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勝敗
渡辺温

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)病勢は頓《とみ》にすすんだ。

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)蹌踉《よろめ》[#底本では「よろめき」のルビ、113-4]
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     1

 兄を晃一、弟を旻と云う。
 晃一は父親の遺して行った資産と家業とを引き継いで当主となった。旻は実際的な仕事が嫌いだったし、それに大学の文科へ入って間もなく肺病にとりつかれたので、海辺の別荘へばかり行って、気儘な暮しをしていた。
 兄弟仲は決して悪い方ではなかった。一月に一度はかかさず、兄は嫁の幸子と共に、あらかじめ弟の欲しがっている手土産なぞを打ち合せて置いて、はるばる別荘へ遊びに行った。
 ところで、晃一の嫁の幸子は幼い時分から晃一の許嫁として、兄弟と一緒に育てられた身なのだが、未だ女学校にいる頃、高等学校の学生だった旻と恋に落ちて、駈け落ち迄したことがあった。
 二人が捕えられて連れ戻された時、晃一は親たちにせがんでその事件を暗黙に揉み消して貰った。
 ――お前の罪は責めるまい。本当ならば、幸子をお前に譲ってやるべきだろうけれど、僕には彼女を思い切ることは到底出来そうにもない。どうか、お願いだから手を引いてくれ。」晃一は、弟に向って、そう云った。
 そして、旻と幸子とは厳重に引きはなされてしまったが、時が経つ中に二人の情熱も漸く冷めて、その儘案外容易におさまることが出来た。
 晃一と幸子との結婚式の折には、旻はもう肺病になって海岸へ転地していたのだが、わざわざ出て来て席に連なった。
 ――三人とも子供の時分は本当の兄弟だと思っていたんだがね。」
 病気窶れがして寂しい頬の色だったが、旻は新夫婦の顔を見比べて、そう云って笑った。

     2

 その秋に入って、旻の病勢は頓《とみ》にすすんだ。
 それで幸子は夫の同意を得て、義弟の看護のために別荘に逗留することとなった。晃一も殆ど毎度の週末には泊りがけで遊びに来た。
 旻にして見れば兄夫婦が、それこそ唯一つの身内だったのでこの上もなく喜んだ。
 幸子は寝食を忘れて病人の看護につくした。
 病人は、海にむかって硝子戸を立てめぐらした座敷で、熱臭い蒲団に落ち込んだ胸をくるんで、潮風の湿気のために白く錆びついた天井を見つめた儘、空咳をせきながら、幸子の心づくしに堪能していたが、それでも覚束ない程感動し易くなっていたので、時々幸子を手古摺らせた。
 ――僕は幸子さんにそんなにして貰うのは苦しい。いっそ死んでしまい度いよ。どう考えたって、僕なんてのは余計者なんだからね。」
 ――そんなことを云うと、あたしもう帰ってよ。」
 ――ああ、帰っておくれ!」
 そんな時には熱は直ぐ上った。そして、それが幸子の故《せい》だと云って、彼女は鳥渡《ちょっと》でも姿をかくしたりすると、旻は一層亢奮して看護婦や女中を怒鳴りつけて、幸子を呼んでくれと云い張ってきかなかった。夜更けて氷嚢を取り更えるのにも旻は眼を大きく輝かせて、若しそれが幸子以外の者である時にはひどく機嫌が悪かった。
 併し、遉《さすが》に晃一が居合わせる際なら、そう我儘も云うわけにはいかなかった。晃一に対してはまことに素直に振舞った。
 晃一は所在ない陰気な日曜をまる一日、弟の枕もとに寝そべって弟のために買って来た新刊書などを自分で読みながら過すのだったが、ふと二人の顔が会うと、旻は黙って微笑してみせて、さて大儀そうに首をそむけて眼を閉じた。

