾々《かんかん》浄々《じょうじょう》として、寂《さび》しいにも寂しいが、寂しい中にも何とも云えぬ味《あじ》がある。秋に別れて冬になろうと云う此|隙《ひま》に、自然が一寸静座の妙境《みょうきょう》に入る其幽玄の趣《おもむき》は言葉に尽くせぬ。
 隣字《となりあざ》の仙左衛門が、根こぎの山豆柿《やままめがき》一本と自然薯《じねんじょ》を持て来てくれた。一を庭に、一を鶏《にわとり》の柵《さく》に植える。今年《ことし》は吾家《うち》の聖護院《しょうごいん》大根《だいこ》が上出来だ。種をくれと云うから、二本やる。少し話して行けと云うたら、また近所《きんじょ》に鮭《さけ》が出来たからと云うて、急いで帰った。鮭とは、ぶら下がるの謎で、首縊《くびくく》りがあったと云うのである。
 橋本の敬さんが、実弟の世良田《せらだ》某《ぼう》を連れて来た。五歳《いつつ》の年|四谷《よつや》に養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルス[#「ロスアンゼルス」に二重傍線]に砂糖《さとう》大根《だいこん》八十町、セロリー四十町作って居るそうだ。妻《つま》を持ちに帰って来たのである。カンタループ、草花の種子をもらう。
 此村から外国《がいこく》出稼《でかせぎ》に往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で下総《しもうさ》の高原に移住し、可なり成功した者が一度帰って来たことがある。何《ど》の家にも、子女の五六人七八人居ない家はないが、それで一向《いっこう》新しい竈《かまど》の殖《ふ》える様子もない。如何《どう》なるかと云えば、女は無論|嫁《とつ》ぐが、息子《むすこ》の或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、店《みせ》を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦《おおうず》が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うてよい。世良田《せらだ》君なんどは稀有《けう》の例である。
 東京に出て相応《そうおう》に暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸や盆《ぼん》に墓参に来る人の数は少なく、余の直ぐ隣の墓地でも最早《もう》無縁《むえん》になった墓が少からずあるのを見ると、故郷はなれた彼等の運命が思いやられぬでもない。「家鴨馴知灘勢急、相喚相呼不離湾」何処《どこ》ぞへ往ってしまいたいと口癖《くちぐせ》の様に云う二番目息子の稲公《いねこう》を、阿母《おふくろ》が懸念《けねん》するのも無理は無い。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十二月五日)
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     透視

 非常の霜、地皮《ちひ》が全く霜《しも》やけして了うた。
 午《ご》の前後はまた無闇《むやみ》と暖《あたたか》だ。凩《こがらし》も黙《だま》り、時雨《しぐれ》も眠《ねむ》り、乾《かわ》いて反《そ》りかえった落葉《おちば》は、木の下に夢《ゆめ》みて居る。烏《からす》が啼《な》いたあとに、隣の鶏《にわとり》が鳴《な》き、雀《すずめ》が去ったあとの楓《かえで》の枝《えだ》に、鷦鷯《みそさざい》がとまる。静かにさす午後の日に白く光《ひか》って小虫《こむし》が飛ぶ。蜘糸《くものい》の断片が日光の道を見せて閃《ひら》めく。甲州の山は小春《こはる》の空《そら》にうっとりと霞《かす》んで居る。
 落ちついて、はっきりして、寂しい中に暖か味《み》があって、温《あたた》かい中に寂し味があって、十二月は本当に好い月である。
 日曜だが、来客もなくて静《しずか》なことだ。主と妻と女児と、日あたりの好《い》い母屋《おもや》の南縁《なんえん》で、日なたぼっこをして遊ぶ。白茶《しらちゃ》天鵞絨《びろうど》の様に光る芝生《しばふ》では、犬のデカとピンと其子のタロウ、カメが遊んで居る。大きなデカ爺《おやじ》が、自分の頭程《あたまほど》もない先月生れの小犬の蚤《のみ》を噛《か》んでやったり、小犬が母の頸輪《くびわ》を啣《くわ》えて引張ったり、犬と猫と仲悪《なかわる》の譬《たとえ》にもするにデカと猫のトラと鼻《はな》突《つき》合わして互《たがい》に疑《うたが》いもせず、皆悠々と小春の恩光《おんこう》の下《もと》に遊んで居る。「小春」とか「和楽《わらく》」とかの画《え》になりそう。

           *

 細君が指輪《ゆびわ》をなくしたので、此頃勝手元の手伝《てつだ》いに来る隣字《となりあざ》のお鈴《すず》に頼み、吉《きち》さんに見てもらったら、母家《おもや》の乾《いぬい》の方角《ほうがく》高い処にのって居る、三日《みっか》稲荷様《いなりさま》を信心すると出て来る、と云うた。
 吉さんは隣字の人で、日蓮宗の篤信者《とくしんじゃ》、病気が信心で癒《なお》った以来千里眼を得たと人が云う。吉凶《きっきょう》其他分からぬ事があれば、界隈《かいわい》の者はよく吉さんに往って聞く。造作《ぞうさ》なく見てくれる。馬鹿にして居る者もあるが、信ずる者が多い。信ずる者は、吉さんの言《ことば》で病気も癒《なお》り、なくなったものも見出す。此辺での長尾《ながお》郁子《いくこ》、御船《みふね》千鶴子《ちづこ》である。
 裏の物置に大きな青大将《あおだいしょう》が居る。吉さんは、其れを先々代の家主のかみさんの霊《れい》だと云う。兎に角、聞く処によれば、これまで吉さんの言が的中《てきちゅう》した例は少なくない。吉さんは人の見得ないものを見る。汽車の轢死人《れきしにん》があった処を吉さんが通ると、青い顔の男女《なんにょ》がふら/\跟《つ》いて来て仕方《しかた》がないそうだ。
 余の家にも他の若い者|並《なみ》に仕事に来ることがある。五十そこらの、瘠《や》せて力があまりなさそうな無口な人である。
 我等は信が無い為に、統一が出来ない為に、おのずから明瞭なものも見えず聞こえずして了うのである。信ずる者には、奇蹟は別に不思議でも何でもない筈《はず》だ。
 然しながら我等|凡夫《ぼんぷ》は必しも人々尽く千里眼たることは出来ぬ。また必ずしも悉く千里眼たるを要せぬ。長尾郁子や千鶴子も評判が立つと間もなく死んで了うた。不信が信を殺したとも云える。また一方から云えば、幽明《ゆうめい》、物心《ぶっしん》、死生《しせい》、神人《しんじん》の間を隔《へだ》つる神秘の一幕《いちまく》は、容易に掲《かか》げぬ所に生活の面白味《おもしろみ》も自由もあって、濫《みだ》りに之を掲ぐるの報《むくい》は速《すみ》やかなる死或は盲目である場合があるのではあるまいか。命を賭《と》しても此帷幕の隙見《すきみ》をす可く努力せずに居られぬ人を哂《わら》うは吾儕《われら》が鈍《どん》な高慢《こうまん》であろうが、同じ生類《しょうるい》の進むにも、鳥の道、魚の道、虫《むし》の道、また獣《けもの》の道もあることを忘れてはならぬ。
 吾儕《われら》は奇蹟を驚異し、透視《とうし》の人を尊敬し、而して自身は平坦な道をあるいて、道の導く所に行きたいものである。

           *

 夜、鶴子《つるこ》が炬燵《こたつ》に入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習《てならい》をしたあとで、雑記帳の表紙《ひょうし》に「トクトミツルコノデス」と書き、それから
[#ここから3字下げ]
コイヌガウマレマシテ、カワイコトデアリマス
[#ここで字下げ終わり]
と書いた。これは鶴子女史が生れてはじめての作文だ。細君が其下に記憶の為「ゴネントムツキ」と年齢《とし》をかゝせた。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十二月十日)
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     雪

 暮の廿八日は、午食前《ひるめしまえ》から雨になり、降りながら夜に入った。
 夜の二時頃、枕辺《まくらべ》近く撞《どす》と云った物音《ものおと》に、余は岸破《がば》と刎《は》ね起きた。身繕《みづくろ》いしてやゝしばし寝床《ねどこ》に突立《つった》って居ると、忍び込んだと思った人の容子《ようす》は無くて、戸の外《そと》にサラ/\サラ/\忍びやかな音がする。
「雪だ!」
 先刻《さっき》の物音は、樫《かし》の枝を滑り落ちた雪の響《おと》だったのだ。余は含笑《ほほえ》みつゝまた眠った。
 六時、起きて雨戸をあけると、白い光《ひかり》がぱっと眼を射《い》た。縁先《えんさき》まで真白だ。最早《もう》五寸から積って居るが、まだ盛《さかん》に降って居る。
 去年は暖かで、ついぞ雪らしい雪を見なかった。年の内に五寸からの雪を見ることは、余等が千歳村の民になってからはじめてゞある。
 余は奥書院《おくしょいん》の戸をあけた。西南を一目に見晴《みは》らす此処《ここ》の座敷は、今雪の田園《でんえん》を額縁《がくぶち》なしの画《え》にして見せて居る。庭の内に高低《こうてい》参差《しんし》とした十数本の松は、何れも忍《しの》び得る限《かぎ》り雪に撓《た》わんで、最早|払《はら》おうか今払おうかと思い貌《がお》に枝を揺々《ゆらゆら》さして居る。素裸《すっぱだか》になってた落葉木《らくようぼく》は、従順《すなお》に雪の積るに任せて居る。枯萩《かれはぎ》の一叢《ひとむら》が、ぴったりと弓形《ゆみなり》に地に平伏《ひれふ》して居る。余は思わず声を立てゝ笑った。背向《うしろむ》きの石地蔵《いしじぞう》が、看護婦の冠る様な白い帽子を被《き》せられ、両肩《りょうかた》には白い雪のエパウレットをかついで澄まして立ってござるのだ。
 余は障子をしめて内に入り、仕事にかゝる前に二通の手紙を書いた。筑波山下《つくばさんか》の医師《いし》なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国《すいこく》の雪景色と、歳晩《さいばん》の雪の都会の浮世絵が幻《まぼろし》の如く眼の前に浮ぶ。手紙を書き終えて、余は書き物をはじめた。障子が段々《だんだん》眩《まぶ》しくなって、時々|吃驚《びっくり》する様な大きな響《おと》をさしてドサリ撞《どう》と雪が落ちる。机の傍《そば》では真鍮《しんちゅう》の薬鑵《やかん》がチン/\云って居る。
 午餐《ごさん》の案内に鶴子が来た。室を出て見ると、雪はぽつり/\まだ降って居るが、四辺《あたり》は雪ならぬ光を含んで明るく、母屋《おもや》前《まえ》の芝生は樫の雫《しずく》で已に斑《まだら》に消えて居る。
「何だ、此れっ切りか。春の雪の様だね」
 斯《か》く罵《ののし》りつゝ食卓《しょくたく》に就《つ》く。黒塗膳《くろぬりぜん》に白いものが三つ載《の》せてある。南天《なんてん》の紅《あか》い実《み》を眼球《めだま》にした兎《うさぎ》と、竜髭《りゅうのひげ》の碧《あお》い実《み》が眼球《めだま》の鶉《うずら》や、眉を竜髭の葉にし眼を其実にした小さな雪達磨《ゆきだるま》とが、一盤《ひとばん》の上に同居して居る。鶴子の為に妻が作ったのである。
「此《この》達磨《だるま》さん西洋人《せいようじん》よ、だって眼が碧《あお》いンですもの」と鶴子が曰《い》う。
 雪で、今日は新聞が来《こ》ぬ。朝は乳屋《ちちや》、午後は七十近い郵便《ゆうびん》配達《はいたつ》の爺《じい》さんが来たばかり。明日《あす》の餅搗《もちつ》きを頼んだので、隣の主人《あるじ》が糯米《もちごめ》を取りに来た。其ついでに、蒸《ふ》かし立ての甘藷《さつまいも》を二本鶴子に呉《く》れた。
 余は奥座敷で朝来《ちょうらい》の仕事をつゞける。寒いので、しば/\火鉢《ひばち》の炭《すみ》をつぐ。障子がやゝ翳《かげ》って、丁度《ちょうど》好い程の明《あかり》になった。颯《さあ》と云う音がする。轟《ごう》と云う響《ひびき》がする。風が出たらしい。四時やゝ廻《まわ》ると、妻が茶《ちゃ》を点《い》れ、鶴子が焼栗《やきぐり》を持て入って来た。
「雪水《ゆきみず》を沸《わ》かしたのですよ」
と妻が曰《い》う。ペンを擱《さしお》いて、取あえず一|碗《わん》を傾《かたむ》ける。銀瓶《ぎんびん》と云う処だが、やはり例《れい》の鉄瓶《てつびん》だ。其れでも何となく茶味《ちゃみ》が軟《やわら》かい。手々《てんで》に焼栗を剥《む》きつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。北から風が吹いて居る。田圃《たんぼ》向《むこ》うの杉の森を掠《かす》めて、白い風が弗《ふっ》、弗《ふっ》と幾陣《いくしきり》か斜《はす》に吹き通る。庭の内では、蛾《が》の如く花の様な大小の雪片《せっぺん》が、飛《と》んだり、刎《は》ねたり、狂《くる》うたり、筋斗翻《とんぼがえり》をしたり、ダンスをする様にくるりと廻《まわ》ったり、面白そうにふざけ散らして、身軽《みがる》に気軽《きがる》に舞うて居る。消えかけて居た雪の帽が、また地蔵の頭上に高くなった。庭の主貌《あるじがお》した赤松の枝から、時々サッと雪の滝《たき》が落ちる。
「今夜も降りますよ」
 斯く云いすてゝ妻は鶴子と立って往った。
 余は風雪の音を聞き/\仕事をつゞける。一枚も書くと、最早《もう》書く文字がおぼろになった。余はペンを拭《ふ》いて、立って障子をあけた。
 蒼白《あおじろ》い雪の黄昏《たそがれ》である。眼の届く限り、耳の届く限り、人通りもない、物音もしない。唯雪が霏々《ひひ》また霏々と限りもなく降って居る。良《やや》久《ひさ》しく眺める。不図|縁先《えんさき》を黒い物が通ると思うたら、其《それ》は先月来余の家に入込んで居る風来犬《ふうらいいぬ》であった。まだ小供※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]した耳の大きな牝犬《めいぬ》で、何処から如何《どう》して来たか知らぬが、勝手にありついて、追えども逐えども去ろうともせぬ。余の家には雌雄《しゆう》二|疋《ひき》の犬が居るので、此上牝犬を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと謂《い》って、荻窪《おぎくぼ》から汽車で吉祥寺《きちじょうじ》に送って、林の中に繋《つな》いで置いたら、頸《くび》に縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりに舞《ま》い戻《もど》った。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長い鎖《くさり》を引きずりながら帰って来た。詮方《せんかた》なくて今は其まゝにしてある。余が口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いたら、彼女《かのじょ》はふっと見上げたが、やがて尾を垂《た》れて、小さな足跡《あしあと》を深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。
 雪はまだしきりに降って居る。
 余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思い浮《うか》べた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々の形《かたち》で世界の各所《かくしょ》に現《あら》わるゝ、人心《じんしん》の昂奮《こうふん》、人間の動揺が、眼《め》まぐろしくあらためて余の心の眼に映《うつ》った。
 何処《どこ》に落着く世の中であろう?
 余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。
 大正元年暮の二十九日は蒼白《あおじろ》う暮れて行く。
[#ここから3字下げ]
おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし
    世は一色《ひといろ》の雪の夕暮
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ](大正元年 十二月二十九日)
[#改丁]

