経験するというのは事実|其儘《そのまま》に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫《ごう》も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那《せつな》、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明《あきらか》に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已《すで》に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡《すべ》ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。記憶においても、過去の意識が直《ただち》に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである(James, The Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII)。その外いわゆる意識の縁暈《えんうん》 fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて見ると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである(James, A World of Pure Experience)。しからば情意の現象は如何《いかん》というに、快、不快の感情が現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。
さて、かく我々に直接であって、凡ての精神現象の原因である純粋経験とは如何なる者であるか、これより少しくその性質を考えて見よう。先ず純粋経験は単純であるか、はた複雑であるかの問題が起ってくる。直下の純粋経験であっても、これが過去の経験の構成せられた者であるとか、また後にてこれを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ(Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45)。これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。次にかかる純粋経験の綜合は何処まで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀《よ》ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい(Stout, Manual of Psychology, p. 252)。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起《じゃっき》しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。
純粋経験の直接にして純粋なる所以《ゆえん》は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。しかしいかに精細に分化しても、何処までもその根本的なる体系の形を失うことはない。我々に直接なる具体的意識はいつでもこの形において現われるものである。瞬間的知覚の如き者でも決してこの形に背くことはない。たとえば一目して物の全体を知覚すると思う場合でも、仔細に研究すれば、眼の運動と共に注意は自ら推移して、その全体を知るに至るのである。かく意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚地を失わぬのである。この点は知覚的経験においても、表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展する時は、全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったという如きは、その一例である。或は知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいえないように思われるかも知れない。しかし、知覚的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いていなければならぬ。注意はこれに由りて導かれるのである。またこれに反し、表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ、たとえば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。元来、経験に内外の別あるのではない、これをして純粋ならしむる者はその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。また表象だけであった時には、夢においてのように全く知覚と混同せられるのである。感覚がいつでも経験であると思われるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であろう。
今なお少しく精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するのである。意識においては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来《きた》り、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用が働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといわねばならぬ。純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活溌なる状態である。勿論選択的意志より見ればかくの如く衝動的意志によりて支配せられるのはかえって意志の束縛であるかも知れぬが、選択的意志とは已に意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在における現在の活動にあるのである。元来、意志に伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用である。而してこの統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、この統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, §54)。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験|其者《そのもの》の差別より起るので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。要するに経験の意味とか判断とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない。意味或は判断の中に現われたる者は原経験より抽象せられたるその一部であって、その内容においてはかえってこれよりも貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であった者が後に意識せられるような事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであって、意味や判断によりて前に無かった者が加えられたのではない。
純粋経験はかく自ら差別相を具えた者とすれば、これに加えられる意味或は判断というのは如何なる者であろうか、またこれと純粋経験との関係は如何であろう。普通では純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすという。しかし純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起るのである。即ちこれを大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づくのである。意味とか判断とかいうのは現在意識と他との関係を示す者で、即ち意識系統の中における現在意識の位置を現わすに過ぎない。例えば或聴覚についてこれを鐘声と判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。しかしこの統一、不統一ということも、よく考えて見ると畢竟《ひっきょう》程度の差である、全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろう。凡ての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の意識の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。ヴントのいったように、凡ての判断は複雑なる表象の分析によりて起るのである(Wundt, Logik, Bd. I, Abs. III, Kap. 1)。また判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となるのである、たとえば技芸を習う場合に、始は意識的であった事もこれに熟するに従って無意識となるのである。更に一歩進んで考えて見れば、純粋経験とその意味または判断とは意識の両面を現わす者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面において統一性を有すると共に、また一方には分化発展の方面がなければならぬ。しかもジェームスが「意識の流」において説明したように、意識はその現われたる処についているのではなく、含蓄的に他と関係をもっている。現在はいつでも大なる体系の一部と見ることが出来る。いわゆる分化発展なる者は更に大なる統一の作用である。
かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶において過去と関係し意志において未来と関係する時、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。心理学者は意識は物でなく事件である、されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。しかし余はかかる考は純粋経験説の立脚地より見たのではなく、かえって過去は再び還《かえ》らず、未来は未だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働く時、我々はこれを一つの者と見なければならぬように、たといその統一作用が時間上には切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。
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第二章 思 惟