     3

 上天気が続いて日毎に晴々とした青空の色が深くなって行った。海は一番はるかな島影もはっきりと浮かせて、湖のように静かであった。
 旻の病気は鳥渡もち直したかたちであった。
 その日の午後、旻は久し振りで、陽の一っぱいに当っている縁先の籐の寝椅子に出て見た。
 幸子は庭に降りて、誰も構うものがないので、延び放題に延びてたおれかけたコスモスの群れをいくつにもまとめて紐で縛りつけていた。
 ――おかしな花だよ。たっていられない程なら、こんなに背を高くしなくたって、よかりそうなものだわねえ。」
 ――僕も手伝ってやろうか。」
 ――お止しなさい。あんたの方がコスモスより、よっぽどヒョロヒョロのくせに。」
 旻は、支那服のような派手なパジャマを着てしゃがんでいる幸子の肩から襟のあたりにこっそりと目を送った。
 ――ねえ。」
 ――なあに。」
 ――明日、兄貴来る日だね。」
 ――ええサラミを買っていらっしゃるわ。」
 ――僕が、起きているのを見て驚くだろうな。」
 ――そうね。でも、あんたいい気になって、あんまり無理しちゃ駄目よ。」
 幸子は何気なく振返った拍子に旻の眼を感じて、身を固くした。
 ――ねえ。」
 ――なあに?」
 ――僕は、幸せだよ。」
 ――…………」
 ――幸子さんが、たった一度接吻してくれたばかりで、こんなに元気がついてしまったのだって、兄貴にそう云ってみようかな。」
 ――あんたは、悪党よ。」
 ――結構……」
 ――あたしが、あんたを愛しているとでも思ったら、それこそ大違いだわ。」
 幸子は、花をうっちゃって立ち上がった。
 ――嘘だ! 幸子さんは、心の底では誰よりも一番僕を愛していなければならない筈だ。一時眠っていた昔の僕たちの恋が目をさましたのだよ。あんなに一途だった人間の愛情がそう簡単に亡びてしまうわけはないのだからね。僕は長いこと待った……」
 ――あたし、死にかけた人間なんかに恋をしなくってよ!」
 幸子は、そう云い捨てると、駈け出した。
 旻は、周章て縁側から芝生へ飛び降りた。そして跣足《はだし》のまま、蹌踉《よろめ》[#底本では「よろめき」のルビ、113-4]きながら、咳につぶれた声で呼び立てた。
 ――幸ちゃん! ごめん、ごめん。……幸子さん!」
 併し、幸子は、振返りもせずに、どんどん裏木戸から断崖《きりぎし》の松林の方へ走り去った。旻は踏石の上の庭下駄を突っかけて、その跡を追った。
 間もなく、旻一人だけ切なそうな息を切らせて戻って来た。
 ――何処へ行ったのか、見えなくなってしまったよ。」と旻は、家の者に告げた。旻は苦しがって、それから直ぐ床についてしまった。
 ところが、何時迄待っても、夕方になってやがて浜辺や松林の景色が物悲しく茜色に染まって、日が暮れかけても、幸子は帰らなかった。人々は漸く気遣いはじめた。そこで幸子の立ち廻りそうな極めて少数の家々と停車場とへ問い合せてみたが、一向に知れなかった。
 夜っぴて、幸子は帰らずにしまった。
 旻は旻で、ひどく熱を出して、多量に喀血した。