   読者に


       (一)

読者諸君。
「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸に恙《つつが》なく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。
 まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。
 大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭の冷《ひい》やりとした歩《あゆ》みをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。※[#「しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月《みつき》を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿《けいき》とぶらついた旅行は、近づく運命を躱《かわ》そうとてののたうち廻りでした。然し盃《さかずき》は否応《いやおう》なしに飲まされます。私は阿容※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《おめおめ》とまた粕谷の旧巣《ふるす》に帰って来ました。
 大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
 其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍《あらそ》えません。早速妻が瀕死の大病に罹《かか》り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
 世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩《おうのう》は気も狂うばかりです。傍《かたわら》に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
 すべてには限《きり》があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪《も》が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉《わた》って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
 世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が※[#濁点付き片仮名「ヱ」、1-7-84]ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後《あと》で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡《シンガポオル》まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚《なお》西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
[#ここから3字下げ]
母なしとなどかは嘆くわれを生みし
    国土《こくど》日本《にっぽん》とこしへの母
[#ここで字下げ終わり]
 日本近くなった太平洋船中での私の感懐であります。
 帰って丁度一年目の大正十年三月、私共は夫妻共著の「日本から日本へ」を出しました。
 中一年置いて、今大正十二年四月に私は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年前の遺嘱《いしょく》を果したのであります。
 それから九月一日の大震にもお蔭で恙《つつが》なく、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿《は》いて「奥様、あれ持って来てやろか」と云う口をきく、アイウエオが十分には読めぬ「今」という十四の女中と、Bと名づくる牝猫一疋、淋しい忙しい生活をつづけて居ります。

           *

 世界一周から帰村した三日目の夜、私共は近所の人人を呼んでおみやげ話をしました。ざっと行程を話したあとで、私は曰いました。
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世界を一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。
[#ここで字下げ終わり]
諸君が手を拍《たた》いて喝采《かっさい》しました。
 お世辞ではありません。全然《まったく》です。
 私は九州肥後の葦北《あしきた》郡|水俣《みなまた》という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々《てんてん》して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡|隈府《わいふ》という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒《いっしょ》になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土と一棟《ひとむね》のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。戸籍まで引いたは、永住の心算《つもり》でした。然し落ち着きは中々出来ないものです。村居七年目に出した「みみずのたはこと」は、開巻第一に臆面《おくめん》もなく心のぐらつきを告白して居ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其|挙句《あげく》が前述《ぜんじゅつ》の通り十年のドウ/\廻《めぐ》りです。私は自分の幼稚な吾儘《わがまま》と頑固な気まぐれから、思うようにならぬと謂《い》うては第一自分自身がいやになり、周囲がいやになり、日本がいやになり、世界がいやになり、到頭生きる事がいやになり、自己を脱《ぬ》けたい、何処ぞへ移りたい、面倒臭い、いっそ死んでのけたいとまで思いつめ、落ちつく故郷を安住の地をひたもの探がし廻ったのでした。然し駄目でした。一足飛びに自分が聖人にもなれません。一から十まで気に入るような人間にも会えません。またしっくりと身に合うような出来合いの理想郷は此世にありません。然らば如何《どう》する? だらしなく無為に朽《く》ちるか。太く短く反逆の芝居を打って一思いに花やかな死を遂げるか。さもなくば自己に帰って、客観的には謙《へりくだ》ってすべてに顕わるる神を見、主観的には自己を核《かく》にして内にも外にも好きな世界を創造すべく努めるか。私は其一を撰ばねばならなくなりました。而して到頭自己に帰りました。「盍反其本《なんぞそのもとにかえらざる》」で、畢竟《ひっきょう》其本に、自己に、わが衷《うち》に在《いま》す神、やがてすべてに在す神――に帰ったのであります。帰れば其処が故郷でした。安住の地でした。私の母の歌に
[#ここから3字下げ]
西、東、北の果までたづねても
    みなみ(南、――皆身《みなみ》)にかへる地獄極楽
[#ここで字下げ終わり]
というのがありますが、正《まさ》にそれです。皆身にかえる外はありません。私も五十年来さま/″\の旅をしつくし、駄目を押し、終に世界を一周《ひとめぐり》して来て見て、いよ/\自己に、而して自己の住む此処日本粕谷にしっかりと腰を据えたのであります。
 十七年前、村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました。私は生返事して十数年を過ごしました。今年ある村の寄合の場で、私は斯く言いました。
「私共もいよ/\粕谷の土になる事にきめました。何分よろしく」
「世界で日本、日本で粕谷」に拍手喝采した諸君は、此時破顔一笑、会心《かいしん》のさざめきを以て酬《むく》うてくれました。
 いよ/\私共も粕谷の土になるにきめました。東隣の墓地は狭いが、四千坪近い所有地は何処にやすらうも自由です。墓地をきめると云う事は、旅行しない意味では無論ありません。何処で死ぬか、私共は知りません。唯何処で死んでもいずれ粕谷の土です。
 泊《とまり》がきまると、行手《ゆくて》を急ぐ要はありません。のろ/\歩きましょう。一歩は一歩の楽《たのしみ》です。父は九十三、母は九十一、何卒《どうか》私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様《てんとうさま》が中々殺さぬよ」。私も夥《おびただ》しい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺《いんごうおやじ》が「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗《むやみ》に重《かさ》ねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気《しょげ》た時期もあります。わが借金は棚《たな》にあげ、他《ひと》の少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮《しょせん》払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸《わるどきょう》を据《す》えた時もあります。然しもう潔《いさぎよ》く観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。総《そう》じて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面《じゅうめん》つくって、さっさと返えしては曲《きょく》が無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目《まじめ》に計算しましょう。笑顔《えがお》で払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。

       (二)

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯《おおまた》に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷《ひ》やかしに往って帰る位何の造作《ぞうさ》もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉《うれ》しいような、また恐《こわ》いような気がします。隣字《となりあざ》の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴《ヴァイオリン》の好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧《きぬた》村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛を飼《か》わぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々《もうもう》程農村を長閑《のどか》にするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声が潮《うしお》の如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。
 台湾を取り、樺太の半を収《おさ》め、朝鮮を併《あわ》せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型《ひながた》ででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家から創《はじ》めた私共の住居《すまい》も、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺《かやぶき》の四棟《よむね》もあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋《おもや》の南面に風よけの杉籬《すぎかき》を結《ゆ》いました。西の端に唯一本|木鋏《きばさみ》を免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、幹《みき》の太《ふと》さは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世《かくせい》の感があります。私共の村住居《むらずまい》の年標《ねんひょう》として、私は毎々《まいまい》お客に此杉の木を指《ゆびさ》します。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影は覗《うかが》われます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納めるので、私も今は衆議院議員選挙権の所有者です。已に一回投票というものをして見ました。それは兎に角私も粕谷の住人としてもう新参ではありません。住居の雅名《がめい》が欲《ほ》しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園《こうしゅんえん》と命名しました。台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜《えんぎ》が好《よ》いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。恒春園は荒れました。四千坪の大部分は樹木と萱《かや》、雑草で、畑は一反足らずです。外遊中は人気《ひとけ》がないので野兎《のうさぎ》が安心して園に巣をつくりました。此頃ではペン多忙で、滅多《めった》に鍬《くわ》は取りません。少しばかりの野菜は、懇意な農家に頼んで居ます。金になると云う上からは、恒春園は零《ぜろ》です。毎年|堆肥《たいひ》温床用《おんしょうよう》の落葉を四円に売ります。四千坪の年収が金四円です。庭園は荒れに荒れ、家も大分ふるびて、雨漏りがします。明治四十二年の春に買った一棟《ひとむね》なぞは、萱沢山《かやたくさん》の厚さ二尺程にも屋根を葺《ふ》いて、一生大丈夫の気で居ましたら、何時しか木蔭から腐って、骨が出ました。家屋でも、身体《からだ》でも、修繕なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が薄くなったり、物忘れをしたり、五体の何処かが絶えず修補を促《うなが》します。私共も肝油を飲んだり、歯科眼科に通ったり、腸胃の為に弦斎さんのタラコン散を常薬にして居ます。身体の修繕斯通りで、家屋のそれも決して忘れた訳ではありません。全く住宅と衣服は出来合いで済まされません。洋服の利は分かって居ます。私共も外遊以来一切和服の新調をやめ――以前から碌《ろく》に和服という和服もなかったのですが――内にも外にも簡易な洋服生活です。住居はこれからです。古家ばかり買い込んで、小人数には広過ぎ、手長足長、血のめぐりの悪い此住居を取毀《とりこわ》し、しっくりとした洋式住宅を建てよう心算は夙《とく》に出来て居ますが、実現がまだ出来ません。畳の上に椅子テエブル、障子を硝子にしたり、井を米国式軽快なポンプにしたり、書斎に独逸暖炉を据えたり、室内電話を使ったり、心ばかりの進出をして居ます。先頃の地震でいっそ一思いに潰《つぶ》れるか、焼けるかしたら、借金してもバラック位新築せねばならなかったでしょうが、無理さすまいとてか、地震は御愛想に私共の壁を崩し戸障子の建てつきを悪くしただけで往ってしまったので、当分現状維持です。然し新造が見えすいて居る住居に、大工左官を入れるも馬鹿らしいので、地震後一月あまり私は毎日鎚と鋸と釘抜と釘とを持って、壁の大崩れに板や古障子を打ちつけ、妻や女中が古新聞で張って、兎や角凌いで居ます。書斎も母屋《おもや》も壁の亀裂《ひわれ》もまだ其ままで、母屋に雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックを偲《しの》んで居ます。

       (三)

