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水郷めぐり
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)香取《かとり》

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(例)[#ここから3字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)降らう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 約束した樣なせぬ樣な六月廿五日に、細野君が誘ひにやつて來た。同君は千葉縣の人、いつか一緒に香取《かとり》鹿島《かしま》から霞ヶ浦あたりの水郷を廻らうといふ事になつてゐたのである。その日私は自分の出してゐる雜誌の七月號を遲れて編輯してゐた。何とも忙しい時ではあつたが、それだけに何處かへ出かけ度い欲望も盛んに燃えてゐたので思ひ切つて出懸くる事にした。でその夜徹夜してやりかけの爲事を片附け、翌日立つ事に約束した。一度宿屋へ引返した細野君はかつきり翌廿六日の午前九時に訪ねて來た。が、まだ爲事が終つてゐなかつた。更に午後二時までの猶豫を乞ひ大速力で事を濟ませ、三時過ぎ上野着、四時十八分發の汽車で同驛を立つた。
 三河島を過ぎ、荒川を渡る頃から漸く落ち着いた、東京を離れて行く氣持になつた。低く浮んだ雲の蔭に強い日光を孕んでをる梅雨《つゆ》晴の平原の風景は睡眠不足の眼に過ぎる程の眩しい光と影とを帶びて兩側の車窓に眺められた。散り/″\に並んだ眞青な榛《はん》の木、植ゑつけられた稚い稻田、夏の初めの野菜畠、そして折々汽車の停る小さな停車場には蛙の鳴く音など聞えてゐた。
 手賀沼《てがぬま》が、雜木林の間に見えて來た。印幡沼《いんばぬま》には雲を洩れた夕日が輝いてゐた。成田驛で汽車は三四十分停車するといふのでその間に俥で不動樣に參詣して來た。此處も私には初めてゞある。何だか安つぽい玩具の樣な所だと思ひながらまた汽車に乘る。漸く四邊は夜に入りかけてあの靄の這つてゐるあたりが長沼ですと細野君の指さす方には、その薄い靄のかげにあちこちと誘蛾燈が點つてゐた。終點の佐原驛に着いた時は、昨夜の徹夜で私はぐつすりと眠つてゐた。搖り起されて闇深い中を俥で走つた。俥はやがて川か堀かの靜かな流れに沿うた。流れには幾つかの船が泊つてゐて小さなその艫の室には船玉樣に供へた灯がかすかに見えてゐた。その流れと利根川と合した端の宿屋川岸屋といふに上る。二階の欄干に凭《もたれ》ると闇ながらその前に打ち開けた大きな沼澤が見渡されさうに水蒸氣を含んだ風がふいて、行々子《ぎやう/\し》が其處此處で鳴いてゐる。夜も鳴くといふことを初めて知つた。風呂から出て一杯飮み始めると水に棲むらしい夏蟲が斷間なく灯に寄つて來た。
 六月廿七日、近頃になく頭輕く眼が覺めた。朝飯を急いで直に仍《こゝ》から一里餘の香取神社へ俥を走らせた。降らう/\としながらまだ雨は落ちて來なかつた。佐原町を出外れると水々しい稻田の中の平坦な道路を俥は走る。稻田を圍んで細長い樣な幾つかの丘陵が續き、その中にとりわけて樹木の深く茂つた丘の上に無數の鷺が翔つてゐた。其處が香取の森であると背後から細野君が呼ぶ。
 參拜を濟ませて社殿の背後の茶店に休んでゐると鷺の聲が頻りに落ちて來る。枝から枝に渡るらしい羽音や枝葉の音も聞える。茶店の窓からは殆ど眞下に利根の大きな流れが見えた。その川岸の小さな宿場を津の宮といひ、香取明神の一の鳥居はその水邊に立つてゐる相だ。實は今朝佐原で舟を雇つて此津の宮まで廻らせて置き、我等は香取から其所へ出て與田浦浪逆浦を漕いで鹿島まで渡る積りで舟を探したのだが、生憎一艘もゐなかつたのであつた。今更殘念に思ひながら佐原に歸り、町を見物して諏訪神社に詣でた。其處も同じく丘の上になつてゐて麓に伊能忠敬の新しい銅像があつた。