思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。その最も単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである。たとえば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断において主客両表象の結合は、実にこれによりてできるのである。勿論いつでも全き表象が先ず現われて、これより分析が始まるというのではない。先ず主語表象があって、これより一定の方向において種々の聯想《れんそう》を起し、選択の後その一に決定する場合もある。しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、先ず主客両表象を含む全き表象が現われて来なければならぬ。つまりこの表象が始から含蓄的に働いていたのが、現実となる所において判断を得るのである。かく判断の本には純粋経験がなければならぬということは、啻《ただ》に事実に対する判断の場合のみではなく、純理的判断というような者においても同様である。たとえば幾何学の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいている。たとい抽象的概念であっても、二つの者を比較し判断するにはその本において統一的或者の経験がなければならぬ。いわゆる思惟の必然性というのはこれより出でくるのである。故に若し前にいったように知覚の如き者のみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断の本にも純粋経験の事実があるということができるのである。また推論の結果として生ずる判断について見ても、ロックが論証的知識においても一歩一歩に直覚的証明がなければならぬといったように(Locke, An Essay concerning Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判断の本にはいつも純粋経験の事実がなければならぬ。種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、凡《すべ》ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則の如きも一種の内面的直覚である)。たとえば種々の観察より推して地球が動いていなければならぬというのも、つまり一種の直覚に基づける論理法に由りて判断するのである。
従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。しかし今凡ての独断を棄てて直接に考え、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う。知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮質の刺戟に基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない。しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に区別ができるかというに、そは頗《すこぶ》る困難である、つまり強度の差とかその外種々の関係の異なるより来るので、絶対的区別はないのである(夢、幻覚等において我々はしばしば心像を知覚と混同することがある)。原始的意識にかかる区別があったのではなく、ただ種々の関係より区別せられるようになったのであろう。また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑なる過程であるように見えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用である。思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である。或統一者の発展と見ることができる。
かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから、余はこれより少しくこれらの点について論じて見ようと思う。普通には知覚的経験の如きは所動的で、その作用が凡て無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用が凡て意識的であると考えられている。しかしかように明《あきらか》なる区別はどこにあるであろうか。思惟であっても、そが自由に活動し発展する時には殆ど無意識的注意の下において行われるのである、意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合である。思惟を進行せしむる者は我々の随意作用ではない、思惟は己《おのれ》自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象即ち問題に純一となった時、更に適当にいえば自己をその中に没した時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。勿論《もちろん》思惟においては知覚の場合よりも統一が寛《ゆるやか》であり、その推移が意識的であるように思われるので、前にこれを以てその特徴として置いたが、厳密に考えて見るとこの区別も相対的であって、思惟においても一表象より一表象に推移する瞬間においては無意識である、統一作用が現実に働きつつある間は無意識でなければならぬ。これを対象として意識する時には、已《すで》にその作用は過去に属するのである。かく思惟の統一作用は全然意志の外にあるのであるが、ただ我々が或問題について考える時、種々の方向があってその取捨が自由であるように思われるのである。しかしかかる現象は知覚の場合にもないのではない。少しく複雑なる知覚においては如何に注意を向けるかは自由である、たとえば一幀の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる。その外、知覚では我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいうが、内外の区別というも要するに相対的にすぎぬ、ただ思惟の材料たる心像は比較的変動し易く自由であるからかく見えるのである。
次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者全然その類を異にする者のように考えられている。しかし純粋に抽象的関係というような者は我々はこれを意識することはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を藉《か》りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。たとえば三角形の総《す》べての角の和は二直角であるということを証明するにも、或特殊なる三角形の心像に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、これに伴う一現象である。ゴール Gore は、心像とその意味との関係は刺戟とその反応との関係と同一であると説いている(Dewey, Studies in Logical Theory)。思惟は心像に対する意識の反応であって、而《しか》してまた心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別物ではない。いかなる心像であっても決して独立ではない、必ず全意識と何らかの関係において現われる、而してこの方面が思惟における関係の意識である、純粋なる思惟と思われる者も、ただこの方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との関係を右の如く考えた所で、知覚においてはかくの如き思惟的方面がないかというに、決してそうではない。凡ての意識現象のように知覚も一の体系的作用である、知覚においてはその反応はかえって顕著であって意志となり動作となって現われるのであるが、心像においては単に思惟として内面的関係に止まるのである。されば事実上の意識には知覚と心像との区別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事実の意識である、而して知覚と心像との別も前にいったように厳密なる純粋経験の立脚地よりしては、どこまでも区別することはできないのである。
以上は心理学上より見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして客観的意味を有《も》っている、思惟の本領とする所は真理を現わすにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄《しんもう》ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる。これらの点を明にするにはいわゆる客観、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考えて見ると、純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う。前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有っている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。この考より見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反した時が誤ったのである。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。しかし余は知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事は後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲を強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。
これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている点も、深く考えて見ると一致の点を見出し得ることを述べたのであるが、今少しく思惟の起源および帰趨《きすう》について論じ、更に右二者の関係を明にしようと思う。我々の意識の原始的状態または発達せる意識でもその直接の状態は、いつでも純粋経験の状態であることは誰しも許す所であろう。反省的思惟の作用は次位的にこれより生じた者である。しからば何故に此《かく》の如き作用が生ずるのであるかというに、前にいったように意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、しかもその発展の行路において種々なる体系の矛盾衝突が起ってくる、反省的思惟はこの場合に現われるのである。しかし一面より見て斯《かく》の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直《ただち》に一層大なる体系的発展の端緒である。換言すれば大なる統一の未完の状態ともいうべき者である。たとえば行為においてもまた知識においても、我々の経験が複雑となり種々の聯想が現われ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。この矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味しているのであって、決意或は解決の時已に大なる統一の端緒が成立するのである。しかし我々は決して単に決意または解決という如き内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現われねばならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。たとえば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである。それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった内容も形式も有っておらぬ、ただその深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば真の純粋経験とは単に所動的ではなく、かえって構成的で一般的方面を有っている、即ち思惟を含んでいるといってよい。