 九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道|筋《すじ》には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転《ころ》んだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途《かえり》に立寄って、廊下の壁の大破《たいは》を片づけたり、地蔵様を抱《だ》き起したりしてくれました。後《あと》は前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭の株《かぶ》立ちの山楓《やまもみじ》の蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭の※[#「木+解」、第3水準1-86-22]《かしわ》の木に提灯《ちょうちん》つるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者《りさいしゃ》です。九月一日、二日、三日と三宵に渉《わた》り、庭の大椎《おおしい》を黒《くろ》く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦《こが》す猛火の焔《ほのお》は私共の心魂《しんこん》を悸《おのの》かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷《いた》めます。関心する人人の安否を確《たしか》むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃《ふ》を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然《そう》です。世界戦に日本は手《た》ずさわるとは云う条《じょう》、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱《くげん》を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外|何処《どこ》の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝《つ》かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭《むち》は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲《こ》らしめざる子あらんや」と云う筆法《ひっぽう》から云えば、災禍《さいか》の受け様《よう》にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥《おびただ》しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇《まっくら》に逆上《ぎゃくじょう》します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事|羞《はず》かしい事です。
 斯様《こん》な中にもうれしい事はやはりありました。粕谷の人々が相談して、九月の六日に水瓜、玉蜀黍《とうもろこし》、茄子《なす》、夏大根、馬鈴薯《じゃがいも》などを牛車十一台に満載《まんさい》して、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとした装《なり》をして左腕に一様に赤い布を巻き、牛車毎に「千歳村青年会粕谷支部」と書いた紙札を押立て、世話方数名附添うて、朝早く粕谷から練《ね》り出した時、私は思わず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜を截《き》り、馬鈴薯をつかみ、手ずから罹災の人々に頒《わか》ち、玄米と味噌で五日過した人々を「生き返える」と悦ばしたそうです。其報告が私共を喜ばせました。斯くてこそ田舎、十七年前都落ちした私共も都に会わす顔があります。
 中一日置いて、九月の八日には千歳村全体から牛車六十台の見舞車が、水気沢山の畑のものをまだ余燼《よじん》の熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました。私の直接労働の果《み》ではありません。金にして弐拾円です。
 東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分|繃帯《ほうたい》した都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中で根《こん》竭《つ》きて首を縊《くく》ったり、倒れて死んだ者もあります。寿永《じゅえい》の昔の平家都落ち、近くば維新当時の江戸幕府の末路を偲《しの》ぶ光景です。村の何《ど》の家にも避難者の五人三人収容しました。私共の家にも其母者が粕谷出身の縁故から娘の一人を預かりました。田舎が勝ち誇る時が来ました。何と云うても人間は食うて生きる動物です。生きものに食物程大切なものはありません。食物をつくる人は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるお邸《やしき》の旦那は、平生|権高《けんだか》で、出入りの百姓などに滅多に顔見せたこともありませんでした。今度の震災で、家は焼け残ったが、早速食う物がありません。見舞に来た百姓に旦那がお辞義の百遍もして、何でもよいから食う物を、と拝《おが》むように頼んだものです。ある避難の家族は、麦《むぎ》がまずいと云うて、「贅沢な」と百姓から、頭ごなしに叱りつけられました。去五月の末まで私共の家に働いて居た隣字のS女の家の傭女《やといめ》が水瓜畑に働いて居ると、裏街道を都落ちの人と見えて母子づれが通りかゝり、水瓜を一つ無心しました。傭人の遠慮して小さなのを一つもいでやると、悦んでそれを持って木蔭に去りました。やがてS女が来たので、傭女は其話をして、あの水瓜は未熟だったかも知れぬと言います。S女は直ぐ大きなよく出来たのをもいで、後追いかけました。都落ちの母子は木蔭で未熟の水瓜を白い皮まで喰い尽して居た所でした。「斯様《こんな》にうまい水瓜をはじめて食べました」とS女に悦びをのべたのでした。こんな時にこそ都会住者も自然の懐《ふところ》のうれし味をしみ/″\思い知ります。田舎の懐を都に開かせ、都の頭《ず》を自然に下げさせる――震災の働きの一つはこれでした。
 それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ美的百姓は同様です。「或る百姓の家」を出した江渡幸三郎君のような徹底した百姓と、私共のように米麦を買うて暮らす村落住者の相違は、斯様な時に顕《あら》われます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました。不時の避難客で、早速村の糧食不足となります。東京には玄米の配給があっても、田舎は駄目です。当時私共の家族は、夫妻に、朝鮮から遊びに来て居た二十歳《はたち》になる妻の姪《めい》、七月に秋田から呼んだ十四の女中、それから焼け出されの十七娘、外に猫一疋でした。丁度収穫を終えたばかりの馬鈴薯と畑に甘藷があるので、差迫っての餓死は兎に角、粒食《りゅうしょく》は直ぐ危くなりました。私共夫妻は朝夕パンで、米飯は午食だけです。パンが切れる。ふかしパンをつくる。メリケン粉は二升以上売ってはくれず、それも直ぐ尽きました。砂糖も同様です。ついでに蝋燭も同断です。朝は粥にして、玉蜀黍《とうもろこし》で補《おぎな》い、米を食い尽し、少々の糯米《もちごめ》をふかし、真黒い饂飩粉《うどんこ》や素麺《そうめん》や、畑の野菜や食えるものは片端《かたっぱし》から食うて、粒食の終はもう眼の前に来ました。いよ/\馬鈴薯、甘藷に落ちつく外ありません。其処に前顕《ぜんけん》のS女が見舞に来ました。彼女は本文「次郎桜」の主人公には季《すえ》の妹で、私共の外遊帰来三年間恒春園に薪水の労を助けた娘です。其長姉Y女も、私共の外遊前二年足らず私共の為に働いてくれたのでした。S女に相談すると、翌日の夕、彼女の長兄のI君が一担《いったん》の食糧を運んでくれました。I君は「次郎桜」の兄者《あにじゃ》で、十七年前私共が千歳村へ引越す時、荷車引いて東京まで加勢に来てくれた村の耶蘇信者四人の其一人、本文に「角田《つのだ》勘五郎《かんごろう》の息子《むすこ》」とあるのがそれです。其頃は十六七のにこにこした可愛い息子でした。それが適齢になって兵役に出で、満洲守備に行き、帰って結婚してもう四人の子女の父、郷党《きょうとう》のちゃきちゃきです。I君が担《にな》うて来てくれたは、白米一斗、それは自家の飯米《はんまい》を分けてくれたのでした。それから水瓜、甘藍《キャベツ》、球葱《たまねぎ》、球葱は此辺ではよく出来ませんが、青物市場であまり廉《やす》かったからI君が買って来たその裾分《すそわ》けという事でした。玄米でも饂飩粉でもよかった、「働く人の食料を分けてもらうのは気の毒」と私が申すと、「働くから上げられるのです」とI君が昂然《こうぜん》と応《こた》えました。これは確に一本参りました。全くです。働くから自ら養い他を養う事が出来るのです。私共は唯二つ残って居た懐中汁粉《かいちゅうじるこ》をI君に馳走して、色々話しました。千歳村移転当時の話からI君は其時私が諸君に向い、「東京も人間が多過ぎる、あまり頭に血が寄ると日本も脳充血になる、だから私は都を出でて田舎に移る」と申した事を私に想い出さしてくれました。兎に角私共はよくぞ其時都落ちをしました。でなければ私はもうとくに青山あたりの土になって居たかも知れません。十七年を過して、此処《ここ》に斯く在《あ》る事は、本当に感謝です。I君の贈物は肝腎《かんじん》な時に来て、大切なツナギになりました。その一斗の米が終る頃は、四谷の米屋の途《みち》も開けました。
 私は最初「みみずのたはこと」の広告に、斯様な告白をしました。
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『著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心|窃《ひそか》に都会と田舎の間に架する橋梁《きょうりょう》の其板の一枚たらん事を期す。』
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 不徹底な言い分のようですが、それが私の実情でした。今とても同然です。私は土を愛し、田舎を愛し、土の人なる農を愛しますが、私の愛は都市にも海にもあらゆる人間と其|営《いとな》みとを忘るゝ事は出来ません。私は慾張りです。私は一切を愛します。総《そう》じて血のめぐりの好い生体《せいたい》は健全です。病は偏《へん》です。不仁が病です。脳貧血のわるいは、脳充血のわるいに劣りません。私共の農村移住は随分吾儘な不徹底なものでしたが、それですら都鄙の間に通う血の一縷《いちる》となったと思えば、自ら慰むるところがあります。「みみずのたはこと」は自嘲気分を帯びた未熟な産物ですが、大正二年以来十年間に版を改むる百〇七、拾余万部を売り尽し、私共の耳目に触るゝ反響から見るも、農村を自愛させ、すべてに農村を愛さす上に幾分の効があったと知る事は、私共にとって大なる悦喜であります。
 私も以前は農村に住んで農になり切れず、周囲に同化しきれぬきまり悪さを「美的百姓」などと自から茶かして居ました。然し其|懊悩《おうのう》はもう脱《ぬ》けました。私共は粕谷に腰を据えました。私共は農村に骨を埋《うず》めます。然し私共は所謂農ではありません、私共の鍬はペンです。土は米麦も、草木もそだてます。畑の真中にだって、坊主にされながら赤松が立って居たり、碌に実が生《な》らぬ柿の木さえ秋は美しく紅葉し、裸になっては平気に烏《からす》をとまらして居るではありませんか。私共は九州の土に生れて、彼方此方と移植され、到頭此粕谷へ来た雌雄相生の樹です。随分長い間ぐらついて居ましたが、到頭根づきました。もうちっとやそっとの風雨が来ても、びくともする事ではありません。あたりの邪魔にならぬ限り伐《き》って薪《まき》にもされず成長をつづける事が出来ようと思います。

       (四)

