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東京の郊外を想ふ
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日向《ひうが》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、218-2]り道

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ふら/\と
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 日向《ひうが》の山奧から出て來て先づ私の下宿したのは麹町の三番町であつた。其處の下宿屋から早稻田の學校まで、誰かに最初教へて貰つた一すぢ道を眞直ぐに往復するほか、一寸した※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、218-2]り道をもようせずに通つてゐたのが二三ケ月以上も續いた。散歩をすると云へば靖國神社の境内から九段坂を降りて神田の表神保町の本屋を見て歩く、僅かにそんなことであつた。そのほかに遠出をするといふのは田舍者にとつて如何にも億劫な、恐しいことであつたのだ。
 それが、或日どうしたことであつたか、大方受持教授の休講の時間でゝもあつたらうとおもふ、ふら/\と學校を出て穴八幡の境内に入り、更にその森つゞきの木の下道(あとでその森が戸山學校であることを知つた)をくゞつて出外れて見て驚いた。おもひもかけぬ大きな平野が其處に開けてゐたのである。
 まつたくその時の驚きはいま考へても可笑しい樣である。何しろ山と山との間の峽谷に生れて、今まで曾てさうした大きな野原をば見た事がなかつたのである。しかもそれが二三ケ月以上もぐつしりとかぢりついて離れなかつた自分の學校のツイうしろから開けてゐやうとは、夢にも思ひがけぬところであつたからである。
 驚きのあまり、授業の事をも忘れて私は恐る/\なほその小徑を野原の方へ歩いて行つた。そして行き着いたのが戸山ケ原の櫟林《くぬぎばやし》であつたのだ。驚きはいつか一種の哀愁に變つて、足音をぬすむ樣にして私は其處に群立してゐる木から木の間の下草を踏み分けて歩き※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、219-5]つたものであつた。明治三十七年初夏のことであつた。
 さうした大發見をした二三日後、私は直ぐ三番町を引上げて、今は早稻田高等學院が建つてゐる穴八幡下に在つた下宿に移つて來た。そして毎日々々私の戸山ケ原散歩は始まつたのであつた。
 斯ういふ記憶を呼び出しながら現在の戸山ケ原を見ると如何にもうら寂しい。その頃は四方野つゞきの、ほんたうの野原の一部であつた。今は工場や住宅に圍まれて野原といふよりたゞの空地といふに過ぎぬ場所になつてしまつた。自づと人出が多いので、下草は踏み荒され、堆《うづたか》かつた落葉なども今は殆んど見るよしがない。
 代々木の原は戸山ケ原より更に粗野な感じを持つてゐた。が、今ではたゞ土埃を捲きあぐる赭土原となり終つてゐる。僅かにその傍の明治神宮の境内に幾分の面影を偲ぶことが出來やうか。
 大正二年三年の頃、小石川の大塚窪町に住んでゐた。其處の近くには護國寺の森があつた。寺と皇族墓地との境の窪みが小さな池ともつかぬものになつてゐて、其處に初夏ならば藤の花が咲いて垂れてゐた。これは恐らく今でもあるだらう。其處を出て少し行くと東京市經營の廣い養樹園があつた。公園とか並木とかに植うべき樹木を育つる場所である。殆んど全てが落葉樹であつたゝめ、若芽のころ、落葉のころ、實に柔かな親しい眺めを持つてゐた。園の中に二三條の路があつて自由に通れることになつてゐた。今は全部これが石も土も眞新しい墓地の原と變つてゐる。
 それを出外れると鬼子母神の森、これも入口の例の大欅の並木から舊墓地内の杉の落葉など、なつかしいものであつた。私の學生時代のころ、この森に來て杜鵑《ほととぎす》を聞いたこともあつた。(書き落したが前の皇族墓地では春のころよく雉子が鳴いた、これは恐らく今でも聽く事が出來るだらう。)
 其處までぶら/\歩いて來ると、若し空でもよく晴れてゐたならば、いよ/\自宅に歸るのがいやになつて、もう少し歩かうといふことになる。そして目白橋を渡つて、左折、近衞公のお邸に行き當つて右折、一二町もゆくととろ/\とした下り坂になつた其處の窪地全體が落合遊園地といふものになつてゐた。それこそ誰も知らない遊園地で、窪地の四方をば柔かな雜木林がとり圍み、中には小さな池があり、池の中の築山には東屋なども出來てゐた。
 また、遊園地に入らずにその入口の處から左に折れてゆく下り坂があつた。其處もほそ長い窪地になつてゐて、いろ/\な雜木のなかに二三本の朴《ほほ》の木が立ち混り、夏の初めなどあの大きな白い花が葉がくれに匂つてゐたものである。降りきつた右手の所に、藤の古木があるので藤稻荷と呼ばれてゐる稻荷の祠があつた。(今でもこれはあるだらう。)その境内も一寸した高みになつてゐた。其處から丘づたひに左は林右は畑といふ處を歩いたのもいゝ氣持であつた。そして此處の丘にはこの邊に珍しい松の木立があつた。ほんのばらばらとした小さなものであつたが、東京の北から東にかけての郊外では全く珍しいものであつた。今は稻荷の側からかけて幾軒かの大きな別莊になつてゐたとおもふ。
 その丘を降りた所に氷川神社といふがあり、神社の境内に小さな茶店などの出てゐる事もあつた。もう少し歩かうとそのまゝ丘に添うて西北へゆく。
 この邊は右に雜木の丘を、左に田圃や畑を見てゆく丘の根の路となつてゐるのだ。(二三年前からこの邊は向う十四五町がほどにずらりと立派な別莊が建ち並んでしまつた。)斯くして歩くことなほ二三十町ほどで中野の藥師さまに着くのであつた。藥師さま附近の一二軒の小料理屋なども鄙《ひな》びていゝものであつた。
 ばら/\松の小さな木立を珍しいと書いたが、東京の西部の郊外にはそれが到る所に茂つてゐた。即ち澁谷、目黒あたりから西へ入り込んだ丘陵の上にだ。
 池袋雜司ケ谷戸山ケ原板橋附近の郊外は總じて平地で、其處に茂つてゐるものは櫟《くぬぎ》であつた。そしてその下草には芒が輝いてゐた。が、西の方の目黒附近では丘と窪地との交錯が極めて複雜に相交はり、其處に生えてゐるのは松であり、孟宗竹の藪であつた。無論楢櫟等武藏野らしい雜木もその間に立ち混つてはゐるけれど。
 そしてこちらの郊外の背景をなすものは遠く西の空に浮んでゐる富士山の姿であることを忘れてはならぬ。何處からでも大抵は見えるこの山ではあるが、ことに此處等の赤松林の下蔭、幾つか連つた丘陵の一つのいたゞきから望み見る姿は、たゞの野原であるのより遙かに趣きが深いのだ。
 さう書くと、ほんの赤土の崖の上である樣な東の郊外田端の高みから望む筑波のことをも書かねばならぬ。同じく西の郊外から見る野の末の秩父の連山、よく晴れゝば其處まで見る事の出來る甲州信州上州路かけての遠山の事などをも。



底本:「若山牧水全集 第七巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年11月30日初版1刷
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
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