     4

 夜明に近い頃、蝋燭のたってしまった白い提灯を下げた捜索の村人の一人が、蒼い顔をして報告を持って来た。幸子が断崖の下の岩蔭に落ちて死んでいると云うのである。
 別荘の人々は狼狽した。肝心な旻は殊の外重態でそんなことを耳に入れるのさえ非常に危ぶまれたし、年のゆかない女中や看護婦ばかりで、全く途方に暮れた。
 先ず晃一に知らせてやらなければならないのだが、併し恰度その日は晃一が来る日で電報を打ったところで行き違いになる迄のことだと云うので見合せられた。
 検屍は朝の中に済んだ。幸子の死体は、別荘から三町と隔てない崖の真下に、半ば干き潮になりかけた海水に漬りながら横たわっていた。前額《ひたい》と胸とを鋭い岩角に打ちつけて、それが致命傷らしかった。明らかに溺死ではなかった。断崖の高さは五丈位で、三分の一程のところにちよっとした突起があって、そこから生え出た小さな松の木の枝に彼女のパジャマの袖がちぎれて、風にふかれながら、ひっかかっていた。落ちる途中、その突起に衝突して、そこで一度バウンドしてから、真逆様に墜落したものらしい。死後十五六時間を経過していたが、生憎岩礁だらけの磯で、夏場ではなし、魚とりの小船の廻るようなところでもなかったので、容易に人目にふれずにいたわけである。それを最初に発見した村人は、甲斐ない捜索にくたびれ果て、其処を通りかかりふとその崖の上から覗き込んだ時に、明け方の薄ら明りの中にヒラヒラと飜っている黒地に真赤な刺繍を彩したパジャマの片袖におどろかされたのであった。
 自殺とも他殺とも考えられる適当な理由が見出されなかったので、係の役人達は簡単に過失死と断定した。
 幸子の屍は、とりあえず別荘に移されて、あらためて白い寝床に寝かされて、晃一の到着を待った。
 ところが、何時でもそれに決まっている正午の汽車に、晃一の姿は見えなかった。そしてその代りに停車場へ出迎えに行った人々が空しく帰って来るよりも、一足先に電報が届いた。
 ツゴウワルシ アスユク――としてあった。
 それでうろたえた人々は直ぐに至急電報で打電し返した。
 晃一は終列車でやって来た。
 ――入札があって、遅れた。」
 冬の厚いトンビの襟を立てて、唇を慄わせながら、迎えの者にそう云った。
 幸子の体はもうすっかり傷口を繃帯して、綺麗に拭き浄められてあった。晃一は冷めたい妻の顔に頬ずりして、泪にくれた。