 村の寄合などに稀《たま》に出て、私は諸君の頭の白くなったに毎々《まいまい》驚かされます。驚く私自身が諸君に驚かるゝ程|齢《とし》をとりました。全く十七年は短い月日でありません。私共が引越当年生れた赤ン坊が、もう十七になるのです。赤ン坊が青春男女になり、青年が一人前になり、男女ざかりが初老になり、老人が順繰《じゅんぐ》り土の中に入るも自然の推移《うつり》です。「みみずのたはこと」が出てから十年間に、あの書に顔を出して居る人人も、大分《だいぶ》故人になりました。
 今年の六月には、村の牧師|下曾根《しもぞね》信守《のぶもり》君を葬りました。六十九歳でした。下曾根さんは旧幕名家の出、伊豆|韮山《にらやま》の江川太郎左衛門と相並んで高島秋帆門下の砲術の名人であった下曾根金之丞は父でした。砲術家の三男に生れた下曾根さんは、夙《つと》に耶蘇教信者となり、父とは違った意味の軍人―耶蘇教伝道師になりました。先《せん》にも数年間調布町に住んで伝道し、会堂が建つばかりになって、会津へ転任して行きました。其後調布の耶蘇教が衰微《すいび》し、会堂は千歳村の信者が引取り、粕谷に持って来ました。本文の初に、私共が初めて千歳村に来て見た会堂がそれです。随分見すぼらしい会堂でした。村住居はしても、会堂の牧師になる事を私が御免蒙ったので、信者の人々は昔馴染《むかしなじみ》の下曾根さんをあらためて招聘《しょうへい》したのでした。下曾根さんは其時もう五十を過ぎ、耳が遠く、招かれても働きは思うように出来ぬと断ったそうですが、養老の意味で、たって来てもらったとの事です。私共が村入りの二月《ふたつき》目に下曾根さんは来て、信者仲間の歓迎会には私共も共々お客として招かれたのでありました。私共に代って貧乏籤《びんぼうくじ》をひいてくれた下曾根さんは、十七年間会堂|裏《うら》に自炊《じすい》生活《せいかつ》をつづけました。下曾根さんは独身で、身よりも少なく、淋しい人でした。寄る年と共にますます耳は遠くなり、貧乏教会の牧師で自身の貯金も使い果した後は、随分《ずいぶん》惨《みじめ》な生活でした。私は個人的に少許《すこし》の出金を気まぐれに続けたばかりで、会堂には一切手も足も出しませんでした。下曾根さんは貧しい羊の群を忠実に牧して、よく職務を尽しました。砲術家の出だけに明晰《めいせき》な頭脳の持主でしたが、趣味があって、書道を嗜《たしな》み、俳句を作り、水彩画をかいたり、園芸を楽しんだり、色々に趣味をもって自ら慰めて居りました。乏《とぼ》しい中から村の出金、教会としての中央への義務寄金も心ばかりはしました。亡《な》くなる前には、自身の履歴、形見分けの目録、後の処分の事まで明細に書き遺《のこ》し、洗《あら》うが如き貧しさの中から葬式|万端《ばんたん》の費用を払うて余剰《あまり》ある程の貯蓄をして置いた事が後で分かりました。信仰ある、而して流石《さすが》に武士の子らしい嗜《たしなみ》です。下曾根さんは私共の東隣《ひがしどなり》の墓地に葬られました。其葬式には最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し」と云う墓標の文字も其人の筆で書かれました。
 其葬式には、塚戸小学校の前校長H君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野《うえの》の音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に来て小学校長となり、在職二十五年の長きに及びました。村人として私共より十二年も前です。私共夫妻が最初千歳村に来て、ある小川の流れに菜《な》を洗う女の人に道問うた其れはH夫人であったそうです。私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕を罷《や》めて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。其後帝大に仕事を見出し、日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになると謂《い》うて告別に来たのは、つい此新甞祭の当日でした。地下に他郷に古い顔馴染《かおなじみ》が追々遠くなるのは淋しいものです。
 村の名物が段々無くなります。本文の「葬式」に出た粕谷で唯一人の丁髷《ちょんまげ》の佐平《さへい》爺《じい》さんも亡くなり、好人の幸さんも亡くなりました。文ちゃんの爺《じい》さんも亡くなりました。文ちゃんは稼《かせ》ぎ人《にん》で、苦しい中から追々|工面《くめん》をよくし、古家ながら大きな家を建てゝ、其家から阿爺《おやじ》の葬式も出しました。「斯様《こん》な家から葬式を出してもらうなんて、殿様だって出来ねえ事だ」と皆が文ちゃんの孝行をほめました。「腫物」に出た石山の婆さんも本家で亡くなりました。それは大正七年でしたが、其前年の暮《くれ》に「腫物」の女主人公、莫連《ばくれん》お広《ひろ》も亡くなりました。お広さんは石山新家を奇麗に潰《つぶ》して了うた後、馴染《なじみ》の親分と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子が出るよ」なんか村の者に自慢して居ました。其内親分がある寡家《ごけ》に入り浸《びた》りになって、お広さんが其処に泣きわめきの幕を出したり、かかり子の亥之吉が盲唖学校を卒業して一本立になっても母親を構《かま》いつけなかったり、お広さんの末路は大分困難になって来ました。金に窮すると、石山家に来ては、石山さんの所謂『四両五両といたぶって』行きました。到頭|腎臓《じんぞう》が悪くなり、水腫《みずばれ》が出て、調布在の実家で死にました。死ぬまで大きな声で話したりして、見舞に往った天理教信者のおかず媼《ばあ》さんを驚かしたものです。離縁になってなかったので、お広さんの体《からだ》は矢張石山さんが引取って、こっそり隣の墓地に葬りました。葬式の翌日往って見ると、新しい土饅頭《どまんじゅう》の前に剥《は》げ膳が据《す》えられ、茶碗の水には落葉が二枚浮いて居ました。白木の位配に「新円寂慈眼院恵光大姉《しんえんじゃくじげんいんえこうだいし》」と書いてあります。慈眼院恵光大姉――其処に現われた有無の皮肉に、私は微笑を禁じ得ませんでした。而して寂《さび》しい初冬の日ざしの中に立って、莫連お広の生涯を思い、もっと良い婦人《おんな》になるべき素質をもちながら、と私は残念に思うのでありました。お広さんが死んで、法律上にもいよいよ※[#「環」の「王」に変えて「魚」、下巻-152-1]《やもお》になった厚い唇の久《ひさ》さんは真白い頭をして、本家で働いて居ます。唖の巳代吉は貧しい牧師の金を盗んだり、五宿の女郎を買ったりして居ましたが、今は村に居ません。盲の亥之吉も、季《すえ》の弟も居ません。一人女《ひとりむすめ》のお銀は、立派に莫連の後を嗣いで、今は何処ぞに活躍して居ます。
 お広さんを愛したり捨てたりした親分七右衛門|爺《じい》さんは、今年|亡《な》くなり、而してやはり隣の墓地に葬られました。大きな男でしたが、火葬されたので、送葬《そうそう》の輿《こし》は軽く、あまりに軽く、一盃機嫌で舁《か》く人、送る者、笑い、ざわめき、陽気な葬式が皮肉でした。可惜《あたら》男《おとこ》をと私はまた残念に思うたのでありました。
「村入」の条に書いた私共の五人組の組頭《くみがしら》浜田の爺さんも、今年の正月八十で亡くなりました。律義な爺さんの一代にしっかり身上《しんしょう》を持ち上げ、偕白髪《ともしらが》の老夫婦、子、孫、曾孫の繁昌を見とどけてのめでたい往生でした。いつも莞爾々々《にこにこ》して、亡くなる前日まで縄《なわ》を綯《な》うたりせっせと働いて居ました。入棺前、別れに往って見ると、死顔《しがお》もにこやかに、生涯労働した手は節《ふし》くれ立って土まみれのまま合掌して居ました。これは代田《だいだ》街道《かいどう》側《わき》の墓地に葬られました。
 それから与右衛門さんとこのお婆さん、「信心なんかしませんや」と言うて居たお婆さんも亡くなりました。根気のよいお婆さんで、私も妻も毎々《まいまい》話しこまれて弱ったものです。居なくなって、淋しくなりました。「否《いな》と云へど強《し》ふるしひのがしひがたり、ちかごろ聞かずてわれ恋《こ》ひにけり」と万葉《まんよう》の歌人が曰《い》うた通りです。私共が外遊から帰ると、お婆さんは「四国《しこく》西国《さいごく》しなすったってねえ」と感にたえたように妻に云うて居ましたが、今は彼女自身遠く旅立ってしまいました。彼女は文ちゃんの爺さんが葬られて居る北の小さな墓地に葬られました。其処にはお婆さんには孫、与右衛門さんには嗣子《あととり》であったきつい気の忠《ちゅう》さん、海軍の機関兵にとられ、肺病になって死んだ忠さんも葬られて居ます。
 草履作りが名人の莞爾々々《にこにこ》した橋本のお爺さん、お婆さん、其隣の大尽の杉林のお婆さん、亡くなった人人も二三に止まりません。年寄りが逝《ゆ》くのは順ですが、老少不定の世の中、若い者、子供、赤ン坊の亡くなったのも一人や二人でありません。前に言うた忠さん、それから千歳村墓地敷地買収問題の時、反対|側《がわ》の頭目《とうもく》となって草鞋《わらじ》がけになって真先に働いたしっかり者の作さんも亡くなりました。半歳立たぬに、作さんの十六になる一人女も亡くなりました。私共が粕谷へ引越しの前日、東京からバケツと草箒《くさぼうき》持参で掃除に来た時、村の四辻《よつつじ》で女の子を負《おぶ》った色の黒い矮《ちいさ》い六十爺さんに道を教えてもらいました。お爺さんは「村入」で「わしとおまえは六合の米よ、早く一しょになればよい」と中音《ちゅうおん》に歌うた寺本の勘さん、即ち作さんの阿爺《おとっさん》で、背の女児は十六で亡くなった其孫女でした。
 まだ気の毒な亡者《もうじゃ》も、より気の毒な生き残りも二三あります。
 それ等を外にしては、石山さん、勘爺さん、其弟の辰爺さん、仁左衛門さん、与右衛門さん、武太さん、田圃向うの信心家のお琴婆さん、天理教のおかず婆さん、其他の諸君も皆無事です。土の下、土の上、私共の択んだ故郷粕谷は上にも下にも追々と栄えて行きます。都落ちして其粕谷にすでに十七年を過ごして、私が五十六、妻が五十、頭は追々白くなって、気は恒春園の恒に若く、荒れた園圃と朽ち行く家の中にやがて一陽来復の時を待ちつゝ日一日と徐に私共の仕事をすすめて居ます。
 書きたい事に切りがありませんが、其は他日の機会に譲って、読者諸君の健康を祝しつつここに一先《ひとま》ず此手紙の筆を擱《さしお》きます。
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大正十二年十二月三十日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から11字上げ]東京府 北多摩郡
[#地から12字上げ]千歳村 粕谷
[#地から8字上げ]恒春園に於て
[#地から3字上げ]徳冨健次郎
[#改丁、左右中央に]

    附録

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    ひとりごと

      蝶の語れる

 吾《われ》、毛虫《けむし》たりし時、醜《みにく》かりき。吾、蝶《てふ》となりて舞《ま》へば人《ひと》美《うつく》しと讃《ほ》む。人の美しと云ふ吾は、曩《その》昔《かみ》の醜かりし毛虫ぞや。
 吾、醜かりし時、人《ひと》吾《われ》を疎《うと》み、忌《い》み、嫌ひて避け、見る毎《ごと》に吾を殺さんとしぬ。吾、美しと云はるゝに到れば、人《ひと》争《あらそ》うて吾を招く。吾れの変れる乎《か》。人の眼《まなこ》なき乎。
 吾、醜しと見られし時、吾《わが》胸《むね》のいたみて、さびしく泣きたることいかばかりぞや。其《その》時《とき》君《きみ》独《ひと》り吾を憐みぬ。
 君、吾が毛虫たりし時、吾を憐みて捨てざりき。故に蝶となれる吾は、今|翼《つばさ》ある花となりて、願はくは君が為に君の花園に舞はん。
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    旅の日記から

     熊の足跡

      勿来

 連日《れんじつ》の風雨《ふうう》でとまった東北線が開通したと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野《うえの》から海岸線の汽車に乗った。三時過ぎ関本《せきもと》駅で下り、車で平潟《ひらがた》へ。
 平潟は名だたる漁場《りょうば》である。湾の南方を、町から当面《とうめん》の出島《でしま》をかけて、蝦蛄《しゃこ》の這《は》う様にずらり足杭《あしくい》を見せた桟橋《さんばし》が見ものだ。雨あがりの漁場、唯もう腥《なまぐさ》い、腥い。静海亭《せいかいてい》に荷物を下ろすと、宿の下駄傘を借り、車で勿来関址《なこそのせきあと》見物に出かける。
 町はずれの隧道《とんねる》を、常陸《ひたち》から入って磐城《いわき》に出た。大波小波|※[#「革+堂」、第3水準1-93-80]々《どうどう》と打寄する淋しい浜街道《はまかいどう》を少し往って、唯有《とあ》る茶店《さてん》で車を下りた。奈古曾《なこそ》の石碑《せきひ》の刷物《すりもの》、松や貝の化石、画はがきなど売って居る。車夫《くるまや》に鶴子《つるこ》を負《おぶ》ってもらい、余等は滑《すべ》る足元《あしもと》に気をつけ/\鉄道線路を踏切って、山田の畔《くろ》を関跡《せきあと》の方へと上る。道も狭《せ》に散るの歌に因《ちな》んで、芳野桜《よしのざくら》を沢山植えてある。若木《わかき》ばかりだ。路《みち》、山に入って、萩、女郎花《おみなえし》、地楡《われもこう》、桔梗《ききょう》、苅萱《かるかや》、今を盛りの満山《まんざん》の秋を踏み分けて上《のぼ》る。車夫《くるまや》が折ってくれた色濃い桔梗の一枝《ひとえだ》を鶴子は握《にぎ》って負《おぶ》られて行く。
 浜街道の茶店から十丁程上ると、関の址《あと》に来た。馬の脊《せ》の様な狭い山の上のやゝ平凹《ひらくぼ》になった鞍部《あんぶ》、八幡《はちまん》太郎《たろう》弓かけの松、鞍かけの松、など云う老大《ろうだい》な赤松黒松が十四五本、太平洋の風に吹かれて、翠《みどり》の梢《こずえ》に颯々《さっさつ》の音を立てゝ居る。五六百年の物では無い。松の外に格別古い物はない。石碑は嘉永《かえい》のものである。茶屋《ちゃや》がけがしてあるが、夏過ぎた今日、もとより遊人《ゆうじん》の影も無く、茶博士《さはかせ》も居ない。弓弭《ゆはず》の清水《しみず》を掬《むす》んで、弓かけ松の下に立って眺める。西《にし》は重畳《ちょうじょう》たる磐城の山に雲霧《くもきり》白く渦《うず》まいて流れて居る。東は太平洋、雲間《くもま》漏《も》る夕日の鈍《にぶ》い光《ひかり》を浮べて唯とろりとして居る。鰹舟《かつおぶね》の櫓拍子《ろびょうし》が仄《ほの》かに聞こえる。昔奥州へ通う浜街道は、此山の上を通ったのか。八幡太郎も花吹雪《はなふぶき》の中を馬で此処《ここ》を通ったのか。歌は残って、関の址と云う程の址はなく、松風《まつかぜ》ばかり颯々《さっさつ》と吟《ぎん》じて居る。人の世の千年は実に造作《ぞうさ》もなく過ぎて了う。茫然《ぼうぜん》と立って居ると、苅草《かりくさ》を背《せ》一《いっ》ぱいにゆりかけた馬を追うて、若い百姓《ひゃくしょう》が二人峠の方から下りて来て、余等の前を通って、また向《むこう》の峰《みね》へ上って往った。
 日の暮《くれ》に平潟の宿に帰った。湯はぬるく、便所はむさく、魚は鮮《あたら》しいが料理がまずくて腥《なまぐさ》く、水を飲もうとすれば潟臭《かたくさ》く、加之《しかも》夥《おびただ》しい蚊《か》が真黒《まっくろ》にたかる。早々《そうそう》蚊帳《かや》に逃《に》げ込《こ》むと、夜半《よなか》に雨が降り出して、頭《あたま》の上に漏《も》って来るので、遽《あわ》てゝ床《とこ》を移《うつ》すなど、わびしい旅の第一夜であった。
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      浅虫

 九月九日から十二日まで、奥州《おうしゅう》浅虫《あさむし》温泉|滞留《たいりゅう》。
 背後《うしろ》を青森行の汽車が通る。枕《まくら》の下で、陸奥湾《むつわん》の緑玉潮《りょくぎょくちょう》がぴた/\言《ものい》う。西には青森の人煙|指《ゆびさ》す可く、其|背《うしろ》に津軽《つがる》富士の岩木山が小さく見えて居る。
 青森から芸妓連《げいしゃづれ》の遊客が歌うて曰く、一夜《いちや》添《そ》うてもチマはチマ。
 五歳《いつつ》の鶴子初めて鴎《かもめ》を見て曰く、阿母《おかあさん》、白い烏《からす》が飛んで居るわねえ。
 旅泊《りょはく》のつれ/″\に、浜から拾《ひろ》うて来た小石で、子供一人|成人《おとな》二人でおはじきをする。余が十歳の夏、父母に伴《ともな》われて舟で薩摩境《さつまざかい》の祖父を見舞に往った時、唯《たった》二十五里の海上を、風が悪くて天草の島に彼此十日も舟《ふな》がかりした。昔話も聞き尽し、永い日を暮らしかねて、六十近い父と、五十近い母と、十歳の自分で、小石を拾《ひろ》うておはじきをした。今日《きょう》不器用な手に小石を数えつゝ、不図其事を思い出した。
 海岸を歩けば、帆立貝《ほたてがい》の殻《から》が山の如く積んである。浅虫で食ったものゝ中で、帆立貝の柱の天麩羅《てんぷら》はうまいものであった。海浜随処に※[#「王+攵」、第3水準1-87-88]瑰《まいかい》の花が紫に咲き乱れて汐風に香《かお》る。
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野糞《のぐそ》放《ひ》る外《そと》が浜辺《はまべ》や※[#「王+攵」、第3水準1-87-88]瑰花《まいくわいくわ》
[#ここで字下げ終わり]
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      大沼

       (一)

