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惰眠洞妄語
辻潤

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堯舜《ぎょうしゅん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たって[#「たって」に傍点]
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 1

 今のような世の中に生きているというだけで――それだけ考えてみたばかりでも私達は既に値打づけられてしまっているように感じることがある。
 昔、堯舜《ぎょうしゅん》の時代というようなそんなものがあったか、なかったか、又この先きユウトピヤとか、ミロク[#「ミロク」は底本では「ミクロ」と誤記]の世の中とかいうものが来るか来ないか、そんなことを何遍繰返して考えてみたところで、私は少くとも今日一日の生命を生きてゆかなければならないことだけは事実だ。現実肯定だ。それ以外に名案は浮んでは来ない。
 私にとっては現実を肯定するということは厚顔無恥に生きるということの別名に過ぎない。――厚顔無恥も度々繰返している間には無邪気に思われるようにさえなって来る。
 私は自分が厚顔無恥であるということを時々意識することによって、自分に不愉快を感じさせられる。――従って私は鏡にうつる自分の姿を見ることをあまり好まない。
 自分はまだ修業が足りないのだ――と思う。しかし、やがて自分はこんなことすら意識しなくなる時が来るのではあるまいか、とひそかにその時期の到来を期待しているのだ。
 私は電車に乗る時の自分の姿をアリアリと思い浮べる。私は人が自家用の自動車を持たなければならないと思う方があまりにも当然だと考える。それが果してブルジョア意識というものなのだろうか?
 芸術は玩具だ。少くとも書物は私にとってはなくてはならない玩具の一種だ。私は自分の好きなおもちゃを宛がってさえ置いてもらえば、かなりおとなしく遊んでいる。
 私は自分の生活のために時々自分でおもちゃを拵らえて売る。ゆっくり、楽しんで自分の気の合ったようなおもちゃばかりを拵えてみたいが、そうはゆかぬ。しかし不出来な、気に喰わないものでも買ってくれる人があるので、私はどうやら暮してゆかれるのだが――貧しいおもちゃ製造人。
 時々目先の変った新型のおもちゃを拵えないと、私はどうやら暮しが立たなくなる恐れがある。私のおもちゃをお買い下さい――。

 2

 おもちゃは腹の足しにはならない。そんなものはゼイタク品だ。一切のおもちゃを破壊せよ!――腹の空いた人間の理窟としては無理もない。だが私のような発育未熟の永遠の赤ん坊は少し位腹が減っていても自分の好きなおもちゃがあるとそれでかなりまぎれている。
 おもちゃを持って遊ぶことの出来ない人間は不幸なものだ。
 おもちゃの好きなものは当然おもちゃに対する鑑賞眼が肥えて来る。金さえ出せばいいおもちゃが買えるというわけのものではない。いくら金があってもおもちゃのよしあしのわからない人間もいる。――莫大な金を出してつまらぬおもちゃを買う者もいる。自分で好みもせぬのに、人に見せびらかすためにやたらと買う者もいる。
 おもちゃのほんとうに好きな人間は自分で自分のおもちゃを撰択する。時代と流行と人気とは彼になんの関りもないのである。
 私は自分が拵えて、自分が楽しむことの出来ないような玩具はなるべく拵らえたくないと思っている。
 いつまでいじくっていても少しも見倦《みあ》きのしないようなものを拵えたいと思っている。
 人のこしらえた物が気に喰わなければ自分で気に喰う物を造るより他に仕方がない。
 私は人のおもちゃの世話を焼くことにあまり興味を感じない。しかしいいおもちゃが眼に付けばそれを手に入れて遊ぶばかりだ。
 人の趣味は千差万別だから、この世には色々なおもちゃの存在理由があるわけだ。

 宮沢賢治という人は何処の人だか、年がいくつなのだか、なにをしている人なのだか私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』という詩集を手にした。
 近頃珍しい詩集だ。――私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが――私の鑑賞眼の程度は、若し諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ぐにわかる筈だ。
 私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでいる――しかし、本物とニセ物の区別位は出来る自信はある。
 私は今この詩集から沢山のコーテェションをやりたい慾望があるが――。
 わたしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)――というのが序の始まりの文句なのだが、この詩人はまったく特異な個性の持主だ。芸術は独創性の異名で、その他は模倣から成り立つものだが、情緒や、感覚の新鮮さが失なわれていたのでは話にならない。