純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、かえってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟であるといってもよい。具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは普通にいうように類似の性質を抽象した者ではない、具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといっている(Hegel, Wissenschaft der Logik, III, S. 37)。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性その者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は聯想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いている。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前にいったようにその統一自身は無意識である。ただ統一が抽象せられ、対象化せられた時、別の意識となって現われる、しかしこの時は已に統一の作用を失っているのである。純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことはかえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。
我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、経験に由りて個体的なる者を知ると思うている。しかし個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発展せしむる力である、たとえば植物の種子の如き者である。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、かかる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、これと同列にあるのである、たとえば、色ある三角形について、三角形より見れば色は特殊であるであろうが、色より見れば三角は特殊である。かくの如き抽象的で無力なる一般ならば推理や綜合の本となることはできぬ。それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なっているのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。個体と一般との関係を斯《かく》の如く考えると、論理的にも思惟と経験との差別がなくなってくる。我々が現在の個体的経験といっている者も、その実は発展の途中にある者と見ることができる、即ちなお精細に限定せらるべき潜勢力を有っているのである。たとえば我々の感覚の如き者でもなお分化発展の余地があるのであろう、この点より見てなお一般的となすこともできる。これに反し一般的の者でも、発展をその処にかぎって見れば、個体的ということもできるであろう。普通には空間時間の上において限定せられた者をのみ個体的と称えている、しかしかかる限定は単に外面的である、真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、普通に感覚或は知覚といっているような者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的といいうるであろう。凡て空間時間の上より限定せられた単に物質的なる者を以て、個体的となすのはその根柢において唯物論的独断があるであろうと思う。純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべきものである。時間空間という如き者もかかる内容に基づいてこれを統一する一つの形式にすぎないのである。或はまた感覚的印象の強く明なることと、その情意と密接の関係をもつことなどがこれを個体的と思わしめる一原因でもあろうが、いわゆる思想の如きも決して情意に関係がないのではない。強く情意を動かす者が特に個体的と考えられるのは、情意は知識に比して我々の目的その者であり、発展の極致に近いからであると思う。
これを要するに思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思う。しかし余はこれが為に思惟は単に個人的で主観的であるというのではない、前にもいったように純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいえば甚だ異様に聞えるであろうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。
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第三章 意 志
余は今純粋経験の立脚地より意志の性質を論じ、知と意との関係を明《あきらか》にしようと思う。意志は多くの場合において動作を目的としまたこれを伴うのであるが、意志は精神現象であって外界の動作とは自ら別物である。動作は必ずしも意志の要件ではない、或外界の事情のため動作が起らなかったにしても、意志は意志であったのである。心理学者のいうように、我々が運動を意志するにはただ過去の記憶を想起すれば足りる、即ちこれに注意を向けさえすればよい、運動は自らこれに伴うのである、而《しか》してこの運動その者も純粋経験より見れば運動感覚の連続にすぎない。凡《すべ》て意志の目的という者も直接にこれを見れば、やはり意識内の事実である、我々はいつでも自己の状態を意志するのである、意志には内面的と外面的との区別はないのである。
意志といえば何か特別なる力があるように思われているが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。勿論注意の状態は意志の場合に限った訳ではなく、その範囲が広いようであるが、普通に意志というのは運動表象の体系に対する注意の状態である、換言すればこの体系が意識を占領し、我々がこれに純一となった場合をいうのである。或は単に一表象に注意するのとこれを意志の目的として見るのと違うように思うでもあろうが、そはその表象の属する体系の差異である。凡て意識は体系的であって、表象も決して孤独では起らない、必ず何かの体系に属している。同一の表象であっても、その属する体系に由りて知識的対象ともなりまた意志の目的ともなるのである。たとえば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と聯想する時は知識的対象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といったように、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。その特徴たる強き感情と緊張の感覚とは、前者は運動表象の体系が我々に取りて最も強き生活本能に基づくのと、後者は運動に伴う筋覚に外ならぬのである。また単に運動を想起するのみではまだ直《ただち》にこれを意志するとまでいうことはできぬようであるが、そは未だ運動表象が全意識を占領せぬ故である、真にこれに純一となれば直に意志の決行となるのである。
然らば運動表象の体系と知識表象の体系と如何なる差異があるであろうか。意識発達の始に遡《さかのぼ》りて見るとかくの如き区別があるのではない、我々の有機体は元来生命保存のために種々の運動をなすように作られている、意識はかくの如き本能的動作に副うて発生するので、知覚的なるよりもむしろ衝動的なるのがその原始的状態である。然るに経験の積むに従い種々の聯想ができるので、遂に知覚中枢を本とするのと運動中枢を本とするのと両種の体系ができるようになる。しかしいかに両体系が分化したといっても、全然別種の者となるのではない、純知識であっても何処かに実践的意味を有《も》っており、純意志であっても何らかの知識に基づいている。具象的精神現象は必ず両方面を具えている、知識と意志とは同一現象をその著しき方面に由りて区別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である。しかのみならず、記憶表象の純知識的なる者であっても、必ず多少の実践的意味を有っておらぬことはない、これに反し偶然に起るように思われる意志であっても、何かの刺戟に基づいているのである。また意志は多く内より目的を以て進行するというが、知覚であっても予《あらかじ》め目的を定めてこれに感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは尽《ことごと》く有意的であるといってもよい。これに反し衝動的意志の如き者は全く受動的である。右の如く考えて見ると、運動表象と知識表象とは全く類を異にせるものではなく、意志と知識との区別も単に相対的であるといわねばならぬようになる。意志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、その程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うている。知識も主観的に見れば、内面的潜勢力の発展とも見ることができる、かつていったように、意志も知識も潜在的或者の体系的発展と見做《みな》すことができるのである。勿論《もちろん》主観と客観とを分けて考えて見れば、知識においては我々は主観を客観に従えるが、意志においては客観を主観に従えるという区別もあるであろう。これを詳論するには主客の性質および関係を明にする必要もあるであろうが、余はこの点においても知と意との間に共通の点があるのであろうと思う。知識的作用においては、我々は予め一の仮定を抱きこれを事実に照らして見るのである、いかに経験的研究であっても必ず先ず仮定を有っていなければならぬ、而してこの仮定がいわゆる客観と一致する時、これを真理と信ずるのである、即ち真理を知り得たのである。意志的動作においても、我は一の欲求を有っていても、直にこれが意志の決行となるのではない、これを客観的事実に鑒《かんが》み、その適当にして可能なるを知った時、始めて実行に移るのである。前者において我々は全然主観を客観に従えるが、後者においては客観を主観に従えるということができるであろうか。欲求は能《よ》く客観と一致することに因りてのみ実現することができる、意志は客観より遠ざかれば遠ざかる程無効となり、これに近づけば近づくほど有効となるのである。我々が現実と離れた高き目的を実行しようと思う場合には種々の手段を考え、これに因りて一歩一歩と進まねばならぬ、而してかく手段を考えるのは即ち客観に調和を求めるのである、これに従うのである、若し到底その手段を見出すことができぬならば、目的その者を変更するより外はなかろう。これに反し目的が極めて現実に近かった時には、飲食起臥の習慣的行為の如く、欲求は直に実行となるのである、かかる場合には主観より働くのではなく、かえって客観より働くとも見らるるのである。