     5

 葬式を済ましてから、晃一は仕事を人に任せて、もう一度別荘へ戻って来た。暫く静かに休養したかったし、また一つには幸子が最後の日迄起き伏しをしていた部屋で、遺品《かたみ》の品々の間に、愛しい妻の面輪をいつくしみ度い心からでもあったろう。
 旻はそれ以来すっかり衰弱してしまって、もういくばくも持ちそうにもなかった。併しそうなっても気持だけは割合に冴えていた。
 或る雨降りの、急に冬がやって来たかのように冴え々々とする晩のことであった。
 晃一は弟とならんで床に入ったが、荒模様になった潮鳴りが耳について、却々眠られなかった。枕元のスタンドランプには、幸子が編んだ南京玉のついたレースの覆いがかけてあった。
 ――兄さん。」
 眠っていると思った旻が突然呼びかけた。
 ――何だね、氷か?」
 ――いいいや、……兄さん、兄さんは、幸子さんが本当に誤って落ちて死んだものと信じていますか?」
 ――どうして? だって、それ以外に考えようがないじゃないか。」
 ――ところが、実際はそうではないのだ。」
 ――彼女《あれ》には自殺する程の不満はなかった筈だ。彼女は、せい一っぱい僕を愛し、そして僕に愛されることによって満足していた。」
 ――嘘だ。あの人が愛していたのは、兄さんではなかったのだ。」[#底本では"」"なし]
 ――お前は、まさか、幸子が自分で飛び降りて死んだなぞと云うのではあるまいな。」
 二人の声は、夜更けの空気の中にからみ合った。
 ――そうではない。幸子さんは殺されたのだ。」
 ――何だって?!」
 ――幸子さんは、突き落とされたのだ。……僕が幸子さんを突き落としたのだ。」
 ――しツ! 下らないことを云うのは止せ。冗談にしろ、看護婦にでも聞かれたら厄介な話だ。」
 ――誰が冗談にこんなことを云うもんか。すっかり話をしよう。」
 ――お願いだ。もっと静かな声で喋ってくれ。」
 そこで、旻は兄に次のようなことを打ち明けた。
 ――僕の幸子さんに対する愛情は、僕たちが引きさかれてしまってからだって、ちっとも薄らぐことはなかった。いくら諦めなければいけないと自分の心に云いふくめてみたところで、所詮無駄だった。そして兄さんを怨んだ。我々の如き境遇にあって、たとえ幸子さんが兄さんの許婚であったにせよ、二人がお互に一切を擲って愛し合っているものを、引きはなす権利が兄さんの何処にあろうか! 兄さんが彼女を愛しているから、なぞと云うのはまことに理不尽千万な、この上もなく無法な理屈だ。僕には到底ゆるせなかった。僕は、どんなことがあったって、必ず幸子さんを自分のものにしてみせる覚悟だった。併し、悲しいことに、間もなく当の幸子さんが心変りしたものと見えて、むざむざと兄さんの妻になった。僕は結婚式に列《つらな》った時、心の中に復讐を誓った。まさか殺そうとまで計画しなかったけれども、そんなに義理人情を弁えない兄夫婦であるならば、その無節操な嫂《あによめ》に対して敢えて不倫を行ったところで、自分の良心に恥ずべきところは些もない筈だと考えて、窃に機会を待つことにした。これは今になってみると如何にも卑劣極まる考え方に違いないのだが、生れつき小心な上に病気のお蔭で一層卑屈になった根性で、どうにもならなかったのだ。兄さん達が結婚後二人連れで、僕を見舞に来てくれる度毎に、睦しい夫婦仲を見せつけられて、僕のさもしい情慾は愈々残酷に鞭うたれた。僕は焦せりはじめた。けれども、幸子さんは、僕が思った様ないたずら女ではなかったらしく、そんな機会はいつかなやって来そうもなかった。その中に僕の病気は次第に悪くなった。僕の罰当りな悪だくみそれ自身が、病勢を募らせる有力なる原因だったことは云う迄もない。秋口に入って、僕が寝起にも自由を欠く程の有様になってから、幸子さんは泊りがけで看病に来てくれたが、併しそれと同時に、最早や単に情慾なぞと云う生やさしいものではなく、もっと執拗な純然たる復讐の形の下に、たとえ破れかぶれであろうともこの目的を果さなければならないと決心するに至った。