 津軽《つがる》海峡を四時間に駛《は》せて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であったが、船に弱い妻は到頭酔うて了うた。一夜函館|埠頭《ふとう》の朴《きと》旅館に休息しても、まだ頭が痛いと云う。午後の汽車で、直ぐ大沼へ行く。
 函館停車場は極《ごく》粗朴《そぼく》な停車場である。待合室では、真赤に喰《くら》い酔うた金襴《きんらん》の袈裟《けさ》の坊さんが、仏蘭西人らしい髯《ひげ》の長い宣教師を捉《つかま》えて、色々|管《くだ》を捲いて居る。宣教師は笑いながら好《い》い加減《かげん》にあしらって居る。
 札幌《さっぽろ》行の列車は、函館の雑沓《ざっとう》をあとにして、桔梗、七飯《なないい》と次第に上って行く。皮をめくる様に頭が軽くなる。臥牛山《がぎゅうざん》を心《しん》にした巴形《ともえなり》の函館が、鳥瞰図《ちょうかんず》を展《の》べた様に眼下に開ける。「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓《まど》から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮《しゅうちょう》を隔てゝ、遙《はるか》に津軽の地方が水平線上に浮《う》いて居る。本郷へ来ると、彼|酔僧《すいそう》は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠《かぶ》り、小形の緑絨氈《みどりじゅうたん》のカバンを提《さ》げて、蹣跚《まんさん》と改札口を出て行くのが見えた。江刺《えさし》へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客《ゆうかく》の為に設けた形《かた》ばかりの停車場である。こゝで下車。宿引《やどひき》が二人待って居る。余等は導《みちび》かれて紅葉館の旗《はた》を艫《とも》に立てた小舟に乗った。宿引は一礼《いちれい》して去り、船頭は軋《ぎい》と櫓声《ろせい》を立てゝ漕《こ》ぎ出す。
 黄金色《こがねいろ》に藻の花の咲く入江《いりえ》を出ると、広々とした沼の面《おも》、絶えて久しい赤禿《あかはげ》の駒が岳が忽眼前に躍《おど》り出た。東の肩からあるか無いかの煙《けぶり》が立上《のぼ》って居る。余が明治三十六年の夏来た頃は、汽車はまだ森までしかかゝって居なかった。大沼公園にも粗末《そまつ》な料理屋が二三軒|水際《みぎわ》に立って居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路《くしろ》まで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものは旧《きゅう》に仍《よ》って晴々《はればれ》した而して寂《しず》かな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤ楓《かえで》はそろ/\染《そ》めかけて居る。処々|楢《なら》や白樺《しらかば》にからんだ山葡萄《やまぶどう》の葉が、火の様に燃えて居る。空気は澄み切って、水は鏡の様だ。夫婦島《めおとじま》の方に帆舟が一つ駛《はし》って居る。櫓声静に我舟の行くまゝに、鴨《かも》が飛び、千鳥《ちどり》が飛ぶ。やがて舟は一の入江に入って、紅葉館の下に着いた。女中が出迎える。夥《おびただ》しくイタヤ楓の若木を植えた傾斜を上って、水に向う奥の一間《ひとま》に案内された。
 都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼に臨《のぞ》み、駒が岳に面し、名の如く無数の紅葉樹に囲まれて、瀟洒《さっぱり》とした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひっそりして居る。薪《まき》を使った鉱泉に入って、古めかしいランプの下、物静かな女中の給仕で沼の鯉《こい》、鮒《ふな》の料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水の際《きわ》の静かな夜の眠《ねむり》に入った。
 真夜中《まよなか》にごろ/\と雷が鳴った。雨戸の隙《すき》から雷が光った。而して颯《ざあ》と雨の音がした。起きて雨戸を一枚|繰《く》って見たら、最早《もう》月が出て、沼の水に螢《ほたる》の様に星が浮いて居た。

       (二)

 明方《あけがた》にはまたぽつ/\降って居たが、朝食《あさめし》を食うと止んだ。小舟で釣《つり》に出かける。汽車の通うセバットの鉄橋の辺《あたり》に来ると、また一しきりざあと雨が来た。鉄橋の蔭《かげ》に舟を寄せて雨宿《あまやど》りする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此辺は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の様に動いて居る。いくら釣っても、目《め》ざす鮒《ふな》はかゝらず、ゴタルと云う※[#「魚+少」、第3水準1-94-34]《はぜ》の様な小魚《こざかな》ばかり釣れる。舟を水草《みずくさ》の岸に着《つ》けさして、イタヤの薄紅葉《うすもみじ》の中を彼方《あち》此方《こち》と歩いて見る。下生《したばえ》を奇麗に払った自然の築山《つきやま》、砂地の踏心地《ふみごこち》もよく、公園の名はあっても、あまり人巧《じんこう》の入って居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える処で、三脚を据《す》えて、十八九の青年が水彩写生《すいさいしゃせい》をして居た。駒が岳に雲が去来《きょらい》して、沼の水も林も倏忽《たちまち》の中に翳《かげ》ったり、照ったり、見るに面白く、写生に困難らしく思われた。時が移るので、釣を断念し、また舟に上って島めぐりをする。大沼の周囲《めぐり》八里、小沼を合せて十三里、昔は島の数が大小百四十余もあったと云う。中禅寺の幽凄《ゆうせい》でもなく、霞が浦の淡蕩《たんとう》でもなく、大沼は要するに水を淡水にし松を楢《なら》白樺《しらかば》其他の雑木にした松島である。沼尻は瀑《たき》になって居る。沼には鯉、鮒、鰌《どじょう》ほか産しない。今年銅像を建てたと云う大山島、東郷島がある。昔此辺の領主であったと云う武家の古い墓が幾基《いくつ》も立って居る島もあった。夏は好い遊び場であろう。今は寂しいことである。それでも、学生の漕《こ》いで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟《ゆさんぶね》も一つ二つ見えた。舟を唯有《とあ》る岸に寄せて、殊《こと》に美しい山葡萄の紅葉を摘んで宿に帰った。
 午後は画《え》はがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函《とうかん》に往った。軟《やわ》らかな砂地に下駄を踏《ふ》み込んで、葦《あし》やさま/″\の水草の茂《しげ》った入江の仮橋を渡って行く。やゝ色づいた樺《かば》、楢、イタヤ、などの梢《こずえ》から尖《とが》った頭の赭《あか》い駒が岳が時々顔を出《だ》す。寂《さび》しい景色である。北海道の気が総身《そうみ》にしみて感ぜられる。
 夕方館の庭から沼に突き出た岬《みさき》の※[#「山+鼻」、第4水準2-8-70]《はな》で、細君が石に腰かけて記念に駒が岳の写生をはじめた。余は鶴子と手帖の上を見たり、附近《あたり》の林で草花を折ったり。秋の入り日の瞬《またた》く間に落ちて、山影水光《さんえいすいこう》見るが中に変って行く。夕日の名残《なごり》をとゞめて赭《あか》く輝やいた駒が岳の第一峰が灰がかった色に褪《さ》めると、つい前の小島も紫から紺青《こんじょう》に変って、大沼の日は暮れて了うた。細君はまだスケッチの筆を動かして居る。黯青《あんせい》に光る空。白く光る水。時々ポチャンと音して、魚がはねる。水際《みぎわ》の林では、宿鳥《ねどり》が物に驚いてがさがさ飛び出す。ブヨだか蚊だか小さな声で唸《うな》って居る。
「到頭出来なかった」
 ぱたんと画具箱《えのぐばこ》の葢《ふた》をして、細君は立ち上った。鶴子を負《お》う可く、蹲《しゃが》んで後《うしろ》にまわす手先に、ものが冷《ひ》やりとする。最早露が下りて居るのだ。
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      札幌へ

 九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周《はんしゅう》して、森に下って、噴火湾《ふんかわん》の晴潮を飽《あ》かず汽車の窓から眺める。室蘭通《むろらんがよ》いの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳を背《うしろ》にして、ずうと噴火湾に沿《そ》うて走る。長万部《おしゃまんべ》近くなると、湾を隔《へだ》てゝ白銅色の雲の様なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山《うずさん》です、と同室の紳士は教えた。
 湾をはなれて山路にかゝり、黒松内《くろまつない》で停車《ていしゃ》蕎麦《そば》を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷《えぞ》富士※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と心がけた蝦夷富士を、蘭越《らんごえ》駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏《まと》うて、秀潤《しゅうじゅん》の黛色《たいしょく》滴《したた》るばかり。頻《しきり》に登って見たくなった。車中知人O君の札幌《さっぽろ》農科大学に帰るに会った。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其帰途である。余市《よいち》に来て、日本海の片影《へんえい》を見た。余市は北海道|林檎《りんご》の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の様な色彩を見せた。あまり美しいので、売子《うりこ》が持て来た網嚢入《あみぶくろいり》のを二嚢買った。
 O君は小樽《おたる》で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。
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      中秋

 十八日。朝、旭川《あさひがわ》へ向けて札幌を立つ。
 石狩《いしかり》平原は、水田已に黄《き》ばんで居る。其間に、九月中旬まだ小麦の収穫をして居るのを見ると、また北海道の気もちに復《か》えった。
 十時、汽車は隧道《とんねる》を出て、川を見下ろす高い崖上《がいじょう》の停車場にとまった。神居古潭《かむいこたん》である。急に思立って、手荷物|諸共《もろとも》遽《あわ》てゝ汽車を下りた。
 改築中で割栗石《わりぐりいし》狼藉《ろうぜき》とした停車場を出て、茶店《さてん》で人を雇うて、鶴子と手荷物を負《お》わせ、急勾配《きゅうこうばい》の崖を川へ下りた。暗緑色《あんりょくしょく》の石狩川が汪々《おうおう》と流れて居る。両岸から鉄線《はりがね》で吊《つ》ったあぶなげな仮橋が川を跨《また》げて居る。橋の口に立札がある。文言《もんごん》を読めば、曰く、五人以上同時に渡《わた》る可からず。
 恐《お》ず/\橋板を踏むと、足の底《そこ》がふわりとして、一足毎《ひとあしごと》に橋は左右に前後に上下に揺《ゆ》れる。飛騨《ひだ》山中、四国の祖谷《いや》山中などの藤蔓《ふじづる》の橋の渡り心地がまさに斯様《こんな》であろう。形ばかりの銕線《はりがね》の欄《てすり》はあるが、つかまってゆる/\渡る気にもなれぬ。下の流れを見ぬ様にして一息《ひといき》に渡った。橋の長さ二十四間。渡り終って一息ついて居ると、炭俵《すみだわら》を負うた若い女が山から下りて来たが、佇《たたず》む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼|吊橋《つりばし》を渡って往った。
 山下道《やましたみち》を川に沿うて溯《さかのぼ》ること四五丁余、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺《こっぱぶき》のきたない家に来た。神居古潭の鉱泉宿である。取りあえず裏二階の無縁畳《へりなしだたみ》の一室に導かれた。やがて碁をうって居た旭川の客が帰って往ったので、表二階の方に移った。硫黄の臭《におい》がする鉱泉に入って、二階にくつろぐ。麦稈帽《むぎわらぼう》の書生三人、庇《ひさし》髪の女学生二人、隣室《となりま》に遊びに来たが、次ぎの汽車で直ぐ帰って往った。石狩川の音が颯々《さあさあ》と響く。川向うの山腹の停車場で、鎚音《つちおと》高く石を割って居る。囂《ごう》と云う響をこだまにかえして、稀《まれ》に汽車が向山を通って行く。寂しい。昼飯に川魚をと注文したら、石狩川を前に置《お》いて、罐詰の筍《たけのこ》の卵とじなど食わした。
 飯後《はんご》神居古潭を見に出かける。少し上流の方には夫婦岩《めおといわ》と云う此辺の名勝があると云う。其方へは行かず、先刻《さっき》渡った吊橋の方に往って見る。橋の上手《かみて》には、楢《なら》の大木が五六本|川面《かわづら》へ差かゝって居る。其|蔭《かげ》に小さな小屋がけして、杣《そま》が三人停車場改築工事の木材を挽《ひ》いて居る。橋の下手《しもて》には、青石|峨々《がが》たる岬角《こうかく》が、橋の袂から斜《はす》に川の方へ十五六間|突出《つきで》て居る。余は一人|尖《とが》った巌角《がんかく》を踏み、荊棘《けいきょく》を分け、岬《みさき》の突端に往った。岩間には其処《そこ》此処《ここ》水溜《みずたまり》があり、紅葉した蔓草《つるくさ》が岩に搦《から》んで居る。出鼻に立って眺める。川向う一帯、直立三四百尺もあろうかと思わるゝ雑木山《ぞうきやま》が、水際から屏風《びょうぶ》を立てた様に聳《そび》えて居る。其中腹を少しばかり切り拓《ひら》いて、こゝに停車場が取りついて居る。檣《ほばしら》の様な支柱を水際の崖《がけ》から隙間《すきま》もなく並べ立てゝ、其上に停車場は片側《かたかわ》乗って居るのである。停車場の右も左も隧道《とんねる》になって居る。汽車が百足《むかで》の様に隧道を這《は》い出して来て、此停車場に一息《ひといき》つくかと思うと、またぞろぞろ這い出して、今度は反対の方に黒く見えて居る隧道の孔《あな》に吸《す》わるゝ様に入って行く。向う一帯の雑木山は、秋まだ浅くして、見る可き色もない。眼は終に川に落ちる。丁余《ちょうよ》の上流では白波《しらなみ》の瀬をなして騒いだ石狩川も、こゝでは深い青黝《あおぐろ》い色をなして、其処《そこ》此処に小さな渦《うず》を巻き/\彼吊橋の下を音もなく流れて来て、一部は橋の袂《たもと》から突出た巌《いわ》に礙《さまた》げられてこゝに淵《ふち》を湛《たた》え、余の水は其まゝ押流して、余が立って居る岬角《こうかく》を摩《す》って、また下手対岸の蒼黒い巌壁《がんぺき》にぶつかると、全川の水は捩《ね》じ曲《ま》げられた様に左に折れて、また滔々《とう/\》と流して行《ゆ》く。去年の出水には、石狩川が崖上《がけうえ》の道路を越して鉱泉宿まで来たそうだ。此《この》窄《せま》い山の峡《かい》を深さ二丈も其上もある泥水が怒号《どごう》して押下った当時の凄《すさま》じさが思われる。今は其れ程の水勢は無いが、水を見つめて居ると流石《さすが》に凄《すご》い。橋下の水深は、平常《ふだん》二十余|尋《ひろ》。以前は二間もある海の鯊《さめ》がこゝまで上って来たと云う。自然児《しぜんじ》のアイヌがさゝげた神居古潭《かむいこたん》の名も似《に》つかわしく思われる。
 夕飯後《ゆうめしご》、ランプがついて戸がしまると、深い深い地の底《そこ》にでも落ちた様で、川音がます/\耳について寂しい。宿から萩《はぎ》の餅を一盂《ひとはち》くれた。今宵《こよい》は中秋《ちゅうしゅう》十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋に逢《あ》うも、他日の思出の一であろう。雨戸を少しあけて見たら、月は生憎《あいにく》雲をかぶって、朦朧《もうろう》とした谷底を石狩川が唯|颯《さあ》、颯《さあ》と鳴って居る。
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      名寄