かく意志において全然客観を主観に従えるといえないように、知識において主観を客観に従えるとはいわれぬ。自己の思想が客観的真理となった時、即ちそが実在の法則であって実在はこれに由りて動くことを知った時、我は我理想を実現し得たということができぬであろうか。思惟も一種の統覚作用であって、知識的要求に基づく内面的意志である。我々が思惟の目的を達し得たのは一種の意志実現ではなかろうか。ただ両者の異なるのは、一は自己の理想に従うて客観的事実を変更し、一は客観的事実に従うて自己の理想を変更するにあるのである。即ち一は作為し一は見出すといってよかろう、真理は我々の作為すべき者ではなく、かえってこれに従うて思惟すべき者であるというのである。しかし我々が真理といっている者は果して全く主観を離れて存する者であろうか。純粋経験の立脚地より見れば、主観を離れた客観という者はない。真理とは我々の経験的事実を統一した者である、最も有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。真理を知るとかこれに従うとかいうのは、自己の経験を統一する謂《いい》である、小なる統一より大なる統一にすすむのである。而して我々の真正な自己はこの統一作用その者であるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである。大なる自己の実現である(ヘーゲルのいったように、凡ての学問の目的は、精神が天地間の万物において己《おのれ》自身を知るにあるのである)。知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる、これまで非自己であった者も自己の体系の中に入ってくるようになる。我々はいつでも個人的要求を中心として考えるから、知識において所動的であるように感ぜられるのであるが、若しこの意識的中心を変じてこれをいわゆる理性的要求に置くならば、我々は知識においても能動的となるのである。スピノーザのいったように知は力である。我々は常に過去の運動表象の喚起に由りて自由に身体を動かし得ると信じている。しかし我々の身体も物体である、この点より見ては他の物体と変りはない。視覚にて外物の変化を知るのも、筋覚にて自己の身体の運動を感ずるのも同一である、外界といえば両者共に外界である。しかるに何故に他物とは違って、自己の身体だけは自己が自由に支配することができると考え得るのであろうか。我々は普通に運動表象をば、一方において我々の心像であると共に一方において外界の運動を起す原因となると考えているが、純粋経験の立脚地より見れば、運動表象に由りて身体の運動を起すというも、或予期的運動表象に直に運動感覚を伴うというにすぎない、この点においては凡て予期せられた外界の変化が実現せられるのと同一である。実際、原始的意識の状態では自己の身体の運動と外物の運動とは同一であったであろうと思う、ただ経験の進むにつれてこの二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の変化と見られ、予期的表象にすぐに従う者が自己の運動と考えられるようになったのである。しかし固《もと》よりこの区別は絶対的でないのであるから、自己の運動であっても少しく複雑なる者は予期的表象に直に従うことはできぬ、この場合においては意志の作用は著しく知識の作用に近づいてくるのである。要するに、外界の変化といっている者も、その実は我々の意識界即ち純粋経験内の変化であり、また約束の有無ということも程度の差であるとすれば、知識的実現と意志的実現とは畢竟《ひっきょう》同一性質の者となってくる。或は意志的運動においては予期的表象は単にこれに先だつのでなく、其者《そのもの》が直に運動の原因となるのであるが、外界の変化においては知識的なる予期表象其者が変化の原因となるのではないというかも知れぬが、元来、因果とは意識現象の不変的連続である、仮に意識を離れて全然独立の外界なる者があるとするならば、意志においても意識的なる予期表象が直に外界における運動の原因とはいわれまい、単に両現象が平行するというまででなければならぬ。かく見れば意志的予期表象の運動に対する関係は知識的予期表象の外界に対する関係と同一になる。実際、意志的予期表象と身体の運動とは必ずしも相伴うのではない、やはり或約束の下に伴うのである。
また我々は普通に意志は自由であるといっている。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。而してこの意味においての自由は単に意識の体系的発展と同意義であって、知識においても同一の場合には自由であるということができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるという迄である、実際の欲求はその時に与えられるのである、或一の動機が発展する場合には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するかこれを予知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機が即ち我である。普通には欲求の外に超然たる自己があって自由に動機を決定するようにいうのであるが、斯《かく》の如き神秘力のないのはいうまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であって、自由の決定とは思われぬのである。
上来論じ来《きた》ったように、意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、そのいわゆる区別とは多く外より与えられた独断にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極致が真理であり兼ねてまた実行であるのである。かつていった知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分れておらぬ、真に知即行である。ただ意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝突の為、一方より見れば更に大なる統一に進む為、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分れてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に来るのが知であるというような考も出てくる。知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想も共に理想が事実と離れた不統一の状態である。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である、いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう。この点より見れば事実に合うた実現し得べき欲求と同一といってよい、ただ前者は一般的で、後者は個人的なるの差があるのである。それで意志の実現とか真理の極致とかいうのはこの不統一の状態から純粋経験の統一の状態に達するの謂である。意志の実現をかく考えるのは明であるが、真理をもかく考えるには多少の説明を要するであろう。如何なる者が真理であるかというについては種々の議論もあるであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思う。往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかる者はかえって真理と遠ざかったものである。真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実その者でなければならぬ。この事実が凡ての真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられた者である。真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない、真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。
凡て真理の標準は外にあるのではなく、かえって我々の純粋経験の状態にあるのである、真理を知るというのはこの状態に一致するのである。数学などのような抽象的学問といわれている者でも、その基礎たる原理は我々の直覚即ち直接経験にあるのである。経験には種々の階級がある、かつていったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、数学的直覚の如き者も一種の経験である。かく種々の直接経験があるならば、何に由りてその真偽を定むるかの疑も起るであろうが、そは二つの経験が第三の経験の中に包容せられた時、この経験に由りてこれを決することができる。とにかく直接経験の状態において、主客相没し、天地唯一の現実、疑わんと欲して疑う能わざる処に真理の確信があるのである。一方において意志の活動ということを考えて見るとやはり此《かく》の如き直接経験の現前即ち意識統一の成立をいうにすぎぬ。一の欲求の現前は単に表象の現前と同じく直接経験の事実である。種々の欲求の争の後一つの決断ができたのは、種々思慮の後一の判断ができたように、一の内面約統一が成立したのである。意志が外界に実現されたという時は、学問上自己の考が実験に由りて証明せられた場合のように、主客の別を打破した最も統一せる直接経験の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、外界との統一は自然に従わねばならぬというが、内界の統一であっても自由ではない、統一は凡て我々に与えられる者である、純粋経験より見れば内外などの区別も相対的である。意志の活動とは単に希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であって、かえって意志の実現が妨げられた場合である、ただ意識統一が意志活動の状態である。たとい現実が自己の真実の希望に反していても、現実に満足しこれに純一なる時は、現実が意志の実現である。これに反し、いかに完備した境遇であっても、他に種々の希望があって現実が不統一の状態であった時には、意志が妨げられているのである。意志の活動と否とは純一と不純一、即ち統一と不統一とに関するのである。
例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。これについて種々の聯想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる。これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起る。この聯想がなお前意識の縁暈《えんうん》としてこれに附属している時は知識であるが、この聯想的意識|其者《そのもの》が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの聯想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである。何でも現実における意識体系の発展する状態を意志の作用というのである。思惟の場合でも、或問題に注意を集中してこれが解決を求むる所は意志である。これに反し茶をのみ酒をのむというようなことでも、これだけの現実ならば意志であるが、その味をためすという意識が出て来てこれが中心となるならば知識となる、而してこのためすという意識其者がこの場合において意志である。意志というのは普通の知識という者よりも一層根本的なる意識体系であって統一の中心となる者である。知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位に由りて定まってくるのであると思う。
理性と欲求とは一見相衝突するようであるが、その実は両者同一の性質を有し、ただ大小深浅の差あるのみであると思う。我々が理性の要求といっている者は更に大なる統一の要求である、即ち個人を超越せる一般的意識体系の要求であって、かえって大なる超個人的意志の発現とも見ることができる。意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、個人とは意識の中の一小体系にすぎない。我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である。たとえば熱心なる宗教家、学者、美術家の如き者である。「かくなければならぬ」という理性の法則と、単に「余はかく欲する」という意志の傾向とは全く相異なって見えるが、深く考えて見るとその根柢を同じうする者であると思う。凡て理性とか法則とかいっている者の根本には意志の統一作用が働いている、シラーなどが論じているように、公理 axiom というような者でも元来実用上より発達した者であって、その発生の方法においては単なる我々の希望と異なっておらぬ(Sturt, Personal Idealism, p. 92)。翻《ひるがえ》って我々の意志の傾向を見るに、無法則のようではあるが、自ら必然の法則に支配せられているのである(個人的意識の統一である)。右の二者は共に意識体系の発展の法則であって、ただその効力の範囲を異にするのみである。また或は意志は盲目であるというので理性と区別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事実であるものは説明できぬ、理性であってもその根本である直覚的原理の説明はできぬ。説明とは一の体系の中に他を包容し得るの謂である。統一の中軸となる者は説明はできぬ、とにかくその場合は盲目である。