僕は到頭或る晩のこと、四辺に幸子さんの外誰もいない時を見計って、幸子さんに向って、僕は久しい歳月の間一時だって幸子さんを忘れたことがなく、どんなに恋しがっていたかを、泪ながらに打ち明けた。ところが、僕がくどくどと掻き口説くのを黙って聞いていた幸子さんは、いきなり、僕の、熱のためにカサカサ乾いた唇へ接吻したではないか。そして――ごめんなさいね。でも、今では、あたし、あんたよりも晃一さんの方が好きなんですもの。」とそう云うのだ。僕は胸を轟かせながら、あらためて云った。――それは僕にだってよく解っている。それに僕はこれから先ほんの僅しか生きられない人間だ。決して、兄貴を振捨てて、縒を元へ戻してくれと云うのではない。それどころか、こうして幸子さんに看護《みとり》されて死ぬことが出来るのを、何より嬉しく思って感謝している位だ。が、そこで、せめてその上の我儘な願と云うのはたとえ仮初であるにせよ、幸子さんが自分の天地《あめつち》をかけての恋人であると信じながらあの世へ行けたなら、どんなにか幸せであろうかと思うのだ。ねえ、お願だから、どうかもう一度昔の通りの恋人らしく振舞っておくれ。もとより、らしく[#「らしく」に傍点]と云うからには、単にその見せかけで結構なのだ。勿論誰にも知らせないで、おっつけ土くれになってしまう僕の体と一緒に亡びてしまう秘密だ。ねえ、どうぞ、この子供っぽい果敢ない望みを叶えてはくれまいか」とね、幸子さんはしばらく思案していた様子だったが、やがてその眼に大きな美しい泪の玉が浮かび上ったかと思うと、こっくりと一つ頷いて――いいわ。……あたし、本当はやっぱり誰よりも旻さんが好きだったの。あんたこそ、あたしのたった一人の恋人よ。」と云った。そして優しく僕を抱いて、幾度も幾度も僕にくちづけしてくれた。僕の心は俄かに怪しくなった。幸子さんのその素振りが、果して芝居であるか、真実であるか、僕には判断が付き兼ねたのだ。幸子さんと僕とは、それから始終、人目を憚っては愛撫し合った。初めの、僕の計画では、二人の媾曳を、まざまざと兄さんに見せつけてやるつもりだったのだが、僕はあべこべ兄さんに対して密夫らしい要心をしはじめた。僕は意気地のない話にも、この自分で書き下ろした芝居の恋に、たあいなく溺れてしまったのだ。
 僕は少年の日の恋を、あらためて復習しはじめた。僕は楽しかった。そして段々元気にさえなった。……それだのに、僕は幸子さんを殺すことになってしまった。あの日だって別に何時もと変ったことはなかったのだが、庭先でほんの鳥渡した心のゆるみから何気なく口にすべらした冗談が、意外に幸子さんの気に障ったらしかった。
 幸子さんが、唐突に走り出したので、何というわけもなく僕もその後から追いかけた。幸子さんは松林の端れの断崖の縁に立って泣いていた。幸子さんは僕の顔を見るとひどくヒステリックになって、如何にも憎々しげに怒鳴った。――卑怯者! 死んでおしまい! 誰があんたなんか愛しているもんか! あんたは自分であたしに芝居をしてくれと頼んだじゃないの。それを今更居直ったりして何と云う悪党なんだ!」僕は絶望のどん底に叩き落とされて、目の前が真暗になった。そうだ、芝居だったのだ!……自分でたくらんだ浅ましい芝居だったのだ! 僕は幸子に詫び[#底本では「詑び」と誤記]た。これからは決してこんなに思い上った真似はしないから、どうかもう少し我慢してこの芝居を続けてくれるようにと、哀訴し歎願した。だが幸子は冷酷にそっぽを向いて諾かなかった。僕はそこで遂に幸子に斯う云った。――よし、それでは仕方がない。この芝居の大詰は模様更えだ。心変りのした憎い女め! 俺は貴様を殺してやるぞ!」そして、僕はそう云い終るが早いか、真蒼になって立ちすくんだ幸子さんを崖の上から突き落してしまったのだ。咄嗟の場合、僕は愛する女を、永劫に人手に渡さぬためには、自分の手で殺してしまうよりほかなかったのだ…………」
 旻は、さて枕に顔を押し当てて、すすり泣いた。
 晃一は、黙って夜具をかぶってしまった。
 風をまじえた雨の、雨戸へふきつける音が聞こえた。