 九月十九日。朝|神居古潭《かむいこたん》の停車場から乗車。金襴《きんらん》の袈裟《けさ》、紫衣《しえ》、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換《のりか》え、名寄《なよろ》に向う。旭川からは生路である。
 永山《ながやま》、比布《ぴっぷ》、蘭留《らんる》と、眺望《ながめ》は次第に淋しくなる。紫蘇《しそ》ともつかず、麻でも無いものを苅って畑に乾《ほ》してあるのを、車中の甲乙《たれかれ》が評議して居たが、薄荷《はっか》だと丙が説明した。
 やがて天塩《てしお》に入る。和寒《わっさむ》、剣淵《けんぶち》、士別《しべつ》あたり、牧場かと思わるゝ広漠《こうばく》たる草地一面|霜枯《しもが》れて、六尺もある虎杖《いたどり》が黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂|泥炭地《でいたんち》である。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓《したつづみ》うつ。
 余放吟して曰く、
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泥炭地耕すべくもあらぬとふさはれ美し虎杖《いたどり》の秋
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 士別では、共楽座《きょうらくざ》など看板を上げた木葉葺《こっぱぶき》の劇場が見えた。
 午後三時過ぎ、現在の終点駅名寄着。丸石旅館に手荷物を下ろし、茶一ぱい飲んで、直ぐ例《れい》の見物に出かける。
 旭川平原をずっと縮《ちぢ》めた様な天塩川の盆地《ぼんち》に、一握《ひとにぎ》りの人家を落した新開町。停車場前から、大通りを鍵《かぎ》の手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな真宗《しんしゅう》の寺、天理教会、清素《せいそ》な耶蘇教会堂も見えた。店頭《みせさき》で見つけた真桑瓜《まくわうり》を買うて、天塩川に往って見る。可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々《さあさあ》と北へ流れて居る。鉄線《はりがね》を引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。多いものはブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆う七つ葉の蔭で、真桑瓜を剥《む》いた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早《もう》日が入りかけて、薄《うす》ら寒く、秋の夕《ゆうべ》の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。二《ふた》たび川を渡って、早々宿に帰る。町の真中《まんなか》を乗馬の男が野の方から駈《かけ》を追うて帰って来る。馬蹄《ばてい》の音が名寄中《なよろじゅう》に響き渡る。
 宿の主人は讃岐《さぬき》の人で、晩食《ばんめし》の給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室《となりま》には、先刻《さっき》馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩《あんま》の笛が大道を流して通る。
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      春光台

 明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊《いちやどまり》の飛脚旅行《ひきゃくりょこう》に来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を車で近文《ちかぶみ》に往って、土産話《みやげばなし》にアイヌの老酋《ろうしゅう》の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。余は今車の上から見廻《みまわ》して、当年のわびしい記憶を喚起《よびおこ》そうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。
 余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場《れんぺいじょう》を横ぎり、車を下りて春光台《しゅんこうだい》に上った。春光台は江戸川を除いた旭川の鴻《こう》の台《だい》である。上川《かみかわ》原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居《ばんきょ》して居る。丘上《おかうえ》は一面水晶末の様な輝々《きらきら》する白砂、そろ/\青葉の縁《ふち》を樺《かば》に染《そ》めかけた大きな※[#「木+解」、第3水準1-86-22]樹《かしわのき》の間を縫うて、幾条の路がうねって居る。直ぐ眼下《がんか》は第七師団である。黒んだ大きな木造《もくぞう》の建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵が歩《ある》いたり、赤い旗が立ったり、喇叭《らっぱ》が鳴ったりして居る。日露戦争|凱旋《がいせん》当時、此|丘上《おかのうえ》に盛大な師団|招魂祭《しょうこんさい》があって、芝居、相撲、割れる様な賑合《にぎわい》の中に、前夜|恋人《こいびと》の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉|寄生木《やどりぎ》の篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。
 余は見廻わした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり/\※[#「木+解」、第3水準1-86-22]《かしわ》の葉を揺《うご》かして居る。
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春光台|腸《はらわた》断《た》ちし若人《わこうど》を
    偲《しの》びて立てば秋の風吹く
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 余等は春光台を下《お》りて、一兵卒に問うて良平が親友《しんゆう》小田中尉の女気無《おんなげな》しの官舎を訪い、暫《しば》らく良平を語った。それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたを憤《いきどお》って、硝子窓《がらすまど》を打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。其は他の下級将校官舎の如く、板塀《いたべい》に囲われた見すぼらしい板葺《いたぶき》の家で、垣《かき》の内には柳が一本長々と枝《えだ》を垂《た》れて居た。失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無暗に歩き廻った練兵場は、曩日《のうじつ》の雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿《うまごやし》の花が其処此処に叢《むら》をなして咲いて居た。
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      釧路

       (一)

 旭川に二夜《ふたよ》寝て、九月二十三日の朝|釧路《くしろ》へ向う。釧路の方へは全くの生路である。
 昨日|石狩岳《いしかりだけ》に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川《かみかわ》原野を南方へ下って行く。水田が黄ばんで居る。田や畑の其処《そこ》此処《ここ》に焼《や》け残りの黒い木の株《かぶ》が立って居るのを見ると、開《ひら》け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀《かなしみ》が身にしみる様だ。下富良野《しもふらの》で青い十勝岳《とかちだけ》を仰ぐ。汽車はいよ/\夕張と背合わせの山路《やまじ》に入って、空知川《そらちがわ》の上流を水に添《そ》うて溯《さかのぼ》る。砂白く、水は玉よりも緑である。此辺は秋已に深く、万樹《ばんじゅ》霜《しも》を閲《けみ》し、狐色になった樹々《きぎ》の間に、イタヤ楓《かえで》は火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄の焔《ほのお》を上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝《かりかつ》駅に来た。石狩《いしかり》十勝《とかち》の境《さかい》である。余は窓から首を出して左の立札《たてふだ》を見た。
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狩勝停車場
 海抜一千七百五十六|呎《フィート》、一二
狩勝トンネル
 延長参千九|呎《フィート》六|吋《インチ》
釧路百十九|哩《まいる》八|分《ぶ》
旭川七十二哩三分
札幌百五十八哩六分
函館三百三十七哩五分
室蘭二百二十哩
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 三千|呎《フィート》の隧道《とんねる》を、汽車は石狩から入って十勝へ出た。此れからは千何百呎の下りである。最初蝦夷松椴松の翠《みどり》に秀《ひい》であるいは白く立枯《たちか》るゝ峰を過ぎて、障るものなき辺《あたり》へ来ると、軸物の大俯瞰図のする/\と解けて落ちる様に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯《しもがれ》の萱山《かややま》から、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何処までもずうと走って、地と空《そら》と融《と》け合う辺《あたり》にとまった。其処《そこ》に北太平洋が潜《ひそ》んで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花《おばな》の白く光る山腹を、波状を描《か》いて蛇の様にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上《きょうじょう》に蟠《わだかま》る連嶺《れんれい》が青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山《こうざん》が見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾回か転換して、到頭平野に下りて了うた。
 当分は※[#「木+解」、第3水準1-86-22]《かしわ》の林が迎えて送る。追々大豆畑が現われる。十勝は豆の国である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る様な水田は、まだ十勝に少ない。帯広《おびひろ》は十勝の頭脳《ずのう》、河西《かさい》支庁《しちょう》の処在地《しょざいち》、大きな野の中の町である。利別《としべつ》から芸者《げいしゃ》雛妓《おしゃく》が八人乗った。今日|網走線《あばしりせん》の鉄道が※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、下巻-175-15]別《りくんべつ》まで開通した其開通式に赴くのである。池田駅は網走線の分岐点《ぶんぎてん》、球燈、国旗、満頭飾《まんとうしょく》をした機関車なども見えて、真黒な人だかりだ。汽車はこゝで乗客の大部分を下ろし、汪々《おうおう》たる十勝川の流れに暫《しばら》くは添うて東へ走った。時間が晩《おく》れて、浦幌《うらほろ》で太平洋の波の音を聞いた時は、最早|車室《しゃしつ》の電燈がついた。此処から線路は直角をなして北上し、一路|断続《だんぞく》海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切って釧路に着いた。車に揺られて、十九日の欠月《けつげつ》を横目に見ながら、夕汐《ゆうしお》白く漫々《まんまん》たる釧路川に架した長い長い幣舞橋《ぬさまいばし》を渡り、輪島屋《わじまや》と云う宿に往った。

       (二)

 あくる日|飯《めし》を食うと見物に出た。釧路町は釧路川口の両岸に跨《またが》って居る。停車場所在の側《かわ》は平民町で、官庁、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡った東岸にある。東岸一帯は小高い丘《おか》をなして自《おのず》から海風《かいふう》をよけ、幾多の人家は水の畔《はた》から上段かけて其|蔭《かげ》に群《むら》がり、幾多の舟船は其蔭に息うて居る。余等は弁天社から燈台の方に上った。釧路川と太平洋に挾《はさ》まれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路湾、釧路川、釧路町を眼下に見て、当面《とうめん》には海と平行して長く延《ひ》いた丘《おか》の上、水色に冴えた秋の朝空に間《あわい》隔《へだ》てゝ二つ列《なら》んだ雄阿寒《おあかん》、雌阿寒《めあかん》の秀色を眺める。湾には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞橋には蟻《あり》の様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日《きょう》人を尋《たず》ぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は※[#「勹+夕」、第3水準1-14-76]々《そこそこ》にして宿に帰る。
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      茶路

 北太平洋の波の音の淋しい釧路の白糠《しらぬか》駅で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往って茶路《ちゃろ》に住むと云うM氏の在否《ざいひ》を調《しら》べて貰《もら》うと、先には居たが、今は居ない、行方《ゆくえ》は一切分からぬと云う。兎も角も茶路に往って尋ねる外はない。妻児《さいじ》を宿に残して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘《かさ》一柄《いっぺい》、身軽に出かける。時は最早《もう》午後の二時過ぎ。茶路までは三里。帰りはドウセ夜に入ると云うので、余はポッケットに懐中電燈《かいちゅうでんとう》を入れ、案内者は夜食の握飯《にぎりめし》と提灯《ちょうちん》を提げて居る。
 海の音を背《うしろ》に、鉄道線路を踏切《ふみき》って、西へ槍《やり》の柄《え》の様に真直《まっすぐ》につけられた大路を行く。左右は一面じめ/\した泥炭地《でいたんち》で、反魂香《はんごんこう》の黄や沢桔梗《さわぎきょう》の紫や其他名を知らぬ草花が霜枯《しもが》れかゝった草を彩どって居る。煙草《たばこ》の火でも落すと一月も二月もぷす/\燻《くすぶ》って居ます、と案内者が云う。路の一方にはトロッコのレールが敷かれてある。其処《そこ》此処《ここ》で人夫がレールや枕木《まくらぎ》を取りはずして居る。
「如何《どう》するのかね」
「何、安田《やすだ》の炭鉱《たんこう》へかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰《かげ》になってます。エ、最早|廃《よ》しちゃったんです」
 案内者は斯《こう》云って、仲に立った者が此レールを請負《うけお》って、一間ばかりの橋一つにも五十円の、枕木一本が幾円のと、不当な儲《もうけ》をした事を話す。枕木は重にドス楢《なら》で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢《なら》は堅硬《けんこう》にして容易に朽《く》ちず栗にも劣らぬそうである。
 案内者は水戸《みと》の者であった。五十そこらの気軽《きがる》そうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。
「随分《ずいぶん》色々な者が入り込んで居るだろうね」
「エ、其《そ》りゃ色々な手合《てあい》が来てまさァ」
「随分|破落戸《ならずもの》も居るだろうね」
「エ、何、其様《そう》でもありませんが。――一人《ひとり》困った奴《やつ》が居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時《いつ》ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅《くさか》りに往ってたのを、奴《やつ》が捉《つらま》えましてな。丁度其処に木を伐《き》りに来た男が見つけて、大騒《おおさわ》ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場《りょうば》を稼《かせ》いで居るってことです」
 山が三方から近く寄って来た。唯有《とあ》る人家《じんか》に立寄って、井戸の水をもらって飲む。桔槹《はねつるべ》の釣瓶《つるべ》はバケツで、井戸側《いどがわ》は径《わたり》三尺もある桂《かつら》の丸木の中をくりぬいたのである。一丈余もある水際《みずぎわ》までぶっ通しらしい。而して水はさながら水晶《すいしょう》である。まだ此辺までは耕地《こうち》は無い。海上のガス即ち霧が襲うて来るので、根菜類《こんさいるい》は出来るが、地上に育《そだ》つものは穀物蔬菜何も出来ず、どうしても三里内地に入らねば麦も何も出来ないのである。
 鹿の角を沢山|背負《せお》うて来る男に会うた。茶路川《ちゃろかわ》の水|涸《か》れた川床が左に見えて来た。
 二里も来たかと思う頃、路は殆《ほと》んど直角に右に折れて居る。最早《もう》茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。
「一寸休んで往きましょうかな」と云って、案内者が先に立って入る。
 大きな炉《ろ》をきって、自在《じざい》に大薬罐の湯がたぎって居る。煤《すす》けた屋根裏からつりさげた藁苞《わらつと》に、焼いた小魚《こざかな》の串《くし》がさしてある。柱には大きなぼン/\が掛《かか》って居る。広くとった土間の片隅は棚になって、茶碗《ちゃわん》、皿《さら》、小鉢《こばち》の類《るい》が多くのせてある。
 額の少し禿げた天神髯《てんじんひげ》の五十位の男が出て来た。案内者と二三の会話がある。
「茶路は誰を御訪《おたず》ねなさるンですかね」
 余はMの名を云った。
「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞町《にしぬさまいまち》です。葬儀屋《そうぎや》をやってます。エ、エ、俺《わたし》とは極《ごく》懇意《こんい》で、つい先月も遊びに往って来ました」
と云って、主は戸棚《とだな》から一括《いっかつ》した手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒《いっしょ》ですかね?」
 実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道《とどう》したきり、音信不通《いんしんふつう》だが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲《まんしゅう》に居るとか云うことでしたっけ」
 案外早く埒《らち》が明《あ》いたので、余は礼を云って、直ぐ白糠《しらぬか》へ引かえした。
「分かってようございました。エ、彼《あの》人《ひと》ですか、たしか淡路《あわじ》の人だと云います。飯屋《めしや》をして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。
 白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭《かげ》に妻児《さいじ》が淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。
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      北海道の京都

 釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、下巻-181-2]別《りくんべつ》に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。
 往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相《ひそう》を瞥見《べっけん》した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教《やそきょう》信者が八万の都府《とふ》に八百からあると云う。唯《ただ》一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部《みやべ》博士の説明で二三植物標本を見た。樺太《かばふと》の日露国境の辺で採収《さいしゅう》して新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草《とうちゅうかそう》、木の髄《ずい》を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣《ふゆう》の生活等につき面白い話を聞いた。楡《にれ》の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好《よ》い都府である。
 余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨《こさめ》に遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。
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      津軽

 青森に一夜|明《あか》して、十月六日の朝|弘前《ひろさき》に往った。
 津軽《つがる》は今|林檎《りんご》王国の栄華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被《き》て目かご背負うた津軽女《つがるめ》も、草履はいて炭馬をひいた津軽男も、林檎|喰《く》い/\歩いて居る。代官町《だいかんまち》の大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深《おくぶか》い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑《おがくず》と、荷造りする男女で一ぱいであった。
 古い士族町、新しい商業町、場末《ばすえ》のボロ町を通って、岩木川《いわきがわ》を渡り、城北三里|板柳《いたやぎ》村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞《めぐ》って秋の田が一面に色づいて居る。街道は断続|榲※[#「木+孛」、第3水準1-85-67]《まるめろ》の黄《き》な村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舎町には家並《やなみ》の揃《そろ》うて豊らしい板柳村に入った。
 板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文芸を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音ずれた。余等はY君の家に一夜|厄介《やっかい》になった。文展《ぶんてん》で評判の好かった不折《ふせつ》の「陶器つくり」の油絵、三千里の行脚《あんぎゃ》して此処にも滞留《たいりゅう》した碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短冊、与謝野夫妻、竹柏園社中の短冊など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑《よりくず》の林檎の可惜《あたら》転《ころ》がるのを見た。種々の林檎を味わうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも会うた。余はタァナァ水彩画帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。
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林檎|朱《あけ》に榲※[#「木+孛」、第3水準1-85-67]《まるめろ》黄なる秋の日を
    岩木山下《いわきさんか》に君とかたらふ
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 あくる朝は早く板柳村を辞した。岩木川の橋を渡って、昨夜会面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑《かっちゅう》の銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐《おおわに》まで送って来て、こゝに袂《たもと》を分《わか》った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経《へ》て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。
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     紅葉狩

      紅葉

 嫁《とつ》いで京都に往って居る季《すえ》の女《むすめ》の家を訪うべく幾年か心がけて居た母と、折よく南部《なんぶ》から出て来た寄生木《やどりぎ》のお新お糸の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢《どうぜい》六人京都に往った。松蕈《まつだけ》に晩《おそ》く、紅葉には盛りにちと早いと云う明治四十三年の十一月中旬。
 京都に着いて三日目に、高尾《たかお》槇尾《まきのお》栂尾《とがのお》から嵐山《あらしやま》の秋色を愛ずべく、一同車を連《つら》ねて上京の姉の家を出た。堀川《ほりかわ》西陣《にしじん》をぬけて、坦々《たんたん》たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人《とうじん》の冠《かむり》を見る様に一寸青黒い頭《あたま》の上の頭をかぶった愛宕山《あたごやま》が、此辺一帯の帝王|貌《がお》して見下ろして居る。御室《おむろ》でしばらく車を下りる。株立ちの矮《ひく》い桜は落葉し尽して、からんとした中に、山門《さんもん》の黄が勝った丹塗《にぬり》と、八分の紅を染めた楓《もみじ》とが、何とも云えぬ趣《おもむき》をなして居る。余は御室が大好きである。直ぐ向うのならびが岡の兼好《けんこう》が書いた遊びずきの法師達が、児《ちご》を連れて落葉に埋《うず》めて置いた弁当を探して居やしないか、と見廻《みま》わしたが、人の影はなくて、唯小鳥の囀《さえず》る声ばかりした。
 車は走せて梅が畑へ来た。柴車《しばぐるま》を挽《ひ》いて来るおばさんも、苅田《かりた》をかえして居る娘も、木綿着ながらキチンとした身装《みなり》をして、手甲《てっこう》かけて、足袋はいて、髪は奇麗《きれい》に撫《な》でつけて居る。労働が余所目《よそめ》に美しく見られる。日あたり風あたりが暴《あら》く、水も荒く、軽い土が耳の中鼻の中まで舞《ま》い込《こ》む余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、斯《こ》う美しくはして居られぬ。八年前余は独歩《どっぽ》嵐山から高尾に来た時、時雨《しぐれ》に降られて、梅が畑の唯有《とあ》る百姓家に※[#「足へん+包」、第3水準1-92-34]《か》け込んで簑《みの》を借りた。山吹の花さし出す娘はなくて、婆《ばあ》さんが簑を出して呉れたが、「おべゝがだいなしになるやろ」と云うので、余は羽織《はおり》を裏返えしに着て、其上に簑を被《はお》り、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪《ひょうたん》など肩にして芸子と番傘の相合傘《あいあいがさ》で帰って来る若い男等が、「ヨウ、勘平|猪打《ししうち》の段か」などゝ囃《はや》した。
 いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫《くるまや》に母を負うてもらい、白雲橋を渡って、神護寺内《じんごじない》の見晴らしに上った。紅葉《もみじ》はまだ五六分と云う処である。かけ茶屋の一に上《あが》って、姉が心尽しの弁当を楽《たの》しく開いた。余等はまた土皿投《かわらけな》げを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返《ちゅうがえ》りして手もとに舞い込む様に此方《こなた》の崖に落ち、中々|谷底《たにそこ》へは届《とど》かぬ。色々の色に焦《こが》れて居る山と山との間の深い谷底を清滝川《きよたきがわ》が流れて居る。川下が堰《せ》きとめられて緑礬色《りょくばんいろ》の水が湛え、褐色《かっしょく》の落葉が点々として浮いて居る。
「水を堰《せ》いて如何《どう》するのかな」
「水力電気たら云うてな、あんたはん」と茶を持て来たおばこのかみさんが云う。
 余は舌鼓《したつづみ》をうった。
 余等は高尾を出て、清滝川に沿うて遡《さかのぼ》り、槇の尾を経て、栂の尾に往った。
 栂《とが》の尾は高尾に比して瀟洒《しょうしゃ》として居る。高尾から唯少し上流に遡《さかのぼ》るのであるが、此処の楓《もみじ》は高尾よりも染《そ》めて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青《ろくしょう》で画《か》いた様な杉の幾本《いくもと》に映《うつ》って楓の紅が目ざましく美しい。斯栂の尾の寺に、今は昔先輩の某が避暑《ひしょ》して居たので、余は同窓《どうそう》の友と二三日泊りがけに遊びに来たものだ。其は余が十二の夏であった。余等は毎日寺の下の川淵《かわぶち》に泳《およ》ぎ、三度※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]|南瓜《とうなす》で飯を食わされた。村から水瓜《すいか》を買うて来て、川に浸《ひた》して置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とを拾《ひろ》った。清滝川は余にとりて思出《おもいで》多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流|愛宕《あたご》の麓《ふもと》清滝の里に、余は脚気《かっけ》を口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。
 栂の尾から余等は広沢《ひろさわ》の池を経《へ》て嵐山に往った。広沢の池の水が乾《ほ》されて、鮒《ふな》や、鰌《どじょう》が泥の中にばた/\して居た。
 嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川《かつらがわ》とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸《こなた》には風流に屋根は萩《はぎ》で葺《ふ》いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景《さっぷうけい》なものになり果てた。最早三船の才人《さいじん》もなければ、小督《こごう》や祇王《ぎおう》祇女|仏御前《ほとけごぜん》もなく、お半長右衛門すらあり得ない。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村《ぶそん》の時代は詩趣満々《ししゅまんまん》であった太秦《うずまさ》を通って帰る車の上に、余は満腔《まんこう》の不平を吐《は》く所なきに悶々《もんもん》した。
 斯く云う自分も其仲間だが、何故《なぜ》我日本国民は斯く一途《いちず》になるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平《さくへい》して、不忍《しのばず》の池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方《かみがた》に実行して居る。億万円にも代えられぬ東山の胴《どう》をくりぬいて琵琶湖の水を引張《ひっぱ》って見たり、鴨東《おうとう》一帯を煙と響《おと》と臭《におい》に汚《けが》してしまったり、狭《せま》い町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込《もちこ》んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻《ま》わしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的|偏狂人《へんきょうじん》の所為《しょい》を平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう乎《か》。
 京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処《そこ》に煙突の一本も能う可くば設《もう》けたくないものである。再び得難い天然を破壊し、失い易き歴史の跡《あと》を一掃して、其結果に得る所は何であろう乎。殺風景なる境と人と、荒寥《こうりょう》たる趣味の燃え屑《くず》を残すに過ぎないのではあるまい乎。
 日本国は譬《たと》えば主人が無くて雇人が乱暴する家の様だ。邦家千年の為にはかる主脳と云うものがあるならば、斯様《こん》な馬鹿げた仕打はせまい。余は日本を愛するが故に、日本が無趣味の邦《くに》となり果つるを好まぬ。余は京畿《けいき》を愛する故に、所謂文明に乱暴されつゝある京畿を見るのが苦痛である。
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     義仲寺

