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生産を目標とする科学
――再三「科学と技術」とについて――
戸坂潤

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巫術《ふじゅつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|巫術《ふじゅつ》文化の

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(例)この応用[#「応用」に傍点]なるものは
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 科学(特に自然科学)と技術(第一に物的生産技術)との関係は、今日ではすでに陳腐な問題のように響く。少なくとも二つの間に密接な又直接な連絡のあることは万人の常識である。にも拘らず私には、ここにはまだ匿された疑問がひそんでいるように思われる。
 まず第一に、最近、科学的精神が提唱されること甚だ旺んであるが、勿論これは日本の現下生産技術の向上を促進する必要があるからのことだ。では一体何故科学的精神が生産技術を促進し得るのであるか。科学が技術に原則を提供するからであるか。併し技術において原則的であるものは必ずしも科学において原則的であるものと一つではない。「応用科学」とか「科学の応用」とかいう旧い言葉は今日でも無意味ではない。少なくともこの応用[#「応用」に傍点]なるものは科学とは一つでない。従来、科学的精神の一つの型として、この応用を軽蔑するという精神もあったのである。
 この種の穿鑿にうるさくなった常識は、科学と技術とは要するに根本が一つか共通かであるのだから、と云うかも知れない。併し科学は(正にギリシア以来)認識を目的とするものと一般に考えられている。処が技術の目標は云う迄もなく実用的な生産である。仮に「科学する心」というものがあると仮定すれば、そういう心の心持ちは容易に「技術する心」(?)とは一つにならないに相違ない。根本が一つだとも共通だとも、簡単には云えないことになる。ここに伏在する疑問は、科学教育について実際的なイデーを決めようとでもすれば、忽ち暴露することだ。
 科学と技術との連関を分析する必要を最も手近かに感じて来たのは、一群の科学史家であった。彼等の問題の出し方を大雑把に云って了えば、科学の発達は科学自身に原因するか、それとも技術の方向にその原因が求められねばならぬか、というのであった。或いは、科学の発達があってその結果技術の発達が可能となるのか、それともその逆に、技術などの発達の結果科学も亦発達すると考えるべきか、というのであった。
 尤も、科学が自分自身の原因のようなもので発達するという考え方の側からすれば、要するに科学を考えるためには技術はつけたりの問題にすぎなくなる筈だから、右のような問題を提出しようとする側は、すでに、科学の発達は技術などの発達に俟つという方の解答を要求していたわけだ。処がそこにまた相変らずの疑問が潜んでいる。
 と云うのは、この解答を予想しながらかの設問を提起した側の科学史家が、最も誘惑を感じるのは、何となく科学を技術の手段のように見ようという態度である。科学の目的は認識であり、そして認識は実践と統一されているという。それは正にその通りでいい。しかしこの両者の統一なるものを十分根本的に分解するだけの論理機関が整備されていない処から、往々科学は実践の一手段[#「手段」に傍点]のようにも考えられ。やがて科学は技術への手段であるという風に考えられて来易いのである。この傾向は相当に誘惑的なのである。
 こうした、云わば、技術のための科学は、忽ちその対立物として時にはそれへの反感の結晶として各種の、科学のための科学、を産み出す。ヒューマニズムという便利な足場を利用した人性のための科学も、往々実はここの科学のための科学にぞくする。例えば最近の科学者伝文学や科学者伝映画の多くは科学を技術へ持って行く代りにヒューマニズムへ持って行く。或いは技術を通らずに文化へ持って行く。この傾きも亦、文化的に相当誘惑的なものだ。
 前者は一種の卑近な功利主義、一種の上つらの実行主義の誘惑である。之に対して後者は、一種軽薄な文化主義の誘惑である。科学の足を持って技術の地面につける代りに科学の髪の毛をつかんで天上のヒューマニティーや文化なるものへ引き上げて了うという意味で、軽薄なのである。併し二つは同じ源に発している。