     6

 しばらくして、晃一は蒲団から顔を出すと、穏かな調子で旻へ話しかけた。
 ――旻、お前の話は嘘ではあるまいと思う。」
 旻は返事をしなかった。
 ――だが旻、幸子を殺したのは、少くともお前ではないのだ。なある程お前は殺すつもりで、突き落したかも知れないけれど、幸子は墜落の途中松の木にひきかかって気絶してしまった。その時は未だ死んではいなかったばかりでなく、せいぜい僅かな擦り傷を負った位のものだろう。それをお前達の後をつけて行った一人の男が、幸子の悲鳴におどろいて、その場へ駈けつけて見るともうお前の逃げ去った後だったが、崖の下に幸子がひきかかっているのが見えたので、早速何処かへ行って綱を持って来て、それを頼りに幸子のところへ降りて行った。そして、その男は幸子を助けると思いの外、そこでしばらく思い迷った様子だったが、どういうつもりかあらためて幸子の体を下へ蹴り落したのだ。その男と云うのは僕に外ならない。……何故また、僕がそこでそんな風にして幸子を殺さなければならなかったかと云うのか?……僕は最初から、お前たちの間を信用してはいなかったのだ。我々の様なお互の関係に置かれて、まるきり疑いをさし挾まないですませることは不可能だからね。僕は段々その疑を荷重に感じ始めた。僕は表面に平静を装いながら猟犬のように、お前たちを嗅ぎ廻った。併し、真実お前たちの間に未だ何もなかったのか、それともお前たちの方が役者が一枚上であった故か、容易に僕は尻尾らしいものを掴むことが出来なかった。僕は自分ながら可笑しい程妙な焦燥に堪えられなくなった。まるで、最初からお前達の不義を待ち構えて、ただそれだけの理由で、お前たちをペテンに掛けるために計画的な結婚を敢えてしたのでもあるかのような気持にさえなった。……ところが、やがてお前の病気が重って、幸子は泊りがけで看護に行き度いと云い出した。僕は直ぐに賛成した。僕は女中の一人をスパイに使ってお前達を見張らせた。すると果せる哉、どうやらお前たちが人目をしのんで、接吻したり抱擁し合ったりしているらしい気配があると云う報告が来た。もとより、これがお前の仕組んだ芝居で、可哀相な幸子はただ死にかけたお前に対する憐憫《あわれみ》から心にもない一役を演じたに過ぎないなぞとは、知るべくもなかったのだ。僕は、自分でじかに、お前たちの不仕だらを目撃したいと思った。そこであの日は金曜日だったが、わざと誰にも知られないようにして一日早く出かけて来た。僕は先ず、お前の病室や裏庭のよく見晴らせる松林の中に入って、そこから双眼鏡で様子を窺った。折よく庭さきと縁の上とで親しそうに話し合っているお前たちの姿が映った。お前たちは、やがて何か一口二口云い合いをしたかと思うと、矢庭に幸子が走り出した。お前もあわただしくその後を追った。幸子は裏木戸を開けて、僕の隠れている松林へ向って一散に走って来た。僕は、お前たちに見つからないように素早く松林の奥深くかくれた。ところが、しばらくすると断崖の方から鋭い幸子の悲鳴が聞こえた。続いてバタバタという騒々しい足音と共にお前がひどく狼狽しながら息を切らして姿を現わすと、再び別荘の方へ走って行くのが木の間がくれに見られた。僕は直ぐに事態の容易ならぬのを察して、幸子の悲鳴のした方へ飛んで行った。すると果して、幸子は高い断崖の途中に危くぶら下っているのではないか。僕は大声で助けを呼ぼうとしたが止した。そして急いで松林を出ると、とっつきの百姓家の納屋に忍び込んで、有り合せた井戸綱を一束抱えてとって返した。僕はその綱を手近の木の根に縛りつけて、それに縋りながら、幸子のところ迄首尾よく降りることが出来たが、さて気絶した幸子の顔を見ると俄かに気が変った。――わざわざこんな不貞な妻を助けるなんて、何と云う愚なことだろう。女を殺してその姦夫を殺人罪に陥れてしまえば、それでいいではないか。旻自身が既に彼女を殺したつもりなのだからこれ程容易な話はない。ここで、彼女の生命を助けたりすることはむしろ神様の思召を無にするにも等しい。僕はそう覚悟をきめると力任せに、彼女の体を蹴とばした。彼女はパジャマの片袖を松の枝に残したまま、真逆様に白い波の砕け散っている岩の上に落ちて行った。僕はそのパジャマの袖を取って、それを崖の上に置いて、如何にもそこで幸子とお前との間に格闘でも行われたように見せかけて、その筋の発見を早めようかと思ったがなまじそんな細工をして、お前自身に第三者の介在を気付かれては却って困ると考えて、止めた。僕はそれから、綱をもとの百姓家へこっそりと返して置いて、すぐに汽車に乗って家へ帰った。停車場では降りる時も乗る時も、あらかじめ何時もの僕とは服装を更えて、黒眼鏡までかけていたので、駅員達に見咎められずに済んだ。僕は家へ帰ると、早速、幸子の名宛で別荘へ遅れる旨の電報を打った。決してアリバイにはならないけれども、稍それに紛らわしい効果を持たないでもない。そして翌日になって幸子変死の電報に接して倉皇とした風で、別荘へやって来た。ところが、お前は、殆ど意識不明な程の高熱で、呻吟していた。僕はお前が、前日縁先で、幸子と口論してその後を追ったと云う廉で、幸子殺害の容疑者として拘引されている位に考え、そうであったならば、僕はお前と幸子の関係を説明して、婉曲にお前の有罪を立証する役に立つつもりだったのだが。しかも、幸子は過失死と断定されてしまっていた。僕は少し位不細工でも、たとえばパジャマの袖を崖の縁へ置くなりして、歴然と他殺の証跡を捏造して置くべきだった。僕は少からず失望した。だが、僕はもう一度、考え直した。……瀕死の病人を殺人罪に陥れたところで、しかも彼自身がそれを明らかに意識している場合、実際のところ何の甲斐もない話ではあるまいか。それよりも、むしろ幸子の夫である僕が、彼の犯罪を悉く知っているばかりでなく、彼が不覚にも成し遂げなかった目的を、代って果してやったと、打ち明けた方が、余程効果のある趣向ではないだろうか……」
 旻は低い呻き声をあげた。
 ――兄さん、幸子さんは、ただお芝居をしただけなんだ。幸子さんは兄さんだけを、真実愛していたんだ。それを兄さんは知りもしないで……」旻は激しく咳入った。そして白い枕の上に真赤な血を吐いた。
 ――旻、僕の云い度いと思ったのは、併しそんな意味のことではないのだ。ねえ旻や……」晃一は弟の背中を、そう云いながら、やさしく撫でてやった。