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合理説は他律的倫理学に比すれば更に一歩をすすめて、人性自然の中より善を説明せんとする者である。しかし単に形式的理性を本としては、前にいったように、到底何故に善をなさざるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこで我々が深く自己の中に反省して見ると、意志は凡《すべ》て苦楽の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすべからざる事実である。我々が表面上全く快楽の為にせざる行為、たとえば身を殺して仁をなすという如き場合にても、その裏面について探って見ると、やはり一種の快楽を求めているのである。意志の目的は畢竟《ひっきょう》快楽の外になく、我々が快楽を以て人生の目的となすということは更に説明を要しない自明の真理である。それで快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理に由りて説明せんとする倫理学説の起るのは自然の勢である。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。
利己的快楽説とは自己の快楽を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の為にするという場合においても、その実は自己の快楽を求めているのであると考え、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなすのである。この説の完全なる代表者は希臘《ギリシャ》におけるキレーネ学派とエピクロースとである。アリスチッポスは肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽でも凡て同一の快楽である、ただ大なる快楽が善であると考えた。而《しか》して氏は凡て積極的快楽を尚《とうと》び、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といわねばならぬ。エピクロースはやはり凡ての快楽を以て同一となし、快楽が唯一の善で、如何なる快楽も苦痛の結果を生ぜざる以上は、排斥すべきものにあらずと考えたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽を重しとし、積極的快楽よりもむしろ消極的快楽、即ち苦悩なき状態を尚んだ。氏の最大の善というのは心の平和 tranquility of mind ということである。しかし氏の根本主義はどこまでも利己的快楽説であって、希臘人のいわゆる四つの主徳、睿知《えいち》、節制、勇気、正義という如き者も自己の快楽の手段として必要であるのである。正義ということも、正義|其者《そのもの》が価値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享《う》ける手段として必要なのである。この主義は氏の社会的生活に関する意見において最も明《あきらか》である。社会は自己の利益を得る為に必要なのである。国家は単に個人の安全を謀る為に存在するのである。もし社会的煩累を避けて而も充分なる安全を得ることができるならば、こは大に望むべき所である。氏の主義はむしろ隠遁主義 λαθε βιωσασ[#「λαθε」の「α」と「βιωσασ」の「ω」は鋭アクセント(´)付き。「βιωσασ」の語尾の「σ」はファイナルシグマ] である。氏はこれに由りて、なるべく家族生活をも避けんとした。
次に公衆的快楽説、即ちいわゆる功利説について述べよう。この説は根本的主義においては全く前説と同一であるが、ただ個人の快楽を以て最上の善となさず、社会公衆の快楽を以て最上の善となす点において前説と異なっている。この説の完全なる代表者はベンザムである。氏に従えば人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。而していかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留針押しの遊の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、ただ大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の価値は直覚論者のいうようにその者に価値があるのではなく、全くこれより生ずる結果に由りて定まるのである。即ち大なる快楽を生ずる行為が善行である。而して如何なる行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽と考えねばならぬから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であるといっている。またベンザムはこの快楽説に由りて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得る者であって、たとえば強度、長短、確実、不確実等の標準に由りて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能《よ》く辻褄《つじつま》の合った者であるが、ただ一つ何故に個人の最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快楽にはこれを感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。而してこの感ずる主というのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快楽説の原則よりして何故に個人の快楽よりも多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情というものがあるから己《おのれ》独り楽むよりは、人と共に楽んだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミルなどはこの点に注目している。しかしこの場合においても、この同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのである。もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何《いかん》。快楽説の立脚地よりしては、それでも自己の快楽をすてて他人の快楽を求めねばならぬということができるであろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、かえって快楽説の必然なる結果であろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかる事は到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う。
これまで一通り快楽説の主なる点をのべたので、これよりその批評に移ろう。先ず快楽説の根本的仮定たる快楽は人生唯一の目的であるということを承認した処で、果して快楽説に由りて充分なる行為の規範を与うることができるであろうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽は如何なる快楽でも皆同種であって、ただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽に色々の性質的差別があって、これに由りて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。即ち快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快楽に色々性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じく経験し得る人は容易にこれを定めうると考えている。たとえば豕《ぶた》となりて満足するよりはソクラテースとなって不満足なることは誰も望む所である。而してこれらの差別は人間の品位の感 sense of dignity より来《きた》るものと考えている。しかしミルの如き考は明に快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説よりいえば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尚き者であるという事は許されない。さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であってただ数量的に異なるものとして、如何にして快楽の数量的関係を定め、これに由りて行為の価値を定めることができるであろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識に由りて弁別ができるといっているだけで、明瞭なる標準を与えてはおらぬ。独りベンザムは上にいったようにこの標準を詳論している。併し快楽の感情なる者は一人の人においても、時と場合とに由りて非常に変化し易い物である、一の快楽より他の快楽が強度において勝るかは頗《すこぶ》る明瞭でない。更に如何ほどの強度が如何ほどの継続に相当するかを定むるのは極めて困難である。一人の人においてすらかく快楽の尺度を定むるのは困難であって見れば公衆的快楽説のように他人の快楽をも計算して快楽の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、富より名誉が大切で、己一人の快楽より多人数の快楽が尚いなどと、伝説的に快楽の価値が定まっているようであるが、かかる標準は種々なる方面の観察よりできたもので、決して単純なる快楽の大小より定まったものとは思われない。