 3

 真空溶媒(Eine Phantasie im Morgen)凡ゆる場合に詩人の心象はスケッチされる。万物交流の複合体は、すでに早くもその組立や質を変じて、それ相当のちがった地質学が流用され、相当した証拠もまた次々の過去から現出し、みんな二千年ぐらい前には青ぞらいっぱいの無色な孔雀がいたとおもい、あるいは白堊紀砂岩の層面に、透明な人類の巨大な足跡が、まったく発見されるかも知れないのだ。
 楢と※[#「※」は「木+無」、読みは「ぶな」、100-10]とのうれいをあつめ
 蛇紋山地に篝をかかげ
 ひのきの髪をうちゆすり
 まるめろの匂のそらに
 あたらしい星雲を燃せ
 dah-dah-sko-dah-dah
 肌膚を腐植土にけずらせ
 筋骨はつめたい炭酸に粗び
 月々に日光と風とを焦慮し
 敬虔に年を累ねた師父たちよ
 こんや銀河と森とのまつり
 准平原の天末線に
 さらにも強く鼓を鳴らし
 うす月の雲をどよませ
 Ho! Ho! Ho!
 原始林の香《にお》いがプンプンする、真夜中の火山口から永遠の氷霧にまき込まれて、アビズマルな心象がしきりに諸々の星座を物色している。――ナモサダルマブフンダリカサス――トラのりふれんが時々きこえて来る。それには恐ろしい東北の訛がある。それは詩人の無声慟哭だ。
 屈折率、くらかけの雪、丘の幻惑、カーバイト倉庫、コバルト山地、霧とマッチ、電線工夫、マサニエロ、栗鼠と色鉛筆、オホーツク挽歌、風景とオルゴール、第四梯形、鎔岩流、冬と銀河鉄道――エトセトラ。
 若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は『ツアラトウストラ』を忘れても『春と修羅』とを携えることを必ず忘れはしないだろう。
 夏になると私は好んで華胥《かしょ》の国に散歩する。南華真経を枕として伯昏夢人や、列禦寇の輩と相往来して四次元の世界に避暑する。汽車賃も電車賃もなんにも要らない。嘘だと思うなら僕と一緒に遊びに行って見給え。

 4

 言葉の感覚――近刊『ですぺら』の広告文に私は『ですぺら』といったってアンペラやウスッペラの親類ではない――と書いた。するとそのたって[#「たって」に傍点]という奴がたとて[#「たとて」に傍点]になっている。これは僕にとっては恐ろしい致命傷だ。更に、そのいったとて[#「いったとて」に傍点]がいうたとて[#「いうたとて」に傍点]になりいうたかとて[#「いうたかとて」に傍点]になったら、私は自殺するより他に方法はないだろう――いうたかとて[#「いうたかとて」に傍点]――親戚やおまへん[#「親戚やおまへん」に傍点]――などとやられたら、息を引き取った奴がこんどは逆転して蘇生するにちがいない。まったく言葉という奴は恐ろしい生き物だ。
 ルナアルやモランが最近訳されたことは僕のひそかに喜びとするところだ。堀口君の『夜ひらく』はまだ拝見はしないが、嘗つて明星所載の「北欧の夜」の一部だけは読んでいる。僕も偶然にもその頃、ルナアルの小品とモランの詩とを訳して「極光」という雑誌に載せたが記憶している人は少ないだろう。それは中西悟堂が松江から出していた同人雑誌なのだから。私はなぜモランを訳したか別段深い意味もない。彼が仏蘭西のすぐれたダダの詩人だからだ。彼は教養ある若き外交官であり立派な一個の紳士である。しかし日曜に彼の処へ電話をかけると、自分で「御主人は只今瑞西へ御旅行中です」というのは如何にもダダの詩人がいいそうなことだ。堀口君は最初に彼をダダの詩人として紹介されていたようだが、こんどは新印象派として紹介されたのは訳者堀口君もどうやら真正のダダイストらしい。巴里の街上で慇懃に挨拶する教養ある紳士はたしかにダダイストなのである。ダダを気狂いや、変態性慾の代名詞だとばかり早呑み込みをする諸君に一応御注意を促して置く。これ以上シャベッていると新潮社から御礼のくる恐れがある。
 鋭い嗅覚と触覚――それはいつの時代でも科学と文芸とに恵まれている。哲学、宗教、政治にはカビが生えて腐れかけている。かれ等の官能は盲《めしい》ている。是非もない。村山の「マヴオ」がスピツベルゲンなら、エイスケの「バイチ」はバタゴニヤだ。勿論かれ等は初めから芸術などという古い観念を破壊しているのだ。日本のヤンゲスト・ジェネレーションの最も進んだ精神がどんな方向に向かっているか? Only God knows! (大正十三年七月十三日)



底本:「辻潤著作集2 癡人の独語」オリオン出版社
   1970(昭和45)年1月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集」(玉川新明編、五月書房、昭和56年10月発行)を参照して訂正。
入力:et.vi.of nothing
校正:かとうかおり
1999年11月20日公開
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