     7

 それから、一週間程経って旻は死んだ。晃一は、その忌しい別荘にいることが堪えられなくなって、都へ引き上げることにした。それで晃一は、いろいろの道具の整理をした。すると旻の生前使っていた書物机の中から、一通の粗末なハトロン紙の封筒に入った手紙のようなものが出て来た。
 上書に、兄上様――旻。傍に「秘」としてあった。晃一は、それを片手にしてしばらく思いためらった。晃一はその儘火にくべてしまおうかと考えた。が結局、思い切って封を切った。
 ――兄さん。この性の悪いいたずらをゆるして下さい。兄さんがこの手紙をためらいながら封を切ったとすれば、兄さんは、本当に幸子さんや僕を愛していてくれたものと信じます。その兄さんの気持に甘えて、神かけて最後の真実をお話しします。幸子さんの愛していたのは、兄さんではなく、やっぱり僕だったのです。あの日幸子さんは、どう云うものか、ひどくヒステリックになっていて、あのきりぎしの上で僕が幸子さんを捕まえると、幸子さんは泣きながら、僕に一緒に死んでくれと云いました。
 僕は、兄さんを愛しているし、それにいくら僕が永く生きられない身だからと云って、幸子さんの気紛れな感傷につけ込んで心中なんかするのは嫌だから、断然それを拒絶したのです。すると、幸子さんはいきなり何かわめいたかと思うと、身を躍らして崖の下へ飛び込んでしまったのです。僕は、幸子さんを殺しはしなかった。幸子さんを殺したのは、兄さんです!
 では、何故僕は自分で幸子さんを殺したなぞと云い出したのかと、不思議に思うかも知れないけれど、それは只兄さんが死んだ幸子さんの思い出や、形見ばかりに綿々としている様子が、僕にはひどく哀れに思えると同時に、我慢のならない程反感を感じさせたからです。僕は兄さんの居ない世界で、幸子さんと二人で暮せるかと思うとこの上もなく幸せです。
 晃一は、マッチを摺って、その手紙に火を点じた。
 ――なる程。旻は、そんなに迄、幸子を自分のものにして置きたかったのか。旻から幸子を取り返したことは、くれぐれも自分のあやまりだった。
 晃一は、縁側へ出ると、誰もいない海の景色を見つめたまま長いこと考え込んだ。それから海に向って呼びかけた。
 ――けれども旻や、僕は、あの時の光景をはじめから見て知っているのだ。恥しいことだが、お前たちのあとをつけて行って、窺っていた僕は、すぐ傍の木影からすっかり見てしまったのだ。幸子はお前に追いつめられて断崖の縁迄出たのだが、そこでなおも執拗に追い迫るお前を避けようとしたはずみに、足を踏みすべらして、墜落したのだ。お前は驚きのあまり幸子の安否を見届けることもしないで、逃げ帰ったではないか。幸子は、あの崖の途中の突端にほんのちよっと袖を引っかけただけで、真直ぐに落ち込んでしまったのだ。お前が、彼女を殺さなかったと同様に、僕も決して彼女を殺しはしなかった。だが、とにかくこの勝負はどうやらお前の勝らしいね。……安心して眠るがいい。」



底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
   1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1928年10月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年7月25日公開
2000年8月1日修正
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