右は快楽説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快楽説に由りて我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めてこの説の根本的原理について考究して見よう。凡て人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとはこの説の根本的仮定であって、またすべての人のいう所であるが、少しく考えて見ると、その決して真理でないことが明である。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的または理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。たとえば己の欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行せねばならぬというような考は誰の胸裡《きょうり》にも多少は潜みおるのである。時あってこれらの動機が非常なる力を現わし来り、人をして思わず悲惨なる犠牲的行為を敢《あえ》てせしむることも少くない。快楽論者のいうように人間が全然自己の快楽を求めているというのは頗《すこぶ》る穿《うが》ち得たる真理のようであるが、かえって事実に遠ざかったものである。勿論快楽論者もこれらの事実を認めないのではないが、人間がこれらの欲望を有しこれが為に犠牲的行為を敢てするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快楽を求むるにすぎないと考えているのである。しかしいかなる人もまたいかなる場合でも欲求の満足を求めているということは事実であるが、欲求の満足を求むる者が即ち快楽を求むる者であるとはいわれない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行し得た時には、必ず満足の感情を伴うのである。而してこの感情は一種の快楽には相違ないが、これが為にこの快感が始より行為の目的であったとはいわれまい。かくの如き満足の快感なる者が起るには、先ず我々に自然の欲求という者がなければならぬ。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生ずるのである。然るにこの快感あるが為に、欲求は凡て快楽を目的としているというのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に他愛の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。しかしこれが為に自己の快楽の為に他を愛したのだとはいわれない。毫釐《ごうり》にても自己の快楽の為にするという考があったならば、決して他愛より来る満足の感情をうることができないのである。啻《ただ》に他愛の欲求ばかりではなく、全く自愛的欲求といわれている者も単に快楽を目的としている者はない。たとえば食色の欲も快楽を目的とするというよりは、かえって一種先天的本能の必然に駆られて起るものである。飢えたる者はかえって食欲のあるを悲み、失恋の人はかえって愛情あるを怨《うら》むであろう。人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだ者はなかろう。むしろ凡て人間の欲求を断ち去った方がかえって快楽を求むるの途である。エピクロースが凡ての欲を脱したる状態、即ち心の平静を以て最上の快楽となし、かえって正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのもこの故である。
しかし或快楽論者では、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思うている者でも、個人の一生または生物進化の経過において、習慣に由りて第二の天性となったので、元は意識的に快楽を求めた者が無意識となったのであると論じている。即ち快楽を目的とせざる自然の欲求というのは、つまり快楽を得る手段であったのが、習慣に由って目的其者となったというのである(ミルなどはこれについてよく金銭の例を引いている)。成程我々の欲求の中には此《かく》の如き心理的作用に由って第二の天性となった者もあるであろう。しかし快楽を目的とせざる欲求は尽《ことごと》くかかる過程に由りて生じたものとはいわれない。我々の精神はその身体と同じく生れながらにして活動的である。種々の本能をもっている。鶏の子が生れながら籾《もみ》を拾い、鶩《あひる》の子が生れながら水に入るのも同理である。これらの本能と称すべき者が果して遺伝に由って、元来意識的であった者が無意識的習慣となったのであろうか。今日の生物進化の説に由れば、生物の本能は決してかかる過程に由って出来たものではない。元来生物の卵において具有した能力であって、事情に適する者が生存して遂に一種特有なる本能を発揮するに至ったのである。
上来論じ来ったように、快楽説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたる者であるが、この説に由れば善悪の判別は単に苦楽の感情に由りて定めらるることとなり、正確なる客観的標準を与うることができず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。しかのみならず、快楽を以て人生の唯一の目的となすのは未だ真に人性自然の事実に合ったものといわれない。我々は決して快楽に由りて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならばかえって人性に悖《もと》った人である。
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神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直《ただち》にこの実在の根柢と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestation である。外は日月|星辰《せいしん》の運行より内は人心の機微に至るまで悉《ことごと》く神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢において一々神の霊光を拝することができるのである。
ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたというように我々は自然の現象を研究すればする程、その背後に一つの統一力が支配しているのを知ることができる。学問の進歩とはかくの如き知識の統一をいうにすぎないのである。かく外は自然の根柢において一つの統一力の支配を認むるように、内は人心の根柢においても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状万態殆ど定法なきが如くに見ゆるも、これを達観する時は古今に通じ東西に亙《わた》りて偉大なる統一力が支配しているようである。更に進んで考える時は、自然と精神とは全然没交渉の者ではない、彼此《ひし》密接の関係がある。我々はこの二者の統一を考えずには居られない、即ちこの二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。哲学も科学も皆この統一を認めない者はないのである。而《しか》してこの統一が即ち神である。勿論唯物論者や一般の科学者のいうように、物体が唯一の実在であって万物は単に物力の法則に従うものならば神というようなものを考えることはできぬであろう。しかし実在の真相は果してかくの如き者であろうか。
余が前に実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。物理学者のいうような、すべて我々の個人の性を除去したる純物質という如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。具体的事実に近づけば近づくほど個人的となる。最も具体的なる事実は最も個人的なる者である。この故に原始的説明は神話においてのように凡《すべ》て擬人的であったが、純知識の進むに従い益々一般的となり抽象的となり遂に純物質という如き概念を生ずるに至ったのである。しかしかくの如き説明は極めて外面的で浅薄なると共に、かかる説明の背後にも我々の主観的統一なる者の潜んでいることを忘れてはならぬ。最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰《ひやく》はこの自己にあるのである。物体に由りて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒《てんとう》した者といわねばならぬ。
ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉にすぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総《す》べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粋経験に加えたる独断にすぎない)。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずるのである。ロイスも「自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されている」といっている(Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV)。それで自然界の統一というのも畢竟《ひっきょう》意識統一の一種にすぎないということになる。元来精神と自然と二種の実在があるのではない、この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。直接経験の事実においては主客の対立なく、精神物体の区別なく、物即心、心即物、ただ一箇の現実あるのみである。ただかくの如き実在の体系の衝突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。換言すれば知覚の連続においては主客の別はない、ただこの対立は反省に由って起ってくるのである。実在体系の衝突の時、その統一作用の方面が精神と考えられ、これが対象としてこれに対抗する方面が自然と考えられるのである。しかしいわゆる客観的自然もその実主観的統一を離れて存することはできず、主観的統一というも統一の対象即ち内容なき統一のある筈はない。両者共に同一種の実在であってただその統一の形を異にするのである。且つかくいずれか一方に偏せるものは抽象的で不完全なる実在である。かかる実在は両者の合一において始めて完全なる具体的実在となるのである。精神と自然との統一というものは二種の体系を統一するのではない、元来同一の統一の下にあるのである。
かく実在に精神と自然との別なく、従うて二種の統一あることなく、ただ同一なる直接経験の事実その物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいった実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。然るにすべて我々の意識現象は体系をなした者である。超個人的統一に由りて成れるいわゆる自然現象といえどもこの形式を離れることはできぬ。統一的或者の自己発展というのが凡ての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の目的観念に由り統一せられ、凡てがこの統一的観念の表現と看做《みな》される如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由らぬものはない。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。
然らばかくの如き意味において宇宙の統一者であり実在の根柢たる神とは如何なる者であろうか。精神を支配する者は精神の法則でなければならぬ。物質という如き者は上にいったように、説明の為に設けられたる最も浅薄なる抽象的概念に過ぎない。精神現象とはいわゆる知情意の作用であって、これを支配する者はまた知情意の法則でなければならぬ。而して精神は単にこれらの作用の集合ではなく、その背後に一の統一力があって、これらの現象はその発現である。今この統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根柢たる一大人格であるといわねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的発現ということとなるのである。しかしかくいうも余は或一派の人々の考うるように、神は宇宙の外に超越し、宇宙の進行を離れて別に特殊なる思想、意志を有する我々の主観的精神の如き者と考えることはできぬ。神においては知即行、行即知であって、実在は直に神の思想でありまた意志でなければならぬ(Spinoza, Ethica, I Pr. 17 Schol. を見よ)。我々の主観的思惟および意志という如き者は種々の体系の衝突より起る不完全なる抽象的実在である。かくの如き者を以て直に神に擬することはできぬ。イリングウォルスという人は『人および神の人格』と題する書中において、人格の要素として自覚、意志の自由、および愛の三つをあげている。しかしこの三つの者を以て人格の要素となす前に、これらの作用が実地において如何なる事実を意味しおるかを明《あきらか》にして置かねばならぬ。自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省に由って起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかわれば自己もかわる、この外に自己の本体というようの者は空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得るように思うが、そは心理学者のいう如くこの統一に伴う感情にすぎない。かくの如き意識あってこの統一が行われるのではなく、この統一あってかくの如き意識を生ずるのである。この統一|其者《そのもの》は知識の対象となることはできぬ、我々は此者《このもの》となって働くことはできるが、これを知ることはできぬ。真の自覚はむしろ意志活動の上にあって知的反省の上にないのである。もし神の人格における自覚というならば、この宇宙現象の統一が一々その自覚でなければならぬ。たとえば三角形の総べての角の和は二直角なりというは何人も何の時代にもかく考えねばならぬ。これも神の自覚の一つである。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識であるといってよかろう。万物は神の統一に由りて成立し、神においては凡てが現実である、神は常に能動的である。神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的意識統一に由りて生ずるのである、神においては凡てが現在である。アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。