 この二派の対立を調停するには、科学、技術交互作用論を以てするか、鶏、卵・論を以てするか、又は水かけ論説を以てするかしかあるまい。即ち科学と技術との発達には決った先後の関係はないので、具体的には両者の交互作用があるだけだ、とする、物わかりの好すぎた俗論が第一、鶏と卵とはどっちが先かあてて見ろという逆説が第二。両方とも同じ権利で相反した主張を強調出来るという見物人意識が第三。つまりこの解決は行きづまりに来たということである。
 さてこの行きづまりの原因はどこにあるか。それは、科学の目標を、従来の公認常識に従って、認識[#「認識」に傍点]にあるとしながら、他方之を技術という生産[#「生産」に傍点]の過程に結びつけようとするために、勢い、科学を外部から取り扱わなければならなくなり、従って前述の事情によって、科学を手段的に取り扱わざるを得なくなった、そのためである。認識というカテゴリーと、生産というカテゴリーとは、不覚にも、旧来の論理学では連絡がついていなかった。わずかに人間学其の他というような狭い盆地で、ホモ・サピエンスとホモ・ファーベルとが並べられた程度にすぎない。
 技術が生産(第一義には物的生産のことである)を目標とすることを疑うのは、まず不必要だし又不可能であろう。技術を外部から何かの手段と考えればその目的は何とでも云える、人類を解放するのも又人類を無能にするのも(実際人間は羅針盤やバスのために伝書鳩や犬よりも無能である)、技術の目的と云えよう。しかしそういう目的論ではなくてそれ自身の内部的目標が今問題だ。技術というカテゴリー[#「カテゴリー」に傍点]が問題なのだ。すると技術の目標が生産にあることは、当然すぎることである。
 併し同様の意味に於て、科学の目標は認識[#「認識」に傍点]であるだろうか。之は人も知る通り、古来の哲学学派の一見解にすぎないようだ。元来|巫術《ふじゅつ》文化の原始社会などでは成り立たない常識である。今日までこの見解は色々の方面から抗議を受けている。不躾なニーチェなどは有力な抗議者である。ただこの反対が今日まで学究的な形の哲学としては、認識論や科学論としては、ほとんど現われていない、というまでなのだ。すると科学の目標は認識だという想定は必ずしも絶対ではないことになる。もしこれが絶対でないとすれば、この想定を変更すれば、例の行きづまり、科学と技術との結びつきについての議論の行きづまりを、解く可能性があるだろうということになる。でこの時にこそ、科学の目標を技術と直接結びついたものとして設定すべきであろう。科学の目標を独立に(認識[#「認識」に傍点]というように)設定して了ってからでは、間に合わないので、自然、科学をその目標以外のものによって外部から手段化せざるを得なくなる。われわれは手続きを一歩根本へ向って進めて、予め科学の目標とするものをすでに技術自身に直接結合したものの内から選定しなくてはならぬ。
 ここまで来れば誰でも「生産」というカテゴリーを尤もなものとして思い付くだろう。それは技術の目標であったが、それが同時に、或る条件の下に、科学の目標であるとすれば、問題は解かれる可能性を生じるわけだ。――こういう云い方は、単に理づめで理論的で形式的だが之に照応する事実は科学的成果を相当系統的に指摘出来るし、又之に通じる意見を科学者の思想から選び出すことも出来ると思うので、今日之はただの可能性ではないだろう。
 以上、科学は認識を目標とすると云う代りに、科学は生産を目標にする(物を造るものだ)、という見解の権利づけの一端を試みたものである。本当の問題は科学に於ける生産(物を造る)とは何かを分析的に証明することであるが、時にブリジマンは、プランクやアインシュタインの「測定し得るもののみが科学的に存在する」という思想を拡張して操作[#「操作」に傍点](Operation)可能な概念だけが実在的だと考える。科学と技術との関係から見てこの操作というカテゴリーは興味がある。之を造る[#「造る」に傍点]という範疇に連絡して見ればどうなるだろうか。



底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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