 三井寺で弁慶の力餅を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。
「彼《あれ》が叡山《えいざん》です。彼が比良です。彼処《あすこ》に斯《こ》う少し湖水に出っぱった所に青黒《あおぐろ》いものが見えましょう――彼が唐崎《からさき》の松です」
 余は腰《こし》かけを離れて同行の姉妹《しまい》に指《ゆびさ》した。時計を見れば、最早二時過ぎて居る。唐崎の松を遠見で済《す》まして、三井寺を下り、埠頭《はとば》から石山行の小蒸汽に乗った。
 丁度八年前の此月である。今朝鮮に居る義兄と、余は同車して唐崎の松に往った。彼は夫婦仲好の呪《まじない》と云って誰でも探すと笑いつゝ、松に攀《よ》じ上り、松葉の二|対《つい》四本一頭に括《くく》り合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際《みぎわ》の宿で鰉《ひがい》と蜆《しじみ》の馳走になり、相乗車で義仲寺《ぎちゅうじ》に立寄って宿に帰った。秋雨《あきさめ》の降ったり止んだり淋しい日であった。
 斯様《こん》な事を彼が妹なる妻に話す間に、小蒸汽は汽笛を鳴らしつゝ湖水を滑べって、何時見ても好い水から湧いて出た様な膳所《ぜぜ》の城を掠《かす》め、川となるべく流れ出した湖《みずうみ》の水と共に鉄橋をくゞり、瀬田《せた》の長橋を潜《くぐ》り、石山の埠頭《はとば》に着いた。
 手荷物を水畔《すいはん》の宿に預けて、石山の石に靴や下駄の音をさせつゝ、余等は石を拾《ひろ》い、紅葉を拾いつゝ、石山寺に詣《まい》った。うど闇《くら》い内陣の宝物も見た。源氏之間《げんじのま》は嘘でも本当にして置きたい様な処であった。余等は更に観月堂《かんげつどう》に上った。川を隔てゝ薄桃色に禿《は》げた※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]冠山を眺め、湖水の括《くく》れて川となるあたりに三上山《みかみやま》の蜈蚣《むかで》が這《は》い渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うて良《やや》久《ひさ》しく立去りかねた。
 秋の日は用捨なく傾《かたむ》いた。今夜は宇治ときめたので、余等は山を下ると、川畔《かわばた》の宿にも憩《いこ》わず、車を雇うた。二人乗《ににんのり》が二台。最早上方でなければ滅多に二人乗は見られぬ。姉妹は生れてはじめてである。
 姉妹を乗せた車は先きに、余等三人を乗せた車は之につゞいて、瀬田川《せたがわ》の岸に沿《そ》いつゝ平な道を馬場の方へ走る。日は入りかけて、樺色《かばいろ》に※[#「「燻」の「火」に代えて「日」」、第3水準1-85-42]《くん》じた雲が一つ湖天に浮《う》いて居る。湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。鴉《からす》が鳴く。粟津《あわづ》に来た時は、並樹の松に碧《あお》い靄《もや》がかゝった。
「此れがねえ、木曾《きそ》義仲《よしなか》が討死した粟津が原です」
と余は大きな声して先きの車を呼んだ。ふりかえった姉妹の顔も、唯ぼんやりと白かった。
 車は一走《ひとはし》りして、燈火《ともしび》明《あか》るい町の唯有《とあ》る家の前に梶棒《かじぼう》を下ろした。
「何だ」
「義仲寺どす」
 余は呆気《あっけ》にとられた。八年前|秋雨《あきさめ》の寂しい日に来て見た義仲寺は、古風な巷《ちまた》に嵌《はさ》まって、小さな趣ある庵《いおり》だった。
 余は舌鼓《したつづみ》うって、門をたゝいて、強《しい》て開けてもらって内に入った。内は真闇《まっくら》である。車夫に提灯《ちょうちん》を持て来させて、妻や姉妹に木曾殿《きそどの》とばせをの墓を紹介《しょうかい》した。
 外には汽関車の響や人声が囂々《ごうごう》と騒いで居る。
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      宇治の朝

 宇治《うじ》に着いたのが夜の九時。万碧楼《まんぺきろう》菊屋に往って、川沿いの座敷に導かれた。近水楼台先得月、と中井桜洲山人の額《がく》がかゝって居る。
 此処《ここ》は余にも縁浅からぬ座敷である。余の伯父はすぐれた大食家《たいしょくか》で、維新の初年こゝに泊って鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》を散々に食うた為、勘定に財布《さいふ》の底をはたき、淀川の三十石に乗る銭《ぜに》もないので、頬冠《ほおかむり》して川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分に洩《も》れぬ。八年前の秋、此万碧楼に泊った余は、霜枯時《しもがれどき》の客で過分の扱いを受け、紫縮緬《むらさきちりめん》の夜具など出された。御馳走《ごちそう》も伯父の甥たるに恥《は》じざる程食うた。食うてしまったあとで、蟇口《がまぐち》を覗《のぞ》いて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙も臆劫《おっくう》だし、黙って打置《うちお》き、あくる日になって宇治に往った。万碧楼では喰逃《くいに》げが帰って来たと云う顔をして、茶代も少し奮発《ふんぱつ》したに関せず、紫縮緬の夜具は雲がくれて、あまり新しくもない木綿の夜具に寝かされた。主の方では無論覚えて居る由もない。余は独|笑坪《えつぼ》に入った。
 腰硝子《こしがらす》の障子を立てたきり、此座敷に雨戸はなかった。二つともした燭台《しょくだい》の百目蝋燭の火は瞬《またた》かぬが、白い障子越しに颯々《さあさあ》と云う川瀬の響《おと》が寒い。障子をあけると、宇治の早瀬《はやせ》に九日位の月がきら/\砕《くだ》けて居る。ピッ/\ピッ/\千鳥《ちどり》が鳴《な》いて居る。

           *

 朝起きて顔を洗うと、余は宿の褞袍《どてら》を引かけ、一同は旅の着物になって、茶ものまず見物に出かけた。宇治橋は雪の様な霜《しも》だ。ザクリ/\下駄の二の字のあとをつけて渡る。昔|太閤様《たいこうさま》は此処から茶の水を汲ませたものだ、と案内者の口まねをしつゝ、彼出張った橋の欄間《らんま》によりかゝって見下ろす。矢を射る如き川面《かわづら》からは、真白に水蒸気が立って居る。今も変らぬ柴舟《しばぶね》が、見る/\橋の下を伏見《ふしみ》の方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶屋《つうえんぢゃや》の横手から東へ切れ込み、興聖寺《こうしょうじ》の方に歩む。美しい黄の色が眼を射ると思えば、小さな店に柚子《ゆず》が小山と積んである。何と云う種類《しゅるい》か知らぬが、朱欒《ざぼん》程もある大きなものだ。旅先《たびさき》ながら看過《みすご》し難くて、二銭五厘宛で五個買い、万碧楼に届けてもらう。
 興聖寺の石門《せきもん》は南面して正に宇治の急流《きゅうりゅう》に対して居る。岩を截《き》り開いた琴阪とか云う嶝道《とうどう》を上って行く。左右の崖《がけ》から紅に黄に染みた槭《もみじ》が枝をさしのべ落葉を散らして、頭上は錦《にしき》、足も錦を踏んで行く。一丁も上って唐風《からふう》の小門に来た。此処から来路《らいろ》を見かえると、額縁《がくぶち》めいた洞門《どうもん》に劃《しき》られた宇治川の流れの断片が見える。金剛不動の梵山《ほんざん》に趺座《ふざ》して、下界|流転《るてん》の消息は唯一片、洞門を閃《ひら》めき過ぐる川水の影に見ると云う趣。心憎《こころにく》い結構の寺である。
 ※[#「士/冖/石/木」、第4水準2-15-30]駝師《うえきや》が剪裁《せんさい》の手を尽した小庭を通って、庫裡《くり》に行く。誰も居ない。尾の少し欠《か》けた年《とし》古《ふ》りた木魚と小槌《こづち》が掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つ破《わ》れよと敲《たた》く。無作法の響《おと》がやっと奥に通じて、雛僧《すうそう》が一人出て来た。別に宝物《ほうもつ》を見るでもなく、記念に画はがきなど買って出る。
 雲上《うんじょう》から下界に降る心地して、惜しい嶝道《とうどう》を到頭下り尽した。石門を出ると、川辺に幾艘の小舟が繋《つな》いである。小旗など立てた舟もある。船頭が上って来て乗れとすゝめる。
「如何《どう》だ、舟で渡って見ようか」
「えゝ、渡りましょう」
 一同舟に乗った。
 川上を見ると、獅子飛《ししと》び、米漉《こめかし》など云う難所に窘《いじ》められて来た宇治川は、今山開け障《さわ》るものなき所に流れ出て、弩《いしゆみ》をはなれた箭《や》の勢を以て、川幅一ぱいの勾配《こうばい》ある水を傾けて流して来る。紅に黄に染めた上流両岸の山は、碧《あお》い朝靄《あさもや》を被《き》て、山蔭の水も千反《せんたん》の花色綸子《はないろりんず》をはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日が射《さ》すあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々《れいれい》と光り渡って、滔々《とうとう》と推し流して来る。瀬の音がごう/\/\、ざあ/\ざあと川面《かわつら》一面に響く。
「好いなァ」思わず声をあげる。
 船頭は軋々《ぎいぎい》と櫓の響《おと》をさせて、ほゞ山形《やまなり》に宇治川を渡す。
「何て奇麗な水でしょう」妻は舷側《ふなばた》の水を両手に掬《すく》い上げて川を讃《ほ》める。鶴子が真似《まね》る。
 平等院《びょうどういん》の岸近く細長い島がある。浮島と云うそうだ。島を蔽《おお》う枯葭《かれよし》の中から十三層の石輪塔《せきりんとう》が見える。
「あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが」
「近頃掘り出したンどす。宝塔《ほうとう》たら云うてナ、あんたはん」
と船頭が説明する。水は早し、川幅《かわはば》は一丁には越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院|上手《かみて》の岸についた。
 舟賃《ふなちん》を払うて、其処《そこ》に三つ四つ設けられた茶店の前を過ぎて、美《うつく》しい紅葉を拾《ひろ》いつゝ余等は平等院に入った。
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      嫩草山の夕

 奈良は奠都《てんと》千百年祭で、町は球燈《きゅうとう》、見せ物、人の顔と声とで一ぱいであった。往年《おうねん》泊《とま》った猿沢池《さるさわのいけ》の三景楼に往ったら、主が変《かわ》って、名も新猫館《しんねこかん》と妙なものに化《ば》けて居る。うんざりしたが、思い直して、こゝに車を下りた。
 茶一|碗《わん》、直ぐ見物に出かける。
 上方客《かみがたきゃく》、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も詩も歌も蹂躙《じゅうりん》して、鹿も驚いた顔をして居る。其|雑沓《ざっとう》の中を縫《ぬ》うて、先ず春日祠《かすがし》に詣《もう》でた。田舎みやげの話し草に、若宮前で御神楽《おかぐら》をあげて、ねじり廊《ろう》の横手を通ると、種々の木の一になって育って居る木がある。寄木《やどりぎ》、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平《りょうへい》さんよ」と云う。お新さんがお糸さんと顔見合わせて莞爾《にっこり》した。お新さんは窃《そっ》と其内の椿の葉を記念の為にちぎった。
 嫩草山《わかくさやま》の麓の茶屋に来た頃は、秋の日が入りかけた。草履《ぞうり》をはいた娘子供が五六人、たら/\と滑《すべ》る様に山から下りて来た。
「如何《どう》だ、上って見ようか」
「え、上りましょう」
 足の悪いお新さんと鶴子を茶店《ちゃみせ》に残して、余は靴《くつ》のまゝ、二人の女は貸草履に穿《は》き更《か》えて上りはじめた。
 名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は、見て美しく思うてなつかしい山である。八年前の十一月初めて奈良に来た夕《ゆうべ》、三景楼の二階から紺青《こんじょう》にけぶる春日山に隣りして、貂《てん》の皮もて包んだ様な暖かい色の円満《ふっくら》とした嫩草山の美しい姿を見た時、余の心は如何様《どんな》に躍《おど》ったであろう。丁度|誂《あつら》えたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時は遽《あわ》たゞしい旅、山に上るも果《はた》さなかった。今はじめて其|懐《ふところ》を辿《たど》るのである。
 霜枯《しもが》れそめた矮《ひく》い薄《すすき》や苅萱《かるかや》や他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条《いくすじ》か麓《ふもと》から頂《いただき》へと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、額《ひたい》も背《せな》も汗《あせ》ばんで居た。頂はやゝ平坦《へいたん》になって、麓からは見えなかった絶頂が、まだ二重になって背《うしろ》に控《ひか》えて居る。唯一つある茶店は最早《もう》店をしまいかけて、頂には遊客《ゆうかく》の一人もなかった。
 余等《よら》は額の汗を拭《ぬぐ》うて、嫩草山の頂から大和の国の国見をすべく眼を放《はな》った。
 夕《ゆうべ》である。
 日はすでに河内《かわち》の金剛山《こんごうせん》と思うあたりに沈んで、一抹《いちまつ》殷紅色《あんこうしょく》の残照《ざんしょう》が西南の空を染めて居る。西|生駒《いこま》、信貴《しぎ》、金剛山、南吉野から東|多武峰《とうのみね》初瀬《はつせ》の山々は、大和平原をぐるりと囲《かこ》んで、蒼々《そうそう》と暮れつゝある。此|暮山《ぼざん》の屏風《びょうぶ》に包まれた大和の国原《くにはら》には、夕けぶり立つ紫の村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝ総《すべ》てが、夜の安息に入る前に、日に名残を惜んで居る。
 余等は麓の方に向うて、「おゝい」と声をかけた。一つの影が縁台《えんだい》をはなれて、山をのぼりはじめた。それは鶴子を負《お》うた車夫であった。やがて上りついて、鶴子は下り立った。
 余等は更に眺《なが》めた。最早麓に一人残ったお新さんの影もよくは見えない。
 直ぐ後の方でがさ/\と草が鳴ったと思うたら、夕空《ゆうぞら》に映《うつ》って大きな黒い影が二つぬうと立って居る。其れは鹿であった。
 足の下で、奈良《なら》の町の火が美しくつき出した。蜂《はち》の群《む》れの唸※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《つぶやき》の様な人声物音が響く。
 ぼうン!
 麓の方で晩鐘《いりあい》が鳴り出した。其鐘の音《ね》に促《うな》がさるゝかの如く、鴉《からす》が唖※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《あああ》と鳴いて、山の暮から野の黄昏《たそがれ》へと飛んで行く。
 余等は今一度眼を平原《へいげん》に放った。最早日の名残も消えて、眼に入る一切のものは蒼《あお》い靄《もや》に包まれた。
 大和は今暮るゝのである。



底本:「みみずのたはこと(上)」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年4月15日第1刷発行
   1996(平成8)年12月10日第30刷(入力)
   2001(平成13)年11月7日第32刷(校正)
  「みみずのたはこと(下)」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年6月1日第1刷発行
   1996(平成8)年12月10日第25刷(入力)
   2001(平成13)年11月7日第27刷(入力、校正)
底本の親本:「みみずのたはこと」岩波書店
   1933(昭和8)年刊
入力:奥村正明、小林繁雄
校正:小林繁雄
2002年9月27日作成
2003年5月25日修正
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