次に意志の自由ということにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことは啻《ただ》に不合理であるばかりでなく、此《かく》の如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。神は万有の根本であって、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である。かくいえば、神は自己の性質に束縛せられその全能を失うように見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くというのは自己の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的なる自由意志とは両立することはできまいと思う。アウグスチヌスも「神の意志は不変であって時に欲し時に欲せず、況《いわ》んや前の決断を後に翻《ひるが》えす如きものにあらず」といっている(Conf. XII. 15)。選択的意志というが如きはむしろ不完全なる我々の意識状態に伴うべきものであって、これを以て神に擬すべきものではない。たとえば我々が充分に熟達した事柄においては少しも選択的意志を入るるの余地がない、選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいう如く知るという中には已《すで》に自由ということを含んでおる、知は即ち可能を意味しているのである。しかしその可能とは必ずしも不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいうべきではない、直覚も知である。直覚の方がむしろ真の知である。知が完全となればなる程かえって不定的可能はなくなるのである。かく神には不定的意志即ち随意ということがないのであるから、神の愛というのも神は或人々を愛し、或人々を憎み、或人々を栄えしめ、或人々を亡ぼすという如き偏狭の愛ではない。神は凡ての実在の根柢として、その愛は平等普遍でなければならず、且つその自己発展その者が直に我々に取りて無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。元来愛とは統一を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は直に万物の統一作用であるから、エッカルトのいったように神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛するのである。エッカルトはまた神の人を愛するは随意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといっている。
以上論じたように、神は人格的であるというも直にこれを我々の主観的精神と同一に見ることはできぬ、むしろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。この状態が実に我々の精神の始であり終であり、兼ねてまた実在の真相である。基督《キリスト》が心の清き者は神を見るといい、また嬰児の若《ごと》くにして天国に入るといったように、かかる時我々の心は最も神に近づいているのである。純粋経験というも単に知覚的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があって、反省的意識はこれに由って成立するのである、即ちこれもまた一種の純粋経験である。我々の意識の根柢にはいかなる場合にも純粋経験の統一があって、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかかる意味において宇宙の根柢における一大知的直観と見ることができ、また宇宙を包括する純粋経験の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといいまた神は静にして動、動にして静といったのも解することができ(Storz, Die Philosophie des HL. Augstinus, §20)、またエッカルトの「神性」 Gottheit およびベーメの「物なき静さ」 Stille ohne Wesen といえる語の意味も窺《うかが》うことができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して湛然《たんぜん》不動でなければならぬ、而も変化はこれより起ってくるのである、即ち動いて動かざるものである。また意識の統一は知識の対象となることはできぬ、総べての範疇を超越している、我々はこれに何らの定形を与うることもできぬ、而も万物はこれに由りて成立するのである。それで神の精神という如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、また一方より見ればかえって我々の精神と密接しているのである。我々はこの意識統一の根柢において直に神の面影に接することができる。故にベーメも「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」といいまた「最深なる内生に由って神に到る」といっている(Morgenrote[#8文字目の「o」はウムラウト(¨)付き])。
或人はいうであろう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、よし精神的なりとするも理性または良心と何らの区別なく、その生きた個人的人格を失うようになるではなかろうか。個人性はただ不定的自由意志より生ずることができるのである(これかつて中世哲学においてスコトゥスがトーマスに反対せる論点であった)。かかる神に対して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教においては罪は単に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は単に道徳的後悔ではない、親を害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキン Erskine of Linlathen は「宗教と道徳とは良心の背後に人格を認むると否とに由って分れる」といっている。しかしヘーゲルなどのいったように、真の個人性というのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte Allgemeinheit が個人性となるのである。一般的なる者は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。何らの内面的統一もない単に種々の性質の偶然的結合というような者には個人性というべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己《おのれ》自身を限定する self-determination の謂《いい》である。三角形の概念が種々の三角形に分化し得るように、或一般的なる者がその中に含める種々なる限定の可能を自覚するのが自由の感である。全く基礎のない絶対的自由意志よりはかえって個人的自覚は起らぬであろう。個性に理由なし ratio singularitatis frustra quaeritur という語もあれど、真にかくの如き個人性は何らの内容なき無と同一でなければならぬ。ただ具体的なる個人性は抽象的概念にて知ることができぬまでである。抽象的概念に現わすことのできない個人性でも画家や小説家の筆にて鮮かに現わすことができるのである。
神が宇宙の統一であるというのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のように具体的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上にいった意味で個人的であるといい得るように、神も個人的といい得るであろう。理性や良心は神の統一作用の一部であろうが、その生きた精神その者ではない。かくの如き神性的精神の存在ということは単に哲学上の議論ではなくして、実地における心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかかる精神が働いているのである(理性や良心はその声である)。ただ我々の小なる自己に妨げられてこれを知ることができないのである。たとえば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもっておった。氏が静に自分の名を唱えていると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧《もうろう》たるのではなく最も明晰確実である。この時死とは笑うべき不可能事で、個人の死という事が真の生であると感ぜられるといっている。氏は幼時より淋しき独居の際においてしばしばかかる事を経験したという。また文学者シモンズ J. A. Symonds の如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共にその根柢にある本来の意識が強くなり、遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残るといっている。その外、宗教的神秘家のかかる経験を挙げれば限もないのである(James, The Varieties of Religious Experience, Lect. XVI, XVII)。或はかかる現象を以て尽《ことごと》く病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理的なるか否かに由って定まってくる。余がかつて述べたように、実在は精神的であって我々の精神はその一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破って一大精神を感得するのは毫《ごう》も怪むべき理由がない。我々の小意識の範囲を固執するのがかえって迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右のように常人より一層深遠なる心霊的経験がなければならぬと思う。
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第四章 神 と 世 界