 川岸屋に歸ると辨當の用意が出來てゐて、時間も丁度よかつた。宿のツイ前から小舟に乘つて汽船へ移る。宿の女中が悠々として棹さすのである。午前十一時、小さな汽船は折柄降り出した細かな雨の中を走り出した。大きな利根の兩岸には眞青な堤が相竝んで遠く連り、その水に接する所には兩側とも葭《よし》だか眞菰だか深く淺く茂つてゐる。堤の向側はすべて平かな田畑らしく、堤越しに雨に煙りながら聳えてゐる白楊樹の姿が、いかにも平かな遙かな景色をなしてゐる。それを遠景として船室の窓からは僅かに濁つた水とそれにそよぐ葭と兩岸の堤とそれらを煙らせてをる微雨とのみがひつそりと眺めらるゝ。それを双方の窓に眺めながら用意の辨當と酒とを開く。あやめさくとはしほらしやといふその花は極めて稀にしか見えないが堤の青草の蔭には薊《あざみ》の花がいつぱいだ。
 午後二時過ぎに豐津着、其處に鹿島明神の一の鳥居が立つて居る。神社まで一里、雨の中を俥で參る。鹿島の社は何處か奈良の春日に似て居る。背景をなす森林の深いためであらう。かなりの老木が隨分の廣さで茂つて居る。其の森蔭の御手洗の池は誠に清らかであつた。香取にもあつたが此處にもかなめ石と云ふのがある。幾ら掘つてもこの石の根が盡きないと云ひ囃されて居るのだ相な。岩石に乏しい沼澤地方の人の心を語つて居るものであらう。此所の社も丘の上にある。この平かな國にあつて大きな河や沼やを距てた丘と丘とに對ひ合つて斯うした神社の祀られてあると云ふ事が何となく私に遙かな寂しい思ひをそゝる。お互ひに水邊に立てられた一の鳥居の向ひ合つて居るのも何か故のある事であらう。
 豐津に歸つた頃雨も滋く風も加つた。鳥居の下から舟を雇つて潮來へ向ふ、苫《とま》をかけて帆あげた舟は快い速度で廣い浦、狹い河を走つてゆくのだ。ずつと狹い所になるとさつさつと眞菰の中を押分けて進むのである。眞みどりなのは眞菰、やや黒味を帶びたのは蒲ださうである。行々子の聲が其所からも此所からも湧く。船頭の茂作爺は酒好きで話好きである。潮來の今昔を説いて頻りに今の衰微を嘆く。
 川から堀らしい所へ入つて愈々眞菰の茂みの深くなつた頃、或る石垣の蔭に舟は停まつた。茂作爺の呼ぶ聲につれて若い女が傘を持つて迎へに來た。其所はM――屋といふ引手茶屋であつた。二階からはそれこそ眼の屆く限り青みを帶びた水と草との連りで、その上をほのかに暮近い雨が閉してゐる。薄い靄の漂つてをる遠方に一つの丘が見ゆる。某所が今朝詣でゝ來た香取の宮である相な。
 何とも云へぬ靜かな心地になつて酒をふくむ。輕やかに飛び交してをる燕にまじつてをりをり低く黒い鳥が飛ぶ。行々子であるらしい。庭ききの堀をば丁度田植過の田に用ゐるらしい水車を積んだ小舟が幾つも通る。我等の部屋の三味の音に暫く棹を留めて行くのもある。どつさりと何か青草を積込んで行くのもある。
 それらも見えず、全く闇になつた頃名物のあやめ踊りが始まつた。十人ばかりの女が眞赤な揃ひの着物を着て踊るのであるが、これはまたその名にそぐはぬ勇敢無双の踊りであつた。一緒になつて踊り狂うた茂作爺は、それでも獨り舟に寐に行つた。
 翌朝、雨いよ/\降る。

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霞が浦即興

わが宿の灯影さしたる沼尻の葭の繁みに風さわぐ見ゆ

沼とざす眞闇ゆ蟲のまひ寄りて集ふ宿屋の灯に遠く居る

をみなたち群れて物洗ふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり

鹿島香取宮の鳥居は湖越しの水にひたりて相向ひたり

苫蔭にひそみつゝ見る雨の日の浪逆《なさか》の浦はかき煙らへり

雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ
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底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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