純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一であるとすれば、神の性質および世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質およびこれとその内容との関係より知ることができる。先ず我々の意識統一は見ることもできず、聞くこともできぬ、全く知識の対象となることはできぬ。一切はこれに由りて成立するが故に能く一切を超絶している。黒にあうて黒を現ずるも心は黒なるのではない、白にあうて白を現んずるも心は白なるのではない。仏教はいうに及ばず、中世哲学においてディオニシュース Dionysius 一派のいわゆる消極的神学が神を論ずるに否定を以てしたのもこの面影を写したのである。ニコラウス・クザヌスの如きは神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なりといっている。我々が深く自己の意識の奥底を反省してみる時はかつてヤコブ・ベーメが、神は「物なき静さ」であるとか、「無底」 Ungrund であるとかまたは「対象なき意志」 Wille ohne Gegenstand であるとかいった語に深き意味を見出すこともでき、また一種崇高にして不可思議の感に打たれるのである。その他神の永久とか遍在とか全知全能とかいうようのことも、皆この意識統一の性質より解釈せねばならぬ。時間、空間は意識統一に由って成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。一切は意識統一に由りて生ずるが故に、神は全知全能であって知らぬ所もなく能《あた》わぬ所もない、神においては知と能と同一である。
然らば右の如き絶対無限なる神とこの世界との関係は如何なるものであろうか。有を離れたる無は真の無でない、一切を離れたる一は真の一でない、差別を離れたる平等は真の平等でない。神がなければ世界はないように、世界がなければ神もない。固《もと》よりここに世界というのは我々のこの世界のみをさすのではない。スピノーザのいったように神の属性 attributes は無限であるから、神は無限の世界を包含しておらねばならぬ。ただ世界的表現は神の本質に属すべきものであって決してその偶然的作用ではない、神はかつて一度世界を創造したのではなく、その永久の創造者である(ヘーゲル)。要するに神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である。意識内容は統一に由って成立するが、また意識内容を離れて統一なる者はない。意識内容とその統一とは統一せられる者とする者との二あるのではなく、同一実在の両方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接経験の状態においてはただ一つの活動であるが、これを知識の対象として反省することに由ってその内容が種々に分析せられ差別せられるのである。もしその発展の過程よりいえば、先ず全体が一活動として衝動的に現われたものが矛盾衝突に由ってその内容が反省せられ分別せられたのである。余はここにおいてもベーメの語を想い起さずにはいられない。氏は対象なき意志ともいうべき発現以前の神が己《おのれ》自身を省みること即ち己自身を鏡となすことに由って主観と客観とが分れ、これより神および世界が発展するといっている。
元来、実在の分化とその統一とは一あって二あるべきものではない。一方において統一ということは、一方において分化ということを意味している。たとえば樹において花はよく花たり葉はよく葉たるのが樹の本質を現わすのである。右の如き区別は単に我々の思想上のことであって直接的なる事実上の事ではないのである。ゲーテが「自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である」 Natur hat weder Kern noch Schale, alles ist sie mit einem Male. といったように、具体的真実在即ち直接経験の事実においては分化と統一とは唯一の活動である。たとえば一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれも直《ただち》に全体の精神を現わさざるものはなく、また画家や音楽家において一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余《うよ》曲折の楽音ともなるのである。斯《かく》の如き状態においては神は即ち世界、世界は即ち神である。ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といえる詩の中にいったように、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディヤナの銀龕《ぎんがん》を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、或意味においてかえって真の神に接していたともいえる。エッカルトのいったように神すらも失った所に真の神を見るのである。右の如き状態においては天地ただ一指、万物我と一体であるが、曩《さき》にもいったように、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程として実在体系の分裂を来すようになる、即ちいわゆる反省なる者が起って来なければならぬ。これに由って現実であった者が観念的となり、具体的であった者が抽象的となり、一であった者が多となる。ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此《ひし》相対し物々相背くようになる。我らの祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追い出だされたというのも、この真理を意味するのであろう。人祖堕落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我らの心の中に時々刻々行われているのである。しかし翻《ひるがえ》って考えて見れば、分裂といい反省といい別にかかる作用があるのではない、皆これ統一の半面たる分化作用の発展にすぎないのである。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる、反省は深き統一に達する途である(「善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」という語がある)。神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に神の自覚である。基督教《キリストきょう》の伝説をかりていえば、アダムの堕落があってこそ基督の救があり、従って無限なる神の愛が明《あきらか》となったのである。
さて、世界と神との関係を右のように考えることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであろうか。万物は神の表現であって神のみ真実在であるとすれば、我々の個人性という如き者は虚偽の仮相であって、泡沫《ほうまつ》の如く全く無意義の者と考えねばならぬであろうか。余は必ずしもかく考うるには及ばぬと思う。固より神より離れて独立せる個人性という者はなかろう。しかしこれが為に我々の個人性は全然虚幻とみるべきものではない、かえって神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用の一とみることもできる。凡《すべ》ての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を成すということができるのである(ロイスの霊魂不滅論を看よ)。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ(精神現象においては各部分が end in itself である)。万物は唯一なる神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を否定するに及ばぬ。たとえば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、各自が独立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは「一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格において自己が全人格の満足を得るのである、即ち愛は人格の欠くべからざる特徴である」といっている(Illingworth, Personality human and divine)。他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、而《しか》してかく各《おのおの》が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認めるということができる。
次に万物は神の表現であるという如き汎神論的思想に対する非難は、如何にして悪の根本を説明することができるかというのである。余の考うる所にては元来絶対的に悪というべき者はない、物は総べてその本来においては善である。実在は即ち善であるといわねばならぬ。宗教家は口を極めて肉の悪を説けども、肉欲とても絶対的に悪であるのではない、ただその精神的向上を妨ぐることにおいて悪となるのである。また進化論の倫理学者のいうように、今日我々が罪悪と称する所の者も或時代においての道徳であったのである。即ち過去の道徳の遺物であるということもできる、ただ現今の時代に適せざるが為に悪となるのである。されば物其者《ものそのもの》において本来悪なる者があるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである。メフィストフェレスが常に悪を求めて、常に善を造る力の一部と自ら名乗ったように、悪は宇宙を構成する一要素といってもよいのである。固より悪は宇宙の統一進歩の作用ではないから、それ自身において目的とすべきものでないことは勿論《もちろん》である、しかしまた何らの罪悪もなく何らの不満もなき平穏無事なる世界は極めて平凡であって且つ浅薄なる世界といわねばならぬ。罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。不満なく苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の要件である、されば真の宗教家はこれらの者において神の矛盾を見ずしてかえって深き神の恩寵を感ずるのである。これらの者あるが為に世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深遠となるのである。もしこの世から尽《ことごと》くこれらの者を除き去ったならば、啻《ただ》に精神的向上の途を失うのみならず、いかに多くの美しき精神的事業はまたこれと共にこの世から失せ去るであろうか。宇宙全体の上より考え、且つ宇宙が精神的意義に由って建てられたるものとするならば、これらの者の存在の為に何らの不完全をも見出すことはできない、かえってその必要欠くべからざる所以《ゆえん》を知ることができるのである。罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』 De Profundis の中の一節を想い起さざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人《ギリシャじん》は人は己《おの》が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能《よ》くし得ることを示した。例の放蕩《ほうとう》子息が跪《ひざまず》いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能《よ》く罪の本質を知ったのである。
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